2人旅

作者: 寺町 朱穂


「ほら、雄大。ボサッとしてないで、行くよ!」



突然耳元で名前を呼ばれた、俺はハッと我に返る。

幼馴染の佳苗が、若干不機嫌そうに眉をひそめていた。最近珍しくない不機嫌に歪んでいる佳苗の顔を見た瞬間、俺は近所の駅に佇んでいたことを思い出す。……そう、今から俺は佳苗と一緒に、旅行へ出発するところだった。



「あ、…あぁ、悪い。ちょっとボーっとしてた」



文句ひとつ言わずに、すぐに謝ったおかげだろうか。佳苗の眉間に刻まれたしわは、あっさりと無くなり、いつも通りの無邪気な笑みを浮かべた。



「ふ~ん、ならいいけど。…あっ、これ、雄大の切符。私のおごりだから、気にしないで」



にぃっと笑った彼女は、俺の手に小さな紙切れを握らせる。都内の私鉄で幅広く使われているICカードに慣れていたせいだろう。久々に手にした切符は、とても小さく感じた。



「お前…今どき切符かよ」



俺は苦笑を浮かべ、呆れたような口調で佳苗に言葉を返す。一瞬、むぅっと頬を膨らませた佳苗だったが、すぐに無邪気な笑みを浮かべた。



「いいじゃん、いいじゃん。なんかさ、趣あるし。せっかくの2人旅なんだから、切符の方がよくない?」



切符の方が良いという理由がイマイチわからないが……心底嬉しそうに笑う佳苗を見ていると、どうでもよくなってくる。

最近の佳苗は変だ。『どこが変?』と問われると、ハッキリと明記できない。ただ、無理をして笑っていることが多かった。俺が話しかけると、何か暗くて重たい感情モノを、無理やり押し殺しているような笑顔を向けてくるのだ。幼い頃から、あっけらかんとした無邪気な笑みを浮かべていた佳苗らしくない。

もちろん『何かあったのか』と何度も尋ねてみた。だけど、その度に『なんでもないって』『雄大には関係ないよ』『これは私の問題だから』と佳苗は答える。


機嫌のよい今の佳苗なら、その質問に答えてくれるかもしれない。そう思い俺は口を開いた。



「なぁ、佳苗」

「ん?どうしたの、雄大?」



きょとん、とした表情を浮かべる。とても25歳には思えない佳苗の表情を見ていると、言おうとしていた言葉が喉の奥へ引っ込んでしまった。



「…いや、なんでもない」

「なんでもないって…何かあるから話しかけてきたんでしょ?幼馴染の私の眼は誤魔化せん!」


佳苗は腰に左手を当て、右手でビシッと俺を指さした。



「稲田佳苗が命じる!宇和島雄大、質問に答えるのだ!!」



……何かキャラクターの真似だろうか?

アニメを見ない俺には、よく分からない。だけど、ここで話に乗らないと、佳苗が不機嫌に逆戻りしそうだ。不機嫌な佳苗は、あまり見たくない。


「はっ、『佳苗と2人旅って、なんか久々だよな』と言おうとしておりました、閣下!」

「…それ、本当?」

「本当であります、佳苗閣下!」



佳苗は、疑わしそうな視線を俺に向ける。だが、



「うむ、よろしい!」



先程の、無邪気な笑みを浮かべた。


俺は、心の中でホッと一息をつく。


……何を考えていたのだろう。

いくら幼馴染とはいえ、口を突っ込んでいい話とそうではない話があるに決まっている。佳苗の悩みは、恐らく後者なのだ。せっかく楽しんでいるというのに、無理に刺激をし堕ち込ませたら元も子のないじゃないか。



「うん、『閣下』!良い響きね。よし、雄大。この旅の間は、私のことを『閣下』って呼ぶのよ!」

「えっ、マジ?なんか、恥ずかしいんだけど。俺達さ、もう社会人だぞ?」

「社会人だからって、なに?旅はね、童心に戻らないと楽しめないのよ?ほら、有無を言わさず従いなさい、雄大従者長!」

「………」



うん、いつもの佳苗だ。幼い頃から俺の知る、稲田佳苗だ。

『閣下』と呼ぶのは恥ずかしいが、可能な限り…付き合ってやってもいいだろう。 俺は盛大なため息を吐く。



「あぁ、分かったよ。了解しました、佳苗閣下!」

「よろしい!さぁ、行くわよ従者長!いい席がなくなっちゃうじゃない」



佳苗は満足げに微笑むと、俺の腕を握り歩き始めた。女に引きずられるなんて、嫌な気分だ。だけど、不思議と嫌な感じはしなかった。俺は佳苗に腕を引かれ、流されるように改札口に歩みを進める。



改札口に近づくにつれ、人も多くなってきた。ここは、ところどころ錆が目立つ古い駅。それなのに新宿や渋谷といった都会のように、異様な程人が多い。この近くで何か大きなイベントでも、あったのだろうか?



