<< 前へ次へ >>  更新
82/186

81 行動博物学者デヴィッド・ザフラーン・キュレベル

「――王手」


 僕がそう言って桂馬を指すと、エドの動きがぴしりと止まった。


「う、うーん……」


 エドは必死に逃げ道を探しているが……それは無駄だ。

 すでに9手詰めで僕の勝ちが確定しているのだから。

 今、僕――デヴィッド・ザフラーン・キュレベルが、弟エドガーと一緒にやっているのは、エドの前世にあったという卓上遊戯で、その名を将棋という。

 最初こそ、「定跡」と呼ばれる手筋を知っているエドが有利だったが、最近は研究が進んで僕の勝ちが揺るがなくなってきた。

 器用にも自分で木材から削り出したという盤面を睨んでいるエドから視線をそらし、僕は将棋について考察する。

 定石。

 このような、たしかに興味深いが、何かの役に立つわけでもない遊戯のために、エドの暮らしていたという世界では、何百年にもわたって手筋の研究がなされていたのだという。

 呆れるべきか、感心するべきか。

 いずれにせよ、エドの前世とやらの文化的豊かさを認めない訳にはいかないだろう。


「……参りました」


 エドが不承不承そう言った。

 僕は弟の負けず嫌いに苦笑する。

 でも、ひねくれているようでまっすぐな弟の気性は嫌いじゃない。

 国中から優秀な子どもが集まってくる王立図書館児童部には、エドより頭のいい子はいくらでもいる。自分で言うのもなんだけど、僕自身、その中でも頭ひとつ抜けていたという自覚もある。

 だけど、なまじ優秀な児童司書は、王立図書館迷宮による度重なる「拒絶」に接すると心を折られてしまうことが多い。児童部で最後まで残り、司書補へと歩を進めることができるのは、頭のいい児童司書ではなく粘り強い児童司書だ。図書館迷宮の拒絶を馬耳東風と受け流し、地道に基礎研究を積み重ねる――すなわち、めげずに一冊でも多くの本を読破し、その内容を着実にものにしていく者こそが、階層突破を成し遂げることができるのだ。

 その点、エドは王国中からかき集められた児童司書たちに比べて、地頭の面では平均程度かもしれないが、性格の面では実に司書向きだと言える。いや、「地頭」だってエドの歳ならこれからいくらでも補いのつくものだ。なにせ、エドはこれでまだ5歳なのだから。


「エド、君は、王立図書館司書を目指してみる気はないのかい?」


 僕は気になっていたことを聞いてみる。


「王立図書館迷宮は面白いけど、俺には使命があるから、一処(ひとところ)に拘束される役職はちょっとね」

「ああ、もう一人の転生者を追う必要があるんだったね。とはいえ、相手もまだエドと同じくらいの年齢なんだろう?」

「そうだけど、恐ろしい相手だよ。今から既に周囲の大人を動かして何かを企んでいる可能性もある」

「王立図書館迷宮の奥底に眠る知識を発掘できれば、そのキザキという転生者と戦う上でも役に立つんじゃないかな? 実際、エドは前世の知識があるおかげで、僕と同じ第4階層まで到達することができている。騒ぎになるから公表してないけれど、もし公表されたら僕の記録を塗り替えて最年少記録になるのに」

「それは、俺がすごいんじゃないし。階層の番人の試問で役に立ったのは、前の世界では常識だった知識ばかりだ」


 王立図書館迷宮――またの名を、ライブラリーダンジョン。

 その実態は、実にややこしいものだ。

 王立図書館迷宮とは、「王立」でもなければ「図書館」でもなく「迷宮」でもない、という使い古された言い回しがある。

 王立図書館迷宮は、王都モノカンヌスができる以前からこの地にあった古代の遺跡であり、世界に二つとない古代の叡智の貯蔵庫だった。

 迷宮は何層にも分かれており、各階層は書棚や絵画・彫刻、その他博物的な資料で埋め尽くされた迷路となっている。さらに、迷路のあちこちには「番人」と呼ばれる謎の存在がおり、その番人の試問に答えられなければ、そこから先には進めない。

 とくに、次の階層へのゲートの前には、「階層の番人」と呼ばれる特別な番人がいて、この試問は過酷の一言。その階層に山と積まれた書籍の内容が理解できていなければ、その試問を乗り越えることは難しい。この試問は、何人かでチームを組んで受けることもできるが、その場合は次の階層での行動範囲に制限がかかってしまう。

