お盆の夜に初恋を悼み踊る

作者: Schuld

主題:踊るゾンビ

 日本には神霊や妖怪の類いが多く生息しており、社会にすっかり馴染んでいる。昔は戦争したり領域を争ったりしていたらしいが、皇紀600年頃に皇主が鬼神族を正室に迎えてから対立は軟化し、ほんの400年前には法的に平等になる程に受け入れられた。


 神霊は未だに自然を司る上位存在として。妖怪妖魔の類いは人類の一種として、この国に暮らしている。


 まぁ、国際的な交流が産まれてから別の外向的な問題が生まれたりはしているが、今の所は大凡で落ち着いている。だから私達の世界では異種族は何処にでもいるもので、神霊は神事の際には顔を出す偉い人という認識だ。


 今日もテレビをつければニュースで、どこそこの地鎮祭でどこそこの神様が現れてという報道がなされているし、人狼のコメンテーターが吸血鬼のアイドルにフォトショ使ってない? とか毒を吐いている。


 これこそが、私達の日常。


 だから、これもまた私の日常なのだ。家の裏にある古びた墓地、古い神社が管理している墓地で見られる光景も普通の事。


 石畳で舗装され、それ以外の場所は黒い玉砂利が敷き詰められた墓地は、丁寧に手入れが為された静かな所だった。


 墓地の脇に佇む林でヒグラシが鳴いていた。盆も近い今ヒグラシは盛りを迎え、盛大に求婚の鳴き声を上げていた。墓所の隣で生命の歌を歌う、と言えば何処か詩的でシニカルに感じられた。


 墓地を進んだ先、歩き慣れた道の先に高森家先祖代々の霊、と刻まれた古びた墓があった。そこまでは、何処にでもある普通の光景だろう。


 しかし、人にとっては異質な光景がそこにはあった。一人の少女が墓石に背を預けて佇んでいた。


 普通なら、何て罰当たりなと言いたい所だが、それは彼女にとっても私にとっても普通の事だ。何故なら、これは先祖だけではなく、彼女の霊を弔う場所でもあるのだから。


 「やっ、よっくん」


 腰掛けている少女は沈みかけて山の稜線に半ば身を隠した夕日の逆光を浴び、幻想的に赤く照らし出されていた。


 血管が透けるのでは、と思うほど白い肌に漆器が如く艶やかな黒髪。すっと通った鼻筋が目立つ面長の顔つきは、まるで精緻な工芸品のように整っていた。


 彼女が纏うのは古ぼけた学生服。真っ白なセーラー服と赤いスカーフ、紺色のプリーツスカートを組み合わせた古き良き女学生の風格。そのスカートから覗く脚は顔と同じく真っ白で……右足の膝から下は、ぽっかりと失せていて、代わりにスチールの棒きれが生えていた。


 「どうしたの? こんな時間に。もう陽が沈んじゃうよ?」


 漸う見やれば、彼女の切れ長の瞳は右側が硬く閉じられていた。墓石の縁にかけられた左手からは指が数本欠け、何処かで刺さったのか太腿の側面には小枝が突き立ったまま捨て置かれている。


 「……ねぇちゃんにお線香上げようかとおもって」


 そうだ、あの白さ。蒼白と表現するに相応しい肌は、きめ細やかだから白いのではない。熱が、生命が持つ熱と血液の奔流が失せているから白いのだ。


 彼女は死んでいた。どれだけ温和に微笑もうと、どれだけ記憶の中にある姿に近しかろうと死んでいた。その右目は7年前から中身が失せて空虚な洞と化し、右足は何処かへと消え去り、綺麗だった左手の薬指と小指はもう何処にもない。


