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第80話 桜舞い散るこの街で(1)


 くるみの今日の服装は、女の子らしいセットアップの白いロングワンピースに、春らしい淡い桜色のニット編みカーディガンを羽織ったものだった。


 襟から覗いた繊細なフリルが愛らしい。季節の変わり目は体調を崩しやすいとはよく言ったもので、昨日は初夏のように暖かかった反面今日は(いささ)か冷えるので、きっと今の格好くらいが丁度いい。


 一方で碧はよくあるトップスにシャツジャケットを羽織り、下もこれまたよくあるジーンズだ。誰もが羨む美貌で嫌でも人目を惹く彼女と並んで歩くにはどうにも実力不足だと言ったのだが、


「そっそんなことない! ちゃんとその、格好いいから……自信……持ってよ」


 と、ためらいがちだがはっきり言われて照れくさる羽目になってしまった。


 彼女も彼女で誉めた後はいじいじと横髪を指に巻きつけていて、真っ白な頬には赤みが差している。


 ——照れるくらいなら言わなきゃいいのに。


 そう思ったが、言葉にはしなかった。


 外に出るとぽかぽかと暖かく麗らかな春日和。どこか遠くから、(うぐいす)のさえずりが聞こえる。玄関にしっかり鍵をかけ、鞄に忍び込ませてから空いた手を差し出す。


「さ、行こうか。お手をどうぞ」


「……はい」


 そっと掌を重ねると、くるみは恥ずかしそうに視線を下げた。


 見慣れた家の前の道路ひとつとっても、くるみと手を繋いで歩くとまるで絵画の世界のようだな、と思える。


 日本に来た時、碧の世界は永遠に続く真夜中のようだった。


 そこに、くるみが朝を呼んだ。


 白黒だった景色に(いろ)を与え、全てをパステルカラーに塗り替えた。


 そんな隣の少女は照れつつも心持ち機嫌が良さそうで、編み込みから下ろした亜麻色の髪は歩みに合わせて、まるで主人の心情を示すバロメーターのように左右に揺れている。


 いつもお洒落なのだが、今日の彼女がやたらと可愛らしく見えるのは——自分の心境の変化のせいだろうか。


 昨日の七里ヶ浜の海で、自分の嘘を受け入れて貰えた。


 傷つけたくない、失いたくない、大切にしたい——愛おしい。


 そんな感情が後から溢れて溢れて仕方がないのだから。


 きっとこれは「愛」なんだろうな、と柄にもなく恥ずかしいことを考えていたら、もう一つの「恋」という実直かつ縁遠いものだと思っていた言葉がぷかりと浮かび上がる。


 愛は大切であれば誰にだって抱けるものだ。大切なぬいぐるみでも可愛がっている花の植木鉢でも、愛情なんて言葉が当てはまるものはいくらでもある。愛と恋が逆の順番で訪れたなんて別におかしな話でもない。


 けれど「恋」はきっと違う。


 唯一の相手にしか抱くことのない特別なもの。


 きっとこの感情にまだ名前はない。


 けどもしそういう名前をつけるとしたら、自分の(こころざし)を曲げてもいいと思えるくらいの覚悟と決心を持った時なのかもしれない。


 ——なんて、な。


 らしくもない事を考えた痕跡を追い出したくてふと見上げれば、街並みの上には瑞々しく澄み渡った透明な空と、そこにまっすぐに走る白い飛行機雲。


 どこまでも続くこの空を見上げれば、この世界が途方もなく広いものだと思える。

 実際その通りだ。碧が一生かけても回りきれない程の場所と知り尽くせないほどの未知がそこには眠っている。


 ずっと日本に暮らしていれば見られないものも、叶わない夢も。


 取り止めもなくとんなことを考えながら、くるみの小さな手を握ってゆっくりゆっくりと歩み続ける。自分の掌にすっぽり収まるその小さくてか弱い手が、碧を甘く気怠く、そしてどこか切ない気持ちにさせた。


「最近はずいぶん暖かくなったわね」


「マフラー巻いたシマエナガくるみさんが見れないのはちょっと残念だけどな」


「また今年の冬見られるわよ」


 そんな他愛もないことを喋りながらゆっくり進む。


 くるみは実は散歩が好きなようで、桜並木に到着するまでの道のりでも時折足を止めては、スマホのカメラで道端で出会(でくわ)した色んなものを写真に収めた。公園の横でも何かを見つけたらしく木の上にレンズを向けるので碧は尋ねてみる。


「何撮ってるの?」


「ほら、あそこに(うぐいす)が来ているの見える?」


 小声で指差す方を見ると、枝ぶりのいい木の先に緑褐色の小鳥が止まっていた。


 ホー……ホケキョ、と何とも心がうっとりと和む美しい唄声を響かせ、枝の間をぴょんと飛び移る様は、まるで春の到来を告げる妖精だ。鶯なんてなかなか見られないと思っていたのだが、案外こういう公園にもいるものらしい。


