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第85話 「一緒にいるよ」(1)


 雨はもう止んでいた。


 晴れ間に移りかわろうとする曇天の隙間から、まるで天国へ繋がる階段みたいな光芒がいくつも地上に降り注ぎ、瞳に光のシャワーが穏やかに差し込む。あの日は、代わりにそれが雪だった。


 ふあり——桜の花びらが舞い落ちた水溜まりを、ぱしゃりと飛沫を上げて踏み越える。


 君から貰ったものを、返す時がきたから。


「はっ……はぁ……」


 走れ、走れ、走れ。


 息が切れるのも気にしないで、重く湿った空気を切り裂く羽根のように、怪訝な人目も憚らず走り続ける。いつも一緒にいたあの人に、届けなきゃいけない言葉がある。


 横断歩道も、坂道も飛び越えて、あの場所へ。



 ()は、大切なことに気がついた。



 僕のまっすぐな言葉にはにかんでそっぽを向く彼女。

 孤高に見えて実は一人が苦手な、寂しがりやで臆病な彼女。

 真面目すぎる人柄のせいで時々冗談を真に受ける彼女。

 いじけると「碧くんのばか」なんて可愛らしい拗ね方をしてくる彼女。

 よく僕を子供扱いしてきた、同い年の女の子。



 控えめに見えて意外と杓子定規で強情っぱりで。

 一人で何でも出来るくせに、人への甘え方だけは誰よりも下手くそで。

 怖い夢を見ればよくいる女の子みたいに怯えて。

 


 完璧なふりをしてるけど完璧なんかじゃない、同い年の女の子。



 僕は、そんな楪くるみが愛おしかった。


 大好きで堪らなかった。




 ——だから決めた。



「くるみさん!」


 初めて出会った雪の降る夜、くるみが空虚に暮れていたあの場所。

 今は路傍から伸びる桜の、綿雲のように壮麗な花房(はなぶさ)に淡く彩られた、古く寂れた歩道橋。


 そこに——いた。



 天使の(きざはし)の下で。

 雪でも曇りでも決して陰ることのない、妖精のように美しい少女が。



 たった数時間会っていないだけなのにまるで数年ぶりの再会のように懐かしく思えた。


 春風にひるがえる亜麻色の髪も、ぼんやりと遠くの景色を映すヘーゼルの瞳も、桜吹雪に包まれて幻のように消えてしまいそうな儚い立ち姿も。全てが天国からの光芒に照らされて、概念に昇華された思い出の結晶みたいに輝いている。


 僕はもつれそうな足を動かし、息を切らしながら、階段を駆け上がる。


 少女が振り向いた。


 まず純粋な驚きを瞳の底に示し、次にその麗しい相貌をくしゃりと歪める。


「拐いに来た」


「どうして、碧くん……」


「約束したでしょ」


 開口一番、切らした息と拙い言葉で僕は答える。


「助けて欲しい時の合図」


 ——だって去り際。


 くるみは右頬を掌で拭うことで、碧に意志を伝えてきたのだから。


 恐らくそれは誰にも頼れなかった十六年で、道標(みちしるべ)も見えないほど真っ暗な月のない夜に、大海原に遭難してしまった彼女が無自覚にありったけの勇気を集めて掲げた、小さな小さな救難信号なのだと思う。


 くるみは聡明だ。きっと行けばもう二度と自由を取り戻せないと知っていた。


 あの雪の日に同じ理由で逃げ出したように、今日もまたここで嵐が過ぎるのを待つつもりだと僕は信じていた。


 彗星を見に行く約束を取りやめにしたのは、僕に責任を背負わせないため。連絡をスマホで済ませず会いにきたのは、きっとまだ心のどこかで手を差し伸べてくれる人を淡い期待で探していたから。僕の教えたひみつのサインを、信じていたから。


