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82 偶然の邂逅

 加木智紀がマルクェクトへと転生してから、およそ2年後のこと。

 日本国東京都千代田区永田町にある首相官邸では、誤射殺事件の犠牲者である加木智紀(かぎとものり)氏に対して、国民栄誉賞が贈られる旨の記者会見が開かれようとしていた。


「前政権の元で起きた、通り魔を制止した青年に対する誤射殺事件の犠牲者である故・加木智紀氏に対して、その勇気と献身とを讃え、異例ではありますが、国民栄誉賞を贈ることと致します。そしてこれが記念品の――」


 官房長官がそう言って、会見場のスタッフに合図を送る。

 合図を受けたスタッフがバックヤードへと入っていく。


 ……そのまま、不自然なほどに時間が開いた。

 官房長官が苛ついた様子で腕時計を確認し、別のスタッフを呼びつける。

 そこに、最初のスタッフが顔を真っ青にして戻ってきた。スタッフは官房長官に近づいて耳打ちをする。

 今度は官房長官の顔が青く染まった。


「……ない、だと? どういうことだ?」


 官房長官のつぶやきをマイクが拾う。

 記者席の記者たちが顔を見合わせてざわめく。

 記者会見はそこでいったん打ち切りとなり、記者たちは狐に摘まれたような顔で首相官邸を後にした。

 記者たちには追って記者クラブから今回の会見については報道を見送るようにとの通達が送られた。



 ◇


「思った以上に簡単だったわね」


 首相官邸の屋上で暗いブロンドの髪を風になびかせながら、わたしはそうつぶやいていた。

 わたしの手元には、さっき回収したばかりの国民栄誉賞の記念品があった。記念品は、高級腕時計だった。受賞者が死亡しているため、記念品は官邸に飾られる予定になっていたらしい。


「それくらいなら、わたしが回収して本人(・・)に渡してあげたほうが親切よね?」


 マルクェクトで腕時計が役に立つかは微妙だと思っていたのだが、手に入れた記念品は金ピカのブランド物ではなく、高い耐久性が売り物のスポーティな腕時計だった。ソーラーパネルもついているようで、電池も十年単位で持つらしい。さすがにGPSによる時刻合わせ機能は使い物にならないだろうが、ストップウォッチや方位磁針、アラームなどは便利かもしれない。


「ふふっ。この国のお偉いさんたちが大騒ぎをしているわね」


 それはそうだろう。厳しいセキュリティに守られた首相官邸から記念品が盗まれたのだ。それも、担当者がちょっと目を離した隙に忽然となくなっていたのだから、騒ぎにならない方がおかしいくらいだ。

 なお、記念品の保管されていた場所には、「悲劇の英雄への記念品、たしかに頂戴致しました。配達はお任せを。 A・Z」と書いた紙を残してきた。とくに意味はない。ただのしゃれだ。

 わたし――マルクェクトの女神アトラゼネクが、記念品の腕時計をためつすがめつしていると、屋上へと通じる扉が音を立てて開いた。


「――何者じゃ!」


 そう叫びながら飛び出してきたのは、烏帽子と狩衣に身を包んだ初老の男だった。

 わたしがこの世界のネットで得た情報では――まさしく、陰陽師と呼ぶのがふさわしいだろう。

 弱いながらも、首相官邸には魔法的な防御が施されていた。

 わたしの転生者である加木智紀――現在はエドガー・キュレベルとなった青年の知識では、この世界に魔法はなかったはずだが、どうやらあるところにはあったということのようだ。


「この膨大な霊力……人ではありえんな。妖怪……? いや、まさか……!」

「あら、妖怪扱いはひどいんじゃないかしら。わたしは異世界マルクェクトで魂と輪廻を司る神アトラゼネク。加木君への記念品は、わたしがしっかりと本人に渡しておくから、安心してちょうだい」

