第9話 Verwickelter Faden(1)
ずっと、小さな箱庭で暮らしてきた。
いつか、外の世界を見たいと思っていた。
存在すら忘れていた羽根を広げて、羽搏いてみたかった。
着こんだ甲冑の隙間から覗く狭い視界なんかじゃなくて、本物の青空を。
戦装束の重さを思い出させないほどに広くて圧倒的な、本当の自由を。
憧れ続けて、けれど同時に叶わないことを知っていたから、折り合いをつけてきた。
——そんな私を閉じ込めていた小さな殻にひびを入れたのは、真っ赤な兵隊服を着たクルミわり人形のおじさまなんかじゃなくて。
ただ同じ学校の同学年だと思っていた、ひとりの男の子でした。
*
翌日の学校。
登校した碧が昇降口で靴箱を開けば、なかには小さな紙切れが入っていた。
「……なにこれ」
手に取ると、どうやらそれは手紙だったらしい。差出人の名前はない。
差し込む朝日を透かしてみれば、パステルピンクの封筒には二つ折りにされた一筆箋が収まっているようだった。
なんて言えば、それはその辺のクラシカルな恋愛小説であれば十中八九が恋文、残りの一で果たし状なわけなのだが、一見するとつつがなく平和な学校生活を送る碧にいじらしい告白を仕掛けてくる相手も喧嘩を申し込んでくるやからももちろんいるはずはなく。
というより、どこかで見たような可愛らしい花柄の模様からして、すでに相手の心当たりはついていた。
〈先日はごちそうさまでした。
今日のお昼休みに美術室でお待ちしています。
購買には寄らず、授業が終わり次第すぐに来てください。〉
周りの目を気にしつつも開封してみるとそこには、ものすごく見覚えのある、女の子らしくなおかつ整然とした文字。名前を記していないのは、万一誰かに見られた時への先読みと配慮だろう。
怪訝に眉を寄せながら畳んだそれを封筒に戻そうとしたとき、すぐ耳許で誰かが声を上げた。
「なになに、それってもしかしてラブなレター?」
「!!」
慌てて身をのけぞらせると、何者かが碧の持つ手紙を奪い取ろうとしていたところだったらしく、咄嗟にばっと掲げる。一瞬遅れて、彼の手は空気を掴んだ。
いくら無記名とはいえ、もし筆跡からくるみの手紙だとばれてしまえば学年裁判に連行されるところだった。
「ちっ、もうちょっとだったのになー」
明るく舌打ちをする好青年の姿を認めて、碧ははぁと深くため息を吐いた。
「びっくりするから話しかける時は事前にノックしてお願いだから」
「なんだよ碧っちうける、それ俺じゃなくて母親に言うやつじゃん!」
同じ色の校章の彼はからからと楽しそうに笑う。彼は、碧のクラスメイトの颯太。名前のとおり夏が似合いそうな爽やかな性格をしていて、見た目も好青年そのもの。明るく誰にでも話しかけるところから、女子からの人気も高い。
碧も男子とは誰彼かまわず話す方なので、自然と颯太との絡みも湊斗ほどではないがそこそこ多かった。
碧がはぐらかそうと口を開きかけたその時、昇降口から差し込む朝日が何かにすっとさえぎられ、影が落ちる。
「颯太。なんでこいつと話してんの? 仲良かったっけ?」
新たな何者かが碧たち……正確には颯太だけに、低い声で話しかけてきた。振り向くとそこには、きりりと切り立った眉をむすっとひそめた男子生徒。
名前は夏貴。
彼もクラスは同じだが、なんだかんだ話したことのなかった奴だ。
黒々としつつふにゃっとした柔い猫っ毛の反面、鋭い眼光というより目つきの悪さは、まるでキタギツネだ。だぼっとしたトレーナーを制服の上に重ね着しているからか、余計に冬ごもりした狐っぽい。
「夏貴おはよー。わりと話すよー? 碧っちおもろいし愉快だし」
「やあ。今は颯太と僕で、スイカが野菜か果物かについて議論していたところ」
普段からのものらしいその人相の悪さに一切臆せず返した颯太に碧も乗っかると、夏貴はただでさえしかめっつらの眉毛を、さらにもう二ミリほど近寄せた。
「スイカは野菜だろ。颯太もそんなやつと話してないで行くぞ。ホームルーム始まる」
「こいつだのそんなやつだの、さっきからひどいな。僕には碧って名前があるんだけど」
やんわり訂正しつつ笑わない瞳で射抜くと、夏貴は面倒そうに振り向き、眉をぎりぎりと寄せて吐き捨てる。
「あんたはあんたで十分だよ。散々周りに好き勝手言わせて迎合してばっかのあんたにはな。颯太もこいつといると馬鹿にされんぞ」
靴箱から去っていくのを見送ってから、やれやれと大きなため息を吐く。
いったい何が気にくわないんだか知らないが、今の話からして、入学式の日のことが尾を引いているというのは明白だった。
仔細は省くが、その日から碧は悪目立ちするようになった。ほとんどの生徒にとってそれはすでにとうの昔に終わった些末な出来事だし、碧にとってはそもそもなんら気にすることのない出来事だったのだが、やはりこうして印象として引きずっている人は少なからずいるようだ。
「ごめんねー俺の友達ってやきもち妬きでさ。俺のこと大好きなんだよあいつ」
真反対の季節みたいにすかっと笑う颯太に、碧もまたせらせらと笑った。
「愛される男ってやっぱ辛いんだなぁ」
「あはは言えてる。っていうか愛される男は碧っちでしょ。いろいろ勘違いされてるけどすげーいい奴だっての分かるし。クラスの奴らは本当損してるよ」
「その台詞みんなにも聞かせてやりたいなぁ……」
「で、それ何? もしかして果たし状だったりする?」
ああ、と碧は手の中の封筒を思い出す。
「夏貴みたいな奴がこんな可愛らしい便箋で果たし状寄こしてきたら笑って喧嘩にもならないよ。さっき見てみたけど、ただの悪戯だった」
そうごまかしてから、手紙をデイパックの底に突っ込む。
相手の心当たりはついても、呼び出しをくらうことについての心当たりは一切なかった。もしかして本屋前の広場で失礼なことを言った仕返しのための悪戯なのか? と思わなくもなかったが、あの品行方正で温和なスノーホワイト様——碧の前ではつっけんどんだがそれでも行き届いた礼儀を欠かさないゆえ信頼があるのだ——がそんなことをするはずもないという結論に落ち着いた。
そんなわけで午前中の授業はあんまり耳に入らずに悶々と過ごしていたのだが。
「おーい碧。聞いてんの?」
授業の合間の十分休憩で、前の席の湊斗が振り返り、視界いっぱいに大きな手をぶんぶんしているのに気づいた。
「……あ、なに?」
「お前いっつもぼーっとしてるよなあ、ほんとマイペース。今日の昼どうするのかって話だよ。たまには購買のパンじゃなくてカフェテラスにでも行ってみるか?」
「お昼……は、ごめん。ちょっと美術室に用事ができたから一緒に食べれないかも」
「用事ってなに? 委員会の集まりとかあったっけ」
「集まりはないけど心当たりはある。この間助けてあげた迷子の女の子が、鶴の姿にやって恩返しに来るらしい」
「はは、そりゃ逆だろーよ」
もちろん、妖精姫に呼び出しを受けているなんて言えるわけがない。笑いつつもどこか訝しむ湊斗を尻目に、碧は次の授業の教科書を引き出しから取り出した。