 「おお、気が利いてるね。ありがとね」


 彼女は動死体だった。異種族とも違い、神霊とも近しくも遠い霊異の類いだ。強い強い未練を残した人間の魂が現世に残る形態の一つ。


 霊魂のまま残る霊、あまりに強い呪いのため神霊の域まで辿り着く怨霊、そして機能を失った肉体に戻ってしまう動死体。


 彼女……高森 かなえ は動死体だ。7年前から彼女はずっと動死体として此処に居る。何が未練か分からぬまま、もしくは内心に秘めたままでずっと此処に。


 私は彼女の墓前に座って、家から持ち込んだ線香の束にライターで火を付けた。落ち着いた白檀の香りが煙と共に寂しげな墓地に漂った。


 「ありがとね、よっくん。でもいいの? こんな時間にここに来て」


 残った左側の目を細めつつ香りを吸い込むような動作をして、かなえねぇちゃんは微笑んだ。もう匂いも味も分からないだろうに、私のお供えに満足していると示す為だけに生者の真似をしてくれているのだ。


 「うん、大丈夫だよ。別に、私はそこまで受験で困窮してないから」


 線香に移った火を手で扇いで消しながら言うと、かなえねぇちゃんは生意気なと笑った。そういえば、彼女も7年前は受験生だっけか。


 線香の束を線香台へと差し込んだ。燃え残った根元は、もうかなえねぇちゃんが掃除してしまったらしく綺麗なままだった。


 弔う霊は彼女以外にも居るから、私は手を合わせながらそっと瞑目する。この墓には、彼女の両親も眠っている。7年前、家族旅行に出かけた先で死んでしまった、家族ぐるみの付き合いがあった人達が。


 私が11の時、そして彼女は18だった時に事故は起こった。疲れてフラフラしていた長距離トラック運転手の起こしたミスで、家族は永遠に旅先から帰ってこられなくなったのだ。


 その時の事は、いまいち覚えていない。本当は私も一緒に連れていって貰う筈だったのだが、水疱瘡にかかって行けなくなってしまったのだ。私が彼女達の訃報を聞いたのは、旅行からとっくに帰ってきていておかしくないはずの、水疱瘡が完治した後の事だった。


 わんわんと泣きわめいたのは覚えている。信じない、嘘つきと親を詰ったことも覚えている。そして、病院からエンバーミングが施されて帰ってきた彼女に抱きつき、その冷たさに驚いて体を離してしまったのも。


 7年間、何が心残りで動死体になってしまったのかは分からないが、彼女は今も此処に居る。正直、霊や悪霊になって残る事例はそこそこあるから、珍しくは無い。だから、慰めて成仏させることを生業にした神職や拝み屋の商売が成立しているのだ。


 普通の弔いでかなえねぇちゃんは成仏できなかったから、氏社の神主さんにも来て貰っていた。相当の心残りがなければ、産土神を祀る神職からの浄霊で成仏できるはずなのだ。


 でも、彼女はまだ成仏できていない。彼女が死んだ時、両親が残してくれた遺産で月命日に毎回供養して貰って尚、彼女は成仏できずにいた。


 理由は未だに分かっていない。当人も分かっていない、という風情ではなさそうなのが救いだが。世の中には、何が心残りだったかも忘れて、魂を滅殺しなければ永遠に暴れ続けるしか無い怨霊も居るらしいから。


 未練を直接聞いた事もあるが、どうして彼女がこの世に留まっているのかは聞けず終いだ。だから今、私は大好きだった彼女の霊前を慰めることしかできない。


 「もー日が沈んじゃったよ、よっくん。早く帰りな、変質者が出るよ?」


 どれくらい瞑目して祈っていただろうか。かなえねぇちゃんの声が上から降ってきた。きっと、今も残った方の綺麗な脚をぱたぱたと機嫌良さそうに揺らしていることだろう。


 変質者、というと多分吸血鬼だろう。最近、強姦染みた血の吸い方をする吸血鬼が居るから注意するようにとホームルームで担任が言っていた。多分、日ノ本のルールになじめない新参者だ。馬鹿だなぁ、やり過ぎたら対魔省が出張ってきて、本気で討滅されてしまうのに。


 もう少し一緒に居たかったが、かなえねぇちゃんの言う事には逆らえない。7年よりずっと前からそうだったのと同じように。私が大きくなって、彼女が死んでしまったのと同じ年齢になってからも、それは変わらない。


