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第54話 ふたりの訪問(2)

 碧が黙々と日本史の教科書に目を落とし、湊斗が化学の演習問題と睨み合い、つばめの面倒をくるみが見つつ時々湊斗の質問に答える、と言う形で勉強会は始まった。


 さらさらとシャープペンシルの芯が紙を滑る音が耳に心地よい。こちらに配慮して交わされる女子二人の小声も、集中力を引き上げるBGMとなっている。碧も以前くるみに苦手科目である古典と日本史を教わったおかげで、今までは目がすべって一切受け付けなかった教科書の内容もすんなり読み解けるようになっていた。


 が、開始から三十分ほどした頃。


「あーもう、どうして英語ってこんなに難しいんだろうね……」


 途方もない道程に心折れそうな表情のつばめが、ふと静寂を破った。


「なになに。楪さん今どこ教えてるの?」


「この間うちのクラスであった英語のテストの復習してたんだけど……」


 くるみが言いづらそうに言葉を濁し、湊斗が「どれどれ」と答案を手に取るので、碧も覗き込んだ。


 『馬鹿と鋏は使いよう』という和文を英訳しろという問題なのだが、つばめの解答はというと。


〈Baka and Hasami is How to use〉


 すぐ横でぶふっというのは湊斗が吹き出した音だ。


「つばめちゃん……これはローマ字じゃないかな。使いようも違うし……」


「おい柏ヶ丘高生」


「つばめさんよくそんなんでうちの高校入れましたね」


 甘口から辛口までを揃えた三重奏の突っ込みが効いたのか、つばめは項垂れながらひぃひぃと泣き真似をする。

「だって分からない問題は空欄で出すんじゃなくて何でもいいから埋めとけって先生が言うんだもん」


「それにしても……こう、もうちょっと何とかならなかったのか?」


「こんななのにSNSのプロフィールはちゃっかり英語で書いてるの笑う」


「この問題を解答できるかは教科書の長文に登場したワードをそのまま暗記出来ているかどうかであって決して良問ではないし、受験本番には登場しないから大丈夫だいじょうぶ。私が教えれば赤点にはならずにすむはずだから」

「くるみんほんっと天使!」


 ひしっと抱き合う女子二人。おい湊斗でれでれするな、と碧は大男に視線を刺した。


「確か碧って英語ぺらぺらなんだよね? どうやって喋れるようになったの?」


「うーん。喋りたい人がいたからじゃないかな。昔すぎてあんま覚えてないけど」


「そっかあ、誰かの存在がモチベーションってことか」


 シャーペンを回して考え込むつばめにくるみが気づいたように言う。


「けど外国人の友達捜すところから初めてたら、それこそ英語力の基礎が要りそうよね」


「うっ……厳しい現実……」


 ところで、と切り出したのは湊斗だ。


「つばめってなんでこの高校来たんだ? 最初は別の高校行くって言ってたけど、中三のあるときから急に志望校かえてたよな」


 湊斗のまっすぐすぎる質問に、さすがのつばめも苦く笑った。


「うーん。正直実力に見合わない高望みだったんだけど、この学校がいっちばん制服可愛いからね! 死ぬ気で猛勉強してがんばっちゃったもんね」


 けど彼女の言うとおり、柏ヶ丘高校の制服は可愛いと評判である。自主自律が校是なのもあり、というより自由なあまり校則がほぼ存在しないので、私服に近いような着崩しも認められてはいるが、女子はそんな理由からほとんど全員がきっちり制服を着こなしている。


「けどうちの学校で一番制服を綺麗に可愛く着こなしているのは、誰がなんと言おうとくるみんだよね。やっぱりこのさらさらのストレートヘアで制服姿が映えてるのかな。私も髪伸ばそうかなあ」


「つばめちゃんも制服すごく似合ってると思うな」


「もーそう言ってくれるくるみんが可愛い♡ あ、そうだ! 今度くるみんの家にお泊まりにいってもいいかな? 私ずっとこういう女の子らしい会話ができる友達と一緒にパジャマパーティーするの夢だったの」


「お泊まり……」


「もしかして駄目だった? あーそっか、お家厳しいんだっけ」


「……ううん! 私もお泊まり、してみたい。父だけがいる日なら希望あるから今度お願いしてみるね」


 やったあと喜んでからつばめがくるみをむぎゅっと抱きしめ、くるみも控えめながらつばめに手を回している。性格が正反対なこのふたりが友達同士というのがどうも想像できずにいたのだが、案外いい関係のようだ。



