83 王都の夜を脅かす者、その名は切り裂き魔(リッパー)
新章開始です。
早速で申し訳ないですが、冒頭にグロ要素があります。苦手な方は中盤の章区切り(◇)まで飛ばしていただければ幸いです。
――1人目の被験体モリガン・ウェスタニアの殺害は、失敗だったと思っている。
自分では十分な準備をしたつもりでいたが、命の危機に陥った人間がどこまでの力を発揮するかということについてはあきらかに過小評価をしていた。
現場を「あの方」に見られた時には、私の人生はもう終わったと思った。
しかし、血の海のただ中で息を荒らげている私を見て、あの方は逃げるでも悲鳴を上げるでもなく、ただ優しく微笑んでみせた。まるで、私を安心させるかのように。
あの方は私を匿い、私から事情を聞き出そうとした。ゆっくりと頷きながら私の言葉に耳を傾けてくださるあの方を見ていると胸が熱くなった。私は取り憑かれたように、あのような事件へと至った経緯を話していた。つっかえつっかえで重複の多い私の話を、あの方は急かしもせずに真剣に聞いてくれた。そして、あの方は言った。
――あなたの疑問はよくわかる。あなたはその疑問の答えを見つけ出さない限り、一生今いる場所から逃れられない。たとえ、あなたを呪縛している人間たちが死に絶えたとしても、あなたの心は彼らに呪縛されたままだ。
だから実験を続けなさい。
あの方はそう言って、私に短剣と
絶対に刃毀れせず、人の肌などただ刃を滑らせただけで切り裂く鋭利な短剣と、魔力や気配を遮断し他人から注意を向けられづらくなる襤褸の外套。
とんでもなく貴重なものだということは、私にだってすぐにわかる。
どうしてそこまでしてくれるのか? そう問うた私に、あの方は穏やかな笑みを湛えながらこう答えた。
――あなたの魂の救済のためなら、このくらいは惜しくない。私にはあなたの気持ちがよく分かる。とても他人ごととは思えない。
あの方は、私と自分はよく似ていると言ってくださった。
似ている……だろうか? あの方はまばゆく輝く天使のような方だ。私のような汚れた存在とあの方の間に共通点などとてもあるとは思えない。
この恩は必ず返す。勢い込んでそう言った私に対し、
――あなたが救われることこそ、私にとって何よりの報酬だ。
あの方はそうとまでおっしゃってくださった。
実験。検証。被験体。これまで馴染みのなかったそうした言葉を、学の足りない私に教えてくださったのもあの方だ。あの方は、人体の構造についても教えてくれた。いかにして人間の皮膚を裂き、脂肪を剥がし、内臓を掻き出すか。私が求めるものは人体のどこに収まっているのか。あの方は理解の遅い私に、噛んで含めるようにそれらの知識を与えてくれた。
どうすれば、あなたのようになれますか。おろかにもそう聞いてしまった私に、あの方は笑いながら言った。
――疑問に思ったら確かめなさい。焦らず、ひとつひとつ事実を積み重ねていくのです。そして、あなたが最後に行き着いた答えを、私にも教えてほしい。
その後、あの方とは会っていない。あれはひょっとしたら私の見た白昼夢だったのではないかと思うこともある。
が、私の手元にはちゃんと短剣と襤褸が残っていた。あの方はこうなることも見越した上で、確かな存在感を持つこれらの道具を私に授けてくださったのかもしれない。
私は昔から、聞こえるはずのない声が聞こえると言って、周囲の大人から叱られてばかりきた。だから私は、自分の見ているもの、自分の聞いているもの、自分の体験のすべてについて自信がない。現実感があるはずのこの現実は本当に現実なのだろうか? 私が現実だと思うことが他の人々にとっては気のせいであり妄想なのだとしたら、私にとって妄想と現実とは垣根のないものだということになってしまう。