「ぬぅ……息が詰まるほどの神々しい霊圧……まさか本当に?」

「お騒がせしてごめんなさいね。じゃ」

「ま、待て! いかな異界の神といえど、八百万(やおよろず)の神の統べる霊国・日本の中枢を侵されて、ただで帰すわけにはいかぬ! わしは宮内庁陰陽部筆頭陰陽師・安倍賢晴(あべのかたはる)! 行くぞ、異界の神よ! 臨兵闘者皆陣列在前、ノウマクサンマンダ・バサラダンセン――」

「遅いわよ」


 わたしがパッチンと指を鳴らすと、宮内庁陰陽部筆頭陰陽師・安倍賢晴(あべのかたはる)とやらは意識を失ってくたりとその場に倒れこんだ。


「うーん、この世界の魔法はまだまだよね。ま、スキルシステムのない世界じゃ、個人の霊感頼みになってしまうものね」


 スキルシステムは、神が魔法の使用をお膳立てしているようなもので、そのおかげでマルクェクトの住人は魔法という複雑で霊妙な超常の規則をさしたる苦労もなしに使用することができる。

 一方、スキルシステムのないこの世界における魔法は、とてつもない才能を持った個人が何十年にも及ぶ厳しい修行の果てに、ようやくその最初の(きざはし)にたどり着けるという程度の代物でしかない。

 システムの支援もなしに魔法を使えるようになったという点では、今鎧袖一触のように倒してしまったこの陰陽師は神がかった才能の持ち主であるはずだ。それこそ、マルクェクトに生まれていれば、どこかの国の宮廷魔術師長にでもなって歴史に名を残していたかもしれない。


「さて、ここにいつまでいてもしかたないわね。帰りましょうか」


 わたしはマルクェクトへのゲートを開こうとして――振り返った。

 倒れ伏した陰陽師に対して――ではない。

 その隣にいつの間にか現れていた、一体の悪魔に対して、だ。

 山羊を連想させる顔に蝙蝠のような羽。上半身に比べて細い両足のうち、片方には馬の(ひづめ)がついている。この世界の基準では古典的なほどに悪魔らしい姿だ。もちろん、その姿は伊達や酔狂ではなく、目の前の存在からはそこそこ強力な悪魔としての気配が感じられる。


「――お初にお目にかかります、異界の善き神。我が名はフルーレティ。この世界のしがない悪魔の一柱(ひとはしら)です」

「これはこれは……その陰陽師さんの結界が途切れたからやってきたということかしら」

「それもありますが、我が主人から、異界より何かが現れるはずだから見届けるようにとのご命令を受けておりまして」

「主人……?」


 とすると、この悪魔は使い魔だということになる。

 見た感じでは、決して弱くはない悪魔だと思うが、それを隷属させるような存在がこの世界に?


「今、主人と通信をつなぎましょう。……ァ、ガカッ」


 悪魔がいきなり大口を開けたかと思うと、痙攣するように全身をびくびくと震わせた。

 そして、


『……ほう。あなたがマルクェクトの女神アトラゼネクですか……お会いできて光栄です』


 痙攣を続ける悪魔から、何者かの声が伝わってきた。

 何者か――魂を司る神であるわたしの前に、姿の隠蔽は意味がない。

 わたしはわたしの正面にいる「何者か」の正体を正確に把握した。

 把握して、絶句した。


「あなたは……まさか」

『おや? 私のことをご存知でしたか。天網恢恢疎にして漏らさず。さすがの悪神も女神様の目は欺けなかったということですね』

「……転生者、杵崎亨(きざきとおる)