 僕とエドは、それぞれ単独で第3階層までの階層の番人の試問をクリアし、第4階層へと到達している。今のところ、僕とエド以外で第4階層への単独到達を成し遂げた者は数えるほどしかいない。

 ともあれ、王立図書館迷宮は、王が立てたわけではないから「王立」ではなく、博物館・美術館でもあることから「図書館」とはいえず、ダンジョンではないから「迷宮」と呼ぶにも違和感がある、というわけのわからない代物だ。


「それに、図書館迷宮は王国中から有望な子どもを集めて児童司書として英才教育をしてるんだよね? そんなエリート集団の中に入ってやっていける気はしないよ」


 エドが肩をすくめながらそう言った。

 エドの言うとおり、王立図書館迷宮司書部は有望な子どもを国中から集めて英才教育を施し、図書館の探索を進めようとしている。かくいう僕自身もスカウトされて児童司書になった口だ。


「エドは休みなしでも疲れずに本を読み続けることができる。僕からしたらとてつもなく羨ましいスキルなんだけどね」


 僕はそう言って、ズレていた眼鏡の位置を直す。

 この「眼鏡」も、エドの発明品だ。

 石英を溶かして作ったという「ガラス」という名の透明な素材を加工して、「レンズ」と呼ばれる特殊な凸面の板を作る。このレンズは光の焦点をずらすことで弱くなった視力を補い、装着者の視界を明瞭にすることができる。その上、レンズはその厚みを加減することで装着者の視力に合わせて「度」の強さを調整することまでできるという。

 非常に繊細な技術を要することから、今のところエドの獲得したクラス〈錬金術師〉の物体を変形させる能力がなければ作ることができない。エドはその試作第一号を、読書ばかりで視力の悪くなっていた僕へのプレゼントにしてくれた。人前でかけるわけにはいかないのが残念だが、人目のない図書館の最前線では大いに役に立ってくれている。


「とはいえ、この眼鏡にせよ、鉛筆にせよ、ボールペンにせよ、製紙法にせよ、活版印刷にせよ、エドの知恵を図書館に閉じ込めておくのはもったいないこともわかる」


 僕とエドの座るテーブルの上には、最近キュレベル商会が販売を開始した上質な紙が広げられている。

 もともとは東方領域からの輸入に頼っていた紙だが、近年東方領域が鎖国を行っているせいで供給量が減り、モノカンヌスでは紙価が以前の十倍以上にまで跳ね上がっていた。

 というのも、東方領域は紙の製法を秘中の秘としていて、王国側では製法はおろか紙の材料すらわからないという体たらくだったからだ。

 そこで、エドの前世知識がものを言った。エドも、別に前世で製紙職人だったわけではないが、前世の「義務教育」のおかげで製紙法の概略くらいは知っていた。その知識と、その知識を元に僕とエドが図書館で発掘した古代の製紙技術について書かれた資料とを突き合わせることで、僕たちは自前で紙が作れるレベルの詳細な製紙の知識を得ることができた。

 この情報は父さん経由でポポルス会長の運営するキュレベル商会へともたらされ、数カ月前から商会は「キュレベル紙」と銘打った自社製造の紙を販売することになった。

 目の前にある紙も、キュレベル商会から提供されたキュレベル紙だというわけだ。


「でも、もう一人の転生者のことを考えると、やりすぎるわけにはいかないんだよね」


 エドが難しい顔でつぶやいた。

 たしかに、あまりにもこの世界のレベルとかけ離れた技術を実用化しては、エドと同じく前世の知識を持つ「もう一人」にエドの存在を嗅ぎつけられるおそれがあった。


「紙に関しては、もともと他の商会でもずいぶん昔から試行錯誤があったからね。現代の錬金術、なんて言われてたくらいだ。実際、麦藁を使った質の悪い紙ならないことはなかった」

「鉛筆もそうだね。もともと鉱山の技師なんかが黒鉛をチョークみたいに使ってたみたいだから、鉛筆くらいならそんなに目立たない……と思う」

「鉛筆も、黒鉛と粘土の含有率を、最適なものからわざとずらして粗悪品にしたりしてるから、大丈夫だろう。こっちは、キュレベル商会ではなく、他の商会を経由して販売してるし。ボールペンは……さすがに流通させられないと思うけど」


