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第73話 カラフル(1)

※長めです

 やがて降り立った鎌倉駅は、思っていたよりもたくさんの人が行き交っていた。


 もっと閑散としているかと思っていたのだが、家族連れや若者の旅行客が多く、スーツケースを引いている外国人も結構見かける。しかしつばめに言わせればこれでも空いている方らしい。


 改札を出た外のロータリーのところで、湊斗が言った。


「そういえばお昼ってどこで取るって決めてるの? もしよかったら先にお昼食べた方が良さそうだなって思ったんだけど、どう?」


 ロック画面を見ると、時刻は十一時過ぎ。ちょっと早いかもしれないが、確かにこの人の量だとピークには並ぶことになりかねない。


「私は先にお昼でも大丈夫です」


「僕も朝はサンドイッチだけで済ませてきたからお腹はわりと空いてる」


「私も。いくつか候補は考えてたんだけど、こことかどうかな? 今グループに送るね」


 送られたのは、古民家を改装したごはん屋さん、鎌倉名物のしらす丼専門店、オムライスで有名らしいレトロな喫茶など。つばめの選ぶところはお洒落なカフェとか話題の美味しいお店が多そうだなと思っていたが、意外にも幅広いセレクトだった。


 ひととおり確認して、真っ先に選んだのは湊斗だ。


「俺は古民家のごはん屋がいいかな。メニューの種類多いみたいだし」


「いいね。古い建物ってどことなく鎌倉ってかんじするし。くるみさんは?」


「私もそこがいいと思ってた。……その、囲炉裏(いろり)とか見てみたいかなって」


「じゃあ決まりね。道案内は湊斗がよっろしく!」


「えぇ、なんで俺!?」


「つばめちゃん方向音痴だから分からないの。ちなみにデートで迷わず目的地に行ける男の人はモテるらしいよ♡」


「よし任せろ。海でもカフェでもどこにでも連れてってやるよ」


 地図見ながら歩くのが面倒なだけなんだろうな、と思ったが湊斗には言わないでおくのが花だろう。


 隣を見ると、涼しげな日傘の下でくるみと目が合い、ヘーゼルの瞳を可笑しそうに細める。四人とは言いつつ半分はデートのようなものだよなと思いながら、しかしこの場で手を握る勇気は出なかった。


 湊斗が本当に先陣を切ってくれて、十分ほど歩いた頃。どこか古風で歴史のありそうな住宅街のなかにひっそりと、その古民家カフェはあった。


「わぁ、いい匂い……」


 玄関から入って、そこいらの空気を満たす古い木と畳がまざりあった匂い、そして異国めいたお茶やスパイスの香りに、つばめはくんくんと鼻を鳴らした。


 築百年はゆうに超えていそうな木の造りや欄間(らんま)、大きな大黒柱やあたたかな日差しが照る縁側、冬の間に働いていたのだろう石油ストーブなどの景色がどこまでも長閑だ。そしてくるみの言ったとおり、今は使われてなさそうだが本物の囲炉裏(いろり)がどーんと部屋の真ん中を陣取っていた。


 もし生まれてからずっと日本人として暮らしていたら、夏休みに帰ったおばあちゃんの家でこんな気持ちを味わっていたのかな、と不思議な懐かしさをかみしめてメニューの注文を済ませる。


 お喋りしながらのんびり待っていると、店員さんが料理を運んできた。


 くるみが冷たい白桃の烏龍茶と、鎌倉で獲れた地魚のおかずプレート。


 つばめがマスカットの鉄観音茶と、お野菜とカレー風コロッケのプレート。


 碧と湊斗は、本日の日替わり定食に、それぞれオレンジティーと地産の夏みかんサイダーを合わせた。


「すごい美味しそう! いただきます!」


 うまいうまい言いながらぱくぱく食べ進める湊斗と写真を撮りまくるつばめが向かいの席で、碧の隣ではくるみが上品に魚を箸でほぐしている。


「くるみさん、そのお茶美味しい?」


「うん。さっきひとくち飲んだけれど、爽やかで美味しかった」


「僕もひとくち貰っていいかな」


「どうぞ。私もその紅茶ひとくち頂くわね」


 からんと涼やかに氷が鳴るグラスを受け取って、美しい琥珀色のお茶をちゅるりと口に含むと、みずみずしい白桃と華やかな茶葉の香りがいっぱいに広がった。優しい味のものを好むくるみにぴったりのお茶だ。