 予想は、当たっていると思う。


 けれどここに来た理由は、それだけじゃない。


 僕は歩道橋のど真ん中まで一歩ずつ歩み寄り、項垂れた。


「くるみさんの日記見た。ごめん」


 非道いことをした自覚はあるが、くるみは然程気にしていないように瞳を細めた。


「碧くんなら大丈夫。それに、いつかは見せるつもりだったから」


「……ずっと囚われていたんですね」

 彼女の現状を指し示す僕の言葉に、くるみは揺らぐヘーゼルの瞳を伏せて、沈黙する。


 彼女の姿を改めて見て、碧はなぜ彼女がこういう人格に育ったのか、唐突に理解した。


 くるみは鳥籠の中の金糸雀(カナリア)だった。

 囚われの姫だった。


 確かにくるみはお金や暮らしには恵まれているかもしれない。けれどその代償に、文字通り小さな世界で生きてきた。そしてそれはくるみの真に望むことじゃなかった。


 それでも偉い仕事に就く親の言いつけを守り従順であることが、己に幸せな人生を授けるのだと健気に信じ努力してきた。〈誰かの理想(スノーホワイト)〉でいることを止めなかった。否、そう在らざるを得なかった。


 親に守られてきて、自分で人生を決める方法が分からなかった。今から自分の手で航路を見つけ舵を取る方法を知らなかった。そんなこと、誰も教えてくれなかったから。


 こう言うと彼女は嫌がるかもしれないが——それ故の、傷がつく前の硝子のように純真な人柄。


 自分を律するあまり誰かに甘えたこともないから、縋り方すら分からない。甘えんぼで寂しがりやなはずの本来の自分を、堅い殻の中に押し込めて。


 一歩、二歩と歩道橋の真ん中に近寄った僕は、今度こそこらえきれなくなって、衝動のまま少女を抱き締めていた。


 初めてしっかりとその腕に収めた体は、想像していたよりずっと華奢で頼りなくて、今まで楪くるみという完璧な才女を貫き通してきたことが信じ難いほどに心許(こころもと)なかった。


「え、あ……碧くん?」


 耳許(みみもと)で戸惑うような声が小さく聞こえる。


「ありがとう、くるみさん」


 逆境に負けず前向きに生きるくるみの姿は、とても美しくて気高くて——僕は泣きたい衝動に駆られた。


「くるみさんが、くるみさんでいてくれたことが嬉しかったから。こんなにも綺麗に真っ直ぐに育ってくれたことが、自分のために行動を選ぼうとする強さをくるみさんが持っているのが尊いことに思えた。それがどうしようもなく……すごく嬉しい」


 過去に辛い目や嫌な目に遭っても、くるみは健気に受け入れて前を向き続けた。


 くるみの繊細さの中に秘めた確かな芯の強さがあったから。()き目でも折れることなく、籠の中に囚われたまま諦めたりせず、一歩外の世界に踏み出す気持ちで僕に手を伸ばしてくれたから。


 この契約(かんけい)が始まった。


 始められたんだ。


「だとしたら、それはあなたが見つけてくれた私よ」


 くるみの(たえ)なる声が耳をくすぐり、僕は打ち震えながらそっと離れ、桜より儚い寂寥を浮かべた少女の面差しを改めて見詰める。


「何でも持っている万能な人だと皆は言うけど、自分の道を探すって言う誰もが当たり前に出来ることをできなかった。自分に埋められない穴があるみたいでずっと怖かったし、誰かが並べた線路を歩くだけの人生なのはもっと怖かった。……押し殺した本当の気持ち(じぶん)を見て見ぬ振りするのは、それよりもずっと」


 自分に言い聞かせるように、くるみは親の言いつけを体現し続けた。


 その結果、妖精姫(スノーホワイト)として数多の人に好かれることは、まるで親の言いつけの正しさを証明するように彼女の目には映ったことだろう。


 けれど本当のところは、何が正しくて何が間違っているかなんて、結局自分の物差しで決めるしかない。


 海を泳ぐペンギンが誰にも文句を言わせないように、土星だけが唯ひとり氷の輪っかをまとっても堂々としているように。


 くるみは静かに続きを紡ぐ。


「けれど、あなたが道標(みちしるべ)になってくれたの。私の憧れであってくれた。本当の私の閉じこもる堅い殻を、あなたが壊した。私にとって初めての鯛焼きを奢りながら、学校のくるみさんより今のくるみさんの方がずっといいって言ってくれた」


