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第62話 チョコレート箱より甘い日(2)


 どきどきしながら迎えた放課後、くるみはやってきた。


 この間のチョコレート事件をまだ引きずっているのか、くるみはやや動きがぎこちなく緊張しているようで、何故か山になっていた洗濯物を畳んでくれたり、自分で洗おうとした弁当箱を代わってくれたり。頼んでもいないのにせっせと世話を焼いてくれた。


 いい歳した男子高生が同い年の女の子に子供扱いされるのは恥ずかしいし、なにより彼女を家政婦扱いしているみたいなのが気が引けて「お手伝いさんでもないんだし大丈夫だから座ってて」と言い聞かせると、ちょっぴりばつが悪そうにしながらもソファに座ってくれた。


 何はともあれ、問題は贈り物だ。


 もし他に好きな人がいて既にチョコレートを渡してたらどうしようと心配になったが、そもそも碧はそんな懸念を抱く立場も筋合いも意味もないので考えるだけ無駄である。


 ——と、思っていたのだ初めは。冬休み明けの上級生に対する裏を読む余地もないはっきりした回答もあったが、やはりどうしても気になるのは気になるので思い切って尋ねてみると、


「……まだ誰にも渡してない」


 との何故かためらいと困惑の交じった返事があり、ほっとすることとなった。


 そして食事の終わり、労いのために碧はキッチンに立ち紅茶を淹れていた。


 最近、くるみの好きだというアールグレイのミルクティーを食後に出すのが日課になっている。紅茶の淹れ方は彼女の方が熟練で、温度管理やら湯の注ぎ方まで徹底しているので、美味しいものを飲むのなら彼女に任せた方がいいのは確実だ。


 だがそれだと労いにならないし、彼女に任せっぱなしにするのも自分が嫌なので、こうして碧が率先して淹れている。くるみにはお気に入りの銘柄の茶葉があるのだが、見るからに高級そうなそれを碧の練習で台無しにしたくはないので、これは通販で買い求めたものだ。


 ちなみにポットもくるみの持参した私物で、聞いたわけじゃないが多分お値段は相当しそうなので毎度扱いにかなり慎重になっている。


「はい紅茶。いつも通りミルクたっぷりで角砂糖一つ」


「ありがとう」


 くるみは料理上手のくせに猫舌だ。


 完璧主義な本人は隠しているつもりらしく、熱い紅茶を出そうものなら、いつも碧が明後日の方を向いた隙に、大真面目にふーふーして必死にぬるくしてから頂いている。秘密にしてるつもりなのにすっかりばればれなのも含め、その小動物めいた姿が幼なげでとても可愛らしいと主に碧に人気である。他の誰かに見せるつもりはない。


 事前に粗熱を取ったカップの乗ったソーサーを差し出すと、くるみは清淑な動作で静かに受け取り、一口すすってから目尻を下げた。どうやら合格らしい。


「碧くんも紅茶の淹れ方がずいぶんと上達したわね。ちゃんと美味しいもの」


 爽やかなベルガモットの香りに頬を緩ませるくるみを満足げに見てから、碧もダイニングテーブルの向かいに座る。


「まだまだくるみさんには遠く及ばないけれど、自分でもそう思います。……くるみさんにさせてばっかじゃ申し訳ないし、僕も料理覚えようかな」


「私のは好きでやってることだから! それに契約の話もあるし、料理まで碧くんに任せちゃったら私が返せるものがなくなっちゃう」


「気にしなくていいのに。僕が新しいことに挑戦してみたいだけだから。そうだなあ、料理をいったん保留にするなら、つばめさんがやってたみたいにお菓子を焼くとかやってみたいですね。くるみさんのチョコクッキー美味しかったしまた食べたいなあ」


 何の気なしに言うと、かちゃんとカップとソーサーがぶつかる音がした。驚いて見るとくるみが面映さと羞恥を動揺を綯い交ぜにしたような奇妙な面持ちで瞳を伏せ、紅茶のカップを手に動きを止めていた。


 普段は絶対に音が出ないように優雅に食事をしているのにあまりにも珍しいな、とのんびり考えたところではっとする。今のはまるでチョコを催促しているみたいじゃないかと思い至り大いに後悔した。がめつい男と思われただろうか。


「……大丈夫? さっきのはそういうつもりじゃなくて、ごめん」


 とりあえず場の空白を埋めたくて碧が陳謝すると、しかしくるみはしばらく押し黙ったまま揺れる紅茶のみなもを見据えた後、両手で包んでいた紅茶のカップを辿々しい動きでかたんとテーブルに戻す。そのまま立ち上がったかと思いきや、ソファの方にとてとてっと小走りで逃げるや否や、並んで座っていたハスキーのぬいぐるみを抱きしめて呟いた。


