ひっそり静かな生活(主観的には)***そのご
門番のお兄さんがまた気軽にシルヴァの頭に載せようとした手をぺいっと払って、シルヴァと手を繋ぎなおした。
お日様はまだ高い位置にあるから、帰ったらシルヴァに保存庫を掘ってもらおうか。
それとも入り口になる扉とか小屋用の板を作るのを先にしようか。
ぴゅうと冷えた風が弾いていったフードを、いそいそかぶせなおしてくれるシルヴァ優しい。
◇◇◇
結界を踏み越えて数歩、貢物を捧げるために整えた簡素な石の台座がある。
毎日捧げられていると聞いているけれど、昨日も捧げられたであろう貢物はその名残すらわからない。使用人が慣れた動作で置いた木箱の横に、革袋とバスケットを並べた。
温かいうちに食べてもらえるだろうか。もうすっかり風は冷たい。
―――側仕えはね、出されたものの状態も常に確認しなきゃなのよ
「……おいっ」
台座から森の方へ一歩踏み出した僕の腕を、騎士の一人が押し殺した声とともに掴もうとして空振りした。
―――お前の目と同じ色よ。綺麗で美味しいの
―――そしたら私だけのものになってくれるでしょ?
「っなさい」
―――侍従殿?記録球と報告に不足はないかと、私以外に報告していないかと尋ねましたよね?
「ごめんなさい!お嬢様ごめんなさい!」
罵倒とともに太い腕が、僕の肩や腕に巻きついてくる。
◇◇◇
シャルロット様の元侍従が喉を裂かんばかりに悲痛な声をあげた。
ざわりと樹々の間に佇む闇が揺れる。
騎士たちに羽交い絞めされて引きずられながらも、元侍従はその闇に分け入ろうともがいていた。
「これ、あなたが仕分けてくれた?」
日々のノルマ通りに各部署の決裁書類を集めては次の部屋に送り届ける俺に、シャルロット様が今まさに届けられた書類をじっと見つめて問いかけた。
言われた通り、頼まれた通り、予定通りにこなすのがこの配達の仕事で、それ以上は求められてはいない余計なことだと自覚のある俺はその問いに思わず肩が揺れてしまう。
「もしかしていつもそうしてくれて、る?」
書類に視線を落としたままだから、艶々とまっすぐ長いまつ毛がまろやかな頬に薄い影をつくっている。あどけなく僅かに開いた唇は薄桃色で、今朝見た時よりは赤みが戻っていることにほっとした。
僅か十二歳かそこらと聞いている。俺よりも七歳も下の尊き身分の少女は、この城の誰よりも業務終了時間が遅い。正確には業務時間というものが設定されていないと知ったのは随分前のこと。
王太子の婚約者であり将来の王太子妃であるから、全てはその来るべき時に備えての準備であり教育の一環なのだそうだ。だから城で働く全ての者が享受する【働き方改革】の対象外だという。
あんなに小さく細い少女なのに。
隣の家に住む九歳の娘だって、笑って走り回れるほどの筋肉と元気と時間を持っている。
王妃殿下が王太子妃時代に整えた義務教育制度の学校だって、日の暮れるまで授業なんかしていない。
「あー……、は、い……わかる範囲ですけど、間違えて、ましたか」
学校の成績こそそこそこよかったけれど、城で働くための試験もなんとか滑り込めた程度の俺だ。男爵家の三男なんて家での教育も特別なものじゃない。
余計なことだったかと、つまりそうな喉から声を絞り出す。まさか仕事を増やしてしまっただろうか。つぅっと冷たいものが背筋を降りた。
「ううん、すごい、ですね。優先順位も重要度も、自分で見て覚えたのね」
そりゃあこの仕事を始めたころはただの配達や伝令だから、誰にだってできることだとそれだけしていれば賃金はもらえると思ってたし、実際そうだった。
だけど俺よりもずっと、まだ幼いままで許されていいはずの年の女の子が、明らかに休憩すらとれていない様子を見ていたら。
