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獣達の焔

 遠くに聞こえる烏の声

 暖かな日差し

 柔らかな椅子

 身体に感じる振動

 頭を寄せている硬いガラス


 ゆっくりと目を開くと、もうすぐで俺が下りるバス停に到着するところだった。

 何だか随分眠ってしまったような気がする。

 窓から見えるのは夕焼け色に染まった山間の風景。

 いつものその景色を眺めては見るけど、何だか頭がはっきりしない。

 卒業式を1週間後に控えているからって、そんなにボーッとなるくらい深く眠り込むほど疲れている訳ないのに。

 代わり映えのしない、3年間揺られ続けたバスからの眺め。

 だけど、どうしてだろう。

 今日はなんだか違うように見える。

 運転手さんにいつものように挨拶してからバスを下りるけど、何とも言い難い違和感が俺の中をグルグルと渦巻く。

 最近申し訳程度にアスファルトで舗装された道を歩きながら、全く変わっていないはずの村を見渡してみてもやっぱりしっくり来ない。


 バス停から歩くこと15分。

 瓦屋根の日本家屋が見えてくる。

 この村の中でも1番大きなその家は、村長であり俺の祖父ちゃんが住んでいる家だ。

 まぁつまりは俺の家でもあるんだけど、でも…やっぱりおかしい。

 今朝もこの家から登校したはずなのに、物凄く懐かしい気がする。

 込み上げてくる懐古とどうしようもないほどの寂しさは、どうして俺の胸を締め付けるんだろう?