 2年前、わたしの転生者と同時期にマルクェクトへと転生した悪神側の転生者だ。

 魂の残滓をたどって、邪教徒の用意した女児に転生したらしいことまでは掴んでいたが、実際に悪魔から発せられる声は若い女――いや、年端のいかない少女のものだ。


「あなたはマルクェクトに転生したはず。どうしてここに?」

『いえ、私が世界界面を観測していたところ、不自然なゆらぎがありましたのでね。

 それを調べてみると、驚いたことに私の生まれた世界との間にパスができているではありませんか。

 さっそく現地に置き去りになっていた使い魔の一匹を潜り込ませてみたところ、思わぬ大物が引っかかったというわけです』


 これはまずいことになった……とわたしは思う。

 杵崎亨が想像以上に力を持っていたこともそうだが、それ以上に、今日わたしがここにいる理由を探られるのは困る。わたしと加木智紀のつながりを知られてしまえば、転生した加木智紀――エドガー・キュレベルに危険が及ぶことまで考えられるのだ。もちろん、加木智紀=エドガー・キュレベルの事実にまで辿り着くのは難しいだろうが、こちら側にも転生者がいるかもしれないと疑われるだけで、加木/エドガーは動きが制限されることになる。


『――今日は、どのようなご用件で、私の生まれ育った世界を訪問されたのでしょう?』


 ねちっこく、杵崎亨が聞いてくる。


「たまたまよ。神というのは案外暇でね。こうしてよその世界で社会科見学をすることもよくあるのよ」

『それはそれは……結構なご身分ですね』


 沈黙が下りる。

 杵崎にとっても、ここでのわたしとの遭遇はアクシデントだったのだろう。杵崎もまた、わたし同様、どうするべきかを必死に考えながらしゃべっているのだ。


『わたしはてっきり、こう思ったのですよ。あなたは自らの世界を救うために、こちらの世界の権力者たちとつなぎを取ろうとしているのではないか、と。そう――まさしくこの場所、首相官邸の(あるじ)などは、その対象としてはうってつけです』


