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第65話 ホワイトデー(1)


 あの日から、くるみの様子が少し違った。


 別にいつも通り話したりはするのだが、どこか心配事がありそうな……なにかを憂うような表情を時折浮かべるのだ。


 本人は隠しているつもりらしいのだが、碧はすぐ見破った。


 そのことを放課後のカフェバーで湊斗に相談すると、


「お前がまた朴念仁(ぼくねんじん)やらかしたからじゃない?」


 と、誰かに連絡中らしく文字を打ち込んでいるスマホ片手に言われた。


「心当たりがない」


「心当たりがないことを朴念仁と呼ぶんだ碧よ。これは大事な日本語だすぐ覚えろ」

 友人に怒られる道理が分からずカウンターに肘をついてぼーっとしていると、カウンター越しに制服のネクタイがぐいっと引っぱられる。


「いいか碧、今日は何の日だ? そう、ホワイトデーだ。つまりお前が今夜やるべきことはここで萎れることじゃなくて……分かるだろ?」


「……最高なお返しをしてくるみさんを喜ばせる」


「さすが、我が友ながら完璧な回答だ。ちなみに贈り物はもう用意してるんだよな?」


 学校ではバレンタインほどの騒がしさはなかったものの、勝者と呼ばれる男子たちは机の横に返礼品を引っ提げ、そわそわしたまま放課後を迎えることになった。


 もちろん碧も数日前に遠出して手に入れた贈り物を、家のクローゼットに隠している。


「買ったは買ったけど。今のままでちゃんと喜んでくれるのか……分からなくて」


 彼女が気落ちしている原因は間違いなく、ルカとの電話だ。


 ずっと今が続けばいいのに、ずっと今が続かないことを知っているから。


 碧の今後を打ち明けるならあの時が一番の折だったのにどうしても言えなかったのは、くるみの気持ちを汲み取ってしまったからだ。


 ようやく首を解放してもらえたので、突っ伏して柄になく湿ったため息を吐くと、湊斗がまじまじと覗き込んでくる。


「いっつもふてぶてしい碧がそういう表情すんの初めて見た。楪さんってすごいんだな」


「僕ってこう見えて繊細な一男子高校生なんだよね」


「お前、繊細って言葉の意味間違えて覚えてるぞ」


 ひどい言われようだった。


 湊斗はどこか窓の外を気にしながら、けどまあ、と続ける。


「お前なら大丈夫だよ。その贈り物とやらも自信を持って、気持ちを込めて渡せばいい」


「何で湊斗がそう言えるの」


「よく分からんが、互いを深く想い合っている事実にかわりはないんだからどうにでもなるさ。だって今から——」


 からんころんと入店のベルが鳴った。


「——ほら、お迎えが来たみたいだぞ」


 気怠さを引きずったまま首をもたげて、目を見開く。


 店の玄関の方では、亜麻色の長い髪をさっと肩から払った少女がこちらを見つけ、カトレアのように柔和な笑みをふわりと浮かべていた。まるでフランス映画のワンシーンでも見たような気持ちだ。


「こんにちは。湊斗さん」


「いらっしゃい楪さん。申し訳ないんだけどこいつ回収してってくれる?」


「ふふ……はい。ほら碧くん、折角だし買い出しして帰りましょうか」


 突っ伏していたところを覗き込むように、くるみが碧の視界で体を傾げた。


 暖かくなってきたからコートは封印し、代わりにアイボリーのショールを羽織っている。綺麗な後ろ髪は丁寧に編み込まれ、余った毛先はくるりと結い上げたうえで白いリボンで結んでいる。非の打ちどころがないくらい可愛い。


 ここ最近は日頃からいろんなヘアアレンジを楽しむくるみではあるが、今日は格段とお洒落に余念がないのはもしかしてホワイトデーだからかな、と思うのは期待しすぎだろうか。ふわりと垂らした横髪がシャンプーの香りを届けてきてぐっと息が詰まってしまう。