「……お菓子」


 なんだからしくない様子に不思議に思いつつ、碧も自分のカップを持ってソファに座った。ふかっと沈み込むソファに取り残されるようにくるみがかちりと体を固くしては、入れ替わりのように勢い良く立ち上がる。


 決意と困惑と迷いを等分させたような瞳を不意にこちらに向けると、くるみはぎくしゃくした動きで壁に近寄り——それから天井の主照明をふっと落とした。


「え、なに?」


 辺りがしんと仄暗くなり一瞬何が起こったか分からず瞠目するものの、どうやらフロアランプは残しておいたようで、リビングを温かなオレンジの灯りと、窓から差し込むほのかな夜景と雪明かりだけが二人を柔らかく照らしている。


 くるみの水晶の花のように華奢で繊美なシルエットがぼんやりと浮かび上がり、手入れの行き届いた美しい亜麻色の髪が夜の光を受けて、今だけは煌々と深みのある栗色に輝いていた。


 まるで今から何か儀式が始まるような行いに、碧はどくどくと脈が早まりだす。


 何をしているのか、と問うより先にくるみがそっぽを向いたまま、辿々しくひっくり返りそうな声で言った。


「碧くん、目を……瞑ってくれますか」


「え?」


「いいって言うまで絶対に……開かないで、ね」


「あ……はい」


 碧の諾否(だくひ)を許さぬほど弱々しく切実な響きをしていたので言われるがまま目を瞑った。真面目なくるみがいたずらなどするはずがないのだが、この状況を考えるとあまりに不協和がすぎて、どんどん混乱が加速する。


 ひょっとしたらキスくらい——そんな親友の言葉を思い出し、不覚にも期待している自分がいることに気づいて嫌気が差した。


 どっどっと音を立てる自分の心拍にだけ耳を澄ませていると、不意に温かな暗闇の中でかさこそ……とリスが落ち葉の上を駆けるような微かな音が耳朶を震わせた。それからしゅるりと、己の鼓動の大きさで聞き逃してしまいそうなほどに小さな、衣擦れの音も。


 そして最後には——ことりと目の前に何かが置かれる音。


 一体何してるの? と思いつつ謎の緊張で限界まで脈が早まり——ようやく「もう開けていいよ」と震える声がすぐ近くから聞こえたので、おそるおそる目蓋を持ち上げると。


「え……これ」


 目の前のテーブルにあったのは、小さなデザート皿だった。


 その中央にお上品にちょこんと鎮座しているのは、切り分けられたものではなく、碧の両手がつくる輪っかに収まるくらいに小さなホールケーキ。


 まるで碧ひとりのためだけに一から用意されたような、そんな丁度いい大きさだ。


 隣には空の白い箱と、解かれ役目を終えたパステルカラーのリボンが置いてあり、衣擦れの正体はこれだったのかと悟る。


 碧は虚を衝かれたまま、改めてケーキに視線を向けた。クリームが積もりたての雪のようにまっさらな地平線をどこまでも続けさせ、真っ白なそれとコントラストを成すように、上には削った焦げ茶のミルクチョコレートの落ち葉が降り積もる。


 象徴のように並ぶのは、寝かせた葡萄酒みたいな深紅が色っぽいさくらんぼ。


 ふわ——と初夏を思い出させる甘酸っぱい香りとキルシュの酒気が、チョコレートの濃密な甘さとほろ苦さの合間に控えめに、くらくらと立ち昇ってくる。


 ひどく懐かしい気持ちになり、碧は身を(よじ)りながら、ソファの横にもじもじと立つくるみに尋ねた。


「……これもしかして、キルシュトルテ?」


 くるみはもう一杯一杯みたいで、うつむいたままもじもじと細い両手を後ろ手にしてこくりと頷く。暗いせいで表情は見えない。


「この辺にキルシュトルテなんて売ってるパティスリーなかったと思うけど、わざわざ遠出して買ってきてくれたの?」


「……売ってない」


「え?」


「それ……売り物じゃなくて、私が焼いたの」


「焼いた? くるみさんが……?」


 信じられない思いになりもう一度ケーキの方を見る。


「いつもお世話になってる碧くんが、ちょっとでも長年育ったドイツのこと思い出してくれたらいいなって思って……。レシピは色々調べながら好みになるよう調整して、その、ちゃんと本場のみたいに上手く出来たかどうかは分からないけど……」