 追いやられるようにして私は墓地を後にした。ひそひそと、霊になって残っている人の声が聞こえた。私は彼等を刺激しないよう、小さく頭を下げてから小走りに敷地を出る。


 夕日が消えて、代わりに明るくなった月が私を馬鹿にするように真っ白く輝いていた…………。









 私、高森 かなえは動死体だ。リビングデッド、アンデッド、ゾンビ、諸外国ではそう呼ばれる何かである。


 でも、最後のは厳密には死後の刑罰としてブードゥーの司祭が使う術なので、ちょっと違うものだけど、とりあえずはそんな感じだ。


 とはいえ、別に映画に出てくる西欧イメージなリビングデッドと違って、私は肉を貪ったり血を吸ったり臓物をぶちまけたりはしない。日ノ本の人間は、死した後も草食系なのだ。


 今のは冗談。おなじ動死体でも吸血鬼が作る下僕とか悪霊が死体に乗り移る屍食鬼とは違うだけ。魂のあり方が違うからか、日ノ本の人間は、そういった怪物にはあんまりならない傾向がある。大抵は無害な霊か嫌がらせをする悪霊か、ごくごくレアケースで神社で祀らないとヤバイレベルになる大悪霊になるだけ。


 つまり、わたくし高森 かなえはレアケースな訳だ。まぁ、言ってみたかっただけで、分母から見たらレアってだけで、より正確に表現するならマイノリティなんだろうけども。そもそも平安時代以前から文献では幾らでも書かれてる存在だし。


 動死体は肉体という依り代があるから、普通の霊より長くこの世に留まっていられるだけのことだ。そして、現在ではエンバーミング技術のおかげで肉体が朽ちづらくなって、更に長く世に留まれるようになった。


 でも、大抵の霊は未練を片付けたら成仏してしまう。強い思いを持って霊になっても、大抵は時間と共に希薄化したりするし、未練が晴らされたらこの世に留まろうというエネルギーが消えてしまうから。だから、動死体であっても長く現世に留まる必要は無い。


 だのに私がこの世に留まっているのは、未だに未練が果たせていないから。この未練が果たせるようになるのは、きっと随分先なんだろうと思う。


 無意識の内に、私は自分の左手を擽っていた。半ばから無くなってしまった薬指の辺りを。これが、私を現世に留まらせる大きな楔。今は作り物の皮膚で醜い傷口を塞いではいるけれど、此処には今も大きな傷口があいている。


 この傷口さえ塞がってくれるのなら、私はきっと成仏できて、無駄に動かしてきた体も荼毘に伏されて墓に入る事ができるのだろう。そうなれた方が、魂にも心にも穏やかだと思うけれど。


 だけど、私はまだ成仏できない。した方が良いとは思うけれど、できない。心の底から納得できていないからこそ、未練というのだろうね。


 私の未練はあの子、小さくていっつも私の後を着いてきてくれたあの子だ。今はもう大きくなってしまったけれど、小さかったお隣の可愛い男の子、三田瀬 美野。女の子のような名前だけど、意志が硬いきちんとした男の子だ。


 私がまだ成仏できずに居るのは、彼のせいだ。私が彼を傷つけて、彼から大事な物を一つ借りたままにしてしまっているから。


 それを返さなければならない。それを返せば、きっと私は成仏できる。でも、返すべき物は遠い昔に喪われてしまった。だけれど、きっと別の事で返したことになる筈だ。


 よっちゃんが良い大学に行ければ、それも適うだろう。時間がかかるか、直ぐにできるかは分からないけど、きっと適うはず。


 そろそろお盆も私の本命日も近いから、私は月を見上げて呟いた。


 「お月様、あの子の受験をどーにかしてあげてください」


 ……でも月読命って影薄いし祈っても駄目かな。そもそも何の神様か教科書に書いてなかったから私もよく知らないし。


 とはいえ、この脚で道真公の所に参るのも大変だしなぁ……電車にも乗れないし。というかお金がない、お賽銭も奉納料も払えないからお守りも買えないんじゃ格好が付かないじゃないの。