 甘さはほとんどなく思わずごくごくいってしまいそうなのを何とか留め、くるみに返す。彼女も彼女でオレンジティーを気に入ったようで、柑橘の甘酸っぱく爽やかな香りに幸せそうに目を細めていた。


「……美味しい」


「レジのところで茶葉売ってるみたいだったからよかったら買おうか?」


「ううん、私が碧くんに白桃烏龍茶を買って贈るの。どう?」


「え? いや美味しかったしあったら嬉しくて毎日のむけど、悪いからいいよ」


 その答えが不服だったのかくるみは眉を下げて、自分のグラスを両手で持ち上げる。


「私いつも貰ってばっかりだから、こういう時にお返ししたいのに」


 そう小さく呟いて、さっき碧が呑んだ烏龍茶をくぴくぴと傾ける。うーん、と唸りながらくるみが何を示しているのか考えてみたが、心当たりがない。


「そんな沢山ものあげてるっけ? ぱっと思いつくのだとあの金木犀のキャンドルとぬいぐるみくらいだし、あとはせいぜいバレン——」


 言いかけたところで、テーブルの下でくるみに太ももをペちりと叩かれた。見ると隣の碧にしか分からないくらい僅かに頬を赤らめて、ちょっとご機嫌ななめそうに魚を箸で口に運んでいる。どうやら碧にケーキをくれたことは他の人に秘密にしたかったらしい。


 じゃあ何かと彼女の言葉を聞き返そうとすると、向かいのお二方と目が合った。


「なんかさ、推せるよね」


「分かる。すっごく推せる」


「何がなの?」


 よく分からないことを言って相槌を打ち合う二人に(とぼ)けて怪訝な眼差しを向けると、二人揃ってにっこにこな笑みを向けられた。隣のくるみは一斤染を昇らせ、居た堪れなさそうにそっぽを向いている。


 鈍くはないので二人が言いたいことはもちろん理解しているが、友人三人だけならともかく隣にくるみがいるなかでその手の話になれば、色々と居心地悪くなるのは免れない。そんななか堂々としていられる男子高校生がいれば、そいつはもう映画の主演でもしてアカデミー賞でも狙えばいい。


 湊斗は追及するつもりはないらしく、話題をころっとかえた。


「そういや、つばめは春休みは福岡に帰るの? あ、おばあちゃんの家は長崎だっけ」


「ううん、会いたいけれど遠いし、お仕事もあるしいいかなあ。湊斗は?」


 サイダーを(あお)ってから苦く笑う。


「いやいや、家の手伝いあるから。けどまあ、今日みたいに遊びに行くくらいならいくらでも大丈夫だから、碧もいつでも声かけてよ」


「声をかけるかどうかはさておき、手伝いがあるとお祖父ちゃんの家にいくのも一苦労なんだ。たいへんだね」


「いやかけろよ寂しいだろ。……まあ親には、家は継ぎたくないなーって言ってるから、卒業したら一人暮らしで自由満喫してやる予定だ」


 それを聞いたくるみは、彼の詳しいお家事情のことは知らないはずだが、気になったことがあったようで当たり障りのないところから問いかける。


「湊斗さんは、もう卒業してからのこと考えてるんですか?」


「え? うーん。どうだろう……」


 学年一の才女からの質問だからか、湊斗は珍しく真剣に考え込む。

 しかし転がり落ちたのは、見栄も隠し立てもない等身大の答えだった。


「いや、ぜんぜんだよ。今言った一人暮らしってのも何となくだし。結局俺も満更じゃないから十年後は何だかんだと店長してそうな気がするし」


 前半はくるみへの回答だが、後半は当て所ないぼやきだろう。


 どこからともなく沈黙の(とばり)が降り、それを押し返すようにつばめが破った。


「そうねー。もし湊斗があのお店を継いだら私は毎日通って常連さんになるし、てかもう常連だし、成人したら毎週末にお酒買って遊びに行ってあげるよ」


「えー何? お前の将来の夢って俺ありきなわけ?」


「私はもう将来のこと決めてるよ。モデルを続けて、いつか自分のブランドを出すの」


 それは、とてもつばめらしからぬ返しだった。


「今好きでしていることをそのまま仕事にするってことか」


「そうだよん。インスタのフォロワーも結構手堅い数字だしね」


 楽しそうにスマホの画面をスクロールする。


 普段はこんなこと話す機会もないが、こいつらもこいつらでちゃんと考えてるんだな、なんて思う。つばめなんかはてっきり、明日は明日の風が吹くさーくらいにしか考えていないと思っていた。


