第79話 夢のあとさき(2)
そうして碧は、ブランケットを跳ね除けて飛び起きた。
今がまだ夢のなかなのか、あるいは現実なのか、それすら分からないまま瞬きをする。寝起きの涙によるぼやけが去り世界がはっきりしてくるので、目に映るものを見渡すとそこにあるのはチェストの代わりにあらゆる私物を詰めているキャリーケースに学習机、小さなソファ、椅子に本棚に埃の積もった白いピアノ。
それはこの一年で見慣れた自室の天井だった。
「ッ——」
鋭く息を吐く。
現実だと理解した瞬間、身体中の力が抜け切ってしまったようだ。
両足に残る気怠さを自覚して慎重に記憶の糸を辿ると、昨夜のことに思い至った。
——そうだ。確か昨日は湘南の海を見に行ったんだっけ。
電車でうたた寝をしてしまい、目が覚めた時には降りる駅の一歩手前で、慌ててくるみを揺り起こしたのを覚えている。そのあと荷物を持って彼女を家の近くにあるいつもの十字路まで送って、それから碧は自分のマンションへと帰った。
家についてからは眠くてあまり覚えてはいないが、きちんと寝巻き代わりのTシャツにきがえているあたり、ちゃんと風呂を済ませて海水やら砂やらは落とせているようだ。
もっともそのシャツも、夢のせいか嫌な汗でじんめりしてしまっているが。
「……またか」
碧は時々、こういった夢を見る。
幼い頃に歩んできた道のり。これから進むべき道。
まるでそれは自分を戒める鎖のように。決して寄り道なんかはするなよと自分に言い聞かせる楔のように。
実を言うと八年前のあの日から、一度も泣いたことがなかった。
別に感情を失った訳じゃない。心が揺さぶられた出来事は何度だってある。ただどうしても、どんなに哀しい時であっても、涙だけは出せなくなってしまっていた。
枕の横に置いたスマホを見ると、時刻は昼前の、十一時六分。
思い出すのは、海でくるみが見せた愛しむような笑み。
「……決めなきゃな。いつ、本当のことを明かすのか」
結局は打ち明けるのを先延ばしにしただけで、迎える結末は変わらない。
でも「今が一番楽しい」と言い切った彼女を守ることが出来たのなら、この嘘には代替できない大きな意義がある。
あの人には、ずっと笑っていてほしいから。
ベッドからゆるりと起き上がり、シャツを脱ぎながら浴室へ向かう。気持ちをさっぱりさせるように熱めのシャワーをさっと浴びてバスルームを出たところで、来客を知らせるインターフォンがぴんぽんと鳴った。
体にまとう最低限の水気をタオルで拭ってから壁のモニターを覗くと、映ったエントランスにいたのはくるみだった。一瞬もしかして何か忘れてすっぽかしたっけと焦ったが、そもそも約束していない事に気がつく。真面目で堅物とも言えるくるみが事前予約なしで家に来るなんておそらく初めてだ。
待たせてもいられないので声で返事だけしてエントランスのロックを解除。その間に慌てて着替えていると、一分足らずで玄関のチャイムが鳴る。
「すみません待たせて……」
慌てて玄関の鍵を開けると、マンションの廊下にいるくるみが挨拶する間もなく、ぴたりと動きを止め——それから「きゃあ」と可愛らしい悲鳴。
ぎゅっと堅く目を瞑るのと同時に、恐ろしい速度で目許を両掌で覆った。
「な……なっ何してるの! どうして上を着てないの!」
「え? ……あっ」
くるみの本当に珍しく声の荒げた、切実かつ羞恥と動揺に染まった叫びを受けて初めて、上半身が裸なことを思い出す。一人暮らしということもあり風呂上がりはいつもこんなかんじだし、碧としてはおかしいことはないのだが。
「は……早く服をお召しになって!!」
「わっ分かったから」
後ずさるあまり、こつんと柵にぶつかる。
亜麻色の髪から覗く耳朶も、指の隙間から見える頬までも赤く染まっており、照れているのは一目瞭然だった。別に男の上裸でそこまで狼狽えることもないのに、と思う。