 ふと袖を引っ張られているように思って振り向くと、そこにはお隣のお墓に入っている物部さん家のおばあさんが居た。お孫さんの七五三までは粘る、と頑張っている元気なお婆ちゃんだ。もう亡くなっているけど。


 ちょんちょんと、おばあさんは優しそうな笑みを浮かべながら自分のお墓を指さしている。正確には、お供え物入れをだ。お孫さんが何か置いていっているのだろうか。


 促されるままに開けてみると、少し驚いた。そして、おばあさんに良いの? と問うてみる。やっぱり、おばあさんは優しそうに微笑んでいた。


 お礼を言って深々と頭をさげ、序でに拝んでおく。こんなにも良くしてくれるだなんて申し訳ないが、有り難く受け取っておこう。


 私は書き置きをするため、私物を置いてある、今は使われていない焼き場の方へと脚を伸ばした…………。







 ぼんやりと寝床に仰向けで転がりながら、私は大きく溜息を吐いた。盆とかなえねぇちゃんの本命日が近づくと、どうにも憂鬱でしょうがない。周りは楽しい夏休みを謳歌しているというのに、どうしても明るい気持ちになれないのだ。


 まぁ、今年の同期生は揃って大学受験に釘付けだから、余裕たっぷりで遊び倒している面子は少ないが。私も、志望大学に模試でB判定が出たから少し余裕があるだけで、全く勉強しないわけにはいかないし。


 受験勉強をしようと思えど、憂鬱さは飛んでくれない。この時期が近づくと何時もかなえねぇちゃんの事を考えてしまって、身が入らないのだ。


 どうして彼女は未だに未練を晴らせずにいるのだろう。ただそれだけが、心に引っかかって泣きそうになる。確かにかなえねぇちゃんと話せるのは嬉しい。でも、もう二度と成長することも変わる事も無い体で微笑む彼女をみると、どうしようも無く悲しくて仕方がなかった。


突破出来そうにも無い思考迷路を彷徨いながら、ああでもないこうでもないと煩悶していると、ふと太鼓と笛の音が耳朶を打った。


 賑やかに聞こえてくる音は、きっとお盆に備えて近所の神職達が練習しているものだろう。仏教神が入ってきて古来の神々と融和する際に、お盆の時期の先祖供養と盂蘭盆会が一体化したから、この時期は神社も寺も忙しいのだ。


 お盆では先祖供養のための時期で、祖霊が帰ってくると言われている。祖霊は幽霊やら怨霊とは違う物で、直接見たり触れたりはできない。ただ、蝋燭の火を揺らしたり灰に小さな文字を書いたりするささやかな存在だ。


 思えば、お盆の時期にかなえねぇちゃんを誘ってもあんまり答えて貰えなかった。ぼぅっとしているような、呆けているような。そんな曖昧な状態でいることが多かった。


 もしかしたら、お盆に何かあるのだろうか。


 そんな事を考えていると、枕元に転がしてあった携帯電話が震えた。開いてみると、クラスからの連絡網で近所の寺でやる夏祭りと盆踊りのお誘いだ。曰く、みんなで行こうとのこと。


 「……そうか、盆踊りか」


 かなえねぇちゃんがあんな調子だし、ねぇちゃん達の本命日が近かったから盆踊り所じゃなかったから全然行けてなかったな。


 盆踊りは祖霊を慰めるための踊り。だったら、かなえねぇちゃんを誘ってみるのも悪くないかもしれない。


 「誘ってみるか……」


 何となく呟いて、誘いのメールに理を入れてから、盆踊りの日をカレンダーに赤く記しておいた…………。







 夏の盛りも近づき、世の人々が盆休みに心を躍らせている時期の墓地。寂れたそこに一組の男女が居た。脚の代わりに金属の棒を生やした女学生の動死体と、近年めっきり見なくなった皇国人の伝統装束を纏った少年だ。


