ひっそり静かな生活(主観的には)***そのはち
つるつる滑らかに流れる白銀の髪が、さらりと一房、少年のまだ薄い肩からすべり落ちる。
ぱち、と瞬いたのは髪よりも一段銀色の濃いまつ毛が縁取る瞼。
まろみをのこしたラインの頬は、しみ一つない透明感のあるアンバーホワイト。
健康的に濡れた薄赤色の唇はあどけなく薄く開いてるけど、まだ細めの眉が代わりとばかりにきりりとしている。
控えめに言っても相当な美少年―――が、こてりと首を傾げて私を覗きあげるその仕草。
きらきらゆらゆら濃度を変える、深く澄んだ赤。私だけのスピネル。
「シルヴァ?」
「―――っ、……ん」
お人形のように整った顔のまま、口を開けては閉じて、きゅっと眉をひそめてから割と早くに諦めて頷いてくれた。
「声、でない?」
「……っむ、むじゅかち」
「えっなにそれっむずかしいの!?かわいい!かわいいなの!?」
むっとしたのか眉間の皺をもうちょっとだけ深めて「しゅぐ、慣れ、る」って!!えー!慣れちゃうのかしら!このかわいさに慣れちゃう気がしないですわ!
シルヴァとおしゃべりができるなんて―――!
シルヴァは私の言ってることはわかってくれるし、シルヴァの言いたいことだって多分大抵はくみ取れてたと思うけど、おしゃべりができるってことは、もっともっと、もっとシルヴァがわかるってことで。しかもかわいい。
もうすでに余すことなくぴったりと寄り添っていられてると思ってたのに、まだ近づける余地があったんだと気がつくと同時に湧き上がる歓びで高揚が止まらないですどうしたらいいですの。しかもかわいい。
すっきりと細めの首にしなやかに伸びる腕、人間の年頃でいえば十二、三歳くらいの小柄な少年といったその姿は私よりほんの少しばかり背が低いだろうか、でも竜のシルヴァより身長は高そうでしかもかわい―――ん?
「シルヴァ……」
「ん」
「尻尾は!?」
「ん?」
「シルヴァの尻尾は!?え、これ、違いますわ!前じゃなくて、後ろ!尻尾!尻尾どこ!?」
勢いよく前のめりになった私に、ちょっとのけぞったシルヴァ。
お互いベッドの上に座っていたから、そのまま四つん這いになってシルヴァの背後を覗き込んだ。
細身ながらもしっかりとした骨格が浮いている背中。
まっすぐな背骨が首から腰にかけて降りてから、肌の質感を徐々に変えつつ伸びていく尻尾!
まじまじと見つめる私の視線に、ぱたんと小さく答えた尻尾!
「あった!よかった!ちゃんとあった!尻尾!!!」
「……ん」
「あ、でも、ちょっと、ちっちゃくて細く、なった……?」
「……」
見つけた尻尾の途中から先を抱きしめたら、前より少し頼りなく感じる。一回りくらい小さいかもしれない。
ちょっとだけ寂しくて残念かもしれないと肩が落ちてしまう。
シルヴァは相変わらずお人形みたいに表情は顔にでてなかったけど、なんだかすごく微妙な感じに瞳が揺らいでた。
◇◇◇
「つまり結界が完全に崩壊する時期は予測不可能ということか」
サザンランド国王である父上が疲労を滲ませた声で、宰相の報告に再度の念を押した。問われた宰相は、同席している騎士団長、魔術師団長に目配せをしてから是と答える。
幼い頃から憧れ続けた賢王とその側近たちは、このわずか数か月で何年も老いたように見えた。
―――次代の王として高度な教育を受け続けていながら何も見えていなかった自分だから、もしかしたらとっくに輝きが褪せていたことに気がつかなかっただけかもしれないが。
禁呪の森の結界が弱まってきているという報告がされたのは数日前のこと。王妃率いる結界対策班とは別に、調査班を立ち上げて行われた連日の調査結果が報告されたのが今だ。
「……何故私がこの場に通されたのか知らんのだがね」
全員が沈鬱に押し黙った中、憮然とした声をあげたのはマクドゥエル公爵で……シャルロットが白竜とともに去った日以来の登城となる。
「私は公爵家の者が不当に取り上げられたお守りを返却するよう申し立てに来ただけだ。マクドゥエル公爵家に対して何か要請があるのであれば、正式にしかるべき手順を踏んでいただきたい」
「アレク……」
眉を下げた王妃の視線に、弟である公爵は目を合わせようとしない。
仲の良い姉弟だと評判だった。その位につく前からすでに賢女として称えられていた王妃の弟という外戚でありながら、必要以上の権威をかざすことなく臣下として控えめに、そして弟として親身に姉を支えていた。それは甥である俺に対しても同じで。
その振る舞いの核となっていた信頼がもうすでにないのだとわかる。
当然だ。当然のことだ。
あの日、公爵はもう娘を預けられないと叫んだ。
そう叫ばせたのは俺たちだ。むしろ今、縋るような視線を向ける王妃がおかしい。