そんな私にとって、唯一はっきり現実であると確信が持てたのは、あの方の笑みと言葉、そしてあの方からいただいた短剣と襤褸だった。
だから、私は実験を続けようと思う。
その先に、私にとっての現実が待っているはずだから。
2人目の被験体キャサリン・フォドレットについては、1人目よりはうまくやれたように思う。
私は害のない笑顔を浮かべて彼女を暗がりへと誘いこむと、あの方からいただいた短剣を使って彼女の喉笛に切りつけた。彼女が少しでも苦痛を感じずに済むよう手際よく切りつけたつもりだったが、思いのほか抵抗されたため、一度では喉笛を切り裂くことができず、二度、三度と切りつけることになった。
せっかく苦しませないように心を配っているというのに、なぜ抵抗するのか。なぜ私の厚意を素直に受け取らないのか。母が私をそうなじったように、私も彼女をそうなじる。
が、彼女はますます激しく抵抗するようになった。彼女は、母が私をそう呼んだ忌まわしい言葉を口にして、私を繰り返し罵倒した。
私は苛立ち、彼女の鼻を短剣で削いだ。悲鳴を上げ、のたうち回る彼女を押さえつけながら、私は声を押し殺して告げる。
「……黙らないと喉笛を掻き切るよ……」
私の言葉に彼女はびくんと震えると、削がれた鼻を押さえながら私に向かってこくこくと頷いた。私がにっこり笑ってみせると、彼女はほっとしたように力を抜いた。その彼女の顎を私は空いた方の手で持ち上げると、もう片方の手に握った短剣で喉笛を正確に掻き切った。
「な……んで……?」
空気の混じった彼女の声は、かろうじてそのように聞こえた。
が、彼女の言葉など、今更どうでもいい。散々手間をかけさせてくれた時点で、私からは慈悲の気持ちが完全に失せていた。うるさい子どもは黙らせなければならない。そうしなければ私が母から怒られるのだ。私は幾度となく喉笛に切りつけ、彼女が絶対にしゃべることがないようにした。
それから、私は彼女の上着をはだけ、汗でべとつく腹部を露出させる。汗の湿気と臭いとが私の鼻に絡みつき、私は小さくむせてしまった。汚い、臭い……。服飾店の店主であるキャサリン・フォドレットは、自分で仕立てた趣味のいい服で着飾っていて、実年齢よりもだいぶ若く見える。が、いくら着飾った女でも、人間の身体は必ず臭い。この臭く汚い身体から私も生まれてきたのだろうか?
私は短剣を彼女の生白い腹部に走らせる。赤い血が溢れ出し、黄色い脂肪が現れる。あの方からいただいた聖なる短剣は、脂肪でべとつくこともなく素晴らしい切れ味を見せた。私は食物と糞が詰まった消化管を切り裂いては抉り出し、彼女の腹の中を空にしていく。陰鬱なばかりか、名状しがたいほどに臭く汚らしい作業だ。が、嫌なことほど率先して取り組まなければならない。私は一心不乱に短剣を振るう。
そして、短剣の先が、ようやく目指していた部位へと到達した。
子宮。すべての汚らしさの源泉。男と女が愛欲という名の悪徳を結晶化させるための器官。これさえなければ汚辱しかない私の人生そのものがなかったはずなのに。
「汚い……汚い……」
私は繰り返しそうつぶやきながら、子宮を短剣で抉り出し、そのぶよぶよとした塊に短剣の切っ先を突き刺した。短剣はかすかな手応えとともに塊へと埋没し、私が柄を傾けるに従って塊を2つに切り分けていく。
「汚い……?」
私が確かめたかった答えは、そこには見当たらなかった。それは汚いようでもあるが、他の肉と比べてとくに汚いかと問われれば断言はできない。私の求める答えを知るためには、もっとたくさんの子宮を比べてみなければならないのだろう。そのために必要な手間と危険と陰惨な作業のことを考えると気が遠くなりそうだ。それでも、やらねばならない。答えを知らないままでは、私は一生自分は汚れているのではないかと怯えながら生きていくことになってしまう。