 眉をへにゃりと下げてゆるく微笑む。


「あなたが知らない世界を教えてくれるって約束してくれた。こんな私でも一歩踏み出せるという事実が何よりも嬉しかった。だって過ぎた過去は、二度とかえられないから。どんなに他人と比べても、引き合いに出しても……ひとは、自分の道しか生きられないから」


 まっすぐにこちらを見つめる。


「私は、他の誰かになることは出来ないから」


「他の誰かになることは……できない」


「そう。だから私は私のまま自分だけの人生を、出来るだけ前だけ向いて生きていたいなって思うの」


 気丈で健気な言葉が耳に染み込むや否や、視界がじわりと滲み、ゆらゆらと光を含んだ。淡いアプリコットみたいな美しい夕空が水に溶かした水彩画のように歪んでいくのを見て、僕は折角我慢したはずの自らの涙の再来を自覚する。


 耐えなければ、子供のように泣きじゃくってしまいそうだった。


「もう、どうして碧くんが泣いてるの」


 滲んで揺らいでぼやけた視界のはしっこを、ひんやりとした指が優しく拭っていく。


「だって……くるみさんが……っ」


「誰かのために泣けるの。優しいのね」


「僕っ……僕は……」


 今は何だってよかった。


 ひたむきに前を向いて生きる人間の、なんと凛々しく高潔なことか。


 生まれや境遇を受け入れた上で自分なりの道を探す彼女の、なんと気高く貴いことか。


 彼女は今までもそうやって、途方のない道のりを独りで歩んできた。


 過去に辛い想いをしても隠さず日記に綴り、受け止めて進もうとした。他人とどれだけ生まれや育ちや世界すらも違ったとしても、捻くれたり折れたりしなかった。親に反対されても自分の好きな料理を捨てたりはしなかったし、知らないことへの探求を諦めることをしなかった。


 これが、くるみという女の子なんだ。


 理解した途端、またとめどなく涙が溢れていく。


 僕は知らないものを知っていく彼女を幾度となく綺麗で美しいと思ったが、もしかしたらそれは彼女の根本たる生き方が透けていたからなのかもしれない。


 何方(どちら)にせよ、目の前の少女を突き放す訳にはいかない。


 それどころかもう——心の中にもう一つの(こころざし)が芽生えていることに、僕は気づいていた。


 小さな嗚咽(おえつ)を呑み込み、そっと彼女の手を取り、正面から見据える。


「くるみさんってさっきは分からないって言ったけど、本当はやりたいこと、叶えたいことがあるんですよね」


 迷った末に首をゆるりと振り、美しい亜麻色の髪を波打たせる。


「……あるけれど、誰にも言ったことないの。叶うかどうか判らないから」


「少なくとも僕が一緒に手伝ってあげられるかもしれない」


 ふと吹いた突風が、くるみの長い髪を桜に染まる空に踊らせる。


「教えてくれれば、やりたいことは僕が一緒に叶える。わがままだって言っていい。分からなかったら、僕も一緒に考える。だから、きっと大丈夫」


 確かに僕は、吹きつける運命の吹雪から彼女を守る盾にはなってやれないかもしれない。


 けれどそれは、彼女を支えることが出来ないことと同義ではない。


 その華奢な手を取って「大丈夫だよ」と言って握ることくらい、してやりたい。


 叶うことなら、これから先だって支えてやりたい。幸せになってほしいし幸せにしてあげたい。くるみの叶えられなかった想いをささやかにでも手渡してやりたい。


 約束だからじゃない、自分の意志で。


 僕は羽織っていた上着を脱いで、くるみを隠すようにふわりと被せた。


「……!」


 春の夕暮れはまだ肌寒い。困惑するくるみの、深い影の差す大粒の瞳を真正面から見据え、諭すようにいう。


「たとえばさ、僕の家で料理とか編み物をしている時のくるみさんはいつもすごく楽しそうだった。まるで幼い頃からずっと夢見たことを叶えているみたいで」


「……お料理もお裁縫もお掃除も、好きだから。けれど実家じゃ、家政婦さんのお仕事だからなかなか出来なくて」


 ここまでややこしく引っ込み思案に考えてしまうのは、ある意味仕方がないのかもしれない。自分を律することばかり上手くなって、気持ちを伝える術を身につけてこなかったのだから。