慕ってた。信じてた。疑ったことなどなかった。
けれどそれは周囲から、そして本人たちから聞かされた主観的事実を、ただ鵜呑みにしていた故のことだった。俺は客観的事実を並べ比較し検討せよと教育されていたのに。幼子の頃ならともかく、成人を間近に控えた俺にはそうできる機会はいくらでもあったはずだ。
現に今目の前にいる母には、王とともに一国を背負って立つ者の威厳など欠片も見当たらない。
「……そのお守りの件についても、王妃殿下から報告があるそうです」
王が動かない様子をうけて、宰相が王妃に報告を促した。
禁呪の森を囲う規模の結界装置は実現可能域にまでは到達していること、ただしそのままでは発動および維持にかかる消費魔力がまだ膨大すぎるため、さらなる開発を進めていることが説明されていく。
「それで、ね、アミュレットなんだけど……あのひとつだけかしら」
「……どういう意味でしょうか」
「あの、あれに組み込まれていた魔法陣の組み込みは素晴らしかったの。既存の文字だけを使っていたけど、組み合わせも書き込みもとても精緻で無駄がなくて。結界装置には不要な文字はあったけれど応用して取り入れることで、貯蔵魔力の圧縮も消費魔力の削減も結界強度の増幅も、効果は二割から三割増を見込めるようになったわ。さすがよね、シャルロット」
「―――っそうですか」
不快さを隠せない、いや隠す気もない表情で、公爵はそれでも相槌を打ったけれど、拳を握るぎりぎりとした音が聞こえそうだった。
―――消費魔力の削減。
シャルロットの魔力量は確かに多くはあったけれど、あくまでもそれは高位貴族としてはという注釈がつくもので。
俺たち王族や王妃にはまるで及ばなかった。効果の高い魔道具は当然消費する魔力も多い。王族が持つほどの魔道具とは、希少で高額なためだけでなく、その消費魔力のせいで実質王族にしか使えない、もしくは効果が薄れてしまうものがほとんどだ。
……あの十二歳のシャルロットが持たされたネックレスのように。
あれから再調査されたシャルロットのスケジュール。
狂気ともいえる過密なスケジュールの合間にこなしていたのであろう研究の成果が、それであることの意味を。
よりにもよって、あなたが「さすが」の一言ですませるのか。
勿論今まで気がつかなかった俺も同罪だ。それから逃れるつもりなどない。だけどそれでも。
「で、でね、それももちろん素晴らしいのだけど、何よりも内蔵された魔力そのものなの。その魔力があるからこそ、あの魔法陣が最大限に効果を発揮してるのね。いえ、逆かしら。あの魔力に合わせて組み込まれているといっていい。だからあれの数があれば結界装置の動力源とし」
だんっと、厚みのあるテーブルの天板が震えた。
叩きつけられた拳を震わせて、公爵の噛み締めた口元から抑え込んだ吐息が漏れる。
「―――お守りは、あのひとつだけです。家族も使用人も誰も受け取っていない。シャルロットのたった一人の専属侍従だけが手渡されていました。シャルロットは結界の崩壊を予測していました。わかりますか。あの子にとってそれを渡すだけの価値がある、一番身近であったと思えるのがその専属侍従のエリックだけだったんです。わかりますか姉上。あの子にとって、私たちにはその価値がなかったんです……あなたはっ、あなたはそんなこともわからない人でしたかっ」
「で、でも、ね、いえ、私にはそんな資格なんてないのはわかってるけど!でも結界が」
「返してください。すぐに。あれをエリックが持つことは、シャルロットの望みです」
「公爵領だって禁呪の森に接してるのよ!?」
「……―――公爵領では領軍の配置を見直しています。結界が崩れたとしても持ちこたえてみせましょう。もし、もしあのお守りひとつで、結界が崩壊しないのであれば、領軍や領民を危機にさらさずに済むのであれば、エリックを説得し献上しましょう。どうせもう最低最悪の父親です。シャルロットも今更私に期待などしていないでしょうし。けれど」
ぎらりと血走った目が、同じ色をした姉の瞳を射抜いた。
「違うんですよね?ほかにもあるか聞くということは、違うんですよね。ひとつじゃ意味がないんでしょう。だったら私は娘の望みを叶えます。情けないことに、あの子の望みで私が叶えてやれそうなことが他にわからないので―――。王妃殿下、マクドゥエル公爵家に対して何か要請されるのなら、まずは正式にしかるべき手順を踏んでいただきたい。お守りをお返しください」
これは今まで弟として非公式に応えてきたものでも、今後は受け入れないという宣言だ。
王妃は筆頭公爵家の後ろ盾と庇護を失った。
後ろに控えていた俺の側近である宰相子息と騎士団長子息の二人が、確認し終わった資料をそっと渡してきた。王妃が出したその資料は予測通りの数値だったと頷きが教えてくれる。
