第68話 Fluffy girl's night(1)
春休みまではあっという間だった。
修了式での校長の長い話を終えて教室でバックパックに荷物を詰め込んでいると、前の席で必死に置き勉の教科書を鞄に詰めようとしている湊斗が目に入った。
人にはとやかく言うくせに、と笑いながら碧は冷やかしで後ろから声をかける。
「湊斗さ、荷物多すぎじゃない? こまめに持ち帰らなかったの?」
「あ、いい男発見」
「は?」
「海外暮らしで女の子の扱い方を仕込まれた紳士くんの碧なら当然、彼女の荷物も持ってやってるんじゃないかと思ってね」
手を口許に寄せて小声で強烈な期待をぶつけてくるので、碧は大きく嘆息する。
「なに、湊斗って女の子だったの?」
「こんな格好よくて大柄な女がいるかよ。本当は夏貴に頼もうと思ったけど、睨まれて終わった。まあ冗談だけど」
「笑いどころ教えてほしい」
今日碧はくるみの不在により丸一日暇を持て余すことが確定している。湊斗はなんだかんだ碧が退屈しないように荷物持ちに指名してきたのだろう。
いい奴なんだよな、と思いつつ置き勉の資料集の詰まった紙袋を二つ持ち上げると、しかし思ったよりずしりと指にくい込み、やっぱり本音は自分で持ちたくないからだなとこっそり心中で掌返しをした。
「いや本当に重いな……」
「やっぱり持つべきものは友達だな!」
「女心は秋の空って言うから、僕の気がかわらないうちに行くよ」
「それ何かちょっと違くね? しかもなに、碧って女の子だったの?」
返り討ちにあった。
「ええ、じゃあ何? ……秋の空はうろこ雲?」
「正解から離れてるぞ天然め」
「あーあー聞こえない」
「まあ帰国したての一年前の日本語下手くそ選手権よりはましだけど。あの時なんかほんと……ぷふっ! 『行けたら行く』を言葉通り捉えるやつがいるかっての!」
ここぞと笑ってくる湊斗に裏拳したかったが、両手が埋まっていた。
「けど碧も本当に日本語上達したよなあ。今のはまじでないけど」
「賢い誰かさんのおかげでね」
「その誰かさんは今日つばめとお泊まりなんだろ? 暇ならコーヒーとケーキ奢るからうちに来いよ」
「僕はチーズケーキがいいな。ある?」
「昨日焼いて一晩寝かせてしっとりした奴がある」
昇降口でくたびれた上靴を袋に突っ込み、まるで春を今か今かと待ち侘びているように枝に蕾をつけた桜の木々を過ぎ去り、校門を出る。
外はまさしく春日和という言葉がぴったりな、花催いの暖かな陽気だった。
冬よりもずっと高くなったパステルブルーの空には飛行機雲が気持ちよさそうに棚引いている。道端の陽だまりに咲くたんぽぽやそれに集まる蜜蜂も、始まる休暇に喜び勇む柏ヶ丘高生のボレロやブレザーの群れも、春の到来を喜んでいるように思える。
学期末の最終日ということで授業もなく午前中で学校が終わったゆえにかなり時間を持て余しているのだが、今日ばかりは早めに家に帰ってもしょうがないので、湊斗の声かけは渡りに船だった。
重たい荷物を左手に集約させて、右手でブレザーからスマホを取り出して連絡を返していると、湊斗が思い出したように口を開く。
「そういや碧って今年の春休みはドイツに帰らないんだな。夏も冬も帰ってたのに」
「去年はまだ一人暮らし一年目だったし、親も心配してくれてたんだよ。でも航空券は高いから今年は控えめにしとく。うちが大富豪で気軽に買えるならよかったけど」
「へえ?」
「それに、今年は海外行くこと多くなりそうだからさ。期間限定のバイトでお金も貯めときたいし。語学力要求されるやつは時給高くて稼ぎやすいんだよね」
「とか言いつつ本当はあの人のためだったりして——待って俺の荷物置いてかないで」
「からかうなら持ってやんない」
「ごめんごめん。ほら俺ってお節介じゃん。去年の春に帰国してからあれだけ退屈そうにしていた碧に、少しでも日本に留まりたい理由が出来たのが嬉しいだけだよ。碧もそういう気持ちがあるから春休みは帰らない事にしたんだろ?」
「なんで不安そうに聞くわけ?」
半笑いで尋ねると、隣を歩く大男は存外真剣な口調になった。
「お前の追っかける夢は眩しすぎて俺には計り知れないからな。敢えて聞くが……まだ答えは出ていないんだろ?」
先々月の勉強会の後に交わされた会話を指していることは容易に分かった。
頷くと、湊斗は遠くの綿菓子みたいな雲をついと仰ぐ。
「まあこれも大きなお世話なんだろうけど、後悔しないようにすることだな。お前って同年代と思えないくらい大人びてるから、助言するまでもないだろうけど。……俺もつばめのことで、後悔しないように動かなきゃいけないんだけどな」
「後悔、ね。因みにその気持ちって、聞いてもいいものなの?」
野暮なのは分かりきりつつ尋ねると、案の定しらばっくれられる。
「俺のは因数分解したところで綺麗な何かが残るとも限らんから。いいんだよ」
何を思い返しながらの発言なのかは分からないが、いずれ分かってしまうほどの時間をこの親友とは重ねてきている。
「つばめさんの身長が小さいからってあまり虐めすぎると嫌われるよ」
今だけは春休みを前に、あの綿雲みたく浮かれた気分でいたくて冗談でそう笑い飛ばすと、湊斗もまた「だな」と笑ってリュックを背負い直した。