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第61話 チョコレート箱より甘い日(1)

 訪れた二月十四日は、朝から牡丹雪(ぼたんゆき)が降っていた。


 ホワイトバレンタインだと学校中は盛り上がり、いつもより一段上の喧騒に包まれ、そわそわ落ち着かない様子だ。


 ドイツ暮らしの碧からすればバレンタインは夫婦や恋人のための感謝の日なので、あまり関係ないつもりだったのだが……いざ日本で目の当たりにすると、想像との違いに驚いてしまった。校舎内ですれ違う男子のあちらこちらが皆何かを期待するように浮き足立っていたり、それを隠そうとしていたりと騒がしい。つまり皆恋人がいて、()()()()()プレゼントを用意しているということだ。


「みんな彼女持ちとか、意外と充実してる人多いんだなあ」


 思わず呟くと、前の席の湊斗が何言ってるんだこいつみたいな目でこちらを見る。


「彼女居ないからあんなそわそわしてんだろ? 居たら絶対もらえるんだからもっと自信満々に堂々構えてるはずだろうが」


「え、何の話してるの?」


「それこっちの台詞なんだけど碧が何なの? もしかして向こうにバレンタインの風習なかったりする?」


「いやあるけど。夫婦とか恋人同士で、男が女の子に贈り物する日でしょ? 花とかチョコレートとか。時々女の子から男に、もあるみたいだけど」


 つばめさんみたいに、とはさすがに口を噤んだが湊斗は心底呆れ顔だった。


「……たまにすげー爆弾ぶちこんでくるよなあお前って。日本のは女の子が意中の男にチョコをあげて好意を伝える日なんだよ。逆だ逆。男は女にホワイトデーに返すの」


「え、そうなの? 初耳だけど。ていうかホワイトデーってなに?」


「そこからかよ。毎年のこの特別な高揚と何も貰えなかった絶望を知らずに育った碧を羨ましがるべきか憐れむべきか……」


 複雑な面持ちで眉間を抑える湊斗に、碧はようやくぴんと来た。


「じゃあこの人たちが気にしてるのってもしかして」


「意中の女の子からのチョコかあるいは十中八九……楪さんからのチョコだろうな」


 合点がいき、碧は思わず苦笑。午前からそわついてた彼らは恋人がいる訳じゃなく、ただ妖精姫(スノーホワイト)様からのお恵みを期待しているということらしい。


「残念だけど多分お(こぼ)れに預かるのは無理なんじゃないかな。男子の誰か一人にでも渡したら学校中大騒ぎだろうし、用意するつもりないらしいし」


「だろうな。けどあの人は碧にだったらくれるんじゃないか?」


「ない」


「何でそう言い切れるんだ?」


「あんな可愛くて努力家で人望が厚い人が、僕だけに特別扱いなんてあるわけないでしょ。何を根拠にそんなこと」


「本気で言ってる? 根拠なんかそこかしこに転がってるだろ」


 どうやら湊斗もふざけて言ったわけじゃないらしい。


 が、碧とくるみの仲の良さはそういう類のではなく、形容し難いが一番近いのはあくまで〈親愛なる人〉だろう。男女間の友情が成り立つか否かの論議はさておき。


 あんな神の鍾愛(しょうあい)を受けたと思しき完璧美少女——というよりは本人の努力が功を成しているのだが、兎に角あの非の打ちどころのない才色兼備が碧を好むなどあるはずない。


「前言ったよね、僕の周りで相関図考えて萌えたりすんなって。湊斗だって誰かさんからチョコ貰えるんじゃないの?」


 碧は先日つばめがお菓子づくりの練習にうちに来たことを思い出したのだが、湊斗は貰えるとはからきし思っていないようで、鼻で笑っていた。


「それこそありえないだろ。そんなことよりお前らだよ、碧はあの人から貰えないとなると逆に何か贈ったりはするつもりなの? ドイツ式バレンタインってことで」 


 思わぬ方面からの問いかけに、碧は言葉を詰まらせる。


「んー……まあ考えてなくはなかったけど」


 正直なところ、碧はかなり悩んでいた。というよりは現在進行形で悩み続けている。


 もちろんドイツ式に則りくるみに贈り物を渡すかどうかを、だ。


 日頃の感謝と言えば聞こえはいいが、基本的に愛を伝え合う日であって義理は存在しないのでさすがに付き合ってもいない相手に花を送るのは良くないんじゃないか、と抵抗がある。だがその一方で、毎日お世話になっている彼女に何もしないというのも冷たすぎる気がするのだ。


「まあそこまで思い詰めるなら当たって砕けちゃった方がいいんじゃないか」


「砕ける前提なのひどくない? てかさっきと言ってること百八十度違くない?」


「親友を応援したい気持ちと、同じ男として成功を妬みたい気持ちが、今俺んなかで喧嘩してる。大丈夫、遺骨は拾ってやるよ兄弟」


「人間って愚かだよな」


「冗談だからそんなぞっとするような目で見るなよ。さっき言った根拠だらけってのが俺の真の見解なんだから、自信持て。ひょっとしたらキスくらい出来るかもしれんぞ」


「出来るわけないだろ馬鹿か」


 笑う湊斗や相変わらず教室の中を行ったり来たりしているクラスメイト——おそらく放課後には期待が破れ屍になっているであろう、合掌——を尻目に、碧は授業が終わってから寄るべき店を地図アプリでこっそり調べ始めた。


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