第98話 ドイツ語学習の成果(1)
「鳥……?」
何となしに湊斗の店に長居する気にはなれなくて、珈琲一杯だけ注文してから帰宅すると、ぴるるると文鳥が歌って出迎えてくれた。
正体不明の声にくるみは玄関先で一瞬怯んだように身を竦めたが、その正体が昨日まではなかった鳥籠からだと気づくと、説明を求める視線を碧に向ける。
「ああこれ、モチっていうの。文鳥の。知り合いが旅行だからってゴールデンウィークの終わりまでの間、預けに来たんだ」
「文鳥……」
きらきらとヘーゼルの双眸が輝いたのは、ふれあいを希望しているからだろう。
店でのいざこざを忘れたことにしてくれている優しさに、碧は少しだけ、安堵する。
「くるみさんが初めてうちに来た時も実はいたけど、見せなかったし気づかなかったよね」
「だってあの時は私、綺麗に卵焼きを丸めるのに集中してたから」
「僕の歴代一位を塗り替えたあの卵焼きは、こうして生まれたのであった」
「ふふ、もう。今夜は半熟オムライスだから、それで番狂せを狙おうかな……って、そんなに物欲しそうなかおしなくても逃げないから大丈夫よ」
くすくすと清楚な笑いに、しかし文句は言えない。くるみのオムライスは何度かいただいたことがあり、もはや大好物の域だ。
「ね、文鳥ってドイツ語でなんて言うの?」
「Reisfinkだよ。スペルはこう。……勉強熱心だよね本当」
碧の向けたスマホの画面を見つつせっせとメモを取るくるみに零すと、ちょっぴりはにかんだような返事が戻ってきた。
「だって私がドイツ語を覚えたら、学校でもこっそり堂々と碧くんと話せるようになるでしょう? 今日の献立とか、次の映画どれにしようとか」
こっそり堂々という不思議な言葉に、この間のランチタイムを思い出し、苦笑した。
ただでさえ家では彼女の一挙一動に振り回されどきどきしっぱなしなのに、学校でまであんなことを言われては体が保たない。
「スマホで事足りると思うけどな」
「……嫌。それじゃ寂しいし物足りない」
本音は隠しつつ、真っ当な意見を渡したつもりだったが、くるみは不服げだ。
ぺちぺちと二の腕を叩いては上目遣いでやんわり睨んでくる。
「何なに」
「だって碧くんと話している時は、スマホによそ見しないでほしいから。……目が合わないのは、寂しい」
うっと身悶えする。
天然なのかわざとなのか、分からないのが恐ろしい。今、確実に不整脈が起きた。
——ていうかこれ僕のこと好きじゃなきゃ出てこない言葉では?
あのくるみが、自分に好意を寄せている……?
混乱しそうだった。
くるみはこちらの狼狽など気づいていない様子で、拗ねたようにいじいじと横髪を弄っている。
「けど碧くんが帰国子女なの内緒にしてるなら、難しいと思うから……いい。こちらから話しかけるの一方通行ってことで妥協しておくから」
「そ、それ結局ドイツ語で話すの譲る気はないじゃん」
「だって文法だけじゃなくて話さないとお勉強になりませんもの」
ぷんすこと怒った振りをしたくるみは、さっそく玉ねぎを炒めるつもりだったらしく、エプロンの腰紐を結びつつ遠巻きにちらちら鳥籠を見ている。
「モチのことさわりたいんだ?」
「……文鳥さん、私が近づいても大丈夫?」
「手乗りだし人に慣れてるから。こっちおいで」
ぱたぱたと手招きし、ぱあっと表情を輝かせてぱたぱた寄ってきたのを確認してから、布を捲って二人のご対面を見守る。
「こんにちは、モチちゃん」
くるみはロングスカートをふわりと両手で折りたたんでしゃがむと、鳥籠の外からそっとうかがうように挨拶をする。モチは見知らぬ人間に関心を示したらしく、手前の止まり木にぴょこんと移って首を傾げた。
「……ふふっ、可愛い。居心地はいかがですか?」
目がきらきらしている。どうやらくるみは動物がかなり好きらしい。
