ひっそり静かな生活(主観的には)***そのなな
「そりゃ、周辺国の王侯貴族らの間で、この国の王妃殿下は先見の賢女だなんて今でももてはやされてるし、うちの親父も含めてその辺りの世代ではちょっと引くくらい有名だけどな。やれ干ばつやらスタンピードやらを予見して対策したとか、次々画期的な魔道具創り出したとかおとぎ話みたいなこと言われても……俺たちが生まれる前の話だろう?ここ二十年近く特にぱっとした話なんて聞かないし」
それともこっちまで話が流れてきてないだけか?と、窺う第三王子に「さあ?」とだけ返した。だって知りませんし。私だって。
シルヴァの口元の柔らかい皮をむにむにとすれば、笑い疲れが癒されていく。
ちろちろと細い舌先が鼻先を擽ってきた。
「俺も不思議には思っていた。子どもの頃この国を訪ねれば、エドワード殿やその側近たちと楽しく子どもらしく遊んだものだ。それはどこの国に行っても同じだけれど、どこも婚約者がいれば一緒に過ごすのに、シャルロット嬢、君だけはいない。正式な茶会や晩餐会などの行事でしか君には会えなかった」
じっと私を見上げるスピネルの赤は、この冬空のように明るく、けれどずっと柔らかに輝いている。
「エドワード殿は自分でもわからないと言ってた。何故あれほどまでに無条件に王妃殿下のいうことに間違いなどないと思っていたのかと。どう考えたって、俺たちが遊んでいる間に君だけは勉強に追われていたなどおかしいはずなのに」
ですよねー。
それが普通だと思いますわ。
多くの国賓と公務で接するうちに、私にも普通が理解できるようになったものです。
「私は放っておくと、傲慢で鼻持ちならない無慈悲な【悪役令嬢】とやらになるんですって」
「は?悪役?なんだそれは」
「なすべきこともなせないのに権力だけは振り回す我儘で悪辣な令嬢にならないように、王妃殿下が直々に監督しなきゃいけないそうですわよ。まあ周囲にはもう少し迂遠な言い回しをしていたらしいですけど、私と二人きりの時はそう言ってましたの。それが五歳のときです。公爵邸の庭で王太子殿下を引っ張りまわして、もっと遊びたいから帰らないでと我儘を言う私のことが心底心配だったと」
「我儘って……五歳だろう。誰かおかしいと」
「そこはほら【先見の賢女】の言葉ですから」
今でこそその威光は過去のものととらえる者もおりますが、当時はまだ王妃殿下がなされた奇跡が鮮烈に刻まれていたままだったのでしょう。それは間近で見ていた者ほど深く、疑いようのないものであったのは想像にかたくありません。
「それに魔道具についての才能は本物です。私も魔道具に印す古代魔法文字は使いこなせますけれど、王妃殿下は文献や古代魔道具にものっていない新たな文字を産みだせるんです。まるで元から存在していたものを知っているかのようにね」
私にとってはただの気狂いですけどね!
だって「カンケンサンキュウだったのよねー」とかご機嫌に言われても、どんな顔していいかわかりませんわ。
「……うちの国にこないか?」
「藪から棒になんですの。寝ぼけてますの」
たわ言に目を向ければ、爪をひっこめた手に顔を戻されます。
シルヴァったらもーほんと可愛い。
「もう終わりました?帰っていいです?」
「終わった流れだったか!?今!?」
いやですわー、ずっと立ちっぱなしですのよ私たちーいえ私はシルヴァに抱っこされてますけどー。
「だってこんな国境の辺境に来てまで、謂れのない風評に晒されてるじゃないか」
「ああ、さっきのおばさまたちのあれですか」
「……確かに俺たちは身分に応じた義務や責任はあるが」
「あのおばさまが払った程度の税で、公爵令嬢の生きざまに口を出せると思うなんて安くみられたものですけれどね。すべての民のためにとか平等であれだとか、きれいごとに踊らされた愚民の戯言など、魔獣のうんこくらいどうでもいいですわ」
「少し取り繕おうな!?」
あ、この言い放ちっぷりは王妃殿下がいうところの【悪役令嬢】っぽいでしょうか。
でも、私は望んだこともなく与えられたものの分全部、きっちりタダ働きして返してまいりましたもの。それが【悪役令嬢】だというのなら、望むところでしかありません。
「ともかく!それでも耳障りだろう。月竜様との静かな生活というならふさわしい場所はうちの国にだって、いや本当に下心とかないからな?―――ルルーシア王国は数こそ少ないが竜が住まう国だ。シャルロット嬢を色眼鏡でみるものなどいないし、月竜様にとってだって同胞といえる竜がいる環境は悪くないだろう?」
「……同胞?」
「ああ、格ははるかに違うのだろうが……番になれる竜だってもしかしたら」
それにシャルロット嬢にだって相応しい者がとかなんとか第三王子は続けてますが、え、なんといいました?は?番?え?なんですの?