 返ってきたのは気恥ずかしさからか上擦った、蝶々の鳴き声のように小さな声。


 いつだったか一ヶ月ほど前の帰国直後の日、碧に何かお返しをするというくるみの決意と予言(かねごと)を思い出す。ささやかなものだと思っていたがとんでもない。馴染みのないだろうこのケーキを調べて焼くなんて、たくさんの手間暇と少なくない量の愛情がなければ出来ないことだ。


 きっとそれは、碧のためだけに。


 心に何か温かなものが湧き上がってくるのを覚えながら、碧はそっとフォークを持ち上げる。


「貰っても、いいの?」


 こくり。


「じゃあ早速いただきます」


 夏と秋と冬を織り交ぜた特別な一日みたいなケーキに逸る気持ちを抑え、そっとフォークを沈み込ませた。柔らかなココアスポンジをそのまま押し切ると、みっちりと目が詰まった生地のほかに美しいクリームの断面が現れる。


 そのまま口に運ぶと、まず濃厚なチョコレートの風味が舌に染み入った。続いてずっしりと冷えたバタークリームが舌の熱で甘く溶けて、それと対を成すようにふんわりと軽やかなキルシュクリームの大人びた香りが口いっぱいに広がる。


「……何これ、すげえ美味しい」


 本場はさくらんぼ風味の蒸留酒をしっかり効かせるのだが、このレシピは分量が調整されているようで、碧が未成年だからか洋酒の風味は控えめ。カカオと果実とミルク、という全く違う味覚が絶妙な調和のなかで天秤を釣り合わせ、おそらく碧一人で全て頂くことを考えて控えめな甘さにゴールしている。


 丸ごとぺろっと腹に収められそうなほどの丁度いい味わいが計算され尽くされたものなのにも脱帽だが、そもそもドイツ育ちの碧を唸らせるのみならずランキングを塗り替えるほど美味しいキルシュトルテを出してきたのには、彼女の料理の腕と努力を改めて知らしめられた。


「あのさ……これやっぱり、もしかしなくてもバレンタインの贈り物?」


 訊くのは野暮だと分かりきっていつつも意図の真相と正解の言葉が欲しくて尋ねてみると、くるみは押し黙ったままきゅっと唇を結び、注視していなければ分からないほど小さくこくりと頷いた。そういえば日本では女の子がチョコを贈る日だったな、なんていまさら湊斗との思い出し、頬が僅かに熱を帯びる。


 と同時に一つ疑問が残ったので、それは素直に訊いてみることにした。


「誕生日でもないのに暗くしたのはどうして?」


「……別に何でも。ケーキを味わうには……空気が大切、なの」


 空気とは一体? とならざるを得ない何とも曖昧な返答だったが、大義名分のある目的を伝えられれば碧も頷く事しかできない。


「そっか。けどびっくりした。女の子にチョコ貰うのは初めてだったから」


「は、初めて……」


「ドイツと日本じゃ風習が違うみたいだから。まあ僕がもし日本に十六年暮らしていたところで貰えていたとも限らないけど。……だからすごく嬉しい」


 人生初のバレンタインチョコレート。たとえそれが義理であろうと、くるみから貰えたという一点において嬉しいことにはかわらない。もぐもぐ頬張りながら「ありがとう」の気持ちを込めてくるみを見上げると、はた、と居心地悪そうにくるみの動きが止まる。


「出来ればこっちは……見ないで。碧くんは……ケーキ……召し上がってて」


 いつもの彼女らしからぬ、どこか熱っぽく慌ただしい声でそう言われれば、碧は余計に目を向けてしまう。と同時に、仄暗いロマンチックな空間でも隠しきれないほど上気したなめらかな頬が、一際鮮やかに碧の瞳孔を射抜いた。

 碧がじーっと目を向けるので、くるみもくるみで恥じらいから視線から逃れるようにだんだんと慌て始め、やがてハスキーのぬいぐるみに顔を埋めてさくらんぼに負けじと赤くなった頬をさっと隠す。


 ——そこでようやく、彼女の意図が分かった。


 義理とはいえバレンタインチョコを堂々と渡すのが気恥ずかしかったから、せめて灯りを暗くして、照れを碧に気取られないようにしたかったのだ。


 気づいた瞬間、くるみの健気さといじらしさに心がきゅんと疼き、息が詰まった。そして碧もまた、今空間を照らすのがフロアランプだけなことに大いに感謝した。自分の頬にまで火傷しそうなほどの熱が宿っていることに、気づいていたから。


