「飲み物」「吹雪」「クワガタムシ」
轟々と山が鳴っている。
吹雪が山脈の側面に吹き付けて止む気配がない。
洞窟の中には明かりが灯っていた。
登山家が、そこにいた。
冬山は慣れたものだった彼はいつものように山に登り、そして、予想外の吹雪に遭った。たまたま見つけた洞窟が無ければ、彼の命はなかっただろう。
持ってきた水はあっという間に凍ってしまう。
仕方がないので、凍りついた洞窟の壁をバーナーで溶かしてあっためたものを飲む。インスタントのコーヒーを混ぜて、暖かさに感謝をしながらちびりちびりと飲んでいた。砂糖の甘さが身に染みた。
人心地がついた。
彼はホッと気を抜いて揺れる灯りを見つめる。
これが自分の生命線だ。これを絶やさないようにしなくてはならない。
幸い、食料は多めに持ってきている。
三、四日は籠城可能だ。それまでに吹雪が止むのを待つしかない。
彼は祈るように洞窟の外を見つめた。
轟々と風が吹いている。
荒れ狂った空は灰と白で青空の気配は微塵もない。
「あれは、なんだ?」
登山家は、その空の中に黒い点を見つけた。
ふらふらと頼りなく、だが確実にこの洞窟に近づいている。
羽の飛翔音が聞こえた気がした。
まっすぐに自分の方へ、向かってくる。いや、これは、違う。灯りの方を目指している。バーナーに突っ込まれるとまずい。登山家は、済んでのところでその物体を捕まえた。
ジタバタと弱々しくもがくのは、ミヤマクワガタだった。こんな冬真っ只中にどうしてクワガタが飛んでいるのか。冬眠から偶然覚めてしまったのか。
だとしたら気の毒だ。彼は自分の危機的状況を置いて、そう考えた。
どうしようか。砂糖水なら食べられるか?
さっきの要領で水を作り出して、砂糖を混ぜる。
指に少量とってクワガタの顎の下ブラシに近づけた。
ゆっくりとクワガタはそれを舐めた。初めは恐る恐る、次第に一気に、その水を舐める。確かな命がそこにあるのを彼は感じた。
●
砂糖水を与えるだけしかできないが、登山家とクワガタの共同冬ごもりは割と上手くいっていた。登山家にとってクワガタは、先の見えない遭難における一種の清涼剤であり、クワガタの方も登山家に懐いていた。
時々バーナーの方へクワガタが飛んでいきそうになるので、それを抑えるという苦労があるくらいだった。やはり明かりに引き寄せられる性質はそのままのようだ。
「お前は、どうしてここにいるんだろうな。」
指に止まったクワガタに彼は語りかける。
何日も閉じ込められ、一人では気が狂ってしまったかもしれない。
だが、小さな昆虫と一緒にいることで、精神的な支えを手に入れたのだ。
クワガタは答えないが、彼に確かに寄り添っていた。
吹雪は、相変わらず外を吹き荒れていた。
閉じ込められてから五日。そろそろ、食料は尽きかけている。
明日こそ、晴れてくれ。彼はそう祈って、クワガタとともに眠りについた。
●
吹雪が弱まった。青空が洞窟から覗ける。
これなら帰れる。まだ、完璧な天候になったとは言い難いが、食料事情も鑑みて、今帰るのが正解だ。
彼は、荷物をまとめることにした。
「あいつはどこにいるんだ?」
そういえば、今日はクワガタの姿を見ていない。いつもなら彼が起きた途端によってきて砂糖水をねだるのに。どうしたことだろう。
気にしながら、彼は準備を完了させた。
「おーい。いるか?」
答えが返ってくるはずがないとわかっていて、それでも尋ねずにはいられなかった。帰るのならばあいつも一緒だ。登山家はいつの間にかそう決めていた。
だが、いつまで経ってもそこにクワガタは現れなかった。
彼は、時期を逸するのを承知でクワガタの姿を探した。
探して探して、どこにも見つからない。
諦めて地面に目を落として、彼は信じられない光景を目にした。
「うそ、だろ。だって、昨日まであんなに元気に飛んでたじゃないか。」
最奥の地面に横たわるのは、ミヤマの亡骸だった。
静かに、彼を悲しませないように見つからない場所でミヤマは死んでいた。
「薄々わかっていたよ。お前がそんなに長く生きられないことは。でも、一緒に、洞窟を出るくらい、したかった。下の暖かい森に移動させてあげて、もし良かったら、街で一緒に暮らしたい。彼はそこまで考えていた。
でも、もうそれは全て実現しない。
彼はミヤマが好きだった砂糖水を作った。
ミヤマの横に置いて供える。
ついでに自分で飲んでみた。ひたすらに甘い味がした。
彼は一日中その側にいた。
心を整理するのに必要な時間だった。
翌朝。彼は、ミヤマの亡骸に一瞥をくれた。
「じゃあ、さよならだ。」
洞窟の外へ足を踏み出す。
真っ白な雪原を青空から太陽が照らしていた。
とても良い天気だった。