《…雄大…君…》



疑問を胸に抱いたまま歩いていると、俺を呼ぶ声が、耳に飛び込んできた。

それは、聞き間違えるはずもない、凛と澄んだ鈴のような声。反射的に、声が聞こえてきた方向を見る。

……だが、声の主は見当たらなかった。



「雄大、どうしたの?」



急に歩みを遅めた俺を、不審に思ったのだろう。佳苗は、不思議そうな口調で尋ねてきた。



「いや、なんつーか……リオの声が聞こえた気がしたんだ」



佳苗はピタリ…と歩みを止めた。



「リオ…って、雛川リオさん?」

「あぁ。……気のせい、かもな」



雛川リオ。大学の後輩で、春の陽光を思わす落ち着いた人だ。そして来年の春には式を挙げ、宇和島リオという名に変わる大切な人……でも、彼女は実家に帰省していた、はずだ。…こんな駅にいるわけがない。



「そう、気のせいよ、気のせい」



佳苗は、そっけなく呟く。俺はもう一度、あたりを見渡してみる。だけど、リオの姿はどこにもなかった。佳苗の言う通り、空耳だったらしい。



「あのさ、雄大…」



妙に改まった佳苗が、何か言おうとした瞬間のことだった。


突然、風が構内を吹き渡る。

あまりにも突然で、しかも息を止めてしまうほどの突風だ。驚いた拍子に、俺は切符を手放してしまった。宙を舞う切符を、慌ててつかもうと手を伸ばす。だけど、くるりくるりと不規則に揺れる切符は、俺の指の合間を抜け、空の彼方へと消えて行ってしまった。



「悪い、すぐに買い直してくる」

「えっ、私もついていくよ」



俺の後ろに続こうとする佳苗を、手で制した。



「お前、走るの遅いだろ。乗り遅れたらどうするんだ?先に電車に乗って待ってろ。な~に、すぐに追いつくさ」



不安そうに眉をひそめる佳苗だったが、コクリと頷いた。



「…じゃあ、早く来なさいよ。待たせたら、承知しないんだから」



むすっと頬を膨らませた佳苗は、改札口に切符を滑り込ませる。俺は、来た道を走り始めた。どこか疲れたような人の間を縫い、ボンヤリ歩く人を避け、嬉しそうにスキップする人の脇を通り抜ける。



「うわぁ…マジかよ」



切符の自動販売機の前は、酷い有様だった。数えるのが嫌になるくらいの人が、自動販売機に押しかけている。ICカードを使い慣れていなさそうな年寄から、制服を着こんだ女子高生までが自動販売機の前に列をなしていたのだ。



…これは、走らないと電車に間に合わないかもしれない。

列の最後尾につき、財布を確認する。財布の中には、1000円札が1枚しか入っていない。……俺、旅行に行くつもりなのにコレしか入れてなかったのか?というか、この金で長距離切符が買えるだろうか?


悩んでいるうちにも、列は前に進んでいく。前に並んでいた野球帽の少年が、テキパキと切符を購入し列から外れ、ようやく俺の番になった。俺は札を自動販売機に入れ、ボタンを押そうとする。……が……



「あれ?」



分からない。



いくらの切符を買えばよいのか、分からない。そういえば、あの切符は佳苗が買ってきたものだったのだ。行先までの切符の値段を、俺が知るわけがない。

…仕方ない。行先きの値段を確認しよう。最初から、確認しておけばよかった。


そう思い、運賃表を探す。しかし、目の届く範囲に運賃表はどこにもない。俺は慌てた。

いくらの切符を購入したのか、佳苗に尋ねようと思った。だけれども、また、この列を並び直すなんて無理だ。そもそも佳苗は改札口の向こうへ行ってしまったのだ。ポケットの中に手を入れてみるが、こんな時に限って携帯電話がない。