 なるほど。そういう考え方になるのね。

 その考えに乗ってもいいが、あまり露骨に乗りすぎてもかえって疑われそうだ。


「それは考えすぎね。だいたい、それならここではなく、ホワイトハウスなり国連本部なりを訪ねた方がいいのではないかしら」

『……ふむ。たしかに、その通りかもしれませんね。もちろん、そちらは既に訪問済みなのやもしれませんが』


 杵崎の言葉には答えないでおく。

 こういう場合は好きに想像させた方がいい。

 さいわい、杵崎は今日首相官邸で何が行われていたのかは知らないようだ。

 通り魔事件の最中で死亡した杵崎が加木智紀の名を知っているかどうかはわからないが、もし知っていればわたしと彼とのつながりを疑ってくることは必至だ。


「そういうあなたこそ、今は何をしているのかしら? 悪神の使いっ走りとしてろくでもないことを企んでいるのでしょう?」

『いえ、まさか。ご存知のように、今の私はまだ幼児ですよ。できることなど限られています』

「限られているなりに、何かをやっているということね」


 加木智紀/エドガー・キュレベルが、自身と周囲の仲間たちのスキル上げに励んでいるように、杵崎亨も「何か」をやっている。


『くくっ、それはまあ、後のお楽しみということで。善き神アトラゼネクは、ずいぶんと私にご執心のようだ……』

「わたしは本当に理解できないのだけれど、悪神に尽くしてどうなるというの?」

『善より悪の方が、懐は深いのですよ。もっとも私は、他人の懐の深さなどにいつまでも期待しているのは性に合いませんがね。

 しかし、弱りましたね。この機会にフルーレティをこちらの世界に連れてこようと思っていたのですが……』


 わたしは再び指を鳴らす。

 悪魔フルーレティの周囲に神気の檻を創り出し、それを一息に圧縮する。

 フルーレティは悲鳴を上げる(いとま)すらなく消滅した。


『さすが、す……アト、ゼネク……美、き、なたを、つの日、破滅、せ、みた……』


 杵崎の声は、不気味な風のうなりのようにごうごうと反響しながら途切れた。


「……なんとかバレずに済んだかしら?」


 杵崎の話し方には、心の底を見透かされているかのような不気味さがある。

 女神をして、話していて疲れさせる人間など、そうはいない。


「……あなたの相手は、思った以上にヤバそうよ、エドガー・キュレベル」


 わたしはつぶやくと、今度こそマルクェクトへのゲートを開き、首相官邸を後にした。



  ◇


 照りつける日光と埃っぽい通りに辟易しながら、私はつぶやく。


「――やれやれ。ようやく表を歩けるわね」


 警戒の厳しかったソノラートへの国境線を何とか超えて、私――レティシア・ルダメイアはソノラート王国南部にあるゴルハタという地方都市に身を落ち着けていた。


 ゴルハタは〈八咫烏(ヤタガラス)〉の活動拠点から比較的近かったフォノ市とどっこいくらいの大きさの都市で――つまり、刺激に乏しい地味な地方都市のひとつだった。

 2年前に起きたサンタマナとの戦役が痛み分けに終わったことで、ゴルハタ一帯は深刻な飢餓状態に陥った。その痛手からまだ立ち直りきれておらず、気力のある者は強盗やスリに、ない者は乞食に、それすらできない者は路地に横たわったまま餓死という名の救いが訪れるのを待っている。


 こういう街で、私の容姿は目立って仕方がなく、「表を歩ける」と言っても、結局は【催眠術】を常に薄く展開して人々の認識を欺きながらのことでしかない。


 私はカラスの(ねぐら)でも同様に、【催眠術】を使って、美人ではあるが性格がキツく嫉妬深い女という仮想人格(ペルソナ)を演じていた。〈八咫烏(ヤタガラス)〉の「牧師さま」にしてガゼインに恋慕している嗜虐趣味の女――それが、〈八咫烏(ヤタガラス)〉における私の人格だった。

 もっとも、この仮想人格のすべてが嘘だというわけではない。一から十までを嘘で固めると、ひとつの嘘がバレた時に収拾がつかなくなってしまう。私は美人ではあるし、性格もどちらかといえばキツい方だろう。嗜虐趣味もある。ただ、ガゼインのような危険なタイプの男にはあまり魅力を感じないし、〈八咫烏(ヤタガラス)〉の教義を信じ込んでいる狂信者でもない。

 本当の部分と嘘の部分の境界をにじませ、ところどころ色彩を反転して色調を整え、相手の意識の奥底に引っかかるフックを数限りなく用意し……そのような無限の手間をかけて洗練させた仮想人格を演じること。自分でも何が嘘で何が事実かわからなくなったその先に現れる精神の錯綜状態を、仮初めの狂気として愉しむこと。そして、そのような感性なしにはすぐに破綻しかねない虚像を用いて他人を欺き、いいように利用すること。古代遺跡の発掘以外でこれほど刺激を得られることは他にはない。

 ――誰も、私のことを理解できない。

 身を切るような寂寥を自己陶酔によって解毒することさえできれば、これ以上に安全な状況はないとも言える。

 もっとも、水晶に乱反射する光のような私の精神をひと目で看破してのける眼力の持ち主を、私はひとりだけ知っていた。


 みゃあお、と猫の鳴き声が聞こえて来たのは、私がゴルハタの何の変哲もない市場でひと通りの生活用品を見繕った後のことだった。

 粗末な焼きレンガで作られた朽ちかけた家と家の間の路地に、一匹の獣がいた。

 といっても、それこそどこにでもいそうなただの猫だ。砂埃にまみれて毛がぼさぼさになっている。色は白だと思うが、砂のせいでぶちがあったとしてもわからないだろう。特徴はひとつ――片目が爛々と赤く光っていることだけだ。

 私は身を翻す猫を追って、路地の奥へと滑り込んだ。もちろん、誰かに目撃されるようなへまは踏まない。【催眠術】によって人々の認識の隙間をすり抜けるように移動するくらいはもはや意識しなくてもできてしまう。