 ひびの走った最後の防波堤を壊すつもりで、僕は優しく声をかける。


「本当はさ、好きって理由ひとつだけで十分なんだよ。つばめさんにお菓子づくりを講義しなくたって、湊斗に勉強を教えなくたって、僕に世話を焼かなくたって……みんなくるみさんが好きって理由ひとつで優しくしたいと思ってるのと、同じように」


 彼女に吹きつける雪から守ってやれるような、そっと傘を差し出すような言葉を。

 考えて考えて、紡ぐ。


「Du schaffst das ganz sicher……って、ドイツで励ましの言葉があるんだ。君なら絶対大丈夫だよって意味。くるみさんなら、きっと大丈夫。それを僕が証明するよ」


 今にも泣き出しそうな双眸が、影の下から僕を捉える。


「……私がどんな想いでいたか」


 ぎゅっとシャツが掴まれる。


「あなたになら……話せる気がする」


 (せき)を切ったように昂った感情が涙に姿をかえて、きらきらと零れ落ちる。長年積もり続け、言葉にできない様々な想いが込もったそれを僕はただ見守った。


「……昔から私はいろんなことをがんばった。出来ないことをなくすために努力を重ねて、習い事も沢山やらせてもらって。けれどたったひとつだけ……分からないことがあった。箱で大事に守られて蝶よ花よと育った私がこのまま大人になって、果たして幸せになれるのかなって」


「うん」


「家庭教師の先生も学校の教師も、くるみちゃんは才能があるから何にでもなれるって言ってくれたけれど……〈何になりたいか〉が考えられてないことに気づいたのもその時で」


「うん」


「お母様は、いい大学を出て偉い立場に就いていい人と結婚すると幸せになれると言ってくれた。最初はそれを信じて白陵院の受験戦争も勝ち抜いたし、中等科に進学してからは生徒会長の座にも就いた。……その頃から両親は仕事が忙しくなってきて、兄も大学卒業と同時に一人暮らしになったから、お手伝いの上枝さんとふたりで過ごすことが多くなったの」


「……」


「家族がいるはずなのに独りみたいで寂しかったけれど、平気だった。上枝さんがいてくれたから。日記にも書いたはずだけどね、そんな暮らしの続くなか、初めてこうなりたいって思ったのが……上枝さんだったの」


「うん」


「家事とお料理でいつも私を支えてくれた。お世話をしてくれた。一人で寂しい時も面倒を見てくれた。たとえそれが契約上のお仕事でも、受け取った優しさは本物だった」


「……うん」


「母の重んじる価値とは真逆でも、私もいつか、誰かを優しく支えてあげられる人になりたい。……誰かの帰って来れる居場所であれる人になりたい。それは今も同じ」


 僕とくるみは確かに約束事の上での関係だが、それでも確かにくるみの言う通り、受け取った優しさは本物だ。


 何も言わず、返事の代わりのように腕に力を込める。


 桜と僕に隠された空間で、肩を震わせたくるみはきっと、涙を浮かべながらも小さく笑みを浮かべたのだろう。


「……私はね、碧くん。これから先自分が在りたい自分でいるために、もっともっと色んなことを知りたい。あなたの世界に連れて行ってほしい。これが私のわがまま」


 ——……碧くんと、一緒にいたい。


 そう呟いたあどけない声はもう、沈んでなんかいなかった。


 涙の残滓が、積もらず大地に消えていく沫雪(あわゆき)みたいに落ちていく。


 だから僕もまた涙を浮かべながら、せいいっぱいに明るい声で返事をした。


「うん。……僕はここにいる。一緒にいるよ」


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