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第64話 いつまでもずっと(2)

 晩ごはんの後、椅子でくつろぐ碧にくるみはようやく声をかけた。


「ルカさん、すごくいいひとだったね」


「そりゃ僕の自慢の友人だから」


 いつの間にか時計は二十時を回っている。曇天に包まれた月の見えない夜に迷い込んでしまったようで、閉め忘れたカーテンの外はしんとした宵闇に包まれている。家が近いとはいえ門限ぎりぎりになるので、そろそろ帰る準備をしなければいけない頃合いだ。


 それでも、先ほど彼らが話していた言葉が耳からずっと離れてくれなくて。


 何故だかむしょうに切なくなって。


「……いつまでもこんな時間が続けば、いいのにね」


 気づけば小さく、そんな本音を落としていた。


 ——あ、駄目。こんなこと言っても困らせてしまうだけなのに。


 発言を打ち消すように慌てて隣の少年を見上げると、黒曜石の瞳を丸くしていた碧はふっと相好を崩して、くるみに優しい眼差しを降り注がせた。


「僕も同じことを考えてるよ。いつも」


「碧くんも?」


「うん。確かにさっき言った通りドイツ時代も楽しかったけど、今も同じくらい楽しいんだよ。こういうのってどっちがなんて比べるのは野暮でしょ」


 ぽふ、と大きな掌が大雑把に頭に乗せられる。


 普段はきちんと相手との心の距離を測る六分儀を持つ碧だ。海外暮らしゆえにやたら物理的に近いところはあれど、むやみにふれてきたりはしない。


 なのに今こうして優しく撫でてくるのは、くるみの心配を汲み取ったからなのだろう。


 彼の強さや優しさに委ねるように、ぽつりと尋ねる。


「碧くんは……ルカさんとあまり会えなくて寂しくないの?」


「寂しいか寂しくないかで言ったら寂しいよ」


「じゃあ、どうしてそんなに——」


 平気でいられるの、という問いかけは彼の方から阻まれる。


「確かに日本に来たばっかりの頃は海外で暮らした時間の方が長かったし、多忙な母親にも頼れないしで自堕落だったかもだけど。今はくるみさんがいるし、つばめさんも湊斗もいる。昔を懐かしんで今を蔑ろにするなんて、勿体ないから」


 以前彼の思いの丈を聞いたことがあるからこそ、その言葉は尊いものに思えた。


 けれど、いやだからこそ——押し寄せる切なさの波は却って大きくなる。


 昔と同じくらい今を大切にしてくれているこの関係に、もし再び終わりが来たら彼はどう思うのだろうか……なんて。


 潜めたはずの愁いが再び表情に出てしまっていたようで、見兼ねたらしい碧が掌を動かしつつ苦笑交じりに優しく言う。


「くるみさんも寂しいんだ?」


 こくりと頷き肯定の意を示す。


「……確かに比べるのは野暮かもしれないけれど、私は今が一番、楽しいから。この高校に入学して皆と出会うまで、自分の人生にこんな幸福があるなんて思わなかったの。だからいつか終わっちゃうのは……寂しいなって」


 うつむき、堪えかねて本音を零すと碧はしばし無言でいた後、こう言った。


「なら、僕がいいものあげる」


 予期しない提案に、大人しく撫でられていたくるみは思わず碧を見上げた。


「いいもの?」


「そうだなぁ。来週のホワイトデーのお返しのときお礼と一緒に渡そうかな」


「……なんだか申し訳ないです」


「ホワイトデーは不文律って言ったのくるみさんでしょ」


「だって碧くんからはもう可愛い花束を受け取っているのに」


「けど花っていずれ枯れちゃうし、かたちには残らないでしょ?」


「ふふ……大丈夫、あのお花たちなら、ドライフラワーとか押し花の栞にして大事に取ってあるから。折角の贈り物だからずっと手許に置いておきたいもの」


 自分に似合うと見繕ってくれた大切な花たちなのだ。無駄にするはずなんてない。


 プレゼントを枯らせたと思われたくなくてブーケの行く末を説明すると、彼の澄んだ瞳が動揺を示すように僅かに揺れた。


「碧くん……?」


「……いや。そこまで大切にしてくれてるなんて思わなかったから」


「あ——」


 ついうっかり口を衝いて出た言葉が、ある種かなり恥ずかしいことを言っていたのだと想像が及び、頬にさっと熱が昇る。


「そっそうじゃなくて! 外国のコインも金木犀のキャンドルもミ……ウサギさんもハスキーくんも、大切にして当然と言うかっ……えとその、お花を取っておくのは私はただ地球に優しくしたいだけで……」


「枯れた花を土に還すのも地球に優しいと思うけどな」


「う……けどあのお花は私の家にずっといたいって言ってたからいいんですっ! ばか」


「お花と話せるなんてさすが妖精さんだ」


「……っ!!」


 返事をせず黙りこくったのは、こちらに二ヶ月分年上の大人の余裕があるからだ。拗ねたからでも言破(いいやぶ)られたからでも断じてない。


 とりあえずいつもの条件反射で照れ隠しにハスキーのぬいぐるみを抱きしめようと手繰り寄せたところで「このぬいぐるみって碧に似てるよね」というバレンタイン前夜のつばめの台詞を思い出し、頬の熱がどんどんと火傷しそうなほど高まっていく。


 ——確かに一目みた時から似てると思ったけれど、決して本人のつもりで抱きしめてた訳じゃ……!!