 路地の奥で、猫が振り返った。


『――お久しぶりですね、レティ』


 猫が流暢に人語を喋った――わけではない。猫は口も開かずただじっと座っているだけだ。この手品の種を、私は知らない。魔法かスキルか、あるいはそれ以外の方法なのか。興味はあるが、命と引き換えに満たしたいような好奇心でもない。

 声は年若い少女のもののように思えるが、私は長年の勘から相手が男だと確信している。ただし、性的には不能な男だ。……私が最もコントロールしづらいタイプの相手だった。


「ええ、どうも。名前はまた、教えてくれないのでしょうね?」

『どうも済みませんね。しかし、知らずに済むことは知らないでおくのが、お互いのためだと思いますよ』

「そうね、猫さん。私はあなたの事情になんて興味もないし、協力する気もないわ。私に利がない限りはね」

『あなたの利、についてはよく理解できているつもりですよ。行為としては人を騙すことを、性癖としては人の心を弄ぶことを、趣味としては遺跡を漁って古代の叡智を探求することを好むのがあなたです。おおよそ、私の側に属する人間だと言っていいでしょうね』


 見え透いた親近感アピールに、私は思わず鼻白む。


「私なんて、あなたと比べればどれほどのものかしらね?

 それで、今日は私にどのようなご用かしら? 速やかにしゃべってくだされば、教えたはずのない私の居所を探し当てたことについては目をつむってあげてもかまわないわよ?」

『これは手厳しい。いえ、今日の用件は簡単なものです。あなたに聞きたいことがあったのですよ』

「聞きたいこと? あら、あなたにも知らないことがあったなんて、思いもしなかったわ」

『私が知らないことなどいくらでもありますよ。とはいえ、これ以上もったいぶってもしかたないでしょう。聞きたいのは、最近はいかがおすごしですか、といった類のことです』

「……その様子では、私が〈八咫烏(ヤタガラス)〉に潜り込んでいたことも知っていたようね」

『はてさて……』


 声がとぼけるように途切れた。

 この男は、質問を発さずに望む答えを手に入れようとする習癖がある。

 この男が〈八咫烏(ヤタガラス)〉に興味を持つか?

 暗殺教団の、人間性を冒涜した洗脳システムにはいくらかの興味を示しそうだが、この男の黒い頭脳ならば、その程度はいくらでも自前で用意できそうに思う。

 では、カラスの塒にあった古代遺跡か?

 それもどうだろう。この男は古代にロマンを抱かない。この男は自分がこれから何を為すかにのみ興味があり、過去のことなど己の成果を引き立てるための比較物としか思っていない。

 ならば、〈八咫烏(ヤタガラス)〉の首領であったガゼイン・ミュンツァー?

 いや、一番ありそうもない。この男が男色家ででもあるなら別かも知れないが……などと思ってしまうのは、〈八咫烏(ヤタガラス)〉でまとっていた仮想人格が抜けきっていないせいだろうか。


「あなたの研究は順調かしら? ハーピークイーンをさらったという話は聞いたけれど」

『よくご存知で。研究は、まずまずといったところでしょうか。検体が思ったよりも集まらなかったせいで、当初の計画より小粒なものとなってしまいましたが』

「詳しくは聞かせないでほしいわね。どうせ胸糞の悪くなるような話なのでしょう」


 吐き捨てるように言った私に、男がくつくつと笑う。


『クイーンをさらったせいで、ハーピーの群れが暴走しましてね。あなたはフォノ市からさほど離れていないカラスの塒にいたというから、危険がなかったかと心配していたのですが』

「ハーピーどころか、ワイバーンの群れまで襲ってきたわよ。はては火竜が出たとも聞いたわね」

『ほう、火竜ですか』

「……まさか、それもあなたのせい?」


 うっかり聞いてしまったが、さいわいにも相手は私の質問を黙殺してくれた。


『しかし、カラスの塒といえば、〈八咫烏(ヤタガラス)〉は結局壊滅したと聞きますよ』


 男が、何気ないふうを装って言った。

 ……ひょっとして、ここ?

