27 人海戦術のスライム
渓谷は荷馬車がすれ違うのがギリギリの幅ではあるが、歩いて移動するには十分すぎる程の広さがある。
だがもしそこに軍隊を進み入れればどうなるだろうか?
答えは単純、狭すぎて行軍の妨げになるのは必至だ。
だがそれはあくまで人間の都合であり、いくらでも姿形を変形させることのできる魔法生物、ましてや何処に行くわけでもなくその渓谷を住処としているスライムにとって道の幅など気にする必要などない。
どれほど弱い魔物であったとしても、隙間無く空間を埋め尽くされて行動可能なのはそういったスライムの肉体と非常に合致している。
以前の村を占拠したガルーダの時と違い、今回は明確に地形がスライムのその混沌の能力を最大限発揮できる場所を陣取っていると言っても過言ではないだろう。
だからこそドット達は望遠鏡を使って特訓の時とほとんど同じ大きさにスライムが見える距離を確保し、マリアンヌが最大のコンディションで狙撃できる瞬間を待つ。
元々人通りの多かった渓谷であるため、他の魔物の心配をする必要もなく、食料も考える必要が無いため、全ては一撃必殺の為にただ時を待つ。
そして待つこと一週間、遂にその時が訪れた。
「無風。湿度も低い。みんなのおかげで十分に睡眠もとらせてもらった……。いけるわ」
マリアンヌの言葉と共に全員で準備を整える。
もしもトドメを刺し損ねた時の為にアンドリューはいつでも防壁魔法を張ってスライムを遮れるようにマリアンヌの横に立ち、ライオネッタとワワムは全員を担ぎ上げてすぐに後退できるようにする為に逆向きでマリアンヌ達の前に待機し、マリアンヌの構える杖の前にドットがナイフを魔法で浮かせた。
そのナイフはドットが一度壁へ向けて投げ、その途中で魔法により浮かせたままにしてあるもの。
もし狙撃が致命傷にならなかったとしても、そのナイフが命中すれば混沌の力が消失するであろうことを考え、保険の為にこの砲台形式を取った。
十分すぎる程の状況を整え、マリアンヌが魔力を集中し、ドットの掛けた補助魔法の効果でしっかりと見える遠方のスライムのコアへ水の刃が直撃するように魔法陣の角度と魔力の量を調整する。
そして笛の音のような高音と共に圧縮された水流が宙に浮いたナイフを押し出すようにして射出され、スライムへと一直線に突き進んでゆく。
練習通り感知距離外から音速で飛んで行った水の刃とナイフは見事コアに命中した。
だが、それはあっという間に増殖したスライムの内の一体のコアであり、混沌の魔獣本体へはナイフどころか魔法すら届くことはなかった。
「……!? 失敗し」
マリアンヌがそこまで言いかけた時、スライムは話で聞いていた通り、渓谷を埋め尽くすように凄まじい勢いで分裂してゆく最中だった。
だがそれと同時にマリアンヌもアンドリューもライオネッタも、その中で最も優れた反射神経を持つワワムでさえ、何かを考える事すら許されなくなる。
ブルブルと震えながらスライムがあっという間にドット達のいる場所まで埋め尽くすほどに分裂し、ドット達を津波のように呑み込んでゆく。
「マリアンヌさん!! アンドリューさん!! ライオネッタさん!! ワワム!! クソッ! みんななんで動かないんだ!!」
唯一、ドットだけがその状況を理解し、行動する事ができていた。
とはいえ体はスライム達に埋め尽くされる前から鉛のように重たく、僅かずつしか動かす事ができなかったため、急いで身体の方へ腕を引き戻していたが、何故か思考だけははっきりとしていた。
そして窒息させられないようにする為に口元を押さえたが、肝心のそのスライム達の方も見るからに動きが鈍い。
寧ろ鈍いというよりは全く以て動いていない。
『一体どうなっているんだ!? 増えたせいで身動きが取れなくなったのかと思ったらそうじゃない。この増えたスライムも自分も動きが鈍くなっている……! 恐らくはこの空間自体が時の流れが遅くなっているんだ……!』
目の前のスライム達の様子と自分自身への変化を注意深く観察し続け、その動きの鈍さとよく似た感覚を普段から味わっていることをドットは思い出していた。
