第17話 友人と道しるべ(1)
土曜は約束通り、碧たちはちょっと遠くにある市立図書館に来ていた。
碧としては週明けの放課後のつもりだったが、試験から間を空けすぎてもよくないとくるみに嗜められたので、なんだかんだと休日に集まることになったのだ。
遠くの場所を選んだのは、もちろん学校の人に見つからないため。
貴重なお休みの日にまでくるみを働かせてしまうのはいただけないので、勉強会が終わったら何かお礼をしなくちゃなと考えている所存である。
待ち合わせ場所に現れた今日のくるみは、ビスチェ風の切り替えが入ったシックなワンピース。黒を基調とした千鳥格子柄は大人っぽくシンプルながら可憐さを併せ持っている。恐ろしいことに美人はどんな格好でも似合うらしい。
入館後のインフォメーションを抜けたところで、くるみが立ち止まって辺りを見渡すので、碧は不思議に思い尋ねた。
「どうかしましたか」
「……私、図書館来るのって久しぶり」
古びた本の匂いが満ちる空気、だだっ広いフローリングの一階と立ち並ぶ書架を眺めて、くるみがぽつりと呟いた。
「最近はスマホでも読めるし、家の近くになければなかなか来ない場所ではありますよね。くるみさんの家はあんまり紙の本は読まない人が多かったとか?」
碧の返しにくるみは、ううんとかぶりを振り、美しい亜麻色の絹束を波打たせる。
「……家に書庫があるからなかなか来なかっただけ。欲しい本は全部自分で買っていたし。学校の図書館は何度も行ったことがあるけれど」
とんでもない発言に、碧は思わず聞き返す。
「くるみさんお嬢様なんですね」
「……まあ。私のお弁当も、お手伝いさんが用意したものだし」
どこか気まずそうに項垂れるくるみ。
お手伝いさんがいることや弁当のくだりは正直驚いたが、彼女の家がそれを叶えるほどの財力をそなえているということについては、さして驚きはしなかった。くるみの優雅で気品のある所作や高い位の教養、そしてたまに世間知らずなところを考えると、すんなり納得できる自分がいたから。
しかし一方で、自分の弁当のついでではなく、彼女がわざわざ碧のためだけに早起きしてお弁当を作ったという事実にも辿り着いていた。それがどれほど手間と面倒がかかるものかは、料理をしない碧でも想像がつく。
この勉強会も含めて、世話焼きによるちょっとした人助けにしては、あまりに大掛かりである。なぜそこまでするのか正直、不思議だった。
「——くん、碧くん」
考え事は、ささやくようなくるみの声に遮断された。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「もう。早く始めないと午前中が終わっちゃう」
彼女のいうとおり、兎にも角にも今は勉強だ。
ここも先週まではさぞ学生がひしめいていたのだろうが、試験終わりの今となっては人は少なかった。大体の席は空いていたので、館内を進んだ突き当たり、窓を向いている横並びの席に座った。教わるには同じ教科書を見れる方が都合がいいからだ。決して向かい合うのがなんとなく気恥ずかしかったからではない。
早速ルーズリーフやペンケースを取り出していると、くるみが分厚い参考書をぱらぱらとめくった。碧のために私物をわざわざ家から持ってきてくれたらしく、頭が上がらない。見れば、几帳面な文字が記されたポストイットが幾枚も貼られているし、物を大切にしているらしく一見すると綺麗だが、ページの角や表紙の傷などには何度も読み返した痕跡が見られる。
がんばってるんだな、としみじみしていると、くるみが目線を参考書に落としたまま口を開いた。
「それで、国語と日本史だったわよね。他の科目は大丈夫?」
「他は大丈夫です。そのふたつが足枷になっててしんどいんです」
「向こうじゃ日本語も日本史も学ばなかったっていうことよね」
「日本人学校に通えば習えるんですけど、僕が入学したのは外国人クラスのある現地校だったから。日本語……というか漢字は家で、それこそものすごく苦労して覚えました」
「なるほど。言葉選びが下手だから、あんな思わせぶりなこと言っちゃったのね」
「それは関係ないですよね?」
冗談なのかただの辛辣な意見なのか判断のつかないくるみの発言に突っ込むと、彼女はまるきり聞こえていないかのようにすげなくスルーして、これまた自前のキャンパスノートを開いた。
お手並み拝見と覗き込んだのだが、女の子のノートはカラフルと相場が決まっていると思いきや、学年一位のそれには当てはまらないらしい。手書きの図解と文字だけで構成されたページはすこぶるシンプルだ。
「ほら。これは万葉集の一句で、試験のここで出た問題と共通するんだけど——」
そうして碧は彼女の説明に耳を傾ける。
彼女の丁寧な教え方は下手な教師のそれよりもずっと分かりやすかった。
今みたいに例文を出して、五十分ある授業の内容の重要なところを僅か五分間に絞って解説してくれて、その上日本に暮らしていなかった碧に欠けている知識だけを細やかに補ってくれて。
「……すごい。ずっと分かんなかったのに、今になってすっと理解できた」
「よく言われる。教えるのが上手だって」
自信たっぷりというより、淡々と事実を述べたといったかんじだ。
確かに学校ではいろんな人に勉強教えてと頼まれているようで、前に見かけた時もその件でお礼を言われている場面を目撃している。信頼と実績があるのだろう。
「あなたもやれば出来るのね。ちゃんとがんばれて偉いです」
耳許でささやかれるとくすぐったくてどきっとしてしまう。くるみは教えるのに集中しているようで気づいていない。
「なんか、楪先生ってかんじ」
「よかったわね。今日をもって私淑から本物の弟子になれて」
「今のところ、師と仰ぐにはあまりに次元が違くて畏れ多いですけど。ていうか万葉集なんかよく覚えてますよね。あんな小難しそうなもの」
「小難しくはないのよ? 本を読むのは好きだし。それに歴史も一緒に照らし合わせると、古典文学はもっと面白くなるの。だから古文の次は日本史をお勉強しましょうね」
「僕、最低で七十点取れればそれでいいんだけど……」
「私を先生と呼ぶからには、半端な点数は許しません」
柔和な口調のわりに、淡々と有無を言わせない響きで采配を振るくるみ。
偉人のまどろっこしい漢字を思い出しただけで逃げたくなるが、なんとかやる気を絞り出して碧はシャーペンを握り直した。