 私はとりあえずとぼけてみることにする。


「さあ、私は混乱する塒から命からがら逃げ出してきただけだから、詳しいことは何とも」

『そうですか。それはお気の毒でしたね? お知り合いなどはご無事でしたか?』

「塒には、とくに親しくしていた人はいなかったから」


 ふむ。この男はどうやら、塒内の人間関係に興味があるようだ。

 ……と、そこまで考えて私は気づいた。

 この男の興味は――


『それは何よりでしたね。塒には遺跡もあったそうですが、あなたなら当然潜られたことでしょうね?』


 男は、興味の核心を悟られないように、話題を微妙にずらしてきた。

 しかし、私はそこで躊躇する。

 そらした話題の矛先が、まさしく男の知りたいだろう「ある人物」の方向を向いていたからだ。


「私はあくまで牧師という立場だったから、遺跡の方にはあまり手を出せなくて」


 私は動揺を悟られないように細心の注意を払いながらそう答える。


『そうですか。それは残念でしたね』

「ええ。とはいえ、発掘品を盗み見た限りでは、古代ではなく近代の遺跡のようだったけれど」

『近代ではロマンがありませんか』

「そんなこともないわね。ソノラートでずいぶん前に暗躍したとされるある人物がいるのだけれど、遺跡に残された痕跡を調べた限りでは、あの遺跡はその人物の隠れ家だったようよ?」

『……ほう』


 男は、興味があるともないとも匂わさなかった。

 しかし、何となく、外れではないが当たりでもない、という感触のように思えた。


「――シャルハ・ヴォークス。博学なあなたならあるいは知っているのでは?」

『……いえ、心当たりがありませんね。浅学を恥じるばかりです』

「ソノラート崩壊の立役者にして、暗殺教団〈八咫烏(ヤタガラス)〉の創始者なのだけれど」

『ほう? では、〈八咫烏(ヤタガラス)〉の崩壊もまた、その男の影響によるものと?』

「ヴォークスは半世紀は前の人物よ? どうやって今の〈八咫烏(ヤタガラス)〉を崩壊させられるというの?」

『おや、そうでしたか……無知を晒してしまいましたね。しかし、それほどの人物であれば、遺跡の発掘は有意義なものだったのでしょうね?』

「さて、ね。前にも言った通り、私は関わっていないから」


 本当は、隙を見て、発掘現場に潜り込んだこともある。

 〈八咫烏(ヤタガラス)〉で反乱が起こった時に、短い時間ではあったが、完全に発掘された遺跡の奥も確認してきた。

 遺跡の奥にあったのは見たこともない様式の異国風の家具に囲まれた小部屋だった。

 小部屋からはいくつかの品が持ち去られているようだった。それも、持ち去ったことがわからないように注意深く持ち去られていた。

 ――つまり、私は何者かに先を越されていたのだ。

 その何者かの正体については、確証はないが確信がある。

 〈八咫烏(ヤタガラス)〉で本来は起き得ないはずの反乱が起きたのだ。遺跡の奥の異常とその反乱とのつながりを疑わない方がどうかしている。

 まず間違いなく、遺跡の最奥を暴き、都合の悪いものを持ち去ったのは、反乱の首謀者であるあの幼児――《赫ん坊ベイビー・スカーレット》エドガー・キュレベルだ。

 そして――どうやら、今会話しているこの男が興味を持っているのもこの幼児のようだ。

 いや、エドガー・キュレベルという異常な幼児の存在を知っているのではなくて、そのような存在(・・・・・・・)がいるのではないか(・・・・・・・・・)と疑っている、というところなのではないか。


 ――そして、私にはこのパズルを解くためのピースが手元にあった。


 だから私はこの男の正体についてこの瞬間にほぼ察することができた。

 しかし、それを察した上でどうするか?