 もう頭の中は混乱で真っ白だった。


 おろおろしているのを、くるみの偽物とは違った本物の大人の余裕を湛えた碧が、困ったような優しいような瞳で見守ってくるのが居た堪れなくて。結局くるみはソファにハスキーをころんと放り出し、勢いよく立ち上がる。


「わ、私帰る」


「いや急すぎない? さすがに夜道危ないし送るから後三分待ってください」


「タクシー呼ぶからいい」


「いや余裕で初乗り圏内だろうけど……車乗るまでもなく家近いじゃないですか」


「いいったらいいんですっ。碧くんのばか」


 薪を()べたように火照った頬を見られたくなくて、てきぱき荷物をまとめて文字通り十秒ほどで帰り支度を済ませる。碧を置いたまま一刻も早く家を出ようと夢中で玄関の方を向いたところで——


「待って」


 空いた右手が後ろから不意にきゅっと掴まれ、驚くあまりくるみは亜麻色の髪を踊らせてばっと振り向く。


「どうし…………た、の」


 そうして尋ねた声は照れと羞恥で上擦っていたはずなのに。辿々しく一音を紡ぐごとに戸惑いに塗りつぶされ、生まれたはずの熱はりんと場を支配する空気に奪われていく。


 振り返った先で瞳に映した碧の表情が。




 どこまでも真剣で、まっすぐで——

 何故だかすごく苦しそうだったから。




「あお、くん?」


 呼ぶ声は届かなかった。


 かちかちと鳴る秒針はふと訪れた沈黙にはうるさいくらいで、碧の黒瞳は落ちている言葉を探し集めるように、当て所なく彷徨うように、目を合わせてはくれない。


 すぐに分かった。


 ——きっと今、せめぎ合いの最中で何かを悩んでいる。必死に何かを考えている。


「……」


 うつむいた碧の唇が、少し震えた気がした。


 碧の緊張が伝染(うつ)ったようにくるみもだんだん息苦しくなり、口許をきゅっと引き結ぶ。


 スリッパのつま先、あるいはくるみには見えていないような遥か遠くを見つめ続ける透徹した黒曜石の瞳を、きりきりと苦しそうに細まるそれを見ない方がいい気がして、目を逸らすように静かに瞳を伏せ——


「ふぇっ」


 不意に、何かに頬を挟まれる感覚。


 情けない声が自分から出たと気づくのに時間がかかった。


 こちらに腕を伸ばす碧を見てどきりとするのと同時に、ようやく状況を理解するくるみ。碧がくるみの頬を(つま)んでいたのだ。


「なっ……なにふるのよ」


「ほっぺ柔らかそうだったから。大福みたいに伸びんのかなって試しに」


 バレンタインの時にされたお返しも込めて、と小さく笑った碧に、くるみは羞恥やら嵐が去った安堵やらでへなへなと眉を下げる。


「試ふなら自分のほっぺれなさい」


 これ以上情けない顔を晒したくなくて思わず両手を強く前に押し出すと、むにむにと(つま)んでいた手を離した碧はさっと退(しりぞ)くように一歩後ろに下がり、無邪気に悪戯っぽく……それでいて先ほどの切なさが一匙ほど残った表情で笑った。


 この戯れは儀式のようなものだ。


 ぎこちなくて頼りなくてやるせない空気を、冗談やじゃれあいでごまかして吹き飛ばして。いつも通りの自分たちに戻るための、あるいは自分や誰かの気持ちと折り合いをつけていくための通過儀礼。


 彼は、何かとても大事なことを言おうとして、止めたみたいだから。


 まったくもう、と敢えて怒った振りをして玄関の方を向くと、背中に再び声がかかる。


「くるみさん。……さっきの話まだ気にしてるの?」


 静かに振り向くと碧は、いつになく真剣な表情でこちらを見ていた。


 そんな表情を見せられればいつもみたいに強がる気分にもなれず「うん」と小さく頷くと、碧は優しく目を細めた。


「別に、さ。そんな寂しそうな表情しなくても、明日また会えるんだから」


「……うん」


「大丈夫だから」


「うん……」


 相槌を返すと、碧はくるみの髪にぽんと掌を置いた。


 果たしてこれでいいのか、悪いのか。たった一つ確かに言えることがあるとすれば、先ほどまできりきりと張り詰めていた一本の糸は今はもう弛んでいたということ。


 今日を終わらせてまた明日ねを言うには丁度いい頃合いだった。


「……もう時間だから行くね。私、エレベーターの前で待ってる。せっかく碧くんが送ってくれるみたいだし」


「分かった。すぐ準備する」


 一緒に出ればいいじゃないかと引き止めなかったのは、彼にも一人になりたい瞬間があるからだろう。


 誰かと心を通わせ合うのは、温かくて尊くて嬉しくて——それでもやっぱり難しい。


 どんなに丁寧に言葉を選んでも、その結果誰かを傷つけてしまうこともあるし、思いが伝わらずにすれ違ってしまうもどかしさもある。


 碧とくるみも——告白の勘違いから関係が始まった。


 今となってはそれでよかったなんて思っても、時にはこうしてた方がよかったなんて後悔が人間関係にはつきまとう。


 取り止めもなくそんなことを考えながら玄関へ続く廊下に出たところで。




「……聞かれないから言わないなんて、ずるいよな」




 ため息と共に、限りなく小さく落とされて耳に届いてしまったそれは、何となく訊いてはいけなかった言葉な気がして。


 くるみは何も知らない振りをして、聞いてしまった独り言を忘れるようにリビングの扉を閉め、急ぎ玄関の外へ向かった。


 それが正解の選択だったのかどうかも分からないまま。



 もっと上手くやれたらいいのに。

 もっと器用になれたらいいのに。



 そんな後悔と葛藤を繰り返して、きっと自分たちは大人になっていく。


「……また、雪だ」


 帰り道。雪が空いっぱいにちらついて、わーっと乱れて風に舞っていた。


 笑顔でさよならしたかったから、何を言いかけたのか別れ際に訊こうとして、やめた。



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