正しき運命のもとに

作者: つぶらやこーら

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 つぶらやくんは、やけに自分の幸不幸を感じてしまうとき、ないかい?

「今日はいやについてるな」とか、逆に「今日はとことんダメだな」とか。

 禍福は糾える縄の如し、とはよく聞くけれど、つまりはそう思わないと心がやっていけないときだってある、ということだよね。

 いいことと悪いことが交互にきて、バランスを取ってほしいと。自然の摂理は、いつも足りないところを補い、均等化しようと努める。ならば、運もまたそうあってほしいと。


 もし、そのような運の均一化ができるとしたら、つぶらやくんは試してみようと思うかい?

 自分がとことんついていないと感じるとき。そいつははために、ほんのささいなことかもしれないけれど、本人にとっては人生の岐路といっていい一大事。

 だからつい、得体のしれないものに関わりあっても構わない、という心のスキを生んでしまうかもなんだが……。

 私が昔に体験したことだけど、聞いてみないかい?


 その年の私は、徹底的についてないと思っていた。

 なにせ、年が明けてからこの10か月の間、一度もじゃんけんに勝ったことがなかったからだ。

 タイマンから集団戦まで、勝ちきることができずじまいだった。試しにひとりに立て続けに勝負を挑んでみて、これもダメ。

 ひとりの相手に連続10敗なんてマネ、人生ではじめてのことだったよ。


 おかげで、じゃんけんで決める、あらゆる貧乏くじを私は引かされることになる。

 ゴミ出しや、片付けの手伝いや荷物持ち、恥ずかしい罰ゲームに至るまでだ。

 公平にじゃんけんで決めよう、などとのたまわれるたび、私の胸にはちょっと黒いものが浮かぶ。

 そしてそれは、敗北の結果をもって、真っ黒に心を染め上げ、うつうつとした気持ちで負け組の枷をはめられることになる。

 ただ運が悪いだけ……と、はた目には片づけられるだろうが、当人の私にとっては辛いことばかりだ。


 ――どうにか、変わんないかな。この状態。


 そうぼんやりと考えていたとき、友達のひとりから、あるおまじないを持ちかけられた。

 本来の運命を取り戻すおまじないだ、と。

 こいつを実行すると、偏っていた運命が修正され、正しい運命がやってくるのだという。


 ――どう考えたって、俺の運は偏っている。もし、これで俺のじゃんけん運も元に戻るのなら……!


 期待から、俺はその誘いをすぐに承諾。

 すると友達は、丸い石をふたつ渡してきた。

 いずれも手に握りこめる大きさで、ゆるい三角錐をかたどったその石は、大半を薄い青色に染めていたが、その三角錐の側面のうち一面のみ。

 まるでメッキ加工でもしたかのように、金色の輝きを放っていたんだ。指で触ってみるとやすりやおろし金を思わせるような、チクチクするざらつきを帯びている。


「そいつを、自分の家に帰ったら、金色の面同士を打ち合わせるんだ。

 ゆっくり3回。ひとつひとつの余韻がすっかりなくなるまで、ゆとりを持ってね。

 それを全部やりとげられたなら、新しい運命が待っているはずさ」


 外で打ち鳴らしても意味がないから、自分の家に帰ってからやるんだよ、と釘を刺してくる友達。

 私は言われるがまま、下校後の自分の部屋でもって、例の二つの石を握った。

 このとき、家には祖父がひとりだけ。他のみんなは買い物そのほかの用事で、ちょうど出かけていたんだ。


 部屋の真ん中であぐらをかき、私は片手にひとつずつ持った石の金色の面を、軽く打ち合わせてみた。

 それほど勢いをつけたわけでも、力を入れたわけでもなかったのに、石同士から響くのは間近でお寺の鐘がつかれたかのような、大音量だったんだ。

 思わず、耳を塞いでしまう。

 特に警戒していなかったこともあって、その響きごと、頭も体も揺らされて、目がまわりそうな錯覚さえ覚える。


 明らかに、ただの石同士を打ち合わせたのでは、あり得ない音。

 ゆえに、友達のいうことも、かえって信ぴょう性が増すような気がした。

 響きが絶えるのを確認しなくてはならないと、私は途中で耳から手を離し、残響を聞き届ける。

 すっかり消える少し前に、家の一階。この部屋の真下の、庭に面した窓が開く音が混じった。

 おそらく祖父だろう。土いじりから、戻ってきたのだろうか。


 しかし、私の試みはこの2つ目の打ち鳴らしをもって終わる。

 2回目は警戒していたから、さほどでもないと思ったが、身体の左半身と右半身とが、交互に震えるような、おかしい感触があった。

 同じ振動を感じているはずなのに、どんどんと左右の身体で震えるタイミングがずれていく。

 それはまるで、私そのものがどんどんと、左と右に離れていくような心地がしてきて……。


「何をしている!」


 祖父が部屋へ怒鳴り込んできたのは、その直後だった。

 ぼんやりと顔をあげた私に対し、祖父は手の中の二つの石を見るや、なおのこと血相を変えて、即座に石を取り上げてしまった。

「どこで手に入れた」と詰め寄られて、友達からもらったとしか説明ができない私。

 再三、詰問するも同じ答えしか返ってこないことに、やがて祖父もあきらめたか、ふたつの石を握りこみながらいった。


「正しい運命がやってくる、とお前は聞いたんだな? だが、そいつはこの石がもたらす一側面でしかない。

 厳密には、選び直しとでもいうべきものだ」


 私たちは母親の卵子に、父親の精子が結びついて生まれるものだと、当時の私は初めて聞いた。

 その万とも、億ともつかない競争の果ての、ただひとりの勝者。それが私たちなのだと。

 残りは敗者として消えゆくしかない。いわば、私たちこそ極限の偏りの果て、生まれた命に違いないのだ。

 それを正しいものへ戻す。それすなわち、自分の身を捨て、精子たちとの無数の闘争のときへ戻し、再選定をうながすものなのだと。


「もし、お前のいう友達もそれをやる気であったなら……もう、再会はあきらめろ。おそらく、お前の知る姿で再び会う確率など、まさに億が一しかありはせん……」


 次の日。

 かの友達は行方知れずになった。

 そのまま今まで会うことができていないが、ほどなく友達の母親が懐妊し、彼の弟を産むことになったんだ。

 私のじゃんけんはというと、それから二か月ほどして、ようやく勝ちの目がちらほら見られるようになったよ。

 およそ10年が経ち、大学生になった私が久々に帰った地元で、私はその弟を見る機会があった。

 背こそやや高いが、記憶にある友達によく似た姿をしていてね。

 特に話はしなかったが、彼は私を見ながら、しきりに手を動かしていたよ。

 三角錐の石同士を打ち合わせるような、あの動きをね。