第51話 誰かさんみたいだったから(2)
——今なんて言った?
何かに彩られ潤んだ、まっすぐな瞳。
昼下がりのとろんとした空を飛ぶ飛行機の遠い音も、階下の梢に訪れた小鳥のさえずりも遠ざかり、聞こえなくなる。ふたりだけの世界に静寂が訪れる。
——僕なら大丈夫って。
なんとか気持ちを伝えようとひたむきにこちらを向いている。だからこそ碧も正確に意味を汲み取り、押し測らねばなるまい。
そしてくるみの本当に言いたいことは「碧を友人として信頼している」ということだ。勿論分かってはいる。なのに再び、碧の鼓動は密かに静かに高鳴り始める。
だってその言い方は、まるで——
——まるで僕のことを好きみたいな。
しかし結局そんなことあるはずないと、可能性を即座に切り捨てる。
相手は妖精姫だ。高嶺の花だ。学校中から想いを寄せられる才色兼備が、よりによって自分を好むなどあるはずがない。
アイスクリームを食べさせた時の甘い瞳と空気が一瞬頭を過ったが、あれはきっと一時の気の迷いで、互いに慣れない恥ずかしいことをしたからこそ出てしまった本音ではない戯言で……。誠実なくるみが嘘など言うはずない、ともう一人の自分が嘯いていても、今は気のせいにしておいた方がいい気がした。
というかそもそも碧は男なのだ。男として見られて当たり前であり、それ以外は困ると言うか普通に哀しくなる。だからこの解釈で何も間違ってないと結論づけ、
「そっか。分かった」
平静を努めながらそれだけを返し、逡巡を気取られまいと、碧はまたくるみの髪をくしゃくしゃと雑に乱暴に撫でる。表情は見ないようにした。
本当は一月の凍るような寒気を浴びて打ち鳴る心拍を沈めたかったが、どこにも行かないと言った手前外に行くことはできない。
なので代わりに冷えた烏龍茶でも注いで落ち着こうと立ち上がったところで、
「っと」
再びブレザーの袖を掴まれる。
振り返り見下ろすと、そこには恥じらいで淡く紅潮したくるみと、ブラウスから覗く繊細な指。クッションをぎゅうっと抱きしめる姿は拗ねた子供のように可愛らしく、目のやり場に困った。
今度はなんですかと視線で問うとくるみは何故か一瞬たじろいだが、やがて白い頬に走らせた赤い波を凪がせ、心持ち眉を吊り上げながら悪い子を嗜めるような声色で言う。
「碧くんにひとつ忠告があります」
「忠告?」
「……さっき言った大丈夫っていうのは、相手が私だから大丈夫という意味であって、本来は日本の女の子の頭をうかつに撫でるのは……よくないと思います」
なぜ敬語とは思ったが、彼女の心配していることはよく分かった。
「しないよ。他の人には」
「そう、なの?」
「さてはくるみさん何か勘違いしてますね。確かに欧州では日本よりも距離は近いかも知れないけど、意外にも親しくない間柄でのスキンシップは多くないし、くるみさん以外の相手にはしませんって」
確かにさっきの行動は海外育ちゆえの大胆さのせいだし、もし十六年間日本育ちだったらこんな不届きなことしなかっただろうが、くるみの髪を撫でたりするのは日本の友人の中ではおそらく湊斗と同等に親しいからであり、知り合って日の浅い他の女の子がいたとして無差別に同じことをしようとは思わないしそんな礼儀知らずではありたくない。
と説明するとくるみは何故かじと目を向けてきた。
「そういうところ、本当に帰国子女ね」
「今の話からすると逆じゃない? 帰国子女だけど弁えてるよって話では?」
「いいえ。碧くんはばりばりの帰国子女です」
「……可愛い子を可愛がりたいって気持ちは万国共通だと思うけどな」
小さな子猫が道端で寝転んでいたらつい近寄ってしまうのと同様に、可憐で麗しい風貌のくるみがいればつい目を奪われるし、叶うなら撫でて可愛がりたい気持ちが芽生えるのが男心というものだが。
そう碧がぼやくと、はた、とくるみの動きが止まった。
「どうし——むぐっ」
言いかけた瞬間、何かが顔にぽふっと直撃した。
視界を塞ぐもふもふを慌ててキャッチし退けると、それはクッションだった。目の前には主人が居なくなってゆらゆらと揺れの残滓が続くロッキングチェアと、その向こうのカウチソファに駆け寄ってぼふんっと沈み込むくるみの後ろ姿。
うずくまりながらぷるぷると悶え震えており、よもやそんな反応をされると思ってなかったので呆気に取られ閉口してしまう。
「あの、平気?」
「別に最初から平気だもの。……君、荷物の解体まだしてないの?」
動揺をなかったことにしたいらしいくるみがさらに話を逸らそうと、ツンと取り繕いつつ若干狼狽の残る声と共に、部屋の隅っこにあるキャリーケースを指差す。
ごまかしたな、と笑えば本格的に戦争が始まりかねなかったので、ここは素直にごまかされておくことにする碧。
「荷物の量多いし、洗濯が必要な服はコインランドリーに持ってったし、帰ってきたばっかで昨日は疲れてたし後回しでいいかなって」
「明日からはいつも通りの授業なんだし面倒にならないうちに片付けた方がいいわ。ひとりで出来ないなら私が手伝ってあげましょうか?」
「え? あー……」
先ほどの動揺より呆れが勝ったらしく、弟を嗜めるお姉さんの口調でやんわり叱咤と提案をするくるみに、しかし碧は曖昧な唸りを返すことしか出来なかった。何故なら、キャリーには彼女には内緒であるものを隠していたから。