「それにしても……」
謎は深まるばかりだった。
果たして、私は汚いのか、汚くないのか。
「検証は……失敗」
私は血に塗れた指で、手近な壁に大きく「X」と書く。
Xは、私が考えた新しい文字だ。はいといいえ、汚いと綺麗のどちらともつかないものをどう呼んだらいいのかわからなかったので、わざわざ、新しい文字を作ったのだ。頭の悪い私にしてはいい発想だったと自己満足しているが、誰にもこの文字を見せたことはない。もしあの方にお見せすれば、あの魅力的な微笑みとともに褒めてくださることだろう。
そして、なぜ文字を大きく書くのか。大きく書いておけば、目で見てすぐに大事なことだとわかるし、記憶にも残る。私がノートに細かい文字を詰め込むようにして書き込んでいるのを見て、母は私の手を叩いては、何度となくその説を繰り返した。母によって矯正された私の字は、父からも読みやすいと褒められる。
私はX、X、Xと壁に何度となく血文字を連ねていく。
指先が裂けてピリッとした痛みが走るが、その痛みこそ、検証に失敗したことへの正当な罰だと思えた。
検証作業はまだ始まったばかりだ。
私は襤褸で姿を隠すと、路地の奥から人通りの多い道へと飛び出した。何人かけげんな顔をする者がいたが、すばやくすり抜けられさえすれば、人の多さは格好の煙幕となってくれる。
私は紛れる。自分の現実を毫も疑わず、当たり前のように日々を暮らしている人々の中に――私は紛れこんでいく。
◇
絶対暦1299年禿鷹の月(12月)7日早朝。
1人の少女の惨殺死体が発見された。少女は喉を切って殺された上、死後腹部を切り開かれ、内蔵の一部を損壊されていた。
怖気を奮う事件だったが、この時点ではまだ、モノカンヌスの忙しい市民たちの耳目を引くには至っていなかった。
最近発行が始まった絵入り新聞がこの事件を取り上げていたが、活字の読める有閑階級の人々の一部で、茶会を彩るゴシップのひとつとして消費される程度の話題でしかなかった。その場合でも、良識的な貴族は眉をひそめ、それとなく話題を逸らしてコメントを避けるのがむしろ普通であった。
王都の治安は他国の首都に比べれば良好とはいえ、それでも殺人事件はしばしば起こっている。その中には、猟奇的な事件もないではない。
また、事件が起きたのが新市街であったことも、旧市街に住む富裕な貴族や商人たちの反応を鈍くしている原因だといえた。旧市街に引きこもる富裕な人々にとって、新市街は「下界」であり、自分とは関係のない別世界のように思えるのだ。少々変わった事件が起きたくらいでは、彼らの無関心を変えることはできない。
しかし、明けて1300年小夜鳴き鳥の月(1月)7日に、第二の惨殺死体が見つかったことで状況は変わっていく。
第二の犠牲者は、新市街の服飾店の女性店主だった。この店主は、旧市街にある王立劇場で興行をおこなっている有名な劇団の専属服飾商として、芝居に使う衣装を一手に納入していた。大商人ではないため、店自体は新市街に構えていたが、劇団専属の服飾商として貴族や大商人ともつきあいがあったという。
彼女もまた、喉を切られて殺され、死後に腹を割かれて臓腑を抉り出されていた。
面識のある服飾商を襲った惨劇に、心のある貴族は胸を痛め、心ない貴族は事件が身近で起きたことにスリルを感じ、格好のおしゃべりの材料とした。
「まったく……断りきれなくて社交界に顔を出してみたら、どこもかしこも
珍しく社交界に呼ばれていたアルフレッド父さんが、帰ってくるなりそうボヤいていたくらいだ。
なお、「
「新市街は新市街で、大変な騒ぎになってるよ。無差別連続殺人だから、次は自分が狙われるんじゃないかって怯えてるみたいだねぇ」
冒険者ギルドは新市街にあるため、我が家の中ではジュリア母さんがいちばん新市街の情報を持っている。
