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第63話 いつまでもずっと(1)

久々にくるみさん視点です。


 最近のくるみには一つ大きな課題があった。


 ホワイトデーのお返しについてだ。


 女子同士で交換はあれど、男の子からバレンタインデーに何かを貰うというものが初めてだし考えもしなかったから、何を返せばいいのか分からない。クラスのよく話す女の子にそれとなく尋ねてはみたものの、チョコを贈ることはあれど花束を貰ったことのある人は誰もいなかった。


 当然だ、あれはヨーロッパでの慣習なのだから。多分こんなに嬉しくて贅沢な悩みを抱えている人はこの学校にはいない。


 ——碧くんは何を贈ったら喜んでくれるかな。

 私でも碧くんを喜ばせることができるかな——


 教室の自席でそっと幸福と憂いの交じったため息を吐くと、それだけで近くにいたクラスメイトたちがざわめいた。戸惑いと羨望の交じった視線をいくつも投げかけられ、ほんのり狭苦しく思いながらも表情には出さない。


 自分には人づきあいすらよく分からない時がある。それでも皆と近づける架け橋があるとするなら、その先に渡ってみたい。だから距離を置かれて遠巻きに眺められるだけなことにいつも言葉にできないもどかしさを覚えていた。


 けれど……ひとりだけ、自分を特別扱いしない人をくるみは知っている。


「いらっしゃい、くるみさん」


 放課後。玄関の扉を開けて出迎える少年は、おそらく唯一くるみを妖精姫(スノーホワイト)として見ない人だ。


 空を一直線に翔ける(はやぶさ)のようにどこまでもまっすぐな瞳。くるみの想像の及ばないような遥か遠くを見据えていそうな、澄んだ碧空を映した黒曜石を見ていると、吸い込まれそうになる。ぱちりと目があったので照れ隠しに小さく笑って見せると、向こうもふっと力を抜くように相好を崩した。


 バレンタインの直後は互いに意識してなんだかぎこちなかったけれど、今は自然と向き合えている。大丈夫。

 さりげなくトートを奪って廊下を引き返す彼の後ろ姿に何故か心がきゅ〜っとなりながら、くるみはとてとて追いかける。


 リビングに来てからいつもと同じ角度で見上げると、碧はこちらの言葉を待つように、静かに首を傾げた。


「碧くんに聞きたいんだけれど」


「うん?」


「あの……ドイツでは……その、贈り物の……」


「あーホワイトデー? 日本独自の風習みたいだし、お返し別に気にしなくていいのに」


 言葉の通じない外国で暮らした経験ゆえか、少なからず人の考えていることが分かるらしい彼は、くるみの心のど真ん中を占める課題を見事に言い当てた。


「……不文律なのに」


 気にしないでと言われてもここは日本。ホワイトデーがある以上お返しはすべきだし、くるみ自身誰かに貰いっぱなし甘えっぱなしは自分が許せない。納得できずに不平を零していると、用意したグラスにアイスコーヒーを注ぎながら碧がゆるく笑った。