どこの部署の上長にだって補佐や秘書がついてる。
王妃殿下の執務室なんて俺風情が入れるわけもなく、その前室に何人も詰めてる補佐はざっと書類を眺めた後に、婚約者殿の元へ送れとその半分以上をそのまま俺に回させる。
この狭い執務室にたった一人でいる少女が、わずかな時間だけでも息がつけるようにと、書類カートを押しながら並べなおしたり、急ぎでなさそうなものを次の巡回時へと繰り下げたりするくらいなら、それくらいならできることだと思ったから。
「うん、すごい。―――いつもありがとうございます。仮眠とれました」
でもあなたが怒られることのないようにしてね、と、高価なお人形のような人差し指を口元に添えて、うっすらと僅かではあるけれど、多分、ふわりと笑った。
できる範囲でしかないほんの小さな手助けをしている者は他にもいた。
彼女の優秀さは王妃殿下の血筋と自分の献身的な指導ゆえのものだと言って憚らない学者についてる助手は、いつも冷めるまで放っておかれるティーカップの横に個別包装の菓子を載せてた。
資料室長は彼女が必要とするかもしれないものは優先して資料を精査し整えていたし、先回りして各所に指示を出していた。
部屋に飾ってやってくれと庭師が俺に託した小さな花束や鉢植えには、赤いベリーやグミが生っていた。
きっと俺が知っている以外にも、そういう者はいただろう。
「お願いです!お嬢様!どうかっ、―――どうか僕もお連れくださいっ」
この元侍従が側付きはじめたとき、誇らしげに頬を紅潮させてシャルロット様の部屋に入る姿を見たことがある。ああ、やっと堂々と彼女の助けになれる者がついたのだと、その時は思ったものだ。
ざわつく闇が、こもった息遣いが、澱んだ光の眼が、遠巻きにあったそれらが森の奥から這い寄ってきているのがわからないのか。
思わず漏れた舌打ちと同時に、彼らの前に出て結界の外へ押し出した。
地を揺るがすほどの咆哮
唸るように空を裂く斬撃
きぃんきぃんと甲高く立て続けに鳴ったのは、俺たちの前に展開された虹色の小さな障壁
魔獣が森の奥から姿も見せずに俺たちを襲ったのだと理解できたのは、四人で団子のように絡まりながら結界の外で転がった後だった。
四人分の恐怖に弾んで乱れた息づかいだけが、あたりに漂う。
結界のこちら側までは、魔獣のあのおどろおどろしい気配は届かず、痛いほど静かで明るい日差しが降り注いでいる。
「……っまの、は」
ただ貢物を供えればいいだけのものを、俺たちを無闇に危険にさらした張本人から能天気な言葉がこぼれた。今のも何も魔獣に決まっているだろうと喚き散らしたいのをぐっと堪えた。
元侍従の、騎士二人に掴まれて乱れた襟元から、きらりと反射する光。
「お、おい、障壁がでた、よな」
「ああ、俺じゃないぞ……誰が」
お互いに顔を見合わせている騎士たちにため息がでる。
伝令役で配達係で、シャルロット様の仕事を率先して請け負っていたからと、いつの間にか俺の仕事になっていたけれど、貢物を供える時にこいつらがついてきてたのは最初の頃だけだ。最近はずっと俺一人だったのに、この元侍従が今日はついてくるからと体裁を整えるべく、いつものことのような顔してきていた。
この仕事は機密事項だと命じられた僅かな者たちはもうみんな知っている。
安全とまでは言わなくとも、さっと素早く置いて帰ってくる程度なら問題は起こらないし、何よりも貢物はただ魔獣の餌になっているだけのことを。
それなのに意味もよくわからないまま行われ始めたこの儀式もどきなど、積極的にしたい仕事などではないことを。
