問50このときの少女の気持ちを答えなさい。見えない傷はないものとする。
それではみなさまごきげんようと、シルヴァに跨り颯爽と新天地へ飛び立ちたいところだったのだけど。
お願いだから待ってくれとかはともかく、シルヴァ捕獲作戦だのなんだの匂わされたら足を止めざるをえなかった。なんでも禁呪の森の主というのは、王家の守護神だか守護獣だかの言い伝えがあるそうで。これもまた初耳だった。妃教育に組み込まれていそうなものだけど、すでに神話やおとぎ話レベルに落ちているとはいえ王族と王族に連なる者のみが教えられることなのだとか。私は婚約者でしかなかったから教えられていなかったらしい。
緘口令を敷き重臣たちは退室している。
私とシルヴァがバルコニーから部屋へは頑として入らないため、窓際に向けて椅子が運びこまれた。入るわけないじゃないですか。捕獲作戦匂わせたんですよ。いやですわー。
私はシルヴァのふくふくとしたお腹を背もたれに、がっしりと発達した後ろ足をひじ掛けにして床に座り込むことにする。公爵夫人が窘めようとしましたが知りません。私平民ですし。
シルヴァは私のお腹に前足を回し、つむじに頬をすりすりしています。何物にも代えがたい癒し。
「……シャルロットが禁呪の森に入ったなど聞いていないぞ。それも四年も前だと?」
陛下の厳めしく寄せられた眉間は少し王太子殿下に似ている。陛下は精悍な美丈夫だけど、王太子殿下はまだ十代のせいか少し中性さの残る線の細い美青年だ。先代の王妃似だときいている。
悪戯が見つかってしまって気まずいような、眉を下げた上目遣いで王妃殿下が説明を続けていた。
「だって……、シャルロットは頑張ってるのにどうしても嫉妬や妬みの目で見られちゃってて……殿方たちはあまり目にしなかったでしょうけど、ねぇ?」
そう同意を求める王妃殿下に、公爵夫人が頷いた。確かにお茶会などの社交の場で、デビュー前の令嬢たちに侮られたり、聞えよがしの嘲りなどにはよくあった。私としては全て受け流すか迎え撃つかして捌いていたと自負しているのだけど。
「だからね、白竜石をもってきたら文句のいいようがない実績になるでしょう?秘密の抜け道は私と陛下くらいしかしらないし、安全にとってこれることなんて誰にもわからないんだから……ただ、シャルロットは泉を見つけられなかったみたいで……失敗したなんてわざわざ広めなくていいじゃない」
「待て、待て待て、影はつけたのか?エドワード、お前一緒に行ったんだろうな?」
「え、いえ、母上は安全だから、と」
「あ、姉上っ、まさかシャルを一人で行かせたんですか!?聞いてませんよ!?違いますよね?一人で」
引き攣るように陛下や側近たちが息をのみ、公爵閣下が見たこともないほど取り乱した叫びをあげた。
「え、だって私も一人でとってきたし。そりゃ陛下が泉までお迎えにきてくれたけど、なんでもなかったじゃないの。現にシャルロットだって無傷で戻ってきたわよ?」
驚愕に目を瞠り、膝から崩れるように椅子から転げ落ちた公爵閣下が「よく、よく無事で」と震える手を私へ伸ばしてにじり寄ろうとする。
びたーん!
尻尾を叩きつけて、シルヴァがシュゥッと威嚇音をあげる。私たちと彼らの間に見えない壁があり、そこから先は入ってくるなというように牽制している。びくりと怯みつつ、公爵閣下は言葉を続けた。
「シャル、シャル、お前、本当に怪我はなかったのか?奥まで行かずに引き返したんだろう?そうなんだろう?」
―――こんなお父様は初めて見ました。いいえ、正確にはこんな表情を私に向けるのを初めて見ました。
別に愛されてないなんて思っていたわけではない。知ってはいた。ちゃんと家族として愛されていると、頭ではわかっていました。
「無傷で帰ってきたのは本当です……切り落とされかけた左腕と左足は、シルヴァが治してくれましたから」
ご覧になりますかと、事業の中間報告書を見せるように、肘まである手袋を手首まで下ろして見せた。
四年間一度も陽にあてていない前腕にぐるりと刻まれた白い傷跡は、皮一枚でつながっていた部分を残して真っすぐな線を浮き上がらせている。左足にも同じものがあるけど、まあ、それは太もも半ばなので見せるのはさすがに。
この傷を見るたびに、シルヴァは哀しそうに舐めてくれる。この四年で負った怪我はいつでも綺麗に治してくれたから、もしかして切られた直後に治せば痕は残らなかったのかもしれない。シルヴァが私を見つけてくれたのは、魔獣が放つ鎌鼬から逃げて逃げてやっと泉にたどりついた時だったから、それなりに時間が経ってしまっていた。本当によく生き延びたと思います私。