けどよく考えればキスの話だけでもあれほど真っ赤になる照れ屋で純情なくるみなのだから、よほど男に免疫がないのだろう。
自室のベッドに放っていた適当なシャツを着てから気を取り直して玄関に戻ると、くるみは指の隙間からおっかなびっくりにこちらをちらりと確認し、安堵のため息を吐いてようやく警戒を解いてくれた。
「急に来て大丈夫だった? って聞こうと思ったのに、大丈夫じゃないじゃない」
「僕は別にいつも通りなんだけどなぁ。くるみさんこそどこの女子校育ちなの」
「白陵院の初等科と中等科です」
「冗談で聞いたつもりなのに想像以上のお嬢様学校が出てきた」
思わず突っ込んでしまったのは、それが帰国子女の碧でも知っているような日本有数の名門校だったからだ。
縁がないと言う意味で普段なかなか耳にしない学校名ではあるが、くるみの成績を思えば驚くに値しない。ただ中高一貫だったはずなので、なぜそこから外部受験をしてまでこっちに移ってきたのかは不思議ではあるが。
しかしそんな碧を置いてけぼりにして、まだ僅かに恥じらいの残った頬を隠すようにさっさと家に上がってリビングに向かうくるみ。つーんと澄ました華奢な背中を追いかけて、碧は笑いながら問いかける。
「……そんなに恥ずかしい?」
「恥ずかしいものは恥ずかしいんです、ばか。あんまり煩いとお昼作ってあげない」
「お昼? ご馳走になっていいの?」
「……まぁ」
何故か曖昧に頷くくるみだが、碧は嬉しさと同時に普段世話ばかりさせている恐れ多さも同時に押し寄せた。
「そっか。けど食事を用意するためにわざわざ来てくれたんだ? なんか申し訳ないな」
くるみの訪問は基本的に平日の夜限定だ。なのでまさか休日のランチまでごちそうになるなんて、降って湧いた幸運とはいえ思いもよらずについ尋ねてしまったのだが、くるみはソファの横でぴたりと歩みを止め振り向くとちょっぴり居心地悪そうに右手で左腕の肘を掴み、もぞりと身じろぎした。
「……私別に、お昼を作るためにここに来たわけじゃないわ」
「違うの? じゃあ何しに?」
「何って、別に……」
「気になるからさ、言って欲しいんだけど」
「別に!」
急かさないようにそっと促したつもりだったが駄目らしい。
子供がむくれたような声色で八つ当たりするように言い放ったくるみがソファに腰掛けると、ロングスカートの華奢な脚を畳んで、体育座りの要領で両膝を抱える。
碧が訳も分からず立ち尽くしていると、それから隣に座っているハスキーのぬいぐるみをかき抱くように手繰り寄せ、そのまま口許を隠すように埋めた。
「私は、ただ……」
目を逸らしたまま、ハスキーの隙間からこぼれ落ちるのはくぐもった甘やかな声。
「——ただ、貴方に会いたかったから来ただけなのに」
浜辺での一件に続き、またもや、日本語を理解できなかった。
しかしその意味を呑み込むにつれ、徐々に頬が燃えるような熱を帯びていく。
残念ながらこういう時女の子に掛けられる気の利いた台詞を持ち合わせていない碧は言葉を失うしかなかったが、気づけば衝動で体が勝手に動き、くるみの沈み込むソファのすぐ隣に座っていた。
振動で、びく、と肩を震わせるくるみ。小さな頭に手を伸ばし、くしゃりと撫でる。
くるみは一瞬ふっと微かに息を洩らした以外は拗ねたような眼差しを床に落としたまま、大人しくされるがままになっていた。
細い髪を絡ませないように指でそっと丁寧に梳ると、そのむくれた風情もどこかに飛んで行ったようで、くるみは子猫のように瞳を細める。まるで、もっと、という心の声が見えない波長となって掌に伝わってくるようで。
——甘えたな表情も声も仕草も、きっと全部僕にだけ許されている。
