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第13話 少女の織りなす言葉は(2)

 お昼休みは購買に寄ってから美術室に向かったのだが、扉を開けたとたん、銀の鈴を打ち鳴らすような可憐な声が耳に届いた。


「あら、今日は遅かったのね」


 碧は入り口で突っ立ったまま数秒間固まった。


 あの清楚で儚げな美少女が、さも当たり前のように佇んでいたからだ。


「くるみさん、あの……どうしてまた」


「私がここにいちゃ駄目?」


「いやそういうわけじゃないですけど」


 三度のみならず四度も彼女に会うなんてと思ったが、正直なところ嬉しかった。


 もしかしたらまたあの綺麗な仕草や表情を見られるかもしれない、と思ったから。


 ただ肝心の要件が分からない。


「あ……もしかして昨日のご飯のお礼を受け取りにきたとかですか? ならごめんなさい、僕まだ何をお返しすればいいか考えてなくて」


「違います! そもそも私のお弁当自体がお礼なんだからそれはおかしいわよ」


「……そうですか」


 ぴしゃりと否定され、碧は悄然とした。


 よく分からないが、とりあえず昼休みのうちに、先ほど購買で買ってきた鞄の中のカレーパンは食べておきたい。あれだけの料理を振る舞って貰った後に惣菜パンは正直物足りないどころの話じゃないが、かと言ってまたつくって欲しいですなんて、口が裂けても言えない。


 鞄から、揚げてから時間が経ってしなしなになったカレーパンを取り出そうと手を突っ込むと、碧の目の前に、横からにわかに白い手が伸びてきた。


「ほら」


 見ると、くるみはツンとそっぽを向いたまま、右手でぐいと茶色の紙袋を差し出していた。そこからは袋越しでも分かる、焼けた肉や小麦やバターのおいしそうな香り。


「え……これ」


 碧がくるみの顔と紙袋を交互に見やる。どういうことか分からないと言った表情でくるみの顔を見る碧に、彼女は淡白な声色で言った。


「……早く受け取って」


「えっと、貰ってもいいんですか?」


「受け取ってって言ってるんだから、他に何があるの?」


 今日も今日とて、くるみ様は素っ気ない。


 不思議に思いつつ言われるがまま受け取るが、再びご飯をご馳走になる謂れなど、碧に心当たりはなかった。

「けど、どうしてですか? もう貸し借りはなくなったと思ってたんですけど」


「……昨日、空のお弁当箱にメモ帳挟んでたわよね?」


 ああ、と碧は思い出す。


 あれだけのものをご馳走になったのだ。碧もさすがに一言くらいお礼は言いたい気持ちでいっぱいだった。だが校内の人前で話すことは憚られるので、とりあえずその日は、いつも持ち歩くルーズリーフの切れ端に味の感想とお礼を書いて挟んだのだ。


 と言っても、とても美味しかったです、ありがとうございます、程度の短いものだったが。それではやや心許ないので、売店で買ったチョコレートも一緒に添えておいた。


「あれが嬉しかったから、また作ってきただけ」


 相変わらずそっぽを向いたまま、静かな一言。


 薄々気づいていたが、この少女は世話焼きどころじゃなく——根がかなり甘いらしい。


 そんなにチョコレートが好きならもっと買ってあげますよ、と冗談めかして言ったらどうなるのだろうと思ったが、そんなことをしても当たり前にご機嫌ななめになられるだけだろうので止めた。


 くるみはこちらを振り返ると、碧の手の中のしなしなカレーパンを認めて眉をひそめ、小学生を叱咤するように義憤の宿った小言を繰り出してくる。


「メロンパンとかカレーパンばっかりじゃなくて、野菜もちゃんと採りなさい。あなたのことだからきっと、朝晩かかわらずもろくなもの食べてないんでしょう?」


「仰るとおりで。……というか、僕の健康を気遣って——」


「いません! あなたがあまりにしどけない悪い子だから、私の目に余るだけなの」


「悪い子って……」


「別にあなたが健康になったところで、私の人生に一寸の利ももたらさないんだから。だからこれは私がしたいからした自己都合。あるとすればそれはただの持ちつ持たれつ。はい、お話はおしまい」


 早口でする他己弁護が妙に可笑しかった。


「わかった、わかった。ありがとうね」


「……なんかばかにしてない?」


 とどめに鋭めのつららを飛ばしてからこちらに向き直ったくるみを優しく宥めるように相槌を打つと、くるみはそれも不服だったようで、ちょっぴりたじろいだ様子。


 碧は別に目の前の少女と(いが)みあいたいわけでもないし、むしろ誰とでも仲良くが座右の銘だし、何より自分のために家事手伝い妖精の如くせっせと世話を焼いてくれる姿を知っているからこそ、とても言い返す気にはなれなかった。


 言葉ではああ言いつつも、おそらく本当は碧の家を見て憐憫の情を抱いたから理由をつけて弁当を持ってきてくれたのだろう。やけにそっけなさに拍車がかかっているのは、気を遣わせないためなんだと思う。