 この食えない男をどう惑わし、どう弄び、どう破滅させるのか。

 私のものになるはずだった成果をかすめとったあのいまいましい幼児について、この男に告げてしまうべきか?

 この男なら、得体のしれない手段でもって、エドガー・キュレベルに最高の破滅を用意してくれることだろう……。

 私は思考と嗜好とを秤にかけ、傾いた側に載っていた分銅を目の前の猫へと差し出した。


「……〈八咫烏(ヤタガラス)〉の反乱は、起こるべくして起こったと思うわ」

『ほう? かの暗殺教団については、私も伝聞以上の情報を持っていませんが、暗殺者が暗殺者を育て、組織を新陳代謝させる仕組みが整った堅牢な組織であると聞いておりましたが』

「私こそがその洗脳担当だもの。いえ、正確には、洗脳が解けかけている者を察して、再洗脳を施すのが『牧師さま』の仕事だったのだけれど」


 迷える羊たちを導く牧童の役割だと、先任者からは聞いている。

「牧師」とはまた、うまく言ったものだ。シャルハ・ヴォークスの時代から使われていた名称だというから、ひょっとするとこの言葉も――


『では、あなたは仕事柄、組織崩壊の兆候を感じ取っていたというのですね?』

「ええ。近年、徐々に洗脳が解け、『処分』される御使いが増えているという話だったわ」


 これは嘘だ。〈八咫烏(ヤタガラス)〉は御使いを使い潰すことはあっても洗脳が解けた者を殺すことは滅多にない。もちろん、そこに何か人道的な理由があるわけもなく、再度洗脳すればまだ使えるのだから殺すだけ損だというだけの話だ。

 私の【催眠術】と【誘惑】、ガゼイン・ミュンツァーの【幻影魔法】とカリスマ、遺跡からの発掘品である正体不明の幻覚剤、《薬聖》ガナシュに製造させていた各種薬剤……そして、ごく単純な暴力と監禁用に作られた専用の設備。これだけの手段があれば、人を洗脳して意のままにするなど簡単なことだ。


『……ふむ』


 男が黙り込んだ。


『なるほど……不連続な変化が起こったわけではなく、連続的な変化だったというわけですか。〈八咫烏(ヤタガラス)〉も創設から半世紀は経つ組織だ、経年劣化することも……』

「意外ね、あなたが〈八咫烏(ヤタガラス)〉に興味を示すなんて。組織の運営方法についてなら、多少は教えてあげられるけれど?」

『いえ、既に崩壊した組織の運営方法など聞いた所で詮無いことです。どうやら私の考えすぎだったようですね』


 男の語調は、その言葉の内容ほどすっきりしたものではなかったが、納得しかけていることはまちがいないようだ。


「何を聞きたかったのかはわからないけれど、ご用は済んだかしら?」

『ああ、済みませんね。いささか拍子抜けではありますが、用は済みました』

「それなら、『私の利』についても、そのよく回る頭で考えてみてはくれないかしら、猫さん」

『おや、これは心づかず、失礼しました。あなたにさし上げられる利は、遺跡の情報ですよ。あなたの現在いるゴルハタから東に――』


 男の告げる情報を、私は気のない風を装いながら、きっちり脳裏に収めていく。

 この男の正体についての確信と比べれば児戯にも等しい情報だったが、もらえるものはもらっておくべきだろう。


「終わってみればいい取引だったわ」

『ええ。互いにとって利のある話し合いになりました』


 猫が踵を返し、路地の奥へと歩いて行く。

 意外にかわいらしいその尻尾をなんとなく眺めていると、猫が突然振り返った。


『――そうそう。聞き忘れるところでした。〈八咫烏(ヤタガラス)〉で起こった反乱――その首謀者は、どんな人物でしたか?』


 猫は、今思いついたというように聞いてくる。

 最後の最後で核心に切り込んでくるとは。

 それだけ、この情報が大事だということか。 

 たしかに、私の読み通りなら、男にとってここは是が非でも白黒をはっきりさせたいところだろう。


「……さて。ネビル、という男がいたけれど、彼が唯一の首謀者かと言われると首を傾げざるをえないわね。反乱側にはガゼインほどのカリスマを持ったリーダーはいなかったのではないかしら」