「じゃあ逆に聞くけど、くるみさんは何が欲しい?」


「え……別にお返し目当てであげたわけじゃないからいいわよ。それに気にしなくていいって言ったの碧くんじゃない」


「僕の贈ったドイツ式にお返しは要らないけど、くるみさんから貰った日本式にお返しは必要なの。ほら、ミルクとお砂糖」


「なんだか私にばっかり都合のいい理論に聞こえるのは気のせい?」


「気のせい」


「……ばか」


 彼はそういうところがある。


「私そもそもドイツ式とかもまだよく分かってないし……日本とそっちってそんなに文化とか慣習が違う物なのかしら」


「結構ね。僕も最初は慣れるまで戸惑うことが多かったし。ルカが色々教えてくれたおかげで、今はちょっと人と違うくらいじゃ動じないようになったけれど」


 動じないというか、確かに『この人けっこう天然だ……』と思うことはあるけど、本人には秘密にしようと思う。


 帰国子女万歳、とのんびり言いながら碧はくるみをソファに先に座らせ、後から彼もふたりぶんのコーヒーのグラスを手にその隣に腰掛けた。


「そっか。碧くんはそうやって、世界を広げてきたのね」


「僕とくるみさんみたいな関係が、かつての僕とルカの関係だったかな。いわばルカはくるみさんの師匠の師匠みたいな」


「ルカ……さんって、前に美術室で電話かけてきた人?」


「そ」


「師匠……か。じゃあその人は今の私が知りたいことも……」


 碧くんのほしいものも分かるのかな、と閃いたが、さすがに会ったこともないのに聞ける訳がない。そもそも言葉も通じないだろう。


 やっぱり自分で考えるしかないかな、と結論づけ「お供に甘い物持ってくる」と言い残し立ち上がったのだが、

「なら、ルカと電話で喋ってみる?」


 碧からの突飛な提案が、くるみはキッチンへ向かう足を引き止めさせた。


「え……えええ? けっけれど言葉が……それに会ったこともない初対面だし」


「あいつ一度も来日したことはないけど、僕が教えたから日本語もそこそこ喋れるし。同じ学校の同級生って僕から紹介するし、もし伝わらない部分があれば、通訳するから」


 まるで自分の望みを汲み取ってくれたようだった。


 何ともびっくりな話だが、自分のために大きな橋を架けてくれる碧が、すごく頼もしく見えて。くるみは眩さに思わず目を細める。


「……うん。話してみたい。けどルカさんはいいの?」


「年末年始に会った時くるみさんと話してみたい的なこと言ってたし喜ぶと思うよ。それにくるみさんだって、前に喋らない本より喋る人たちと話したいって言ってたでしょ」


 嬉しかった。自分のことを親友に話してくれたことも込み込みで。


 自分が言葉にしたささやかな願いを、必ず覚えてくれている。


 掬い上げて、かたちにして返してくれる。


 ——彼のそんなところが私は……


 かなりよろしくない思考の行き着く先を予知し、くるみは無理やり止める。羞恥の感情が外に洩れ出ていないか確認するため焦って彼の方を向くと、碧がいつの間にかすでに電話をかけ始めているのが視界に映り込み、慌てて声を上げた。


「え……ま、待って! もうするの?」


「善は急げって言うでしょ。それに時差的に今の時間が……あ、繋がった」


 その一言にぴりりと一気に緊張しながらくるみは、棚から出しかけたクッキーの箱諸共(もろとも)ソファに舞い戻り、居住まいを正す。あまりに急なことに驚きと呆れで二の句も継げずにいたのだが、そんな奔放すぎるところもまた碧らしいのだと思うと嗜める気にはならなかった。


 どうやらビデオ通話らしく、碧はドイツ語で何やら電話の向こうと話してから、おもむろにこちらを向いた。「準備はいい?」と視線で問われたのでぎこちなく頷くと、彼はスマホを掲げたままこちらに寄り、一緒に一つの画面を共有する格好になる。


「!」


 近さゆえに彼特有の爽やかで温かみのある匂いがふわっと押し寄せた。それどころか彼の吐息が肌を撫でるし体温まで伝わってくる。どきどきと高鳴る心拍が伝わってないか心配になるくらいには近い。


 思わず氷の彫像になりかけてしまうのは、知らない人への挨拶よりも隣の見知った男の子のせいだ。多分向こうはこれが日常だったから意識すらされていないのだろうけど。


 ベルリンはまだ朝らしく、画面全体が白っぽい光に満ちている。その真ん中にひょこっと顔を覗かせたのは綺麗な碧眼とブロンズヘアの男の人だった。


 なんていうか、醸す雰囲気が同じ高校生と思えないくらい凄く大人っぽい。耳にたくさんピアスを開けているところはさすが自由な海外といったかんじだ。


 碧と物理的に近すぎるせいで左上に映っている自分が真っ赤なのは恥ずかしいが、碧の日本の友人代表の一人として第一印象をちょっとでもよくしようと姿勢を正して折り目正しく挨拶する。


「初めまして。楪くるみといいます。碧くんにはいつもお世話になっております」


『あ、見えたー。こんにちは、ルカです。……Nun, gibt es in Japan Ehrentite?(えっと、日本て敬称あるんだっけ?)』


 思いの外日本語が流暢なことに目を瞬かせていると、碧がしれっと横から口を挟んだ。

「くるみ様って呼ぶといいよ。学校でもそう呼ばれてるし」


「ちょっと碧くん!?」


 発言を撤回させようとくるみが碧の肩を慌てて小突くと、碧はこっちを見て楽しそうに笑った。どうやらまた掌の上で転がされていたらしい。最初の頃はどう反応すればいいか迷ったけれど、今は碧が笑ってくれているならそれでいいと思っている。