 卒業が近いから少し感傷的になっているのかも知れないな。


「ただいまー」


 ―――…

 家に入る前、遠くで名前を呼ばれた気がした。


 昨日、バスを下りてからずっとあった違和感。

 何だかこの当たり前の空間がそうじゃないような…とても言葉では表せないような不思議な感覚。

 だけどそれは違った。

 この空間は何も変わってなんかいない。

 変わったのは、俺だ。

 俺自身がおかしいんだ。

 いつも通り母さんと祖母ちゃんの手伝いをしていた時、夕飯はカレーだっていうから俺は玉葱を刻んでいた。

 家は米農家だけど、売りには出していないだけで祖母ちゃんが野菜を庭で育てていたりする。

 玉葱もいっぱい軒下に吊してある訳なんだけど、何を思ったのか俺は気が付いたら30個分ものみじん切りの山を築いていた。

 母さんも祖母ちゃんも玉葱がいっぱいの方が美味しいからねって笑ってたけど、俺は愕然とした。

 今までこんな失敗、一度だってなかった。

 食べ物はいつも大切に使ってたし、ぼーっと他のことを考えていた訳でもなかった。


 俺の身に起こった変化はこれだけじゃない。

 翌朝は目覚ましが鳴る2時間も早く目を覚まして、寝ぼけた頭のまま台所までやって来てしまった。

 しかも無意識の内にパン生地を探しているという…

 仕込んですらいないのにそれを探しているなんて、誰がどう考えたっておかしい。

 自分で自分の行動が理解できない。

 怖い。

 まるで夢遊病のような自分が怖かった。

 だけどそんなことも始めだけで、不安も恐怖も違和感も日常の中で次第に埋没していった。


 俺は彼女ができないまま、明日高校を卒業する。




 ***




 side:ハギル




 それは初めての感覚だった。

 ユウヤと自分が番になると誤解されすぐにでも否定しなくてはならなかったのに、俺はそれができなかった。

 一瞬にして想像してしまったのだ。

 ユウヤが俺の妻になる、そんな想像を。


 その日の宴は、未だかつてないほど盛大なものだった。

 4種族が同じ空間を共有し、歌い踊りユウヤが作った美味い『料理』に舌鼓を打つ。

 なんて暖かな空間なのだろう。

 表情にこそ出さないが、俺は胸が震えるような想いを感じていた。

 全ての絆を繋げたのは、ユウヤ。

 俺達を欺いた毒蛇までもを、その大きな懐に抱え込んでしまう。

 優しさや甘さは弱みになると教えられてきたし、それはこの世界の常識だ。

 強い者が弱い者を捕食する、それが自然の摂理。

 しかし、ユウヤの優しさを前にすればそんな常識は吹き飛んでしまう。

 まるで太陽のように降り注ぐ慈愛の心は、いとも容易く種族という壁さえも越えて行く。

 まさに渡り人の名に相応しい。

 あんなにも小さな身体だというのに、その心のなんと深く広大なことか。

 そんなユウヤがいるからこそ、この空間はこんなにも暖かいのだ。

 お前という太陽があるからこそ、この村は、この胸はこんなにも暖かいのだ。

 お前がいなければ、冷えてしまう。

 お前がいなければ、例え世界が絶えず時間を刻んでいたとしても俺達の夜は明けない。

 俺達に朝は訪れない。




 賑やかな宴は明け方まで続き、皆が目を覚ましたのは昼を過ぎた頃だった。

 台所番を勤めるコセンの動転した声で、食堂に雑魚寝していた全ての者が飛び起きた。


『ユウヤがっ、ユウヤが何処にもいない!!』


 人虎族で村や周囲を捜索し、足の速い人狼族は散り散りに遠方を捜索した。

 人狼の長であるセオトにユウヤの匂いを追ってもらったが、台所の倉庫でフツリと途絶えてしまっているようだった。

 一応人蛇を問い詰めてはみたが、コイツには俺がずっとついていたのだから無実なのは確実。

 いや、それ以前に飄々としていた瞳が今は困惑に揺れているのだから、人蛇の仕業ではないのは明白だ。

 ユウヤが単独で村を出た形跡はない。

 しかし、誰かが連れ去ったという形跡もない。

 ユウヤは唐突に、何の前触れもなく消えたのだ。

 その日から、俺達の夜がはじまった。




 ***




 side:ナトリ




 初めて出会った時と同じように、ユウヤはまた夢のように消えてしまった。

 けれどユウヤは確かに存在していて、彼が使っていた服や『くつ』、調理道具や今日のために仕込まれた『ぱん種』もそっくりそのままここにある。

 ただひとつ、ユウヤだけがいないのだ。

 本当は、捜索なんかしても無駄なことはわかっていた。

 ユウヤを最初に見付けた私には、常に不安が付き纏っている。

 突然現れたユウヤだからこそ、突然消えてしまうのではないかといつも怯えていた。

 その不安が現実のものとなって突き付けられ、こんなにも心を凍えさせる威力があったのかと痛感せざるを得ない。

 純粋な恐怖。

 ユウヤがこの世界にはいないと理解した瞬間、背中を舐めるような恐怖が私を戦慄させた。


 ただの小さな子供。

 耳が横についていて、尾もなく、足の裏が柔らかく、艶やかな黒髪を揺らし、いつもにこにこと笑っている渡り人。

 小さく弱々しい指先は殊更器用に動き、知識の多さは村の爺様を凌ぐほどで、子供には好かれ、メスには可愛がられ、オスには構われ、他種族との掛橋にさえなってくれた心優しき渡り人。

 けれど、それだけじゃなかった。

 ユウヤが消えて、初めて気が付いた。

 否、気付いていたけれど必死に否定し続けてきたこの気持ちを、ようやく受け入れた。

 人虎が愛を理解する日は永遠に来ない。

 そんな先入観が私の感情を縛り付けていた。

 それが今、解き放たれたのだ。

 私は確かにユウヤを愛している。

 それはきっと、初めて出会ったその時から。


『メチャクチャ綺麗…』

『首の骨をゴキッと一発でお願いします』

『……佐藤裕也です』

『ふつつか者ですが、よろしくお願いします』

『俺、18歳ですから』

『1年後を楽しみにしていて下さい』


 まだ思い出と呼べるほど遠くはない記憶。

 それらは鮮明に私の胸に仕舞われている。

 ユウヤ、まだ1年も経っていません。

 それどころか、春になったばかりなんですよ。

『料理』も『牧場』も平穏な生活も豊かな暮らしもいりません。

 ただユウヤが傍に、私の傍らにいてくれたらそれだけで構わない。

 笑って下さい。

 ユウヤの笑顔があればどんな苦難だって乗り越えられる。

 こんな私を叱って下さい。

 芯の強いお前は、弱音を吐く私をらしくないと叱るのでしょうね。

 でもそれでいい。

 全てはユウヤ、お前の存在がなければ始まらない。

 顔が見たい。

 声が聞きたい。

 髪に触れたい。

 瞳に映りたい。

 やっと受け入れることが出来たこの想いで、お前を守りたい。

 守らせてほしい。

 だから、どうか戻って来て下さい。

 そうしたら、そうしたら…もう、お前を抱き締めて離さない。




「はて、坊は何処にもおらんかったようじゃの」


 宴の名残を微塵も残していない食堂に集まり、恐らくこの中で最も冷静であろう人狼族長のセオトが口を開いた。

 年の功からかユウヤとの付き合いが浅いからか、唯一セオトだけが平静を保っている。

 思い思い椅子に腰をかけている他の者達も一見落ち着いているかのようだけれど、その心には嵐が吹き荒れていることは肌で感じられた。

 日頃から感情豊かなコセンがあからさまに動揺しているのは言うまでもないが、あのハギルやラゼアでさえ不安げに尾の先端が揺れている。

 みんな私と同じように、ユウヤがいなくなって初めて自分の感情に気付いたのかも知れない。

 そしてその存在のあまりの大きさと喪失感に、呆然と立ち尽くしているのだろう。

 私たちの夜は、まだこれからだ。




 ***




 高校生活最後の休日。

 やっぱり普段よりもかなり早い時間に目が覚めてしまった俺は、布団に入ったままボーッと天井の木目を見詰めていた。

 肌触りの良い柔らかな毛布を頬まで引っ張り上げて、朝の冷たい空気が入り込まないように隙間を埋める。

 温かい。

 だけど不思議なんだ。

 これよりも温かい存在を知っているような気がする。

 まただ。

 記憶にはないのに身体が知っているというか……逆に、記憶だけがすっぽり抜け落ちてしまったような感覚。

 最近じゃ慣れて気にもならなくなっていたけど、この柔らかな毛布の手触りが俺に何かを訴えかけているようで。

 一体何なんだろう?