「つがい、とは」
「うん?サザンランドではそう言わないのか?まあ、結婚相手だな。俺たち狼獣人もそうだが、竜は唯一の伴侶を求める種族だろう。それは月竜様も同じじゃないのか?」
第三王子はごくごく当然の常識を諭すように、シルヴァにその同意を求めるように首を傾げました。
知りませんわ。何言ってるのでしょう全然かわいくないですわ。
「え、でもだって、あなたが教えてくれたでしょう?獣人と従魔はパートナーとして絆を結ぶってお互い唯一だって、そりゃシルヴァは従魔じゃないですけどでも」
種族など超えてそういう関係を結ぶことができるのでしょう?
だったら私とシルヴァのそれは、唯一でしょう?
「何を言ってるんだ?伴侶と相棒は違うだろう。相棒がいる獣人だって当然伴侶は別にいる。程度の差こそあれ伴侶を求めるのは本能だ」
「ほんのう」
そうなの?
だって伴侶って結婚相手のことでしょう。夫婦でしょう。
私は王太子殿下の婚約者だったから、いずれはそうなったかもしれないけれど、別に私が望んだことはない。従兄弟だったし、身分も年齢も私が一番つりあいがとれていたし、何より王妃殿下の姪だからと勝手に決められていたこと。
伴侶など欲しいと思ったことなんてない。
王太子殿下は嫌いなんかじゃもちろんなかった。
優しかったし、小さい頃は一緒によく遊んだ。
父上と母上みたいな夫婦になろうなって、ほのかに頬を染めて言われたのは十三くらいの頃だっただろうか。
何を言ってるんだろうと思った。
国王陛下は王妃殿下と国政以外に何も興味を持たない方だ。そりゃあ王太子殿下を慈しんではいたけれど。それなりに友人もいたようだけれど。王妃殿下次第で全て斬り捨てられる人。
王太子殿下の外見こそ国王陛下によく似ていたけれど、中身は王妃殿下似だった。
私は王妃殿下の模倣品でもあなたはそうじゃないでしょうにって、父上と母上みたいなってなれるわけないでしょうにって。
だってあなたはいつだって私より王妃殿下を信じた。
きゅーぅ、とシルヴァがあげた声がどこか切なげな色をしているのは気のせいだろうか。
私以外をシルヴァが求めるの?私は伴侶ではないから?
こうして抱き上げてくれるのは私だけじゃないの?
「シルヴァ?シルヴァは私だけじゃだめなの?」
私にはシルヴァだけがいればいいのに?