「今のは嘘。僕と同じくるみさんって呼び方でいい?」


「そ、それで大丈夫です」


『くるみさんね。僕そんな日本語得意じゃないから、分からない言葉あればドイツ語で話しちゃうかも。そん時は碧がなんとか訳してくれるでしょ』


「任せて。今後の練習だと思ってやるから」


 今後とは何のことを言っているか分からないが、兎に角せっかく碧が用意してくれたチャンスだ。色々話してみたいことはあるが、まずはこの間のお礼を言わなければ。


「あの……ルカさん。実はこの間碧くんからルカさんのチョコを少し分けていただいて。ドイツのチョコ食べたのは初めてだったんですけど、すごく美味しかったです」


『どういたし……え、あのチョコ?』


「あー……僕が間違ってあげちゃった」


 碧が気まずそうに言うと、ルカが慌ててばちんと手を合わせた。


『Tut mir leid, das war mit hohem Alkoholgehalt, nicht wahr? War das in Ordnung?(ごめん、あれ度数高めの洋酒入りだったよね? 大丈夫だった?)』


「わっ私は大丈夫です……?」


 何を言ってるか分からないものの、ジェスチャーで謝ってることは分かるので咄嗟にそう返すと、今度は隣の碧に向かって説教ぽいトーンでドイツ語をぶつける。


『Ich habe dich geschickt, um dich betrunken zu machen, warum solltest du es jemand anderem geben?』


 碧は自分が怒られたのにも関わらずのんびり通訳した。


「今のは〈お前を酔わせるために送ったのになんで他の人にあげちゃうんだよ〉ってさ」


「ご、ごめんなさいっ。私がドイツのチョコいいなってなっちゃって……」


『違う違う、悪いのは全部こいつ。昔からいっつも勝手して僕のこと困らせてたんだから。たとえば……Vor fünf Jahren kam er plötzlic——』


「〈五年前なんか急に僕の家に遊びに来たと思えば、僕の苦手な唐辛子味のお菓子沢山押しつけて帰ってくし〉……いや嫌いだって知らなかったんだよ。折角の日本土産なんだから文句言わないでほしいな」


 過去のことを掘り返されたのに隣の碧は特に気にした様子もなく、ひょうひょうと返している。きっとこのやり取りが普段の延長線上にある戯れだと分かっているのだろう。互いを知り尽くした知己の親友と言った風情だ。


 今の自分にはつばめという親友がいるものの古くからの長い友人はいないから、彼らがちょっぴり羨ましかった。


「……なんか昔の話聞く限り、今と全然かわってないですね、碧くん」


『そうなの? 日本でも自由奔放してる?』


「自由奔放もなにも、今だって私がドイツのこと知りたいって言ったら急に電話し始めて……迷惑じゃなかったですか?」


『あははっ確かに相変わらずだねえ本当。碧の昔話いっぱいあるけどもっと聞きたい?』


「おい」


「聞きたいですっ」


 思わず食いついてしまい碧からは物言いたげな視線を向けられたが、ここはどこ吹く風で受け流そうと思う。


 ルカが昔を思い起こすふうに虚空を見上げて、それから嗚呼と手を打った。


『とっておきの話があるんだよね。学校終わった後に僕と碧が、えっと……Ich war mit dem Fahrrad im Wald unterwegs, als er über einen Stein stolperte und schwer in ein Gebüsch stürzte und weinte.——はい碧訳す』


「〈森で自転車乗ってたら碧が石に蹴っ(つまず)いて茂みに盛大に突っ込んで泣いてた〉だってさ。……何で僕がさっきから自分の昔の笑い話を通訳しなきゃいけないわけ? 公開処刑?」