 何故くるみが店に来ているのか分からずに混乱したまま湊斗を見ると、大男は明後日の方を向きながら下手くそな口笛を吹いていた。ていうか、すかすかで吹けていない。


「湊斗さぁ」


「お手柄と言え」


「君たち、いつの間に連絡先交換したの?」


「勉強会の時にだよ。ほら、ここはあなたの居場所じゃないわ。愛の巣にお帰り」


 ふざけた冷やかしを浴びせる湊斗をいつもの戯れで引っ叩いてやろうかと思ったが、彼女を呼んでくれた恩もあるし、くるみの前だったのでやめた。


                *


 帰り道はなんとなく互いに何も話さない時間が続いた。


 くるみは今日は親が早く帰る日らしく、長居はできないらしい。それでもわざわざ迎えにきてまで訪問してくれたのは、ホワイトデーのお返しのためだろう。


 明日の分の買い出しをささっと終え、自宅のエントランスを通り抜けた時、碧がようやく口を開く。


「もうすぐさ、春休みだね」


「うん。一年あっという間だった」


「くるみさんがまさか迎えに来てくれるなんて思わなかったから、びっくりした」


「湊斗さんから、碧くんがウイスキー(あお)って酔い潰れてるって連絡きたから」


「僕注文したの烏龍茶のはずなんだけどな」


 確かに、まるで失恋直後みたいな面倒な客だったかもしれない。


 乗り込んだエレベーターで階数表示を見上げながら、右手に下げたマイバッグの持ち手をきゅっと握ると、くるみが言った。


「実はね。湊斗さんとだけじゃなくて、ルカさんとも連絡先を交換したの」


「え。いつの間に。……あいつまさかくるみさんに惚れたか?」


「違くて!」


 くるみは慌てて首と両手をぶんぶん振り、まるで今日を象徴するような真っ白なリボンがひらひらと揺れた。


「その、ホワイトデーのこと相談したりとか……」


「ふふっ……何で自信なさげなの?」


 主人の逡巡を示すように、少女の靴のつま先がちょこんと寄り沿い合う。


「だってあまり慣れてないもん。バレンタインに贈るのも……貰うのも始めてだし。ただの三月十四日に狼狽えてる私なんて」


 一度言葉を切る。


「……らしく、ないかなって」


 しおしおと項垂れる。それがまた可愛くてくすりと笑いながら、彼女の頬を指でとんとんと優しく叩き、首を持ち上げさせる。


「僕はどんな君でも、いいなって思うよ」


 はっと吐息が溢れる。澄んだ大粒の瞳が、こちらを捉える。


「二人とも偶然同じ学校だったけれどさ。多分いつどこで出会っていても、くるみさんのこといいなって思って、仲良くなってただろうなって僕は思う。たとえ住む世界が違うって世界中に思われても、出会えてよかったなって」


「……」


 返事はない。やがて隣を見ると、くるみは恥じらいにとろりと潤んだ瞳を伏せていて、口許を両手で隠していた。


 笑いに昇華させることすら許されない空気。碧としては自分の意見を伝えただけで、まさかそんな反応をされるとは思わなかったので、言葉に詰まってしまった。


 どうにも最近は、彼女との距離を測り違えることが多い。


 妙に甘ったるい空気のまま七階で降りて外廊下に出ると、一歩後ろから手をぐいっと引っぱられる。驚いて振り向くと、照れくさそうに横髪をくるりくるりと人差し指に巻きつけていた彼女は、こちらに静かに近寄ってそっと背伸びをした。


 内緒話がしたいのだろうか、輪っかにした掌を口許にあてがうので、腰を屈めてやる。


 白い頬が一寸先まで近づいて、耳のすぐ横で甘く透き通った声がささやかれた。


「碧くん、私もね」


「?」


「……多分碧くんと同じこと、思ってます」


 衝撃のあまり動転を隠さず見つめ返すと、くるみは伏せた面差しは見せず、先にぱたぱたと玄関先に小走りで行ってしまった。


 発言の可愛らしさと健気さに息が苦しくなり何も返すことが出来なかったが、自分のためにそう言ってくれた——単純にその事実が、碧の心を衝き動かした。


 施錠を解いて家に入る。真っ先に自室に向かってすぐさまクローゼットから小さな紙袋を取り出すのに、勇気なんか必要ではなかった。


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