 少年はある日郵便受けに投函されていた古風な手紙に誘われて墓地を訪れていた。消印の無い手紙には、渡したい物があるので都合の良い日を教えてくださいと書いてあった。


 なので、少女を盆踊りに誘おうと思っていた少年は、これ幸いと返事を認めて盆踊りの日の夕暮れを指定した。どうして態々手紙を書いて、それを当人が居ない墓の前に置いて帰ったのかと言えば、少年は少女がやり方に拘る気質だと知っていたからだ。


 何処か洒脱を好む気質がある少女は、きっと返事を手紙で寄越さなければ臍を曲げるだろうと考えたのである。


 少女は態々夕方に指定したことを不思議に思いつつ希望を受け入れ、今に至る。対面した少女は、彼の格好を見て少々ばかり驚いた様子を見せている。


 それから、数秒考え込んで得心いったというように微笑んだ。伝統装束と帯に突っ込まれた団扇。この国に馴染んだ人間であれば、何に赴くかは一目で分かる。


 「そっか、お盆だもんね。お盆祭り行くんだ。誰と行くのかな?」


 少女はめっきり近くなってしまった目線を合わせ、悪戯っぽく笑った。10年以上前から変わらぬ笑みに、少年は一瞬泣きそうになりながら少女の手を取った。


 ひんやりとした感覚。血の通わぬ、保全処理が為された亡骸の体温に怯む事なく強く手を取った少年は、驚く少女を置き去りに歩き始めた。


 陽が沈む稜線に向かって。


 「ちょっ、よっくん!?」


 「ごめん、かなえねぇちゃん。着いてきてよ」


 草履が擦れる音と、金属の義足が石畳を叩く甲高い音が響く。足音は次第に土を踏みしめる音に代わり、その内枝を踏み折る音が混ざった。片足がぼうっきれでしかない少女には、実に難儀な道程だ。


 10分ばかし歩き続けて辿り着いたのは、山の中の少し開けた崖の上だった。崖といっても可愛らしい物で、転げ落ちたところで人が死ぬような高さでは無い。


 ただ、その向こう側に櫓が組まれた広場が見え、その奥には提灯の明かりに照らされて朧気に浮かび上がる厳かな仏閣の姿が見えた。


 「ここ……」


 「……かなえねぇちゃんと、夏祭りに行きたかったんだ。一緒に盆踊りしたくって」


 無数の灯火の下で大勢の人達が思い思いに集っている。皆、楽しげに伝統装束を着込んで軽食や飲み物を買い込み、祭りを練り歩く。櫓の周りでは、関係者と思しき神職達が手はずを確認したり、気合いの入った年寄り達が準備運動をする。


 茫洋とした光で照らされた崖の上から望む先は、正しく祭りの最中にあった。


 祭りの光景を目の当たりにした少女は、口に手を添えて黙り込んだ。二度と脈打つことの無い心臓が、再び脈打つ錯覚を覚え、する必要も無い息を飲む。


 少年は少女の驚きように、何も言えなかった。随分強引に連れてきたが、嫌がっている様子ではない。この驚きは一体何事であろうか。


 「……覚えてたんだね」


 問いかけることもできず、居心地の悪さを覚え始めた頃になって少女は口を開いた。


 何の事だろうと思って見やれば、少女は涙をこぼすこと無く泣いていた。いや、きっと涙腺が生きていれば涙は滂沱と零れていたことだろう。


 少年が慌てて少女の肩を掴み、どうして泣いているのかと問おうとすれば、彼女は問うまでも無く訥々としゃくり上げながら話し始めた。自分が成仏できずに居た理由を。


 「よっくんね、指輪くれたよね、お盆の日に。旅行に行く前にさ」


 指輪、当の少年は水疱瘡の熱と事故の対応によって忘却していたが、彼女が出立する以前に指輪を渡していたのだ。赤い珊瑚の細工が嵌まった、古風な指輪を。


 それは彼の曾祖母の遺品で、本当に好きになった人にあげなさいと臨終の床で遺された物だ。そして、彼はそれを連れだって夏祭りに連れ出して貰った折に、少女へ贈っていた。


 7年前、少女がまだ生きていて、少年が小学生だった時に。夏祭りに連れて行ってもらった帰り、少年は提灯の下で少女に指輪を渡した。幼く稚拙であろうと、子供なりの真摯さを持った告白と共に。