 ボールペンというのは、ペン先を微細なボール球に置き換え、その背後に極細のインク筒をくっつけたものだ。いちいちペン先にインクをつけずとも文字が書けるという優れもので、これもやはり精密な加工を要するため今のところエドにしか作れない。

 僕他数人の信頼の置ける者が、エドがスキル上げのついでにと言って作ってくれたものを譲ってもらったくらいで、市場には流通させていなかった。

 その辺りの判断については、エドは僕や父さんやポポルスさんに一任してくれている。

 自分にできないことはできないと割り切って、すっぱりと人に任せてしまえる。これはエドの大きな美点だと思う。僕はなまじ頭がいいだけになんでも自分でやろうとしてしまい、かえって効率を損ねてしまうようなことがある。この、歳の離れた弟から学べることは、何も前世の知識だけではない。


「だけど、そういうのは結局、前世で見たものを真似しただけだよ。本当にすごいのはデヴィッド兄さんでしょ。なにせ、俺が代数とか方程式の概念を教えただけで、ニュートン力学や微分・積分まで再現してしまったんだから。俺の元の世界では、優秀な数学者たちが何世代もかけて解明した知識だっていうのに」

「だって、あれは最初のアイデアさえわかればあとは考えるだけじゃないか。しかもこの場合、エドがおぼろげながらゴールまで教えてくれるんだから。

 アインシュタイン……と言ったっけ。君の世界の物理学者の導き出したという相対性理論とやらも、あと少しで証明が導けそうなんだが……」

「……兄さんを見てると、自分がとんでもなく頭が悪いんじゃないかと思えてくることがあるよ」


 エドが呆れたように言うが、それはこっちのセリフだ。

 エドの世界に対して、この世界の文明はいかに遅れていることか。

 なにせ、マルクェクトには「科学」という概念すらなかったのだ。

 僕がかねてから提唱する行動博物学――万物の背後にある法則を実証的に導き出そうとする立場は、エドの言う「科学」とかなり近い概念だと思う。

 だからこそ、この分野での先駆者を自認していた僕にとって、エドから聞かされる異世界の話は刺激的で、同時に妬ましくもあるのだ。



 ◇


 俺の目の前に座っている兄デヴィッドは、正真正銘の天才だ。

 俺から前世の話を聞く前の時点から、デヴィッド兄さんはその才覚をいかんなく発揮してた。

 たとえば、王都を騒がしていた「切り裂き魔」の正体を暴いたことがそうだ。

 兄さんは「切り裂き魔」の発生件数とその年の気象条件に一定の相関関係があることに気づき、いくつもの実験を重ねて、切り裂き魔の正体を突き止めた。

 王都の冬は、風鳴りの季節と呼ばれるほどに風が強く、風の精霊力が過剰になっている。この過剰な風の精霊力に、切り裂き魔に怯える市民の妄想が干渉し、誰も意図しないまま上級【風魔法】《ウィンドスラスト》と同様の魔法現象が自然発生してしまう。これが、兄さんの暴き出した「切り裂き魔」の正体だった。

 この他にも、その卓越した頭脳を活かして、過去にいくつかの未解決事件を解決へと導いたこともある。兄さんから聞き出したアーサー・ウェインバック卿殺人事件やコスタの女神像盗難事件の顛末は、さながら前世のミステリー小説のようだった。

 つまり、デヴィッド・ザフラーン・キュレベルは、若き俊英行動博物学者にして難事件をたちどころに解決してしまう名探偵でもあるのだ。……チートってことなら、俺なんかよりこの人の方がよっぽどチートだろう。この人の前では俺なんて、シャーロック・ホームズを前にしたワトソンに等しい。