そしてそれは本来次会った時にくるみに渡そうとしていたので今はまだ心の準備ができていなかったのだが、こうなっては仕方がない。
碧はしずしずとキャリーを開き、その中からリボンで結ばれた大きなパステルピンクのギフトバッグを取り出した。それをくるみは不思議そうに見守る。
「それなに?」
「さあ何でしょう。中身当てて見てください」
「うーん……学校の人へ配る旅先のお土産……とか?」
「僕がそんなまめな人間に見えますか?」
「見えないわね」
「辛辣だなあ……。とにかく開けて見てください」
秒で否定してきたくるみに苦笑いしつつ、ラッピングの袋を手渡す。くるみは結ばれていたチョコレートカラーのリボンをためらいがちにしゅるりと解くと、ゆっくり丁寧に両手で取り出すと——。
「これ……空港にいた、わんちゃん?」
くるみは惚けたように、両手に収まった小さなそれの名を呼んだ。正確には犬そのものではなくおもちゃであるが。
シベリアンハスキーのぬいぐるみ。白と黒を基調としたモノトーンの毛並みはふさふさしており、ぽてんと丸みを帯びたフォルムやちょこんと添えられたまろ眉が愛おしい。本来は狼に似た精悍さを持つハスキーではあるが、デフォルメされたぬいぐるみであるおかげか怖さや凛々しさはなく、つぶらな碧い瞳には驚くくるみの表情が映り込んでいる。
「いる? いらない?」
「……くれるの? 私に」
「気に入ってくれると嬉しいけど、要らないなら僕が責任を持ってドイツ送りに……」
「だっ駄目!」
半分冗談のつもりだったのだが、おもちゃを取られまいとする子供のように必死に抱きしめて身を捩るくるみ。普段は楚々として大人びた振る舞いのくせに、今日の彼女は寝起きだからか、何故か普段よりあどけなくてどきっとさせられる。
「こんなに可愛いの、要らないはず、ないでしょう」
「そっか……よかった。くるみさんこれ欲しいんじゃないかって思ってたから」
「どうして分かったの?」
「一緒に空港行った時、お土産屋で見入ってたでしょ。だから帰りに……あ、もしかしてこいつじゃなくて隣にいるダルメシアンの方だった? そっちのが可愛かったし」
初めは驚きを示した表情のくるみだったが、ふっと目許を和らげて、ハスキーに慈しむような眼差しを落とす。
「ううん。この子でよかった。……可愛いこの子が、よかったの」
こんなにも喜んでくれる姿を見ているうちに、以前未開封とはいえお古のぬいぐるみを贈ったことを思い出し、その健気さに唐突に申し訳なくなった。
「なんかごめん……」
「ど、どうして謝るの! 貴方にされて嫌なことはないって、言ったのに」
またもや息が詰まる言葉を、いつもより糖度の高い声で拗ねるような響きで小さく呟いてから、ぬいぐるみを抱き上げ頬擦りする。その様子がまた幼なげで可愛くて思わずまじまじと見入ってしまったのだが、気づいていない様子のくるみは何かいいことを思いついたらしく、包装に使われていたブラウンのリボンを拾い上げ、首輪のように括りつけて蝶結びにしていた。
「……ありがとう、碧くん。大切にするね」
そう言って再び抱き締めるのがあんまり可愛らしくて、再び目を奪われてしまう。ここまで気に入ってくれると逆に気恥ずかしさが湧いてきそうだが、今のところは喜んでもらえた安堵で穏やかな気持ちの方が勝っていた。
それにしても包装まで捨てずに一緒くたに取っておいてくれるんだな、と物を大切にする彼女のスタンスに感銘を受けていると、碧の向ける視線にやっと気づいたくるみはほんのり赤くなりながら、ハスキーで口許を隠してじっと見つめ返してくる。
「どうして急に買ってくれたの? って顔してるね。見送りに来てくれたのが嬉しかったからだよ。ウサギの方はくるみさんの実家に持って帰っちゃったし」
「私はそんな大したこと、したつもりじゃなかったのに。こんな何でもない日に、こんなに甘やかされて……いいのかな」
「むしろくるみさんはいつも自分に厳しくしすぎ。確かに記念日じゃない何でもない日のプレゼントだけどさ、先延ばしにせず今贈った方が、くるみさんの幸せそうな姿を一日でも多く見れるでしょ」
つまり僕の勝手にしたことだ、と結論を導いて終わらせると、くるみは一瞬泣きそうな表情になった気がしたが——すぐに、安堵と幸福をいっぱいに湛えたような淡い微笑みを浮かべた。
鳩尾の辺りがざわついたが、ごまかすように口を開く。
「さて……折角だから今日の夜は一緒にハンバーガーにでもしますか? もしご両親が早く帰る日なら無理にとは言わないけど」
悪夢にうなされていた彼女を一人にはしたくなかったし、かと言ってさすがに碧の帰国早々くるみを働かせたくもないので、一緒にいるための口実あるいは免罪符が欲しかったのだ。
「ふふっ……うん。門限は今日は大丈夫な日。じゃあお言葉に甘えます」
新入りのハスキーを両腕にきゅっと抱える。
その瞳に、先ほどまでの寂しさはもう見られない。
何にせよ、悪夢の残滓が消えたなら僥倖だ。
出かける準備をしようと立ち上がり、コート掛けからマウンテンパーカーを手に取ったところで、後ろからか細い声がかけられる。
「……ありがとう、碧くん。一緒にいてくれようとしてくれて」
「さて、何のことでしょうね」
健気なお礼がこそばゆかったから振り返らずに精一杯に恍けてみせると、彼女はそれ以上何も言わなかった代わりに、後ろからくすくすと鈴を転がすような笑い声が聞こえた。