第11話 Verwickelter Faden(3)
静かな教室で震えるスマホ。
画面を確認すると、そこには懐かしい友人の名前。まごうことなき、ドイツ在住時代によくつるんでいた彼の名前だ。
「出て大丈夫よ。言いたいことあるなら私は教室の外で待ってるから」
「あー……いや、廊下寒いしこのまま教室にいて大丈夫です」
「でも、電話の内容が私に聞こえちゃうでしょ?」
問答をしているうちに電話が切れても困るので、くるみの気遣いも気にせず、碧は通話ボタンを押した。耳に当てたとたん、スピーカーから名手の奏でるヴァイオリンのように低く、懐かしい声が紡がれる。
『Hey. Wie geht‘s?』
「Ich, war gerade dabei, zu Mittag zu essen」
ドイツ語で話されたので、碧もまたドイツ語で返す。
彼と電話をするときは、かけた方の第一声で、どの言語で話すかが決まる。
電話の相手とは、ベルリンにある初等学校、いわゆる小学校で出会った。向こうはまだ早朝のはずだ。電話の向こうの声には眠そうな響きがある。
「Was ist los mit dir so früh am Morgen?」
『Ich habe mich nur gefragt, was du gerade tun. Du kommen doch zu Silvester und Neujahr wieder hierher, oder?』
「Ja, aber ...... hat jetzt ein Mädchen von nebenan, also können wir darüber ein anderes Mal reden?」
『Hm? Freundin?』
電話の向こうの眠気が吹き飛んだようだった。
『Ich kann nicht glauben, dass du eine Freundin hast』
「Anders und! Ich melde mich」
『Verstanden. Wir sehen uns später.』
通話を切って、ため息を吐く。
いくら言葉が通じないとはいえ、目の前に本人がいるのに彼女扱いされるのはどうも居心地が悪かった。
話してる途中に悪かったなと思いつつ振り向くと、くるみが大粒の瞳をまんまるくしてぱちりと目を瞬かせていた。口許を両手で抑え、きょとんという言葉が似合うその面持ちはまるでつい今しがたまで狐に包まれていたような様子である。
「……びっくりした」
美術室の椅子にちょこんと座って、大人っぽさを取り繕う間もなくあどけなさの滲んだ声で、本当に意外そうに呟く。碧はその様子にそこはかとない不可解を覚えたが、
「その外国語……もしかしてあなた、ドイツ語が話せるの?」
「ほかにも英語もいけますし、スペイン語と広東語もちょっとなら……って、今なんて?」
くるみの言葉に、それは本物の謎へとかわった。
彼女がそのことを、知っていないはずがない。
なんせ、初めて会った日の歩道橋の上で、碧は——
「くるみさん、僕がドイツ語話せること知ってるはずですよね?」
すれ違いの正体に切り込むつもりでそう尋ねると、案の定、くるみからはあらかじめ想定していた答えが返ってくる。
「どうして? 私があなたの事情なんて知るはずないじゃない」
呆れた風にもきょとんとした風にも見えるくるみ。あまりに奇妙な状況に、碧は彼女から禁句とされていたあの雪の日のことを前のめりになって話に出す。
「くるみさんに歩道橋の上でつきまとっていた男を僕がドイツ語で追い払ったことは、そもそも覚えていますか?」
しかし返ってきたのは首肯ではなく怪訝そうな眼差しのみで、碧はふたりの間に決定的なすれ違いがあることを悟った。
そこで碧はあの歩道橋の上でのことを思い出そうと必死に記憶の意図を辿り、そしてひとつのピースをすくいあげる。
「あ。もしかして、くるみさんが耳塞いでいたから聞こえてなかったのかも。くるみさん声かけられてたんですよ、危なく知らない男の人に連れ去られるところだったんです」
「嘘……」
「あの言葉って……前も言ってましたよね、確か。何のことか分からないんですけど。僕はただ——」
「ただ?」
「別にくるみさんがどうとかじゃなくて。知ってる人が危ない目に遭ったり、目の前で拐われるのが嫌だっただけですって。それが、僕が僕に約束したことだから」