それでよかったと碧は安堵する。もし駄目なら、代わりに母親に預かってもらうよう頼まなければならないところだった。
ほたるやモチには悪いが、この家は彼女の居心地がいいようにするのが最優先だ。
折角だし放鳥してやるかと思い立ち、碧はケージを開けて人差し指をそっと差し出す。
ほたるは昔から大の鳥好きで、何匹も九官鳥やらカナリアやらを飼っていたし、碧も彼女の家に行った時はよく構っていた。
掌にちょこんと飛び移った小さな足先から、指先にほのかな熱が伝わってきた。太陽をたっぷり浴びた牧場の干し草のようないい匂いがする。親指にすりすりと頬擦りしてくる様はなんだかくるみを連想させたので、つい隣を見てしまう。
すると、お隣さんのヘーゼルの瞳は羨ましそうな感情をくるくる含んで手許に釘づけになっていて、笑ってしまいそうだった。
「……くるみさんも手乗りさせてみる?」
「い、いいの?」
「羽切ってるから飛んで逃げたりはしないよ。ほら手出して」
おずおずと言われるがまま出された白い掌にくっつけるように自分のそれを重ねると、モチは慎重に様子を伺うように乗り換えをする。くるみは感動を示すように瞳をいっそう輝かせた。
「みて、碧くんっ! 手に……!」
「モチもくるみさんが気に入ったってさ」
「可愛い……!」
「うん、可愛い」
文鳥ではなくくるみを見て返事をしたのだが、気づいた様子はなく、美しいものを見た時のように目を細め文鳥を愛でている。スノーホワイトなんて渾名を授けられるだけあって、小鳥と戯れる姿はおとぎ話の白雪姫そのもので絵になった。
陽だまりの下で夢中になっている彼女を振り向かせてみたくてつい、たおやかな髪に引っかからぬよう丁重に指を通せば、今度はされるがままに心地よさげだ。
——やっぱ、くるみさんとモチって似てるよな。
初めに会った時は猫っぽい気の強さがあるとは思っていたが、それに加えていろんな小動物の特長を併せ持っているな、ということに最近になって改めて気づいた。
小柄さやちょこまかとした仕草もそうなのだが、寂しんぼの兎やらモフモフした雪の妖精のシマエナガやらに加え、最近は真っ白なポメラニアンっぽさもあると思ってる。
理由はシンプルで、特定の相手限定で人懐っこさを見せるからだ。最近の彼女特有の、この癒されるほわほわした空気も、どこか子犬を連想させる。
……特に先日の擦り寄って甘えてくる姿が本当にやばかった。
「あの、私もお世話してもいいかな?」
「僕と一緒にしようか。メモは貰ってるからそれ見ながらね」
「うんっ!」
蜂蜜みたいに甘くて柔和な笑みと一緒に頷かれてどきっとするものの、くるみは知ったこっちゃないかんじで文鳥に夢中のご様子。
この瞬間を永遠に残しておけたらどれだけいいだろう、という感慨に至ったところで、ふとホワイトデーの贈り物を思い出した。
「そうだ。この間あげたカメラちょっと借りるよ」
くるみは掌の上の存在に首ったけで、こちらのとある邪心から意図して小さく抑えた声掛けには気づいていない。
了承は得ていないが、トートバッグと並べてテーブルに置いてあったインスタントカメラを拝借し、ぱちりと可愛らしい小動物との戯れをファインダーに収めた。
モチが袖をよじ登り、くるみの細い肩に止まる。
陽の光のなかで、くすぐったそうな声が弾けた。
もう一枚だけ——そんな想いで、ファインダーの世界の中心に彼女が収まるように調整していると、やがてレンズ越しにじっと眺められていることに気づいたくるみがぱっと顔を上げ、頬をほんのり桜を咲かせながらいじらしく瞳を伏せる。
「今、撮った?」
「ばっちりいいショットが一枚」
「ばか」
「……ごめん。だってすごく綺麗で、見惚れてたから……いや、何でもない」
可愛いとは何度も誉めたけれど、目を奪われたと告げたのは初めてで、思った以上の恥ずかしさについストップをかけてしまった。もう、手遅れだけど。