こんなところでモタモタしていたら、電車が来てしまう。俺の額には、冷や汗が浮かび始めていた。



「まもなく、1番線に電車が到着いたします」



構内に流れる落ち着いたアナウンス。それと共に遠くから、がたんごとん…がたんごとん…と、電車が近づいてくる音が聞こえてきた。俺は焦る気持ちを抑え、必死に頭を回転させる。だが、いくら考えても『これだ!!』と叫びたくなるような良案が思いつかない。焦る気持ちばかりが募り、冷や汗が背中を濡らす。



「――ご乗車の方は、お乗り間違いがないようお気を付けください」



あーだ、こーだと悩んでいるうちに、電車がついてしまったみたいだ。


まずい、早くしないと佳苗だけが先に行ってしまう。……仕方がない。最終手段を取ろう。そう決めた瞬間、俺は迷わず200円と表示されたボタンを押していた。何でもいい。とりあえず切符を買おう。切符を手に入れ、改札口に入るのが最優先だ。目的地に着いてから、乗り越し精算をすればいい。…佳苗に借金をすることになる可能性が高いが、背に腹は代えられないのだ。


アンタ馬鹿、なんで行先忘れるの!と怒りながらも、金を払ってくれる佳苗の姿が、脳裏に浮かんだ。 自動販売機から顔を出した切符を奪い取るようにつかむと、俺は列を抜ける。



相変わらず人が溢れている改札口。俺は、雪崩れるように改札口へ駆け込もうとした。



《雄大君!》


「リオ?」



再び、リオの声が聞こえてきた。俺は、切符を改札口に通そうとした姿勢のまま、ピタリと固まる。



《雄大君!雄大君!》



まただ。


慌てて振り返るが、やはりリオの姿はどこにもない。だけど、同じ空耳が3度も、しかも先程と同じ場所で聞こえるなんて、ありえない話だ。きっと、どこかに…リオがいる。隠れて俺の様子を見ているのだ。そうに決まっている。



「リオ?どこにいるんだ、リオ?」

「ドアが閉まります。ご注意ください」



遠くでドアの閉まる音が、響いている。あぁ、しまった…と思う。だが、リオがいるのかどうか気になって仕方なかった。



俺は、再び来た道を戻り始める。虚ろな目をした人の横を過ぎ、くたびれた背広のサラリーマンを交わし、談笑する人々を追い越し、そして―――
































振り返ると、山の斜面一帯に、ブドウ畑が広がっていた。

緑が泡立つ一面のブドウの葉は、まるで遠くから見た樹海のようだ。風が吹けば白い葉裏が光りながらうねり、その波が緑の中を渡っていく。


思わず見惚れてしまいそうな風景だったが、俺はここで立ち止まるわけにはいかない。額の汗をぬぐいながら、駅から歩き続け約十分。ようやく『稲田家の墓』と書かれた墓石の前で、俺は立ち止った。



「…佳苗…」



俺は、墓石に刻まれた『稲田佳苗』という文字に、手を滑らせる。そして、ゆっくり目を閉じた。








数か月前、俺は佳苗に刺された。



そう、あの日……満面の笑みで、佳苗にリオを『結婚相手だ』と紹介した1週間後のことだった。


当然、佳苗から電話がかかってきたのだ。『ちょっと外で話さない?』と言われ、俺は近所の公園に呼び出される。


佳苗と一緒に城を作った砂場、よく上級生が独占していたブランコ、ふとした拍子に足を踏み外し転落してしまったジャングルジム。 どれもこれも懐かしく、どれもこれもが小さく感じてしまう。ポケットに手を入れ、それらをなんとなく眺めていたら……後ろからグサリと一突き。



『雄大は私だけのモノ、だからイイよね?』



佳苗は優しく呟くと、ナイフを俺から引き抜く。支えを無くした俺は、砂場に倒れるしかなかった。何度も何度も遊んだ白い砂が、俺から流れる血で赤く染まっていく。



『怖がらないで、雄大。私も一緒だからさ』



佳苗は、俺の額を撫で、軽くキスをする。そして、俺の血が付着したナイフで、躊躇うことなく己の喉を切り裂いた。鮮血が弧を描き、地面に半円を描いているのが視界の端に映る。



『好き…だよ……ゆう…だ…い』



そんなことを囁きながら、佳苗は俺の上に被さる。佳苗の重みと増していく腹部の痛み。どくどくと血が身体から外に流れていく感覚。壁一枚隔てたように聞こえてくる悲鳴。幕が下りるように、端から黒く染まる視界。

