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第77話 十七歳の海辺(3)

 つばめと湊斗は日が暮れたあと、夜の海岸線をもう一度散歩したいらしい。


 二人並んで戻ってきた時の空気から察した。初めて会った時のようにつばめにLINEで『がんばれ』と筆談すると、つばめはにへらと笑ってから『今日のところは出来るだけね』と返信してきた。


 なので駅でいったん別れ、碧とくるみはふたりで帰ることになった。平日のおかげかほとんど人の姿のない小田急線に乗り換えて、がらがらの車内で二人並んで座る。


 くるみの荷物を網棚に乗せてやり、碧は一息ついて問いかけた。


「今日楽しかった?」


「うん……海もアイスもお買い物も、全部楽しかった」


「そっか。僕も楽しかった」


 ご機嫌な回答に、碧もほっと安堵の息を吐く。アナウンスと共に走り出した列車がかたんことんと揺れ出すと、一日遊んだ心地のよい気怠さがどっと押し寄せてきた。


 家の方角へ向かうにつれてどんどん景色が過ぎ去っていくのを名残惜しい気持ちで見送っていると、くるみが鞄から取り出したスマホを開いて、あっと小さく声を上げた。


「どうしたんですか」


「つばめちゃんがもうさっきの写真載せてたから。いいねしておこうかなって」


「そういうところはちゃんと、等身大の女子高生ですよね」


「もう。あなたは私のことなんだと思っているの?」


「くるみさんはくるみさんだよ」


 彼女はスマホの画面を見せてくる。


 そこにはつばめがストーリーに投稿した写真があり、いつの間に撮ったのかは知らないが、砂浜を歩く碧の靴と並んだ足跡が写っている。


「つばめさん、僕の足下なんか載せて何が楽しいんだか……」


「きっとつばめちゃんも浮かれてたのよ。この四人でお出かけは初めてだったから」


「モデルだっていうから縁遠い人だと思ってたけど、あの人もあの人でちゃんと等身大の女子高生なんだなぁ」


「ふふ、そうかもね」


 自然と会話が途切れ、しばらく電車の揺れに身を委ねてぼーっとしていた。


 四角く切り抜かれた車窓からのぞく日本の春は、少しずつ陽が沈みはじめ、柔らかなパステルブルーを(あんず)のような淡いオレンジに移ろわせている。


 この綺麗な時間が、好きだった。


 隣にいるのがくるみなら、とりわけ。


 彼女といる時間はいつもよりゆっくりと過ぎていくかんじがする。それは自分が大人ぶらずにいられる数少ない居場所だからかもしれないし、大切なひとと一緒にいる時間は一秒でも長くあってほしい、という願望が含まれているからなのかもしれない。


 それから十分ほどが過ぎただろうか。


 ぽすっと碧の頬に、なにかがもたれてきた。


 ふわりと鼻をくすぐる芳香。ミルクの甘やかさと茉莉花(ジャスミン)の気品、そこにほのかに白桃のような柔らかな瑞々しさを併せたような、くるみ特有の香り。


 華奢な肩からしゃらりと絹糸の髪が零れ、さらさらと隣あった碧の鎖骨を撫でる。


 おや、と思い目を向けると、くるみがこちらに寄りかかって眠りに落ちていた。


「くるみさん……」


 控えめに名前を呼んでみるものの、くぅくぅという可愛らしく規則正しい寝息が途切れることはない。あまりに警戒心のない姿。


 しかしあの完璧主義のくるみが外で隙を見せるのは一体どういうことか、と車内を見渡して、理由が分かった。先ほど乗ってた人たちはみんな降りてしまったようで、ちょうどこの車両に乗っているのが二人だけになっているのだ。


 思い返せば、昨晩はつばめのお泊まりで夜遅くまで通話につきあわせてしまったし、今日も早起きしてたくさん歩き回った。疲れるのも当然だ。


 そう考えると寝かせてやりたい気持ちは山々だが、もし誰かが乗ってきたら、くるみは見知らぬ人間に寝ている姿を晒すことになってしまう。それはきっと嫌だろう。


 そう思って小さく名前を呼び、人差し指でぷにぷにのほっぺを優しく突く。


「くるみさん、起きて」


 出来立ての白玉みたいに真っ白でつるりとした肌に指の腹をふれさせ、つつうとなぞっていく。真珠のようになめらかなそれはきっと、十代の若さのみならず普段からのお手入れの賜物だと思う。


 努力しているんだな、と思いながらくるみの髪の天使の輪をそっと撫でてやれば、それは夕陽を受けて蜂蜜のように光をとろけさせながら柔らかに潤み、ちゅるんとした心地よさを碧の掌に伝えてくる。


 それがくすぐったかったのか、くるみがかすかに身じろぎする拍子に、亜麻色の一房が碧の手の甲を掠めた。はらりと落ちた栗毛が花の唇につくので、くすりと笑ってから小指でそっと払ってやる。


 しかしくるみは目覚めない。どうしたものかと考えてからもう一度名前を呼びかけようとして、碧は口を噤んだ。母親に甘えきる少女のように、無垢であどけない寝顔。そこにくるみが穏やかな笑みを浮かべたからだ。


 同時に潮の残り香がふあっと薫った。それはまるで、今日一日の幸せな夢を見ていることを碧に教えてくれているようで。


 こうなっては、起こすのは憚られた。


 成り行きを見守ろうとしてちょっと首を離すと、それを追いかけるようにくるみの小さな頭がこちらに倒れ、ぽてんと肩にもたれる。その様子が可愛らしくて、碧は優しく瞳を細めた。


 ——本当に綿菓子みたいだ……


 不思議と重さはなく、むしろいつまででもこうしていたいと思えた。


 すぅすぅと、首筋にかかる甘い寝息がくすぐったい。涼やかで濃密な花の香りがいっそう華やかにくらくらと立ち上る。けれどそれは同時に子守唄のように、碧に穏やかな微睡(まどろ)みをもたらした。


 気怠いなかで夢うつつの天秤がゆらゆらと傾きはじめ、閉じたまぶたを染める燐光も見えなくなる。気づけばうつらうつらと舟を漕ぎ、いつしか抗えないままこつんとくるみに重なった。


 夢は始まれども、現実は終わらない。


 明日からも、くるみとの日常は続いていく。

 二年後という終着駅まではきっと途絶えることなく、続いていく。


 かたんことんと線路を進む揺りかご。ねぐらに帰る鳥の声。

 ゆっくりと過ぎていく民家と鉄塔、時折見える木々や草原。


 きっとその上空を、夕陽が黄金とラピスラズリの紺碧にまざり溶けあっている。

 ちぎれ雲が風に流れていく。やがてはひとつ、ふたつと星が瞬きはじめる。


 世界の(いろ)が、移ろいはじめる。



 こうして碧も、オレンジに染まる夢へと誘われていく——


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