 ちなみに、兄さんのミドルネームとなっている「ザフラーン」とは、中古代に活躍した賢者の名前で、兄さんが王立図書館の正規司書になった時に王から授けられたものだ。


「そういえば、ポポルスさんが、製紙のための薬品を改良したいって言ってたけど、何か知らないかい?」


 デヴィッド兄さんが聞いてくる。

 その拍子に綺麗に櫛づけて分けられた長い焦茶色の髪がさらりと揺れて、眼鏡にかかる。

 父さんの血か、エルフであるチェスター兄さんに負けず劣らずの整った容姿だが、それ以上に眼鏡の奥で爛々と輝く好奇心に取り憑かれたような目が印象的だ。

 髪を鬱陶しそうによけ、眼鏡のズレを直すしぐさは様になっていて、前世の眼鏡男子が好きなお姉さま方なら黄色い声を上げていたかもしれない。


「うーん……木を溶かすんだから、アルカリがいいのかな? 水酸化ナトリウムとか? 海水でも電気分解したらできるか……?」

「電気分解か。君の書いたノートを見たからやり方はわかるけど、そもそもの電気を起こすのが大変だね。君の知識では、電池や電源があることが大前提になっていたよ」

「この世界だったら【雷魔法】の方が楽かな?」

「魔法使いを雇うんじゃ金がかかって仕方ないだろう。【雷魔法】の適性の持ち主は少ないというし」

「じゃあ、発電機を作るしかないか」

「発電機……たしか電磁誘導を利用するんだったね」

「そうそう。コイルの中で磁石を動かすと、コイルに電流が流れるという性質を利用するんだ。火で水を沸騰させて蒸気でタービン――羽板のようなものを回したり、ダムに溜めた水を流してその力で回したり」

「ということは、水車でもいいわけだね? 水車の軸に磁石をつけて、その周りに巻いた銅線を配置すれば、銅線に雷が発生すると。

 なんだ、意外と単純な仕組みなんだな」


 拍子抜けしたように、デヴィッド兄さんが言う。

 それを単純と言い切ってしまうのはデヴィッド兄さんくらいだと思う。


「水車は、モノカンヌスにはかなりの数があるはずだよ。湖の速い潮流を利用できるから、粉挽きや鍛冶に広く使われてる。それを転用すれば作れそうだ。他の発電方法は?」

「火山の熱を利用したり、海の波を利用したり、太陽光を利用したり、風力を利用したりしていたな」


 原子力のことはとりあえずは黙っておこう。

 この世界の技術力で手を出したらとんでもないことになりそうだからな。

 なまじ魔法があるだけに、実現できてしまいそうなのが怖い。それとも、杵崎(きざき)が核を使ってくる可能性も考えた方がいいのだろうか。


「なるほど、タービンとやらを回すだけなら、いろんな手段が考えられそうだね。冬季限定だけど、風の鳴る季節なら風力発電もできそうだ」

「電気は便利だから、発電所がたくさん作られたんだけど、そのせいで公害も起きていた」

「公害……?」

「たとえば、炭を大量に燃やせば煤がたくさん出るでしょ? その煤が空気中に漂って、都市を覆い尽くしたような時期もあったんだ。俺の生まれるだいぶ前の話ではあるけど、発展途上にある国では今でも公害問題が起きていたね」

「なるほど、そういう話は、経験してみないとなかなか想像できないだろうね。

 しかも、空気を漂って広がるということは、発電所の所有者と周辺の住人の間で相当なトラブルになったんじゃないかい? 王都の新市街でも、皮革業者の多い界隈だと、臭いに関する争いが起こることがあるんだ」

「よくわかるね……その通りだったよ」


 ついでとばかりに、二酸化炭素排出による地球温暖化問題についてもひと通り説明した。


「火を焚きすぎて二酸化炭素が増えて、その影響で世界全体が温暖化する、か。

 想像を絶する話だね」


 興味深い、と言いながら、デヴィッド兄さんはノートに聞いた内容をまとめていく。


「しかしそうすると、やはり化学という分野についてのきちんとした知識がほしくなる」

「俺は本当に初歩的なことしか知らないから、図書館深層に期待だね」

「それでも、専門家でもないのに基礎がわかるというのはすごいことだよ。この世界では考えられないことだ」

「それも、俺が特別なんじゃなくて、前世での義務教育のおかげだよ」

「すべての国民に9年もの教育を義務付けているんだったね。そのために必要な学校の数や教員の確保のことを考えるとめまいがするよ」


 義務教育で習ったことについては、メルヴィに習得してもらった【催眠術】を利用して、可能な限りノートに書き出すようにしている。デヴィッド兄さんはそのノートを読み込んで前世の知識を当然のようにものにしてしまった。ノートは他の家族にも筆写して渡し、キュレベル商会を任せているポポルスさんにも提供している。