 優しさには、優しさで受け止めるべきだ。


「じゃあありがたく頂きますか」


「そう言ってくれると嬉しい。お裾分けはまた持ってくるから、碧くんはお腹を空かせてここで待っていればいいわ」


「またくれるの?」


「うん。持ちつ持たれつ、ですもの」


 碧が受け取ると、そういえば、とくるみは切り出した。


「帰国子女……って言ってたわよね。碧くんはどういう街で育ったの?」


 うーん、と一瞬考え込んでから、


「言葉より見てもらった方が早いでしょ。これはベルリン大聖堂の写真」


 スマホのカメラロールを開き、手渡した。


 くるみはそわそわしながらそっと受け取る。


 それから瞬く間に、少女のまとう空気にぱっと花が咲き誇るのを碧は幻視した。


「……すごい。お城みたい」


 別世界でも見つけたような表情で画面を覗き込み、双眸をブラウンダイヤモンドの宝石のように輝かせた。澄んだ美しいヘーゼルの瞳は、彼女の細くて白い指がスライドするたびに現れる写真に釘付けになっている。


「日本と違う。こんなおとぎの国みたいな街があるのね。ぜんぜん知らなかった」


「ここはまだ現代寄りな方。ローテンブルクとかもっとすごいですよ」


 別に外国の写真くらい今時どこでも見られるだろうと思ったが、くるみの反応を見るにそういうわけでもないみたいだった。


 碧はくるみの後ろに立つと肩越しにスマホを覗き込む。そこに映っていたのはヴェネツィアの大運河を走るボートの写真だった。日本では決して見られないヨーロピアンな建築物と水路を行き交うゴンドラの美しい光景は、写真だけではなく碧の記憶にも鮮明に残っている。


「それはいつのだったかな。……あぁ、二年前だ。夏休みに友達と一緒に親に内緒でこっそり国境跨いで旅行に行ったんだ。ちょうどカーニバルの時期だったから一目見たくて」


「そ、そんなことして怒られないの?」


「うちの親、放任主義だから。それに欧州はパスポートなくても気軽に隣の国に行けちゃうし。一緒に行った友達は家が厳しいから、帰ってからしっかり怒られてましたけど」


「そうなんだ……」


 くるみのゆびさきがぎこちなく動くと、再び写真が切り替わる。するとそこではブロンドの少年が石橋にもたれかかり、ジェラートを食べながら明後日の方を向いていた。日本人の母譲りの柔和さとドイツ人の父譲りの彫りの深さをもった、とびきりの色男だ。


「そこに写ってるやたらかっこいい男が僕の向こうでの友達。この間お昼休みに電話してきたやつ。僕が教えたんで日本語も話せます」


 碧はくるみの後ろから指を伸ばし、次々に写真を切り替えた。


「あ、懐かしい。学校行く時にすごいでかいパンが売ってて、友達と買って半分こした時のだ。〈Brotzeit〉……要するに午前中のおやつです。日本は買い食い厳しいらしいけど向こうはその辺すごく自由。で、この写真はベルリンの都市公園で友達の誕生日を祝ってやった時の写真。日本で買ったお菓子の詰め合わせあげたらすごい喜ばれた。これは妹の誕生日のお祝いで旅行することになって、香港に行った時の。ヤムチャ美味しかったし、ヴィクトリアハーバーの夜景がすごい綺麗だった。で、こっちは……」


 ——と淡い思い出に夢中で話し続け、そこでようやく碧は、くるみの様子がちょっとおかしいことに気づく。かちり、と氷の彫像のように佇んで動かないのだ。


 どうしたんですか、と聞こうとして初めて、碧は涼やかな茉莉花(ジャスミン)となんとも言えないミルクのような甘やかな芳香に気づく。なんなら腕やらまでふれあってしまっていて、彼女のほのかな温もりまで伝わっている。


 碧のスマホをさわる指がぴたりと動きを止めたのを見て、くるみはようやく氷が溶けたようにおずおずと振り向く。長い睫毛がふるり、と震え、何やらこちらを恨めしげに見上げている。後ろから覗き込むかたちになっていたので、かなり距離が近くなってしまっていたらしい。


「ごめんなさい」


 慌てて離れると、くるみは不意を突かれてちょっぴり慌てたように、物言いたげにこちらを向いた。


「いえ……あなたは写真を見せてくれただけですし。こちらこそ、ごめんなさい」


「謝らないでください、悪いのは僕だし。向こうで暮らしていた名残もあって、距離の感覚が日本のそれとどうも違ってて……」


 ほんのり呆れたように、じとりと棘のある視線で見上げてくる。


「そういうことね。海外暮らししてたからぐいぐいと近くなるのはわかるけれど……あなたはもうちょっと自分の所作に気をつけるべきよ」


「……仰るとおりです」


 そのとおりなので何も言えない。


「とりあえず。写真見せてくれてありがとう。どの写真も私の知らないものばかりで、あなたが羨ましいと思った。どれも自由で、何にもとらわれていなくて……」


「それは距離感おかしい僕に対しての嫌味……なわけないか」


「そんな失礼なこと言いませんっ!」


「ごめんごめん。冗談だから睨まないで」


 からかわれた仕返しとばかりに、くるみはふんとそっぽを向いた。


「あなたは外国語覚えるよりも先に、気の利いた冗談の言い方を誰かからひとつでも教わった方がいいと思う。だって何も笑えないもの」


 つららの言葉をちくちくと耳に受ける碧。くるみさんが杓子定規すぎて冗談を真に受けてしまっているだけなのでは、と思ったけど言葉にはしなかった。


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