 気恥ずかしい空気に堪えかねたように、くるみがそそくさと荷物を持ち上げる。


「じゃあっ……私は、これで。おやすみなさい、碧くん——」


 裏返りそうなほどか細く揺れた声でそう言い残し、もはや最後の方は喋ったまま踵を返して玄関に急ぎ足で逃げていく。しかしまだ碧はくるみに用事があるのだ。そのまま帰すわけにはいかない。考えるより先に、体が動いていた。


「ちょっと待って、くるみさん!」


 フォークを置いてから、ソファの陰に隠していた紙袋の中からとあるものを引っ掴み、玄関を今にも出ようとしていたくるみに追いつき、碧は今日渡す予定だったものをくるみの鼻先に勢い良く突きつけた。


 バレエシューズに慌てて片足を突っ込んだくるみは、靴箱に手をついたままこちらを振り向き、耳朶を真っ赤に染め上げながら、目を白黒させている。


 早鐘のような鼓動が響くなか、碧は思い切って言い放った。


「これくるみさんに……受け取ってくれると嬉しい」


 差し出したのは小さな花束だった。


 春の日差しのようなフリージアと気高く格調高いアマリリス、そして清楚に枝垂れ咲くスイートピーを少しずつ束ねた、ささやかな純白のミニブーケ。緊張による碧の手の震えに合わせて、清楚な甘い芳香が花びらから上品に立ち上る。


「ドイツのバレンタインは日本のそれとは逆で、女の子に花束を渡す日……だから」


 真っ白で可憐な花々はくるみにさぞお似合いだと思い、店先で碧が選び抜き、店員さんに頼んでわざわざ束ねて貰った。


 男が女に花を贈るだなんて、きっと万国共通で言い訳のしようもなく()()()()()()だ。


 だからこそ、ぎりぎりの直前まで迷った。いくら日頃のお礼と自分に言い訳したところで、抱いた気持ちに見ないふりをしたところで、周りの目にどう映るかは碧に選べない。


 フラワーショップに行くのに何度も決心を迫られ、湊斗に背中を押され、今日の放課後にようやく購入できてから今渡すに至るまで、やっぱり止めようかななんて何度も思い渋った。


 ——でも渡してしまった。


 一歩進んだ以上、もう時は巻き戻せない。


 今の気持ちに向き合わねばならない時が近づいているのかもしれない。


 贈り先の女の子は今、花束を目の前にして余裕なさげに目を瞬かせている。


「白い花束、くるみさんに似合うと思って」


 向こうで主流である薔薇を選ばなかったのは、棘でくるみが怪我してしまわないか心配だったからだ。断じて恥ずかしいからとか、まるで心底君に惚れていると公言しているようなものだからではない。


 似合うと思って、という碧の言葉にくるみの息を呑む気配が伝わってきた。ヘーゼルの大粒の瞳に夢見るような光が差してちゅるんと潤むのを、碧はただただ見守ることしかできない。


 そっと受け取ったのも束の間。


「っ……ありがとう」


 上擦った声で居た堪れなさそうにそれだけ言い、ブーケをかき抱いては逃げるように玄関を出て、それからぱたんと扉は閉じられる。


「え、あ……」


 一瞬のことだったのでしんと残る静寂にしばらく放心していたものの、我に返ったとたん全身から力が抜けたことで、己の緊張を遅ればせながら自覚した。はぁと余裕なさげな長いため息を吐き、堅く閉ざされた扉に体を預け、ずるずるとしゃがみ込む。


 思ったより呆気ない受け渡しだったのが、今の碧には僥倖だった。

 この間の花咲くような笑みを向けられていたら、きっと必死に繕ったポーカーフェイスが保たなかっただろうから。


 ——僕はがんばった。ちゃんと渡せた。


 自分に敬意を表し(ねぎら)いつつ、激しい心拍を収めようと深呼吸を繰り返す。

 舌の上に残るのは、くるみ手製のキルシュトルテの甘美な後味。


 初めて彼女と会った日の手厳しい言葉のように僅かにほろ苦くて——そしてそれ以上に、何故かすこぶる甘かった。





 そして玄関扉を一枚へだてた向こうでも同じように。


 牡丹雪が舞い散る通路で、花束を大切そうに抱きしめたくるみが碧と同じことを考えながら、ドアにもたれかかってはか細い呻き声を洩らしてしゃがみこんでいることに——碧はついぞ気づくことがなかった。


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