あの物静かで優しい少女がくれたお守りを、お仕着せの胸ポケットの上から握りしめた。
『これは肌身離さずつけていてね。私は何も持っていなくて、今までよくしてくれたお礼もできていなかったけど』
絶対に役に立つからと、見せてくれた笑顔は初めてお礼を言われたときよりも、ずっと年相応で悪戯気ですらあった。
同じものを受け取っていた助手が、後からそっとこのお守りの効果を教えてくれた。どうやらこれをもらった人間には耳打ちしているらしい。
魔獣除けどころか攻撃すらこうして弾き返して受け付けないし、わずかながらも疲労回復効果まであると。こんなものそこらの上級貴族だって持ってない。その効果は実際に先月体感している。勿論俺一人でここに来た時だし、それは誰にも報告なんてしていない。
「それ」
呆然としている元侍従の襟元を指さした。
「それから障壁がでてきたように見えましたねぇ」
えっ……と、元侍従は首にかかる細い鎖を手繰り寄せて、遊色が浮かぶ白い宝石をはめ込んだシンプルなお守りをまじまじと見つめた。
「お、お嬢様が」
「シャルロット様からいただいたんですかー、すごい効果のあるお守りなんですねー」
「き、君っ、それちょっと見せてくれないか」
「危機一髪ってこのことですよねぇ、さすが公爵家に仕えてる人はちがうなー」
「え、これはお嬢様が僕に」
「見るだけだから!」
俺は、すごいなー俺にはよくわかんないっすけどーと棒読みのセリフを繰り返して立ち上がり、しれっと騎士たちと元侍従を城へ戻るよう促した。
魔獣の斬撃は直撃分こそ障壁が防いだけれど、それた分は結界をすり抜けて俺たちのいたすぐ横の土をえぐっていた。
この結界は魔獣の攻撃すらも防ぐときいていたのに。
騎士たちはお守りに気をとられて、そんなことすら気付いていない。
結界が弱まってきているという報告は、こいつらの頭上を通り越してやることにする。
正々堂々と俺の手柄とさせてもらう。
もう、ほんの些細な気遣いを拾い上げて認めてくれる少女はいないのだから。
お連れくださいだって?
伊達に全ての部署を毎日行き来してるわけじゃない。
城中で囁かれる声を聞き分ける耳も、真偽を判別する頭も持っている。
この元侍従が何をして何をしなかったのかなんてもうとっくに知っている。
やっと自由に過ごせるようになったであろう少女に、また庇護を求めるというのか。
騎士たちは当然このことを報告するだろう。
そしてあの素晴らしい贈り物は、きっと王妃殿下が最近籠りだした研究室へ持っていかれるだろう。
―――ざまぁみろ。あいつにあのお守りはもったいない。
◇◇◇
くるるる
訝し気に喉を鳴らしたシルヴァが、すぅっと目を細めて空を仰ぎました。
「シルヴァ?」
「きゅうーぅ」
なんでもないよというように、鼻先で私の眉間を撫でてくれます。
見上げていた空の方角は王都のほうでした。
そうですね、そろそろ結界が弱まってきているころでしょうか。すっかり忘れてましたわぁ。
うふうふ、きゅっきゅ、と笑いあって頬ずりしあいふざけあいながらわが家へと向かおうとしているところに、また無粋な声がかかった。
「ま、待てと言っただろう」
私たちは特に急ぐわけでもなくここまで来たのに、息を切らして追いかけてきた王子はちょっと運動不足じゃないだろうか。それともおばさま包囲網が強すぎたのか。隣国、社交スキル低すぎでは。
「あー、あのだな」
「はい」
「あれだ、王都にちょっと行ってきたんだがな」
「えー、なんか長くなります?」
「お前もうちょっと手心加えろ!?」
だってもう帰りたいのにー。
番外編は四話くらいで終わるはずだったのに……っ
次の更新はきっと多分来週くらいで……