戦闘が始まった瞬間に、思考が一瞬で鈍くなるその感覚に酷似していたのだ。
だが今は意識だけははっきりとしており、逆に身体の言う事の方が利かない。
『付けられた二つ名で完全に誤解していたが、これは恐らく何もかもが遅くなる異常性と異常な分裂速度の二つの能力を有していたんだ……! そうでないとこの遅すぎる世界で逆に自分だけが思考できている事の説明がつかない』
他の皆の様子を見ても、瞬きのような反射行動は緩やかにだが行われているのを確認して、ドットは自身の思考力が低下ているが故にこの遅すぎる世界で思考を巡らせる事ができるのだと仮定した。
もしそうでないなら、急激に増殖したとはいえ既にスライム達の感知範囲内にいるドットはスライムのどれか一体とでも敵対状態にあるはずだからだ。
『私自身能力の全てを把握できていない様に、恐らくはこのスライムも反射的に混沌の力を使っただけで制御はできていないはず……。考える事ができるなら恐らくは……!』
遅すぎる世界では例えスライムであっても行動する事が難しく、逆に全ての思考が遅すぎるドットだけがこの空間では通常と同じ思考ができていたのは正に偶然だっただろう。
しかし腕を動かす事はドットでも困難であるため、ドットが至った結論は一つだった。
『口……も動かせないな。なら思考で詠唱するしかない。電撃よ貫け! サンダー!!』
ドットが心の中でそう唱えると、ゆっくりとドットの前に魔法陣が描かれてゆき、小さな電撃がスライムへ走った。
思考のみで行動する事も可能な魔法、特に初級魔法はドットも昔からずっと訓練していたため唱えるのに苦は無かった。
ゆっくりと魔法がスライムを駆け抜け、そして直撃していたであろうスライムが一匹消し飛んだ。
『戦闘中なら体力も魔力も固定化されている。だったらどれほど弱い魔法であっても連発し続ければスライムを全滅させる事も可能だ!』
止まったと思えるほど緩やかな時の中で、ドットは一人、サンダーを唱え続けてまず仲間達の周囲を覆っているスライムを倒し、そして少しずつ他のスライム達も消し飛ばしてゆく。
既に何時間もの戦闘を行っているような感覚に陥るが、太陽が傾くどころか影の形すら変わらないほど全く時間は経過していない。
『……これほどずっと魔法を詠唱しているのに一切集中力が乱れているような感覚もない……。全てが一に固定されるのは困りものだが、まさか集中力が低下しないなんて副産物もあるとは予想外だった』
一匹、また一匹とドットの魔法によってスライム達が一掃されてゆき、漸くドット達を取り囲んでいたスライムは全て倒すことができた。
だがこの人海戦術を敷いた混沌の力の根源であるスライムは遥か遠く。
『仮にこの増殖したスライムを全部倒したとしても、恐らく本体はまた増殖可能だろうな……。そうなると本体も身動きが取れていない間に識別可能な自分が対処しない限り堂々巡りになるな……』
自分だけが正常に思考できるという状況から、一先ず皆の安全を確保したことでドットは今一度冷静に状況を分析し、自分も相手も動きにくいこの状況を逆手に取ることを考えた。
とはいえいくら周りのスライムの動きが遅いと言えど自分自身も動く速度が遅いため、約一〇〇メートルという距離を体感時間にして一週間ほど掛け、スライムの海の中を歩いて渡る。
『居た。こいつが元凶のスライムだな』
ジリジリと黒い靄が明滅する個体をドットが見つけ出すと、案の定本体も全く身動きが取れていなかった。
今一度ドットはその個体へ向けてサンダーを唱えると、当然避けられるわけもなく、無事に電撃がそのスライムを貫き、黒い靄と共に霧散した。
「た!? ……ってあれ? 確かスライムが津波みたいに押し寄せてきてたと思うんだけど……」
意識を取り戻したマリアンヌが言いかけていた言葉の続きを言う頃には、混沌の魔獣と化したスライムは既に討伐されていた。
間違いなくドットは誰も成し遂げた事の無い混沌の魔獣を二体も討伐したという偉業を成し遂げたはずだったのだが……その何とも言えない幕引きに一人悶々とした感情を抱えたまま、討伐以来は完了した。