くるみは一気に紅潮すると、ごまかすようにぽすぽす額をぶつけてくる。
「だ、駄目。そんなことなら……もっとおめかししてくればよかった。今日は髪も下ろしてるし」
「気合い入れてお洒落してたらそりゃ可愛いけど、僕はどんなくるみさんもいいと思うよ」
たじ、と動きを止めたくるみが、照れたように瞳を伏せる。
「……しかたない、から、一枚だけ……なんだからね」
恥じらう姿がいじらしくて、どきっと心臓が跳ねた。
動揺をごまかすように別の話題に切り替える。
「そういえばさ、この間のシュークリームのお礼がしたいと思ってるんだけど」
なんて切り出すと、くるみはますます小さくなった。
「何か……してほしいこととかある? 別に無理にとは言わないけどさ」
この様子だと要らないと突っぱねられるだろうな、と思ったが——。
「……じゃあゴールデンウィークに一緒に、どこかにお出かけしたい」
予想に反して、袖が白い指にきゅむっと抓まれた。思わず見やると、しおしおと控えめに、それでいておねだりするような上目遣いがぐさりと刺さる。
「春休みあんまり会えなかったし、カメラでふたりで写真撮れるところに行きたい。ふたりの思い出を、今のうちにたくさん残しておきたいなって。いい……?」
「わ、分かった。いいよ。行こうか」
多分、寄せ集めた勇気の花束を片手にお誘いをくれたのだろう。
また誰かに目撃されると厄介だが、まあその時はその時考えればいっかと判断した。
碧があっさり返事をすると、歓喜がじわじわと蜜のように滲み出てくる。その気持ちを代弁するように、モチが美しく鳴いた。前々から世話してた自分より懐いてるのはちょっと解せないが。
「お出かけ……いいの? ほんとう?」
「男に二言はありません」
「そしたら碧くんどこがいい?」
てっきり行きたいところが決まってるかと思ったが、そうでもないらしい。
「私は碧くんが行きたいところに……行きたいな」
「それは困ったな。僕東京の遊ぶところぜんぜん詳しくないし、くるみさんが行きたいところに行きたいと思ってたんだけど」
「私が決めても、いいの……?」
「提案した人の権利でしょ。くるみさんはどこに行きたい? どんなものが見たい?」
うーんと唸っていたくるみは我に返るや否や、古びた日記の一番最後のページを開いて、ぐいっと見せてきた。そこには〈やりたいことリスト〉の文字。
「あのね。私、ここに行ってみたいの」
指差したところにある箇条書きのメモを見て、碧は頷いた。
「仰せのままに。折角だしその日は、くるみさんがしたいこと出来るだけ叶えよっか」
「本当? いいの?」
「独国紳士の名にかけてきっちりエスコートさせていただきますよ」
「……どうしよう。すっごく楽しみ」
冗談というか、半分笑わせるつもりで言ったのだが、くるみは上機嫌そうに目を細め、ハスキーのぬいぐるみをむぎゅっと抱きしめた。
花の蕾が開くように口許を弛ませ、喜びを隠すことなく、澄み渡った笑みにこれでもかと乗せた様はあまりに綺麗で——こちらに息をするのを忘れさせるのに十分だった。
「早くお出かけの日にならないかな」
「……うん」
鼓動はいつもより早く脈打っている。自分の返事は掠れていて、狼狽を悟られたかと不安だったが、くるみはお出かけが心底楽しみみたいで、こっちの恋愛由来の惑乱には気づいていないようだった。
最近はそんな甘さを学校でも隠さなくなってきてひやひやするけど、もう間もなくゴールデンウィークなのだ。ひとまずそれまで乗り切ってしまえばいい。
先日もドイツ語であんなデレかたをされたけれど、あれはただの悪戯というか、妖精さんの気まぐれだろう。面白がっているけれど、じきにブームは去るはずだ。
——予想が大外れしたのは、次の日の学校でのことだった。