衝撃を呑み込めないかのように硬直した公爵一家と侍従に王太子殿下が凝視する傷跡を、また手袋で覆う。陛下や側近たちは沈鬱に青ざめた表情で視線を逸らした。
「ど、どう、して?だって、あの道をいけば」
「―――六人だ」
「え?」
いつでも綺麗に口角をあげている唇を震わせた王妃殿下の小さな声を、陛下が遮った。
「お前があの道を抜ける時、余は……俺は王家の影をつけて護らせた。俺も影と一緒にお前を見守っていた。あの道は確かに魔獣はあまり近寄らないし見つかりにくいが、絶対ではないんだ。見つかれば、襲ってくる」
「で、でもネックレスだって、あの魔物除けのネックレスだって持たせ」
「あれはっ―――所持者の魔力量で有効範囲が決まるんだ。この中で随一の魔力量を誇るお前だから半径五百メートルだ。シャルロットは、シャルロットの魔力量は多いとはいえ高位貴族が持つ閾値内に収まる。エドワードよりもはるかに低い……おそらく有効範囲は半径十メートルもないはずだ。わかるか?魔物除けはあくまで魔物の意識を違う方向へ向かせるだけのもの。見つかれば何の意味もない。俺は、俺たちは知っていたから隠れて護りについたんだ。お前は言い出したら聞かないから」
やっぱりそういうことだったかと、そっと内心で頷く。皆さんの大事な大事なお姫様をあんな場所に一人で行かせるはずがないと思っていたのです。
ふるふると小さく首を横に振る王妃殿下は、幼げで私から見ても庇護欲をそそる姿。若かりし頃はあのピンクブロンドなど足元にも及ばなかったことだろう。
「お前が見つからないように、見つかりそうなときは魔獣の気を逸らして違う方向へ誘導させた。それで死んだ影が六人だ」
王妃殿下は小さく短い悲鳴をあげて大粒の涙をはらはらとこぼし、陛下は私へと向きなおり片膝をついた。
「シャルロット、俺の責任だ。王妃を悲しませたくなくて伝えなかった。俺の母親のために必死だったこいつが喜んでいるところに水を差したくなかったんだ―――すまなかった」
常識的には王が膝をついて詫びるなど、臣下はこぞって窘めることだろうに、側近たちもならって片膝をつき謝意を示す姿に、弾かれたように顔をあげた王妃殿下は、溢れ続ける涙もそのままに「ごめ、ごめんなさ、ご、ごめ」と喉をひくつかせる。
びたーんびたーん
公爵閣下を除く公爵一家と侍従、王太子殿下はまだこの光景を信じがたいのか棒立ちのままで、公爵閣下は床についた拳が真っ白にぶるぶる震えている。
びたーんびたーんびたーん
苛立たし気にシルヴァが尻尾を叩きつけ続けている。
耳元にぴたりと寄せられた鼻先を優しく撫でて宥めた。
これ、赦しの言葉が必要な流れでしょうか。そうですよね。そんな空気ですよね。
「……そういうわけで、私の命を救い、その後もずっと寄り添ってくれていたのが、このシルヴァです。私が望めばどこにでもついてきてくれますし、私もこの仔を手離す気はありません。シルヴァは私を傷つけたりしませんし、それどころか私から無理に引き離したり傷つけようものなら辺り一帯ごと灰も残さず殲滅します。強いですよ、この仔は。何せ禁呪の森にすむ魔獣で、この子に逆らうものはいませんし」
だから捕獲なんて無駄なことを考えないでくださいね、別に敵対したいわけでもないんです、と培った令嬢力を復活させて穏やかに、そしてしれっと告げた。私たちを放っておいてくれればそれでいいんですと。
「待って、待ってくれシャル、そんな、いなくなるみたいなそんな、あれは芝居だろう?知っていただろう?俺の婚約者は今だって君だけだ」
王太子殿下が切実な嘆願の色を瞳にのせている。綺麗な綺麗な、鮮やかなエメラルドグリーン。
時に冷淡にも見えるその色が、親愛に和らぐ瞬間が好きでした。
「よしてくれ!もう娘は預けられない!シャル、シャルロット、すまなかった。気づいてやれなかった。婚約などどうでもいい。うちに帰って来い、な?もうお前を苦しめるような場所にはやらないから」
「お嬢様お戻りくださいっ僕の主はお嬢様だけなんですっ」
仕事では厳格で公平だけれど子煩悩で家族思いだともっぱら評判の公爵閣下の声が、後悔と罪悪感で喉を塞がれているかのように絞り出される。普段けして口数が多いほうではないけれど、家族に語り掛ける慈愛に満ちた声が好きでした。