 年の差7歳は大きい。少女はこれからキャンパスライフを送り、少年と会える時間は減るだろうし、少年も中学生になれば恋も覚えるだろう。


 何れは、甘酸っぱい青春の思い出として二人で笑い会えるようになる。少女はそう微笑ましく思いながら、彼のプロポーズを受けて指輪を受け取った。彼が大きくなったら返してあげなければ、と思いつつ。


 しかし、それは適わなかった。事故で潰れた車体に挟まれ、指輪を嵌めていた薬指は喪われた。探しても見つからなかったと言うから、きっと砕けてしまったのだろう。


 彼女は酷く後悔した。あれはとてもとても大事な物だ。少年の心だけではなく、良くしてくれた彼の曾祖母の心も籠もっている。そんな大事な物を持ったままでは逝けない。その未練が少女を動死体としてこの世に留まらせた。


 指輪が見つからなければ、最悪誠心誠意詫びたい。強い強い力が霊魂を肉体に括り付ける。ずっと面倒を見ていた少年の純粋な好意こそが、彼女がこの世に残った理由だったのだ。


 果たす術が喪われた未練であるが、それは何れ果たされただろう。少女としては、少年が素晴らしい女性と出会って恋をしてくれれば、多少なりとも果たせぬ部分が残れど満足は出来た筈なのだ。


 だが、それはやがて変質した。少年は死した少女に何処までも拘り始めたからだ。指輪の事は忘れても、彼は殆ど毎日、今に至るまで少女を見舞い続けた。高校生になって、告白されても恋人を作らないほどに。


 これは彼女の思い上がりなどでは無い。実際、劇的な死と再開によって彼の中には、少女への好意と憧憬が強固にすり込まれていた。女とは聡い物で、思い上がりではなく態度や視線からある程度の好意を察せてしまうのだ。それが真摯であれば真摯であるほど、彼女達は好意を敏感に感じ取る。


 このまま逝けば、確実にしこりが残る。指輪を返し、無理ならば謝るという未練が更なる未練を作り出してしまった。少女は、彼の心の平穏と将来の為に、どうしても身勝手に逝くことはできなかったのだ。


 しかし、もう彼女は普通の人間と違って彼と共にあることはできない。定命の理から外れ、死した体は動死体としての性質や保全措置があれど何れ朽ちる。事実、そろそろ限界が近づきつつあった。


 だから少女は、決着をつけようと思っていたのだ。自分の未練と。如何なる結末を迎えるか分からないが、このまま醜く腐って朽ちて、彼の傷口を広げるわけにはいかないと腹を括って。


 そして、その覚悟は少年の思いつきで思わぬ展開を遂げた。少女の嗚咽混じりの言葉に少年は、遂に自分の感情に自覚を覚えた。


 少女に拘っていた事は分かっていた。初恋の女性“だった”と思っていた。その初恋が続いていると、表層では思っていなかったのだ。


 だが、言われれば憧れと恋情の認識は容易かった。少女は青ざめても美しく、変わっていないから。灯火の淡い火に照らされて、生きているように赤らんだ頬を見れば、7年前の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 少年は少女に恋をしていた。どうしようも無い程に。精一杯の告白をしてくれた、愛らしい同輩を袖にしてしまう位に焦がれていた。


 「でもね、おねえちゃんは、もう駄目だから。もう生きてないから、よっくんの恋人にはなってあげられないの……ごめんね、ごめんね……」


 流れぬ筈の涙が少年には見えた気がした。喪った筈の片眼を庇うように泣きじゃくっていた彼女は、スカートのポケットから一つの紙袋を取り出し、少年の手に握らせる。


 開けてみてと言われ、開いてみれば中には一つのお守りが入っていた。此処から電車で結構離れた所にある、学問の神様が祀られている神社のお守りだった。丁寧に学業成就の刺繍が施されたお守りは、彼の大学受験に合わせて購入された物だろう。