碧が碧として生きていくために、幼い頃に立てた誓い。
自分の生き方が面倒くさいことくらい、百も承知だ。
言い放ったとたん、場をひとときの静寂が支配し、遠い昼休みの喧騒がやけに大きく耳に届く。
くるみがどんな思い違いをしているかは知らないが、これを解かない限り落ち着いてお昼をいただけそうにない。
互いの間に線引きをするのは、また今度からでいい。
くるみは小鳥の羽搏きみたいに睫毛をぱちりとさせながら、呆気に取られてしばらく碧を見つめ、それからおとがいに人差し指を当てて何かを考えたかと思いきや、
「……なんだ。そういうことだったのね」
そう言って、口許にゆるい弧を描く。
天使そのもののように嫣然と美しく笑うくるみに、碧はどきりとした。
「……ええと、つまり分かってくれたってこと?」
「うん。あなたが私に告白したわけじゃないってことはよく分かった」
聞き捨てならないワードに、今度は碧が椅子を蹴飛ばして立ち上がる番だった。
「こ、告白!? って……」
くるみは気まずそうに眉を下げる。
「隣にいたいとか、その……ほ、他の人に渡したくないだとか。似たようなことを前に何度も言われたことがあったから、どっちなのか分からなくて」
確かにそんなこと言った気がする。初めて出会った日のことだ。
けどまさかそんな捉えられ方をされていたなんて。羞恥で、火傷しそうなほど悶えたかった。
ただ、彼女は彼女で望まずしも様々な甘言を捧げられてきたのだから、こればかりはくるみが悪いとは言い切れない。台詞をさすがに声に出すのは恥ずかしかったようで、くるみはしどろもどろにつっかえながらも何とか言い切って、さらに続ける。
「けれどおかしいと思ってたの。あんな思わせぶりなこと言っておいてあっさり去っていくんですもの。多分違うんだろうな、とは最初から分かってた。けれど……」
一度言葉尻をぼかしてから、今度は明確に、
「——はっきりさせておきたかったから、あなたの前ではわざと鎧をまとわなかった」
そう言った。
告白という言葉の呼び起こした羞恥は、気づけばどっかに追いやられていた。鎧という一文字の指し示す意味を考え込んで、そしてはっと思い至る。
彼女は、学校や人前でいる時のあの完璧な才女の姿のことを言っているのだ、と。
要するにもし碧がくるみに想いを寄せて近寄ったとしたなら、妖精姫に相応しい温和さの欠片もないツンツンした姿を見て、勝手に失望し諦めてくれると思っていたのだろう。
言いかえればそれは、演じているということだ。
そうせざるをえない、くるみの高嶺の花としての憂いと孤独と影を垣間見た気がして、碧は言葉に詰まってしまった。
くるみは学校でいつも誰かに囲まれているからきっと心を許し合える友人に恵まれているのだろうとごく当たり前に思っていたのだが、もしかしたら——
返事もできず黙りこくっていると、先にくるみが制した。
「なのにこっちの方がいいとか言うし、本当におかしな人だって思った。私はあの時助けてとは言わなかったけど、一応もう一度お礼を言っておくわ。ありがとう」
「……余計なことをしたとは言わないんですか?」
「思っても言わない。あなたは恩人だから」
「それもまた明け透けですね……」
「けどあなたはこっちの私の方がいいんでしょう?」
「それはそうだけど、僕がくるみさんに脈ありだなんて思われてたのは心外だな。僕は誰かに告白する予定なんか、残りの人生で一度たりともありませんから。たとえ誰かを好きになってもね」
それを生涯独身宣言と捉えたらしいくるみが、ちょっと憐れむような目で見てきた。
「ではその現実離れした空理空論が本当だってことを一言で証明していただこうかしら」
「僕が育った欧州って、告白の文化ないんですよ」
本当に一言で証明してみせると、それがあまりに信じがたかったからか、くるみは前のめりになりじとっと半目で睨んでくる。
「……それ本当? 冗談じゃなくて?」
「本当の本当です」
「嘘だったら?」
「来週の中間試験で僕がくるみさんを追い抜いて学年一位を奪う」
「……別にしなくていい、無理だから」
不可能の代名詞として述べた例えを、あっさり否定された。
言い方こそ辛辣だったもののようやく少しは信じてもらえたらしく、くるみはため息交じりに身を退かせる。
「けど確かに。……それなら間違いなく、私の気のせいね」
澄ましながらも、困ったように淡く笑みを浮かべて口許を弛ませた。