12月の事件が単発の惨事ではなく、どうやら連続した事件の一部であったことが明らかとなった。また、その事件が起きたのが新市街であることから、新市街の住人たちは自分や身近な人が次の犠牲者になるのではないかと想像し、中には恐慌状態に陥る者もいるらしい。
「巡査騎士団にも、事件の解決を求める声が殺到しているそうだよ。貴族からも市民からも、つまり上からも下からもせっつかれてたまらないと、コルゼーが愚痴っていたよ」
コルゼーというのは、巡査騎士団の団長らしい。
巡査騎士団は精力的に捜査を行っているが、第二の事件から十日以上が経過しても、犯人の姿は影も形も見えなかった。
目撃証言は新旧両市街から寄せられていたが、思い込みやいたずらがその大半を占めていたため、巡査騎士たちはやがて目撃証言の検証を諦めるようになった。
その代わりに彼らが行ったのは、新市街に住む素行の悪い住人たちの締め上げだった。運悪く事件の夜に外出していた者や、家でひとりでいた者たちは、巡査騎士団の詰め所に連行され、脅迫混じりの執拗な尋問を受けることになった。
それでもなお巡査騎士団は
絵入り新聞には連日、巡査騎士団長の無能をあざける風刺画が掲載され、旧市街の貴族たちからも、巡査騎士団長の更迭を求める声が上がりだした。
が、実際に新市街に居を構え、
「旧市街もそうですけど、新市街は景気が悪くなってるそうですよ? みんなが怯えて夜に外出しないですから。その中で自衛用の武器や防具だけは飛ぶように売れているとか」
と、最近は買い出しも任されるようになったステフが教えてくれる。
ステフによれば、新市街は、夜のみならず昼も雰囲気が悪くなっていて、市民同士の諍いが絶えなくなっているらしい。
市民同士の諍いを止めようとした巡査騎士が、逆に「おまえらが
「で、エドはどう見ている?」
アルフレッド父さんが聞いてくる。
「うーん……現時点では、何とも」
「
事件の状況が、前世における「切り裂きジャック」に似ていることも気にかかる。
「でも、違和感もあるんだ。っていっても、デヴィッド兄さんの受け売りなんだけど」
杵崎が前世で百人以上の人間を殺した時には、自宅の地下室を使って事件が露見しないようにしていたはずだ。もっとも、通り魔事件によってタガが外れ、異世界であることも手伝って、もはや犯行を隠そうともしていないという可能性もある。
が、その場合、転生してから6年が経つ今の時期まで杵崎はどうしていたのかという疑問が湧く。
「悪神の使徒がやることとしては、なんというか、規模が小さいよねぇ」
ジュリア母さんが、俺の内心を代弁してくれる。
そう。悪神の使徒がやることとしては
傭兵団〈黒狼の牙〉を率いて国盗りをしようとしていたゴレス、〈
「だから、とりあえずは様子見かなぁ。巡査騎士団が
どちらにせよ、俺ひとりで
そもそも、それは王都の治安を預かる巡査騎士団の仕事だろう。絵入り新聞では批判されているが、アルフレッド父さんから聞く限りでは今の巡査騎士団長はとりたてて無能というわけでもないらしい。活版印刷術の普及に関わった人間として、ゴシップ誌の無責任な記事に責任を感じないでもないが、国王ヴィストガルド1世は
巡査騎士団が
――要するに、この時点ではまだ、俺は自分には関係のないことだと思っていた。
明日、もう一話投稿します。
書籍版第1巻発売までいよいよ一ヶ月を切りました。
活動報告でも順次詳報を公開していきますので、ぜひチェックしていただければと思います。
これからもウェブ版・書籍版ともども『NO FATIGUE 24時間戦える男の転生譚』をよろしくお願い致します。
2015/07/02
天宮暁
追記150831:
地に塗れた指→血に塗れた指 に修正しました。ご指摘いただきありがとうございます。