「この鳴き声聞くと僕もちゃんと日本人だなあってかんじする。春の代名詞だね」


「梅に鶯っていうものね。あれは梅の木じゃないけれどね」


 逃げてしまわないように遠くから精一杯腕を伸ばして写真を撮るくるみが可愛らしくて、彼女にばれないように碧はこっそり相好を崩す。


「写真撮るの好きなんだっけ? つばめさんみたくインスタに載せるの?」


「ううん、これは記録のため。写真が好きってよりは、季節の移ろいを教えてくれるものとか……あとはいいなって思ったものを後から見返すのが好きなの」


 そう言ってくるみは画面に映したカメラロールの写真を嬉しそうに見せてくる。


 指でスライドすれば次々映し出される写真に、碧は見入っていた。


 道端で出会った野良猫や夕陽が綺麗だった日の空、面白いかたちのトピアリー、アスファルトに咲いた小さな花に、偶然見かけた可愛らしい看板、ツバメの巣とひな。


 年末にふたりで転がした雪だるま、イルミネーション、さっき枝に訪れた鶯。


 どれも日常にありふれていて、しかし碧が今まで目にも止めなかったもの。


 つつじに白木蓮にたんぽぽ……花の写真も数々あった。きっと今日桜を見に行きたいのもフォルダに仲間入りさせたいからだろう。彼女がやたら花言葉に詳しい理由を垣間見た気がした。


「……これがくるみさんから見えている景色か」


 まるで、彼女の見ている愛おしい世界を、写真を通して覗き込んでいるような心地。


 色とりどりに溢れた写真たちを物珍しそうにまじまじと眺める碧に、くるみははにかむように微笑む。


「碧くんの色んな国があるフォルダとは正反対よね」


「いや。僕みたいにわざわざ遠くなんかに行かなくても、目に見えるもの全部から様々な幸せを見出せるのはいいなって思うよ」


 ずっと、この子には世界がどう見えているのだろう、と思ってきたものだ。


 答えは単純だった。目に映る全てから素敵と感動を探し出す。それがくるみだ。


 小さな箱庭に生きるぶん、きっと身近から幸せを見出すのは誰よりも得意なのだろう。少なくとも碧ひとりであれば見落とすどころか気づきもしないようなものばかり。だがどれもなぜか、見ていてほっこりするような不思議な魅力がある。


 思えば碧が初めてくるみに興味を抱いたのも、ありふれたただの鯛焼きにいたく喜んでいる姿を見てからだった。もっと言えば——初めて晩ごはんという日常を与えてもらったところまで遡るかもしれないけれど。


「何だかあの日の逆みたいね」


「あの日?」


「ほら。あなたが私に初めて外国の写真を見せてくれた時のこと」


「ああ……くるみさんがキスの話で恥ずかしがってた時のやつだっけ?」


「——ばか!!」


 からかいを真に受けたらしい。


 怒りと羞恥により一瞬で真っ赤に染まり、外なのも気にせずに可愛い罵倒をぶつけては拳でぽこすかと叩いてくるくるみに、碧は目を白黒させる。


「出た、罪と罰」


「そ、そんな思い出し方ってないでしょうっ。しかも私が言ったのそれの次の日だし」


「ごめんごめんちょっとした冗談だって。ただ本当にピュアだなって思ったし、馬鹿にしてるって訳じゃないから……」


「そういうところも含めてばかよ。碧くんのばかばか」


 くるみはぷんすこと怒りながらも、罪と罰——碧の失言にくるみがぽこぽこ叩いて罰を与える行為のことであり碧がたった今勝手に命名した——をようやく収めると、まだ不服みたいで涙に彩られた榛色の瞳で碧を睨み上げてくる。


 そういうところが可愛すぎるからからかうのを止められないんだよな、と本人に言えばこれまた怒りを買ってしまいそうなので、黙っておく他ない。


「そういえば僕のあげたカメラは持ってきてなかったの?」


「ううん、持ってきている……それが?」


「いや、スマホで撮ってたから。カメラは使わないのかなって。あ、別に催促とかじゃないし好きな時に使ってくれればそれでいいよ」


「碧くんのカメラはトートの中に入ってる、けど……」


「けど?」


 聞き返せば、碧の持つバッグに愛おしげな眼差しを送る。


「前から写真撮るのは好きだったけど……さっき見せた写真みたいな日常の小さな幸せはね、私のカメラで撮るって決めたの。いっぱい撮ったらすぐにフィルムなくなっちゃうし、このインスタントカメラは贈り主の碧くんとの思い出でいっぱいにしたいから」


「……。そっか」


 あんまり健気でいじらしい理由を言うものだから、碧も何も気の利いた返しを思い浮かぶことが出来ずに。


 嬉し恥ずかしで隣の少女から視線を外し、照れを気取られまいと彼女の一歩前を行くようにそっと歩みを再開すると、彼女も自分の発言を顧みて羞恥を覚えたらしく、最後にぽこっと八つ当たりの拳が肩にくすぐったく下ろされた。


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