明かされた真実に安堵したのか、あるいは己の勘違いを恥じたのか。それはまるで真っ白で清らかな雪に蜂蜜をひとたらししたような、ほんのり甘さのある年相応のはにかみ。
白い雪を冠したあだ名なのに、冬がばびゅんと吹き飛んで、桜前線が手をつなぎあってゆるりんとやってくるような、そんな春そのものみたいな笑みだった。
——なんだ、ちゃんとそういうふうに笑えるんだ。
皆に慕われて繊細で儚い微笑みを絶やさない妖精姫と、今目の前にいる、きっぱりとした物言いなのに素直じゃない矛盾を併せ持つくるみ。彼女は鎧だと言っていたが、果たしてどちらが本当の彼女なのだろうか。
もしも後者が彼女の本来の姿なのだとしたら、それを知るのはこの学校で自分だけなのだろうか。
なんとなくこそばゆい気持ちがじんわりと腹の底から込み上げてきて、抗うようにじりじりと視線を逸らす。
「けれど告白がないなんてびっくりしちゃったわ。ちょっと海を越えただけで、日本とはこんなに違うものなのね。想像もつかない」
「くるみさんも向こうだと、告白断る度にわざわざ傷心せずに済みますもんね」
「……それを言わせようとしてくるのはちょっと意地悪なんじゃないかしら」
図星だったらしい。どこか気まずそうなくるみのじと目はどこ吹く風で、碧も初めて海を渡った日のことを思い起こした。
「言われてみればそうだけど、確かに文化の違いってものは思わぬ形で存在するものです。僕も向こうで暮らし始めて日が浅い頃は、毎日が驚きの連続でした」
「文化の違いって……どういうの?」
「たとえば向こうじゃ、ほっぺにキスくらいはただの挨拶だし」
実は本当にしてるわけじゃなくて音で済ますだけだけど、と続ける前にくるみが眩い絹糸をひるがえして、ばっと顔を逸らした。
「そ……そういうことを学校で言うものじゃありませんっ」
珍しく声を荒げ、なぜかほんのり頬まで赤らめている。
「え、何? そういうことってもしかして……キスのこと?」
「だから言わないでって言ったでしょうっ」
碧のぎこちない言葉に反応するように、くるみは狼狽えながら頬の紅潮をいっそう華やがせた。そっぽを向いてきゅっと目まで瞑り、碧のこれ以上の不敬な発言は許すまいという凄みすら放っている。
こういう時に好奇心が出てしまうのは、碧の悪いところだろう。
「…………。じゃあ、ちゅーは?」
結果、物凄く睨まれた。
どうやら目の前の少女は、恋愛に結びつくワードについて相当初心らしい。発言するのみならず聞くだけでもこうなのだから、いくら数多の告白をされているとはいえ、関係を持つという点では本当に男慣れしていないのだろう。
欧州にいた時はそういうのに開けっぴろげな人が多かったので、碧にとっては物珍しい存在として映ってしまう。なんだか妙に可愛らしくて、しみじみと眺めてしまった。
「純情だなあ」
「な……なんかばかにしてない?」
思わず感嘆の声を洩らすと、棘はあるもののどこか余裕のない口調で言い返す。
「嘘うそ。してないしてない」
正直に言うと、普段は僕に対して大人ぶって小言をいってくるのにこういうところは未熟なんだな、と思ったがそんなからかいを言えば弁当の恩を仇で返すことになるので、当たり前のように口を噤んでおく。
碧が首を振って退けるとくるみはようやく照れを抑えたみたいで、頬はミルクのような白さを取り戻した。
それからどこか遠くを見るように、美術室の窓へと目を向ける。そこから見えるのは、葉を全て散らして裸になった桜の木と、私立高校特有の広いキャンパスだけだ。
「私にとっては、この学校でも持て余すくらい広いの」
確かにこのキャンパスはそのへんの公立校と比べれば恐ろしく広いが、そういう話ではないことは碧にも分かる。
「……あなたはいろんな世界を、見てきたのね」
その瞳には、あの水彩画を見た時のように羨望の色が宿っていた気がした。
何となく、いつもの冗談で笑いに昇華してはいけない気もした。
字幕っぽくしたいのと、括弧はあんまり使いたくなかったので和訳はルビ機能使ってみたのですが
すごく時間かかってしまいました。
もし読みづらかったら「何言ってるかわからないくるみさん視点」とでも思っておいてください(´・ω・`)
面白かったら評価いただけると嬉しいです!
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2023/10/13 間違い見つけたので少し改稿しました。