「……そうね、そうよね。確かにひとつだけでは足りないわ……だったら、うん、陛下」
王妃が王へ背筋を伸ばして向きなおるけれど、王はこめかみに指をあて瞑った目を開かない。
「このアミュレットに使われている魔力と結界に使われている魔力が一致しているのは調査結果の通りです。陛下も白竜を捕える準備は進めていたはず。やはりそれしか」
「―――陛下」
俺があげた片手に王はゆっくりと瞼をあけて視線を寄こし、また瞑目して頷いた。
「王妃殿下。俺は陛下と賭けをしてました」
「……エドワード?」
「あなたが白竜の捕獲を勧めるかどうかです」
「なに?どうし」
「この資料の通りの数値ならば白竜ではなくとも、王妃殿下、あなた自身が動力源になれますよね」
王妃が息を呑んだのは、それを指摘されずとも理解していた証だ。
別に命に係わるようなことじゃない。もしシャルロットから白竜を取り上げるより自らの力を使うというのであれば、まだ母として王妃として少しは信じることができただろう。他の道も一緒に探そうと言えただろう。
「賭けは俺の勝ちです……どうぞ、高貴なるものの務めを果たしてください。あなたがシャルロットに教え続けたことです」
◇◇◇
そろそろこのくらいが丁度いい季節だろうかと用意してあった部屋着用の貫頭衣は、人化したシルヴァにぴったりだった。ほんの少し袖丈が足りないだけ。やっぱり男の子だから肩幅分だと思う。
床に届いて余る長さの尻尾が、裾からゆらゆらご機嫌に振れている。
「明日、村でシルヴァのお洋服買おうね。尻尾もちゃんと出せるようになってるのがあるはず」
村には隣国の獣人たちがたくさん出入りしてるから、尻尾がでるつくりの服だって売ってるに違いない。
「ん」
「今編んでるケープはどうしよう。こっちの身体に合わせる?竜のほう?あ、でも首回りにギャザーいれて調整したら……あれ、竜に戻れるもの、ね?」
シルヴァの襟元を整えながら、ちょっと不安になって聞いたら「ん」と返ってきた。
嬉しくて嬉しくて口元がほころんでしまう。
「……う」
「ん?」
「しゃう、ぉっと」
「!!」
うまく発音できないのが悔しいと、眉間の皺と瞳が語ってる。
「あのね、あのね、だったら、ロッティ、は?」
「……ろてー」
「そう!シャルロットの愛称なの。でもロッティって呼ぶ人はいないから」
「ろてい、ろてぃ……ロッティ」
口に含んだ飴玉を大切に舌の上で転がすように、シルヴァが私の名前を呼ぶ。
案外低めの声で、ちょっと掠れてるのはまだ人の声帯に慣れていないからかもしれない。
「ロッティ」
何度も確かめるように呼んでくれるから、嬉しさがとまらない。
嬉しくて、でもくすぐったくて照れくさくて、そわそわしてしまう私の両肩に手をおいて、シルヴァは竜のときと同じに柔らかく目を細めて。
「ロッティ」
ちゅ、と微かな音を立てて唇同士がくっついた。
我が家の食卓は元々テーブルと椅子ふたつのセットだったのだけど、竜の姿の時には必要なかったから、椅子ひとつは今まで使わずに花瓶置きにしていた。
それを小さなテーブルを挟んだ向かい合わせに置いてカトラリーをとりにいって振り向いたら、ぴったり隣同士に並んでて笑う。
いつも通り一緒に食事して、一緒にお片付けして、一緒にお風呂にはいって一緒にベッドに入る頃には、シルヴァは随分と流暢に話せるようになっていた。うちのシルヴァはかわいいのにやっぱりすごい。
今夜の私の枕はシルヴァのおなかではなく、ふたつ枕を並べて向かい合わせにおでこをくっつけあっておしゃべりしてる。
「……そういえばシルヴァって、なんで森に結界はってたの?」
「ん、最初は俺、ちがう」
「そうなの?」
「ずっと前の、やつ」
そうね、シルヴァはまだ仔竜ですものね。言われてみれば。
サザンランド建国の頃からあったみたいですし。
「でもなんでかは、知ってる。俺つよい」
「うん」
「エサみんな逃げる。本気で逃げる」
「あ、うん、そうね」
かふ、とシルヴァが小さくあくびした。目尻がちょっと蕩けてきてる。
「追っかける、の、めんどくさい」
「……牧場!?」
え、ちょっとびっくりして目が覚めましたわ。
でもシルヴァはなんということはないといった感じでいるし、真の強者たるにふさわしいから当然なような気もしてきました。
「結界はる、と、そしたら魔素、たまる。俺いるし、いっぱい」
「う、うん」
「エサうまくなる」
「優良牧場!?」
そりゃ守護獣だなんて初耳なわけですよね。
王都の守護も何も普通にシルヴァが自給自足してただけですもの……。
でもあの方たちが今頃シルヴァの牧場を恐れて色々右往左往してるかと思うと、いい気分ですわね!メシウマっていうんですよ知ってますわ私!