拾った当時は毛を逆立てた猫みたいだった護衛兼侍従が、必死で覚えたはずの謙虚な使用人たる姿勢をかなぐり捨て、這うように前に出ようとしている。またシルヴァが尻尾を叩きつけた。普段すましているのに、時々見せるやんちゃな仕草が好きでした。
ごめんなさいごめんなさい帰ってきてと胸元を握りしめて涙をこぼす公爵夫人の、その細く白い指が愛し気に我が子の髪を梳くのを見るのが好きでした。
王都が嫌なら領地に帰ろう?な?と、時にふざけて場の空気を和ませる公爵家嫡男が、少し屈み気味に目線を合わせようとしている。揶揄いながらも妹が好きなおやつを譲るような照れ屋なところが好きでした。
「い、言えばよかったじゃないっ言ってくれればっそしたら絶対」
王妃殿下が憧れで、その分私に張り合ってちょっとつっかかり気味だった公爵令嬢は、やっぱりつっけんどんな物言いをしている。それでも姉に追いつこうとする頑張り屋なところが好きでし―――いやちょっとこれは少しひっかかった。シルヴァの尻尾も二連打です。内なる私が、はぁ?と片眉をあげました。
「王太子殿下、私お願いしましたよね」
「え」
「よその女性に親し気に振舞って欲しくないと、何かあるのなら教えてほしいとお願いしましたよね。でも何もないとしかお答えしていただけなかった。ですよね?」
「そ、それは、でもそれは課題の」
「侍従殿?記録球と報告に不足はないかと、私以外に報告していないかと尋ねましたよね?あなたの答えは否だった。でも私への冤罪を否定する証拠以外の罪状を示す記録球はまだ他にもあって、公爵閣下や王妃殿下には全て報告していましたよね」
「お、お嬢様のためになると、そう言われ、て、危険だから、と」
「公爵令嬢マリアベル様、幼い頃に貴女様が一番好んだ夕食はスキヤキでしたよね?今もかしら」
いきなり振られた突飛な問いかけに、公爵令嬢は目を瞬かせた。溜まっていた涙が一粒転がり落ち。王妃殿下が開発した調味料でつくるこの料理は、公爵一家ではよく饗されていると聞いている。開発されたのは私が六歳くらいの頃だっただろうか。ひとつの鍋を家族で囲むスタイルは、これまでの貴族の食様式からはずれているにも関わらず、マクドゥエル家において非常に好まれたそうで。
「え、ええ、はい、好きですわ今も。みんな好きでしょ、いつも」
「私まだ食べたことないんです」
マクドゥエル家の皆様は戸惑いと問いかけの目線をそれぞれ各自交わす。
「妃教育が本格的になった五歳の頃から、私一度も公爵家で皆様と食事を共にしたことございませんのよ」
そんなはずはないと確かめ合うように交わされる目配せも、仕方がないといえば仕方がないのはわかっている。一般的な貴族家庭では、家族全員が揃って食事をする機会は少ない。晩餐会や夜会、日中であっても昼餐会やお茶会などそれぞれの社交があるのだから。
けれども公爵家では、家族が揃う食事をとても大切にしているとして社交界でも有名だった。
そういうところ。そういうところですよ。
「閣下、ご記憶にございますでしょうか。六歳くらいの頃、私お願いをしたことがあります。私も皆さんと食事がしたいです、と」
「あ、ああ!覚えているとも、お前が珍しく強請ったことだった、から……」
目に光を戻して顔をあげたけれども、そのまま目線が泳ぎだしたのは、この話の流れを把握された故だろう。流石に察しがよろしいですね。
「閣下は喜んで受け入れてくださって、王妃殿下にまでお話しくださって、あれよあれよという間に城での晩餐会になりましたわね。ああ、ちょうどいまこのお部屋にその時参加された皆様が揃っていらっしゃいますわ―――ですからね、私、五歳の頃から公務以外で食事を誰かとともにとったことがないんです」
よかった、と思う。仮にも有能で知られる面々なのだから、その晩餐会は六歳のシャルロットが求めたものではないと言わずとも理解してくれたようだ。
それは公務ではないだろうなんて言われたらどうしようかと。
あなた方は私にとって家族でもなければ私的に親しい間柄でもないだなんて、貴族らしい婉曲な物言いで説明するのは鬱陶しいことこの上ない。
「私がいないことなど誰一人お気づきになっていなかったのですから、公爵家の皆様におかれましては、今後もこれまでと変わりなく
言ってくれればわかっただなんて、私だけが独りよがりな不満を抱え込んでたかのように断じられるのは、本当に心外甚だしいですわ。
ブクマや評価、ありがとうございます。
おかげさまで異世界恋愛ジャンル86位マークしてました!滾ります!
二の腕→前腕
に修正しました。恥ずかしい///