『たまにブレーキの壊れた車みたいだからね碧は』


「ふふっ、子供の頃は今よりずっとやんちゃだったのね」


「今よりって……今は落ち着いてるから、それなりに」


 碧が居た堪れ無さそうにコーヒーを呷るのが面白くて、くるみは思わず喉を鳴らして笑った。


 ルカはまだまだ話を続ける。


「〈日本の高校入学前に碧が、すげー沢山敬語の練習してた〉と。……日本では初対面でため口だと失礼って父さんに言われたからね」


「だから私には最初敬語だったの?」


「もし敬語使わなかったら馴れ馴れしいやつって思って仲良くならなかったでしょ?」


「それはまあ……そうね」


『あははっ否定しないんだ』


 その後も二人は思い出話に花を咲かせた。


 くるみは碧の知らない一面を知って時折くすくすと笑う合間で、すっかり話し込む隣の彼の横顔に見入ってしまった。


 なぜならそこには、今まで見たことないくらいに無邪気な笑みが浮かんでいたから。


 本当に小さな頃からの友人で仲がいいんだな、と思う。湊斗と仲がいいのは知っていたが、九年間積み重ねた時間の多さと結んだ絆がくるみにもじんわりと伝わった。


「あの頃は楽しかったよね。毎日何するにもいつも一緒だったし」


 碧が遠くを見るような瞳で言えば、ルカもまた碧眼に郷愁を抱いた揺らぎを見せながらぽつねんと呟く。


『こうして九千キロも離れたところから電話するようになるなんて、思わなかったな』


「会えるのなんてよくて年に一回の年末年始か夏休みくらいだもんね。それだって予定合わせるのすごく大変だし、航空券は高校生のバイト代で賄うにはだいぶ高いし」


『だよね。……僕、ずっとあんな楽しい日々が続くと思ってた』


 静かに紡がれた言葉に、くるみは思わずはっと息を呑んだ。


 それは奇しくも、くるみが碧と出会って打ち解けて仲良くなって——そうなってから何の根拠もなく漠然と信じていたことだったから。


 今年のクリスマスはこちらから贈り物をする予定でいたし、その先だって当たり前のように考えていた。


 〈今の楽しさや幸せがずっといつまでも〉


 そんな曖昧な約束なんて、誰もしてくれるはずないのに。


 思えば今までもそうだった。自分をあれほど可愛がってくれた兄は、独り立ちで遠くへ行ってしまった。くるみの成長に伴い家族も忙しくなり、家の中で会話することもほとんどなくなった。


 碧がルカと遠く離れてしまったように、くるみと碧もいずれは——。


 テーブルの下で人知れずロングスカートをぎゅっと握りしめる。


「時間は万物に平等だけど、残酷なまで大切な何かをかえてしまうこともあるから」


『大好きだったお店もいつかなくなるし、昔あれほど好きで夢中だったものが今ではそうでもなくなるし、よく遊んでいた人と街ですれ違うことすらなくなる』


「まあ僕は今だって同じくらい楽しいけどね。ルカは昔()って言ったけど僕からしたら昔()……だよ」


『へえ、感慨深いな。この間まですごい退屈してそうだった碧がね。けど別れた友達となかなか会えないのはそれでいいわけ?』


「贅沢は言ってられないさ。それでも今こうやって話せてるからいいよ、僕は」


『Wenn Sie eines Tages von ihr getrennt würden, ……könnten Sie dann dasselbe sagen?(もしある日、彼女と離れ離れになったとしても、同じことが言える?)』


「……さあ、どうだろうな」


『あはは、それは訳さないんだ?』


「……」


 隣を見ると、碧はなにかぼんやりと考え事をしているようだった。


 多分今のは二人だけで話したかったことなのだろう。くるみには分からないし、きっとわかる必要もないことなのかもしれない。


 その後は碧がしばらく席を外してくれて、その間にドイツでのホワイトデーの風習のことを聞いたり連絡先の交換をしたり。名残惜しかったが、彼が戻ってきた頃、他愛もないことを話して通話を切った。


今回ドイツ語出てくるのですが、ちょっと時間なくてルビ振り作業できませんでしたすみません。。。


またドイツ語分からないくるみ視点のお話なので一部和訳自体つけるか悩んだところがあるのですが、

意味わからないのはさすがによくないかなとおもい振ることにしました(*´꒳`*)


和訳は()で囲ってますが、時間ができた折に改稿でルビに直します。

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