 あの幼児を除いては、だが……。


『……そうですか。それでは、今度こそ失礼』


 猫が路地裏から消えた。

 私はそれから数分の間その場に立ち尽くす。

 あの男が本当に立ち去ったのかどうかわからなかったからだ。

 私が身動ぎした瞬間に、まるでそれを待っていたかのように声をかけられるのではないか――そんな恐怖を持て余しつつ、私は冷たい汗が乾くのを待ち、やっとのことで路地裏を立ち去った。


 明るい通りに出ると、恐怖に代わって、今度は暗い興奮が迫り上がってくる。


 ――あの男は、転生者(・・・)だ。

 ――エドガー・キュレベルも、転生者だ。


 私が古代の遺跡に潜る中で見つけた、「転生」という概念が、得体のしれないあの男との会話に明確な意味をもたらしたのだ。

 私は激しく興奮していた。「転生」など、古代人による観念の遊戯でしかないのではないか――そう疑いつつも、私はその言葉に魅入られ、初恋にのぼせた少女のように遺跡から遺跡へと渡り歩いてきた。そして、恋い焦がれてきたその概念は、ただの蜃気楼ではなかったと、確信することができたのだから。


「ついに見つけた」


 気づいてしまえば、意外と近くにいたものだ。

 まさか、転生者が2人も見つかるとは。

 いや、正確には3人か。既に故人ではあるが、遺跡の主シャルハ・ヴォークスも転生者であったに違いない。


「でも、どういうことかしら? 転生者は互いにいがみあっている……?」


 あの男は、あきらかに、〈八咫烏(ヤタガラス)〉崩壊における他の転生者の介入を疑い、警戒していた。

 ならば、あの男にとって他の転生者は敵だということだ。

 エドガー・キュレベルは異常な幼児だったが、正義感は突出しているように見えた。

 だとすれば、あの男とエドガー・キュレベルは潜在的には敵対関係にあると見て間違いない。あの男が悪であることなど、確かめるまでもなく事実なのだから。


「転生が、神のみに許された御業(みわざ)なのだとしたら」


 転生を為しうる神は、2柱しかいないことになるだろう。

 魂と輪廻を司る善神アトラゼネクと、善神たち全てを合わせたのと等しい力を持つとされる悪神モヌゴェヌェス。

 エドガー・キュレベルを転生させたのは前者であり、あの危険な男を転生させたのは後者。そう考えることができる。


「いえ……むしろ逆かしら」


 まず、悪神モヌゴェヌェスが異界からあの男を転生させた。そして、それを危ぶんだアトラゼネクがエドガー・キュレベルを転生させ、あの男に対抗させようとした。その方が筋が通っている。


「ふふっ……面白くなってきわ」


 あの男に今エドガー・キュレベルを「売る」ことは簡単だったが……どうしてそんなもったいない(・・・・・・)ことをするものか。

 あのどん底の時代に憧れた「こことは違う世界」への手がかりが降って湧いたというのに、どうしてそれを潰えさせてしまうものか。


「……異世界からの転生……!」


 世界には、常人には想像もつかない驚異が潜んでいたのだ!


「ふふふ……あははははっ!」


 私は、【催眠術】で周囲を欺くことすら忘れて笑い狂った。

次話、いよいよエドガーに話が戻り、「6歳児:王都編」の開始となります。

今後とも『NO FATIGUE 24時間戦える男の転生譚』をよろしくお願い致します。

2015/06/22

天宮暁

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