「もう一人の転生者のことを考えると、この知識をむやみに広げることができないのがもどかしいね。この世界の生活水準を一気に引き上げることができそうなのに……。

 その『もう一人』についても、いい加減具体的な情報がほしいところだ」

「まったくだよ……。一応、国王陛下にも頼んで情報は集めてもらってるけど、ソノラートがごたついてるせいで大陸の北側の情報がまったくと言っていいくらい手に入らない……」

「そういえば、転生者ではないけど、ひとつ噂を聞いたよ」

「噂?」


 図書館に引きこもっていることの多いデヴィッド兄さんだが、各方面に知り合いが多いらしく、なかなかの情報通でもあるのだ。


「勇者アルシェラートが失踪した……という噂だ」

「勇者……」

「君も図書館に入り浸ってるからわかってると思うけど、もう一度説明しようか?」

「うん、お願い。見落としてることもあると思うし」


 俺が言うと、兄さんはひとつうなずいて続ける。


「勇者というのは、聖剣に選ばれた存在のことだ。

 聖剣というのは、魔力を持つ剣のことで、古代遺物だとも、神々が授けたものだとも言われている。

 聖剣は、どういう仕組みでか持ち主の資質を察知することができる。基本的には心の正しい人物を選ぶとされているが、歴史を紐解くと悪徳勇者がいないわけでもない。その場合はその剣は聖剣ではなく魔剣だったということにされる。つまり、聖剣が心の正しい人物を選ぶのではなく、心の正しい人物を選ぶ剣のことを聖剣と呼ぶんだ。だから、『聖剣』という言葉には一定の政治性がある」


 後半については初耳だった。

 なお、この定義に従えば、《ホワイトブリムの勇者》と呼ばれているステフは、聖剣に選ばれていないため正式な勇者ではないことになる。


「同様に、『勇者』という称号についても、政治性は存在する。つまり、権力にとって都合のいい『心の正しい』人物を『勇者』としてもてはやす傾向があるんだ。

 とはいえ、実際に勇者となる人物の大半は正義感が強く弱者を守り助けたいと本気で思っているような人たちだ。だから、勇者は一般市民の間でも広く尊敬されている。

 ちなみに、勇者の名前には『アル』の敬称がつくことになっている。今のサンタマナの王族も、それを真似してみな『イル』がついてるんだけどね」

「ヴィストガルド1世陛下には『イル』なんてついてないけど?」

「陛下は妾腹なんだよ。もともとは王位継承権がなかったんだけど、当時の王太子が病気で亡くなってね」

「アルフレッド父さんは?」


 父さんの名前にも『アル』がついてるから、そう聞いてみると、兄さんに冷たい目を向けられた。


「それはたまたまだよ。

 それより、勇者の話だ」

「その勇者が失踪した……という噂なんだっけ。でも、どうして確定情報じゃないの? そんな人物なら目立って仕方ないと思うけど」

「勇者アルシェラートは素性を隠していることで有名だ。内紛の続くソノラートで弱者の救済に当たっていたというが、権力側からの干渉に辟易して身を隠したのではないかという話だった。アルシェラートの持つ聖剣〈空間羽握(スペースルーラー)〉は空間系のスキルを増幅するような力を持っているらしい。だから、アルシェラートが身を隠そうを思ったらそう簡単には見つからないだろう」

「なんだ、じゃあ失踪したと言っても、本人の意思なのか」


 俺が言うと、兄さんは首を小さく振った。


「それが、実は奇妙なことがあってね」

「奇妙なこと?」

「うん。これは昨日陛下から聞いたことなんだけど、陛下は勇者アルシェラートにソノラート以北の情勢を探るよう、依頼していたというんだ」

「それは……きな臭いね」

「とはいえ、昔からむらっ気で有名な勇者でもあるらしくて、『面倒になった』でしばらく隠遁していたこともあるらしい。ひょっこり王都にでも現れる可能性もあると、陛下はおっしゃっていたよ」

「……それでいいのか、勇者なのに」

「隠遁した結果、一段と強くなって復帰したらしいから、単にサボっていたわけではなかったみたいだけどね。アルシェラートに限らず、独自の価値観と判断で動く勇者には、奇人変人が多い傾向があると言われているよ」