 旅行という日常からかけはなれた一日は、いつもであれば照れくさくて出来ないような話をするのにうってつけだ。


 それはまるで、修学旅行とやらの夜にあるとされる、秘密の恋話みたいに。


 外に目を向けると、古民家の大きな硝子窓から見える梢が春風にさよさよと心地よさそうに揺れている。どこからか庭に迷い込んできた一匹の三毛猫が、草むらをのんびり横切り、くあっと大きなあくびをして去っていく。


 どこまでも平和で、どこまでもひなびた、それでいて温かな時間。


 そんななか、話の矛先は一人の少女に向けられた。


「じゃあじゃあ、くるみんは?」


 三人の視線が向かう先で、栗毛の髪の少女が冷えた烏龍茶を含みながら、きょとんと瞬きをした。


「くるみんは大学まで卒業したらどうするの?」


「……えっと」


 ことり、とグラスが紙のコースターの上に静かに置かれる。


 ヘーゼルの瞳が、揺れる烏龍茶のみなもを見つめる。


 それから言葉を探すように、可憐な口許を何度かかすかに震わせた。


 困っているのは明白だった。


 他の二人は浅くしか知らないのかもしれないが、碧はくるみの家の事情を深く知りつつある。将来を有望視される彼女だからこそ、答えづらいこともあるのだろう。


「私は……」


 陽だまりで儚げな表情を浮かべるくるみが、何故か陽光に照らされた雪のように、今にも解けてしまいそうに見えた。


 どうにも放っておけず、碧は、彼女に手を伸ばしかけ——


「まぁまだ高校生だもんな。けど楪さんほど完璧なら何にだってなれるだろ」


 湊斗が話を引き継いだので、出しかけた手を引っ込める。


 くるみは黙ったままだったが、つばめは暢気(のんき)に続けた。


「なりたい仕事に就いた後はやっぱり結婚じゃない? 女の永遠の夢だし」


「結婚……」


「そうそう! 私はハワイで世界一幸せな結婚式を挙げたい! くるみんは?」


「…………うん。ちゃんと結婚して、幸せになったことを両親に証明しなくちゃね」


 そこでようやく、いつもと様子が違うことをつばめが察知したらしく、出しかけた二の句を引っ込める。


 碧もくるみの表情が曇っていることはとっくに気づいていた。だから柄にもなく何とかしようと、自分の意志もよく分からぬまま手を伸ばしたんだと思う。


 今の彼女を、一人にはしたくなかった。


 だがそれ以上に。くるみから語られる〈結婚〉と言う言葉に、何故か体に杭を打ち込んだような苦しみを突きつけられ——何かを言うことが許されなかった。


 学校ですれ違った誰かが言っていた。楪くるみは人類の理想だとか、皆の希望を具現化した存在だとか好き勝手に。


 そう思われてしまうほど彼女は欠点がなく、誰に対してもつかずはなれず、とはいえ決して境界線は踏みこえさせない。釣り合いが取れる相手など果たしているのだろうか。


 いや……そんな並べた御託はどうだっていいんだ。


 ただの一度も、想像すらしてなかっただけなのだから。


 ——ここまで心惹かれた少女の隣に将来立つのが、自分じゃないことを。


「第一そんな先のこと語ってもしょうがないでしょ。将来なんて誰にも分からないんだし」


 気持ちをごまかすように口を挟むと、そこに湊斗が乗っかった。


「じゃあ俺がお前の仲人か? 親友のよしみで」


「話聞いてた?」


「ちょっと待って。仲人って縁起がいいから独り身より夫婦が指名されるらしいよ。つまり十年後も湊斗がぼっちの場合は……」


「つばめさんよ、哀しくなるからそういうの止めません?」


 友人たちの会話をどこか別世界のように遠く耳に入れながら、ただひとり想念に耽る。


 くるみには幸せになってほしい、とは漠然と以前から思っていた。


 庶民の自分には想像も及ばない小さな箱から出ようと模索し、ひたむきに碧に手を伸ばした少女。そんな彼女に、がんばりに見合う幸福が降りかかればどれほどいいだろう。