「仲良いなぁふたりとも。てか、すげー尊いし眼福だしずっと見てたい」


「仲良きことはなんとやらってやつか。湊斗の言い方はちょっとアレだけど」


「アレって言うなよ」


 湊斗の妄言はさておき、くるみに仲のいい女の子の友達がいるのはいいことだ。


「くるみんってそいえば料理が得意なんでしょ? なら湊斗と話合うんじゃないかな?」


「えー俺? そんな立派なもんでもないけど」


「またまたご謙遜を。湊斗はやっぱりバー店長の息子なだけあって料理が結構上手なんだよね。特にお洒落なおつまみ系が得意。これまたビールがめちゃくちゃ合うのよ」


「お前は呑兵衛(のんべえ)か」


 すかさず湊斗が突っ込めば、くるみは彼の料理の腕が知りたいらしく、そわそわと話を振る。


「湊斗さんはどういうお料理が得意なんですか?」


「本当に大したことないよ? 仕事柄だし酒に合いそうなのばっかで。楪さんは?」


「私は一通りつくれますけど、振る舞うのはよくある家庭料理が一番多いです」


「へえーすごいなあ。俺逆にそういうのからっきしだから。あ、でも唐揚げならできる」


「いいですね唐揚げ。お店でもよく出すんですか?」


 まだ他人寄りの距離ながら会話しだす二人を見ていると、何となく面白くないな、なんて思っている自分がいることに気がついた。


 帰国の日、あの時と同じ感情。答えに辿り着く前に打ち切った逡巡が今度は最後まで至ってしまい——


 心の底でもやもやと蠢くのは、ただの〈独占欲〉。


 そう気づいた瞬間。


 やるせない自嘲の気持ちと自覚した感情へのどうしようもないもどかしさが、もうもうと込み上がってきた。


 冬休み前の出来事があったからこそ、彼女の素顔を引き出せるのは自分だけと思っていたことも、二人だけの秘密だったくるみとの関係を知られてしまったこと自体も、何もかも。本当は知られなければよかったのにだなんて綺麗じゃない感情と共に、何故か爪痕のように引っかかるものを残していく。男は大なり小なり可愛い子を独り占めしたい気持ちはあるものだ、と言い訳も虚しくもやもやは膨れ上がっていく。


 くるみはただの友人に、どうしてこんなに気持ちを揺さぶられるのだろう?


 何故ならあるいは、自分はくるみのことが——


「いや、違うよな」


 これ以上は考えてはいけない気がして、心を蹴飛ばすように、ぱたんとルーズリーフのファイルを閉じる。


「碧どーしたの?」


「ちょっと手洗ってきます」


 そう残して席を立つ。


 だが廊下に向かった頃で、何者かがぽんぽんと碧の肩を叩いた。ぐったりした表情をなるべく隠して振り向くと、さっきまで湊斗と話していたはずのくるみの大きなヘーゼルの瞳と目が合う。


 なぜかふにゃ、と瞳を細め、それからぱたぱたと台所に何かを取りに行ったかと思うと、えいっと手に持ってたそれを碧の頬に押し当てた。


 逃げ出したくなるほどにひんやりと冷たい、それでいてバニラの香りがするそれは、いつの間に持ってきたのか、銀紙で包まれたアイスバーだった。


「……なんですか?」


「難しいこと考えてそうだったから。勉強のしすぎだと思って」


「アイス溶けちゃいますよ」


「それは碧くんのほっぺたが熱いから?」


「……」


 どうやら今日は彼女の方が一枚上手だったらしい。


 黙り込むと、くるみは碧の掌にアイスを置き、指をせっせと一本ずつ曲げて握らせてくる。それをされるがままになっていると、仕事を終えたくるみは満足そうに席に戻ると問題集に向き直りそれきり真剣な眼差しでペンを動かし始めた。


 ——仕草や冗談のひとつまでもがいちいち可愛くて困る。


 大人しく席に戻りアイスの前にすっかりぬるくなったカフェラテをちるちると吸い上げると、どうしてだろう。ほろ苦さよりも甘ったるさが強く舌に染みてきた。


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