10、虫に石を投げます
湖の対岸に何か巨大なものが動いている。
あそこは鯉を捌いたあたりだ。
羽が生えていて、バサバサと飛び跳ねている茶色っぽい
ものがいる。
鳥ではない。
「虫……か?蛾? んー、カワゲラに見えるんだけど…」
幼虫の頃は川底の石をひっくり返すとワラワラと出てくる、あの小さい川虫だ。
成虫になるとヒラヒラと飛ぶが、成虫の期間は短くて儚い印象がある。
カゲロウやトビケラ、カワゲラなどの川虫はよく釣り餌として使ってたので馴染みがある。
川魚は山籠りの際の主食なので、よく釣りをしたもんだ。
ただ視界に映るカワゲラの姿は異常にデカい!
俺より大きそうだ。
鯉といい、虫といい、この世界は何でも巨大化するのがデフォですか?
よく見えないが、置いてあった鯉の内臓を食べてるようです…。
確か川虫の成虫って、何も食べなかったと思うんですが!
どうして肉食になった!
虫のデカいのは鯉のデカいのより恐怖を感じる。
鯉の内臓を食べるのなら、こっちの身の方も食べにくるんじゃ…。
ばれたらヤバい。
ヤバいけどもう焼いちゃってるし、いい匂いが立ち込めてるハズ。
…角石、石苦無、木材をいつでも投げられるように用意をしておこう。
そいつは食べ終わったのか首を持ち上げ、あたりを見渡している。
なんかこっち見てる気がする…!
ヤメて。
「うわっ!こっち来た!」
やっぱり来るんですね!
そいつはバサバサと羽を動かしてこっちに向かって飛び上がった。
が、フラフラと落っこちて地面に激突。
飛ぶのは下手なようですね…。
今度は歩きだした!早い!
巨大なGか!
と、思ったら急停止。
不規則で意味不明な動きがよけいに恐怖を掻き立てる。
だいぶ近づいてきたそいつを観察する。
うわっ巨大な顎がある!
「ヘビトンボじゃねーか!」
川虫の中でも最もデカくて凶暴なヤツ!
黄色のラインが入った長い首筋に、黒くて真っ黒な目玉。
ムカデを連想させる巨大な顎。
ムチのような長い触角。
体を覆う外骨格は鎧のように頑丈そうだ。
もう投げたら届く距離にまで来ているのだが、恐怖で投げられない!
そいつは歩むのをやめ、俺を品定めするかのように顎をガチガチと動かしながら首を上げ下げしている。
黒くて丸い目は何の感情も読み取れない。
ひたすら異質だ。
対人戦は腐るほどやってきた。
相手の感情、呼吸、目線、重心、筋肉の緊張具合。
それらを探りあい、交流しあって戦うのだ。
この生き物にはそれが当てはまらない。
この異世界よりも、同じ世界からやってきたはずのこの虫のほうがはるかに異質に感じる。
シャッ!
そいつは羽を孔雀のように広げたかと思うと、跳躍した。
石苦無を投げつける決心ができずにいると、そいつはまたもや地面に激突した。
ギギギギギ…
「…?、苦しんでるのか…?」
体の節を軋ませて、ワナワナと震えている。
なんとなく酩酊状態のように感じる。
羽化に失敗したのか…?
いや、姿を見る限り完璧に羽化できている。
病気か?この世界に馴染めなかったとか?
もしくは毒…。
毒か!鯉の苦玉を食べたのか?
苦玉が原因かは、わからない。
でも細かく痙攣を起こしているこいつを見ると、急に哀れに思えてきた。
何かを訴えるように顎を動かし、触角を振り回している。
異世界に落ちてきて、巨大化し、毒を喰らってしまった、元は小さな虫。
…同郷のよしみで苦しまないように止めを刺そう。
我が天現捨投流の歴史は戦国時代にまで遡るという。
戦場において兵士が効率よく兵士を殺す為の技術であり、そこに武道的精神はない。
ひたすら殺し、生き残る。それだけだ。
武器は何だって良い。ルールもない。
戦場で磨かれたその技術はやがて、とある戦国大名によって保護、秘匿され、限られた者に伝承されてきた。
武器の主流が銃などの近代兵器となってっからも、その技術は磨かれ続け、今では国から秘密裏に管理を受けている。
素手で簡単に人を殺せるんだから、天現捨投流を習うには公○に審査、登録が必要なのだ!
公開されることはないが、国の依頼で要人の護衛や、さらには非合法的な活動を要請されているらしい。
なんせボディチェックして何も武器持ってないってのに、兵器なみの殺傷力を持った人間って危険過ぎる…。
まぁ秘匿道場ではペーペーだった俺にそんな物騒な仕事は与えられなかったが。
その無慈悲で情け容赦のない殺しの技法のなかで、いくつかは苦痛を与えないようにするものが伝わっている。
血塗られた戦場で、なぜその技が必要だったかはわからないが。
その技を応用して、痛みを感じさせないようにしてやろう。
角石を構え、巨大ヘビトンボに向き合う。
腹を決めた。
投げると決めた。
もう恐怖も憐憫も持ち合わせてない。
視える。
脳と延髄…、虫だから延髄というか神経の集まりか。
それが一直線になる瞬間を待つ。
ギギギギギ……シャー!
投げる!
シュンッ! ズガンッ!
巨大ヘビトンボが最後の威嚇をした瞬間、角石は狙い違わず眉間から胸の中心を通るように突き抜けた。
一瞬にして絶命した巨大ヘビトンボは痙攣することもなく、静かに崩れ落ちた。
我が流派は基本的に技に名はない。
ないんだけど、特別な時には『おくり技』として名付ける習わしがある。
何となくそれが今ふさわしい気がした。
「天現捨投流 慈悲捨終投げ」