 ただ“誰が”を限定しているわけじゃない。もちろん自分の手で出来ればとは思うが、彼女を本当に幸せに出来る人が他にいるのであれば自分じゃなくてもいいと、今思った。いずれ彼らの前からいなくなる自分は、くるみの幸福の足掛かりで構わない。


 ただくるみが他の誰かの手によって幸せになれるなら、それでいい、と。


「碧は? 大学卒業したらどうするの?」


 まだ答えていない碧に、つばめは会話のボールを渡す。考え事のせいでそれを危うく取りこぼしそうになり、碧ははっとして眼差しを持ち上げた。


 湊斗と目が合うと、彼は何かをそっと見守るようにこちらを見つめ返す。

 思い返すのは、いつかの勉強会のこと。


「僕は……」


 泣かせたく、なかった。

 傷つけたくなかった。


 きっと初めて心からそう思える相手が、くるみという少女だった。


 たとえ彼女に将来を誓う契りを結んだ相手がいてもいなくても。


 彼女の涙を見たくはなかった。


 烏滸がましいかもしれないが、碧が卒業後に日本からいなくなることを知れば、きっとくるみは哀しんでくれるだろう。ともすればちょっとくらいは引き止めてくれるのかもしれない。そう言えるくらいの親密さと時間を、ふたりはゆっくりと重ねてきた。


 本当の誠実というのは、嘘も隠し事もしない人のことを言うのだと思う。

 けど、それを今だけは果たしてはいけない気がした。


 ——くるみを傷つけるくらいなら、僕は誠実なんかじゃなくていい。



「僕は……どこにも行かない。平和に平凡にこの街で生きていくつもり」



 ()()()()()()()をまっすぐに見つめながらそう言い切る。

 そこからは、坂道を止めどなく転がる小石のようだった。


「高校生ですでに一人暮らしだから、大学生になっても慣れてるぶん余裕だろうし。大学の春休みってすごく長いんでしょ? 高校の時は年齢制限があったバイトも出来るようになるし、みんなでここより遠くに旅行も出来そうだよね」


 止まらない。


「僕も働いてみようかな。湊斗に誘われてた仕事も楽しそうだよな。美味しいコーヒーの淹れ方も覚えて、夜になったらカクテルも出せるようになったりして」


 重ねて、重ねて。塗りつぶして。


「二十歳になってお酒呑めるようになったら湊斗とビールで乾杯したいし、つばめさんが表紙の撮影をしている旅先までみんなで新幹線に乗って会いにいったり出来るし、くるみさんの門限もちょっとは緩くなるから会いやすくなるし」


 ありえたはずの叶わない未来を、自分が選ばなかった方の将来をただ並べて。

 今、自分は正しく優しい嘘をつけているのだろうか。


「五年後もさ、こうやって集まれればいいよね」


 どの立場で言っているんだ、と自分で舌を縫いつけたくなる。


 もう自分でも何を喋っているのか、ちゃんと話せているのか分からない。

 ただ寂しいのだけ、分かった。


 初めから三年間だけど決めていたのは自分なのに、どうしてだろう?

 分からない。何も、何も……。


 だから自分に言い聞かせる。


「ほら、平凡も悪くないでしょ。だから——」


 ふ、と。

 テーブルの下で碧の右手を優しく包みこんだ誰かの小さな掌が、とめどない嘘を止める。


 はっと視線を空から戻すと、並んでいるのはずっと一緒にいたかったと思える人たち。


 湊斗はそっかと言いたげに、けれど何も言わずにくしゃりと笑った。


 つばめはそういう生き方も格好いいよね、と明るく笑った。


 くるみはただひたすら優しい眼差しで、碧の言葉を聞き届ける。



 そう、これでいい。——これでいいんだ。

 覚悟は決めたはずなのに、どうしようもなく、泣いてしまいたかった。


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