 途切れ途切れの言葉の中で、彼女は少年に頑張って大学に行って、可愛い彼女さんを作ってくれと頼んだ。そして、私の代わりに幸せになってと。


 彼女は悔いていた。今の未練は、根源的には動死体になってしまったことそのものとも言えよう。だから、彼が自分以外を愛してくれなければ晴らされないのだ。例え腐って朽ちようと、彼女は上手く逝くことはできないだろう。


 だからきっと、これが最後の好機。少女は吐き出す様に謝罪と願い、そして別れと感謝を口にした。例えどうあれ、愛されることは嬉しいことだ。そして、愛から離れる事は心が引き裂かれるように痛むこと。魂を苦難で刻まれる痛みを覚えながらも、少女は崩れた笑顔を作って見せた。


 いつの間にやら、少年も泣いていた。幼い頃のように顔を崩し、大声を上げて泣きはらした。


 二人は抱き合い、共に泣いた。冷たい体と暖かな体が、七年ぶりにふれ合い、熱が解け合う。古びたセーラー服に涙がにじむが、少年の装束が濡れることは無い。


 それでも、心には少女の涙が深く深く染みいっていた。


 半時間ほども泣き続けただろうか。いつの間にやら、準備は終わったのか盆踊りが始まっていた。大勢の参加者が櫓を囲んで、太鼓の律動に合わせて踊っている。祖霊の帰還を悦び、慰めるための踊りを。


 「……ねぇちゃん、踊ろうか」


 「え?」


 ぼぅっと始まった祭りを眺めていた少女に、少年が声を掛けた。そして、指の欠けてしまった左手を取る。


 「今日だけで良いからさ……今日だけでいいから」


 少年が捻り出したような重々しい言葉の後に、何を言おうとしているか少女は問うまでも無く分かっていた。


 動死体である、この世に焼け付いた陽炎に過ぎない己と同じくらい儚い行為だ。きっと意味は無い。むしろ、良いところ等何一つ無いだろう。だが、それでも一つくらいは我が儘を通してもいいかと、少女は腹をくくって微笑んだ。


 言葉にせずとも少女が理解出来たのと同じく、少年も言葉を伴わぬ微笑みの意味を察していた。


 ここから先、言葉は無粋だ。長く側にあった二人だから分かる、言葉のない会話を目線だけで交わす。そして、少年は頬を染めて、恥ずかしそうに千切れた薬指の痕に口づけを落とした。


 きっと少女に巡る血が残っていたのなら、顔を真っ赤にしていたことだろう。少年と同じように。


 燃え上がるように真っ赤に染まった頬を隠そうともせず、少年は手を取ったまま駆けだした。祭りの喧噪の中に、二人で交ざるために。


 これだけ賑やかで、朧気な明かりに照らされているのだ。例え生者ではないものが一人や二人紛れ込んで踊った所で、誰も気付くまい。金属の足とて、ただの不虞と見逃されるはずだ。


 あの提灯の優しい明かりは、きっと誰であれ受け入れるため淡く輝いているのだろう。楽しそうだと思った先祖が、ひょっこり顔を出しても問題無いように。


 だから、たった一夜の恋人達が交ざっても咎められる則はあるまい。二人は、ただ純粋な笑みを浮かべながら、本当の連れ合いのように祭りの喧噪へと溶け込んでいった…………。







 数日後、一人の少年が墓に手を合わせていた。丁寧に掃除され、雑草が取り除かれた墓には華と若い娘が好みそうか菓子が供えられている。


 そして、墓碑には今まで刻まれていなかった真新しい名前が一つ新たに刻み直され、少年のポケットからはお守りが顔を覗かせていた…………。

遅くなりましたが、とりあえずこんなものです