―――そして次の瞬間、俺は佳苗と駅にいた。




「夢では無い、よな」



小さく呟きながら、俺は柄杓で水をかける。


あの時の出来事を、現実だと思う自分がいた。あの時の感情、感覚、そして記憶……どれも現実的だった。あれから数か月経過した今でも、やり取りの隅から隅までハッキリと思い出すことが出来る。



意識を取り戻した直後の記憶はない。

ただ、看護師の話によれば、リオがずっと俺の名前を呼び続けていたみたいだ。

たぶん、リオが名前を呼び続けてくれたおかげで、俺は戻ってくることが出来たのだろう。そして、名前を呼ぶ人がいなかった佳苗は……電車に乗って『あの世』へ旅立ってしまった。


いや、無理心中を試みていた佳苗のことだ。名前を呼ばれただけで、戻ってくることが出来たとは限らない。いずれにしろ、佳苗は逝ってしまったのだ。もう、こちらの戻ってくることは出来ない。



「だけど、やっぱり夢……か」



そう、『死後の世界』だなんて……そんな非科学的なことあるわけがないのだ。

人間、死んだら機能が停止。機械が故障するように、記憶も感情も何もかもが綺麗さっぱり消失してしまう。なにもかも、それっきりお終いだ。




頭では、しっかりと理解している。だけれども……あんな臨死体験をしたせいだろう。ハッキリ『無い』と断定できない自分がいる。


なんとなく、死後の世界があるようにも思えてしまうのだ。もし、そんな世界があった場合……1人で逝った佳苗が可哀そうに思えてならない。



無邪気な笑みを浮かべながらも、時折…傍若無人な振る舞いをしながらも、根は優しく寂しがり屋な佳苗。…俺を『幼馴染』としてではなく、『男』として思い続けてくれたのに、俺は全く気がつかず……残酷に傷つけてしまった大切な幼馴染。



「ごめんな、佳苗」



白い菊を供え、手を合わせる。


俺が、気がついていれば……もう少し佳苗を傷つけないやり方で、リオを紹介できただろう。そうすれば、佳苗は……1人淋しい思いをすることがなかったのだ。



「また来るよ、佳苗」



最後にもう一度、水をかけながら囁く。…もちろん、佳苗から返事なんて返ってこない。

『すぐ戻る』なんて言ったのに、すぐ戻らなかった俺を、佳苗は怒っているだろう。『もう、二度と顔を視たくない!』とか思うかもしれない。



佳苗に許してもらいたい。

佳苗の分まで幸せに生きるから、許してほしい。




墓参りをしたことで、佳苗に許してもらえたような気になっている。

そう、実際の所…この墓参りはただの自己満足に過ぎないのだ。















墓を後にしてから、約十分後。

やっとの思いで駅に辿り着いた俺は、その場にしゃがみ込みたくなるくらい疲れていた。


汗は絶え間なく全身から吹き出しているせいで、シャツがべっとり張り付いているし、顔は火が燃え盛るように暑くてたまらない。

こんなことになるなら、バス代をケチらなければよかった。ちらりと『後悔』の二文字が頭をよぎるが、もう過ぎてしまったことだ。



すっかり温まってしまった水を口に含みながら、切符の自動販売機に歩みを向ける。



普段使いなれているICカードは都内でしか使うことが出来ない。だから、切符を購入するほか帰宅すべはないわけだ。タクシーや高速バスという手もなくはないが、やはり電車の方が中央道での渋滞もなく、安上がりで帰ることが出来る。



…それにしても、呆気にとられるくらい人がいない。

木造の寂れた駅で、真夏の日差しと盆地特有のむわっとした熱気が立ち込めている。だというのに、閑散とした涼しい風が吹いているように錯覚してしまう。実際に、時折…日陰の構内を貫く突風は、心地よいくらい涼しくて、蒸し暑い空気を吹き飛ばしてくれていた。



「切符、吹き飛ばされないようにしないとな」



つい、独り言をつぶやく。だが、反応してくれる人は1人もいない。

駅の利用者は俺1人で、駅員はクーラーが効いていそうな部屋の中で、うつらうつらしていた。…利用者が俺だけなのだから、もちろん自動販売機の前に立つのも俺1人。



俺は紙幣を投入すると、頭上に掲げられている運賃表に視線を走らせた。




「えっと、東京までの値段は……」

「切符はもう買ったよね、雄大?」



幼い頃から知る声が、背後から聞こえてくる。

それと同時に、何かひんやりとしたものが、俺の足を握りしめた。硬くもなく柔らかくもなく、冷凍庫の冷気のようなものが。

俺は、ゆっくり首を後ろに回した。





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