◇◇◇
なんてきれい
深い深い鬱蒼とした森の中、ぽかりと空いた空間。
小さめの泉を囲う草むらは、森の中と違ってひざ丈ほどの草がさらさらと風に揺れている。
切り落とされかけた腕と脚に治癒魔法をかけながら、でも魔力も効果も足りなくて。
なんとか動ける程度まで治しては、血の匂いを追ってきた魔獣から逃げて隠れてまた逃げて。
がむしゃらに駆けまわって転がり出たそこに広がっていた空間は、私の身を隠すものが何もなくて。
もう駄目だと思いながらも這ってそのまま進んで、泉のそばまでたどり着いた時に、魔獣がもう追ってきていないことに気づいた。
痛くないところがなくて、熱くて寒くて、うるさかった自分の鼓動と呼吸が少しおさまった時に、その仔が現れた。
鏡のような泉が反射する陽の光を受けて、きらきら輝く白銀の鱗。
深い赤の瞳は澄んでて、真っ直ぐに私を見下ろしている。
もう疲れ切ってて、本能のままに逃げ惑っていたけど、ここがゴールならそれでいいと思った。
降り注ぐ柔らかな陽の光も、草むらを撫でる涼やかな風も、生き物であることを疑いたくなるほど静かに佇む白銀の竜も、とても、とてもきれいだったから。
だから「きれい、ね」とそう言って手を伸ばした。
最期に触れるのはきれいなものがよくて、その感触も記憶もきっともう誰にもとりあげられない私だけのものになると思った。
不思議そうに首を傾げた白銀の竜は、まともに持ち上げられない血だらけの指先を鼻先でつんと突いてから、くるると小さく鳴いて。
ていねいにていねいに溢れ続ける血も乾いてぽろぽろ剥がれる血も全て舐めとって
傷口に割り込ませた舌先は熱くて
開いた花びらが閉じていくようにちぎれかけてた足も腕もつながった
魔獣たちも踏み入れない聖域に、私だけを招いてくれて、私だけの場所になってくれたのだから―――
◇◇◇
「……う」
「え」
「い゛やぁだぁあ゛あ゛あ゛ああ!」
「わ、わ、ど、どうした!どうしたんだ!」
ばたばたと涙がとぎれることなく頬を濡らしていく。
鼻水だって出てるかもしれない。
じっと見上げるスピネルの深い赤は揺らぎなく、初めて出会ったときのようにどこまでも見透かすような、けれど私にはその奥を探らせないようなそれで。
いつもならもっと情感にあふれ輝いているのに。どこまでも優しい赤なのに。
「シャルロット嬢っ落ち着けって!何がイヤなんだっシャルロット嬢だってそのうち伴侶を」
「は、はんりょだなんでっそんなの世継ぎづくっる、だめだげ、で、しょっ」
「いやいやいやいや何習ってたんだ!?」
習いましたもの。王太子妃教育に閨教育だってありましたもの。
王族の義務だって。
世継ぎができなきゃ側妃だってとるって。
王太子の伴侶たるもの、それを受け入れるのもつとめだって。
「こ、婚約じでだ、からっ、仕方ないって、でも、でももうちがうしっいらない、そんなの」
私だけのものはシルヴァしかいないのに。私はシルヴァだけいればいいのに。
「あーーっもうっ、サザンランドはどんな教育してんだ。ほらっ―――っああっ!ごめんなさい!」
ハンカチを持って近づいた第三王子を、シルヴァの尻尾がぶんっと遠ざけました。
ずずっとすすり上げた私の鼻が、ぺろりと舐められます。
「……っく、シルヴァ……?」
「きゅうーぅ、きゅ」
ぱたり、ぱたりとゆっくり地面をはたく尻尾。細められた赤は、もういつものように柔らかい。
「くるる、きゅる、くぅ」
でもいつもより、ねだるように潤んでる、気がする。
勝手にしゃくりあがる喉を無理やり飲み込んだ。
「シルヴァ、伴侶、いる?」
「きゅー」
はずみでまたこぼれた涙が舐めとられる。
「私、だけじゃなきゃ、嫌なの」
「きゅっ」
「シルヴァ、ねえ、私だけでいいでしょう?―――私だけにしてって、ひゃあああ!」
「えっ、ちょっ月竜様!?」
「くぅーーるるるるるるるるっ」
ふくふくのおなかにのせるように抱いていた私を、ぐっと高く持ち上げてぐるりとターンするシルヴァはひどく嬉しそうで、楽し気に鳴る喉は歌っているよう。
勢いよく広げられた翼がつむじ風を起こして、第三王子の足元をふらつかせた。
きゅるるるると鳴き声を響かせて、目が回るほどに高く、低く、大きく旋回しながら空を駆けて。
あっという間に帰り着いた我が家に、弾むように飛び込んで―――
「……え?」
とびきり優しく横たえられたベッドで、回る視界を落ち着かせてから身体を起こしたその先に。
きらっきらに輝く白銀の髪とスピネルの瞳をもつ少年が、ちょんと膝突き合わせて座っていた。