そう思うと心がぎゅっと締めつけられるような甘い切なさと愛しさに苦しくなり、その感覚に溺れていいものか分からなくて。一拍置いてから静かに問いかけた。
「先月の学校で、つばめさんのお菓子づくり特訓の件を話に来た時、とかもだけどさ。最近もよく契約外でうちに来てくれるから、勘違いしそうなんだけど。もしかしてくるみさんは……わざわざ僕に会いにきてくれてた?」
潤んだヘーゼルの瞳はひらすら伏せられ、返答はない。ただきゅっと結ばれた可憐な唇だけが、くるみが何かを考えていることを物語っている。
碧は質問を重ねる。
「今のも……どういうつもりで言ってる?」
「……どうって」
「前くるみさん僕に、誰にでも至れり尽くせりに優しくするのかって言ってきたでしょ。それの逆で、くるみさんはそういうこと……他の人にも言ってるの?」
ただ、確信が欲しかった。
彼女の学校での他の人への接し方を見ると、聞くまでもないことかもしれない。
希望的観測も含めてきっと僕だけに特別扱いしているんだろうな、というのは分かる。
けれどどうしても、指でしっかり輪郭をなぞれるような言葉にして欲しかった。そうじゃないと……答えも与えられていないのに自惚れて舞い上がる自分に、嫌気がさしてしまいそうだったから。
「……なでなでしてから聞くのは意地悪だと思う。ばか」
「僕は言ったのにくるみさんだけ答えようとしないのもずるじゃない?」
「どうせ私はずるです。女の子は偶にずるい時があるんです」
これ以上は問答する気はないらしいくるみに、碧は残念だなと思い、それから内心で苦笑した。答えが聞けず残念だと思うってことは、もう自分の方の答えは……出てるんじゃないか。そう、思ったから。
「今言えないならさ、じゃあ話したくなったら教えてよ」
「い、いいけれど……すごーく高い代償がつくかもしれないわ。それでもいいの?」
「なんだそれ怖いな」
といいつつ、表情はにこにこなのだから自分でも矛盾してるよなって思う。
くるみは「じゃあ」と前置きしてから、おずおずと言いづらそうに提案する。
「一つわがままにつきあって貰おうかなって思うの。……いい?」
「僕に出来ることなら」
そういう切り出し方は珍しい。彼女からの頼まれごとなんて、買い出しに行こうだとか高い棚にあるものを取ってほしいとかそれくらいだ。
くるみは居心地悪そうに彷徨わせていた視線をようやく持ち上げ、透き通ったヘーゼルの瞳で碧をまっすぐ見据えた。
きゅ、と碧のパーカーの裾を小さな手で掴んで、
「私……桜を見に行きたいから、碧くんも一緒に行きませんか」
「え?」
全く予想外だった。
確かに今が一番の見頃だって、ニュースでもやってたのを見たけれど。
自分を厳しく律する甘え下手なくるみにしては、わがままとして上出来なつもりだったのだろう。やっぱり駄目かな、と悄然と眉を下げるので碧は思わず吹き出してしまった。
ぽかんとするくるみに、くつくつと笑いを押し殺して言う。
「ふふっ……なーんだ。何を言うかと思えばわがままってそんなこと? じゃあ早速今から行こうか。善は急げって言うし」
「そ、そんなことって」
「いや、細やかで控えめで可愛いなって思って」
さーっと頬に朱が昇る様が面白くて、それ以上に愛らしい。
それに碧も誰かと花見をするのに密かに憧れていた。その相手がくるみなら最高だと思うあたり、もう相当惹かれているんだと思う。
「すぐそうやってばかにする」
「ばかにはしてないけど。嫌だった?」
「い、嫌じゃない……あの、碧くん、最近分かってて言ってない?」
「何のことでしょうね。ところでくるみさん、俗説では桜の木の下には——」
「それ以上は言わないでっ」
続く言葉がすぐに分かったらしく、怖いものが苦手なくるみが赤くなりつつ潤んだ瞳でじとりと睥睨してくるのが可愛らしくてまた笑えば、ぬいぐるみでぽすんと叩かれた。