 と、「キュレベル家(いち)の変人」との呼び声も高いデヴィッド兄さんが言う。


「面倒になって失踪したという可能性の他にも、ソノラートで何らかの『悪』に遭遇し、それを追跡している最中……という可能性もあるね」

「その場合、その『悪』っていうのは……」

「転生者トオル・キザキである可能性がないわけではない。可能性が高いとまでは言えないけれど」

「陛下はそのことについてはなんて?」

「可能性を考慮して、ソノラートに潜り込んでいる密偵たちに調査を命じたとおっしゃっていたよ」

「それなら、任せておくしかないか。まさか俺がソノラートに乗り込むわけにもいかないし」

「気がはやるのはわかるけど、父さんや母さんの気持ちもわかってあげるんだよ?」

「それはもちろん。心配してくれてるのはわかってる。だけど、そのせいで後手に回って取り返しの付かないことになったらと思うと不安だ」

「僕が思うに、不安には合理的な根拠がある場合とない場合とがある。ただ、どちらの場合であるにせよ、不安という感情は冷静な判断力を奪うという点で有害だ。君が今なすべきことは、周囲の人たちと一緒に強くなっていくことだよ。焦って無謀な行動に出ることじゃない」

「わかっちゃいるけど……」

「うん、わかっていても不安にはなるだろう。君の場合は敵が敵だ。しかし、繰り返すが、不安がったところで得るものはない。だから、目の前にある課題に集中することにしようじゃないか」

「目の前にある課題って?」

「いくつかあるけど、図書館迷宮の階層の番人を突破して、5階層に到達するというのはどうだろう?」

「つまり、4階層に封じられた知識の探索と研究か」

「君はなまじ寝なくてもいいせいで、時間を持て余しやすいだろう。そういう時にこそ、不安がにじり寄ってくるんだ。せっせと本を読み、父さんや母さんと鍛錬をし、ステフやエレミアを鍛える。実に健康的で、堅実で、有効な時間の使い方じゃないか。歳を取ったらしがらみばかりが増えて、こんな贅沢な時間の使い方はなかなかできなくなってくるからね」

「……兄さんだってまだ21歳じゃないか」


 デヴィッド兄さんはたまに妙に老成したことを言う。

 賢者たちの記した書物に埋もれるようにして青春を送ってきたせいか、デヴィッド兄さんは少し枯れたようなところがある。


「兄さんも、恋でもしたらいいのに」


 思わずそう言ってしまったが、前世で俺が兄さんくらいだった時に恋愛をしていたかというと……うーん。


「恋ならしているよ。この世界に蔵された、知識という名の稀代の美女にね」


 ドヤ、という顔をしてそう言い放つデヴィッド兄さん。

 ……案外、この人はダメな人なのかもしれないな。完全にナントカをこじらせてしまった感がある。せっかくイケメンなのに……。


「……なんだい、その憐れむような視線は。僕だって、僕にふさわしい女性が現れたら、そりゃ、恋もするだろうさ。ただ、なかなか理想の女性に巡り逢えなくてね」

「兄さんの理想の女性って?」

「頭の回転が僕と同じくらい早くて、学識が深くて、森羅万象の背後に潜む神秘に魅力を感じるような、高貴な魂の持ち主、かな。そんな相手とだったら、古代の詩人アェロェスが歌ったような魂と魂が直接触れ合い、交感するような『天上の恋』ができると思うんだけど……」


 そんな女がそうそういるか!

 思うに、兄さんは恋というものを書物から学んでしまったんだな。それこそ古代の詩人が歌い上げたような高尚な恋じゃなければダメだと思い込んでる感じだ。


「そんな理想の女性はいないよ。いたとしても兄さんで口説けるの?」

「口説くとか口説かないとか、そういう俗っぽい話じゃないだろう。どうせ恋をするなら、魂と魂が惹かれ合うような運命の恋がしたいんだよ」

「……案外、兄さんってロマンチストだよね」


 それとも、頭がよくてイケメンで王立図書館司書という地位まで持ってるもんだから、理想が高くなってしまうのか。

 いつかデヴィッド兄さんが抗いがたく恋に落ちてしまうような運命の女性に巡り逢えることを、不肖の弟は陰ながら祈らせていただきます……。

はーす様のご指摘により、定石→定跡に修正しました。

<< 前へ次へ >>目次  更新