 俺は何を忘れてしまったんだろう?


『ユウヤ』


 ……あれ、今…声が………


 ドォルルゥンッ!!


 ドッドッドッドッ!


 突如外から聞こえてきたけたたましい音で、掴みかけていた何かが跡形もなく霧散してしまった。

 それは何故か、悲しいような苦しいような…そんな気持ちにさせる。

 もう少しだったのに。

 もう少しで掴めたかも知れないのに…


「兄ちゃんのバカァアアッ!!」


 だから俺が兄を恨んでも仕方がないと思う。

 何だってわざわざあんな煩いバイクに乗る必要があるのか、俺にはさっぱりわからない。

 今は都会で一人暮らしをしている兄だけど、少し早い春休みとか言って昨日帰ってきた。

 毎度のことながらデッカイバイクに乗って。

 こんな田舎なんだからバイクに乗るなって言っても、兄は全く聞く耳を持たない。

 しかもこんなに朝早くから騒音を撒き散らしたら、石田さんとこの牛や豚達がビックリするじゃないか。

 俺はガバッと勢い良く布団を剥ぎ取って、寝間着に使っているジャージ姿のまま部屋を飛び出した。

 大声こそ出してしまったけど、出来る限り音を立てないように階段を駆け降りる。

 もちろん目指すのは玄関のその先。

 つっかけを足に引っ掛けてガラガラッと引き戸を開ければ、そこには待ち構えたように仁王立ちの兄がいた。

 そのふてぶてしい態度が余計に頭にくる。


「兄ちゃんっ、いつも言ってるだろ? 石田さんとこの牛がビックリして足でも折ったらどうするんだよ!」


 目の前に立つのは短めの髪を真っ青に染めて、ライダースーツを身に纏った長身の不良。

 もとい、実の兄である佐藤優雅21歳だ。

 我が強そうな顔だけど、俺と違って物凄く美形なのがまたムカつく。


「なぁんだよ、裕也は。んな怒ることねぇじゃん。こうやって待ってやったんだからさ。ほら、これ着ろ」


 兄がへらへらと笑いながら差し出してきたのは紛れも無く俺のダウンコートで、反論するよりも先に無理矢理袖に腕を捩り込まれてしまう。


「兄、ちゃん! ちょっ、何だよ…ぅわっ!」


 きっちり前まで締められたかと思えば、今度はヘルメットを被せられた。

 ここまでくれば、兄が一体何をしようとしているのかわかってしまう。

 案の定腕を引っ張って強引にバイクに乗せられてしまい、あれよあれよと言う間にバイクは土で出来た道を滑り出してしまった。

 兄のバイクに乗せてもらうこと自体は嫌いじゃない。

 嫌いじゃないけど…寒過ぎる!!

 日中でさえ寒い日があるというのに、その上早朝という状況が重なり物凄く寒い。

 堪らずにお腹へと回した手を、兄のライダースーツのポケットに突っ込んだ。

 平均身長よりも高い俺よりも大きな兄は、痩せっぽちな俺とは違ってきっちりと筋肉がついている。

 こんな不良みたいな外見だけどれっきとした農大生だから、実用的な筋肉がしっかり出来上がっているんだ。

 そんな兄の背中に額を押し付けて、俺はまた記憶の欠片を掴みかけていた。


 頬を切る風を受けて、既視感が過ぎる。

 ビュンビュンと前から後ろへと流れて行く風景が、一瞬だけ違うように見えた。

 針葉樹が生えている、森のような…


「はい、到着~!」


 掴みかけていた何かが、またするりと逃げ出してしまった。

 この兄はまさか、わざとやってるんじゃなかろうか。

 だけど今回は、きちんと見えた。

 電柱や車が流れていく光景が、一瞬だけ森の中を駆けるビジョンに変わったんだ。

 木々を縫うように進むそれはバイクでは到底不可能だし、人の足とは比べものにならないくらい速かった。

 あれはまるで、獣が森を疾走するような…


「ほぅら、裕也。お兄様が下ろしてやるからな~」


 思考の波に攫われていると、不意に両脇に手を入れて持ち上げられてしまった。

 子供を高い高いするみたいなその体勢に、俺はすぐさま我に返ってサンダルで兄の臑を蹴る。


「~~~ッッ!!」


 声も出ないほどの痛みに震えながらも、きっちり俺を地面へと降ろしてくれる兄はやっぱりブラコンというヤツなんだと思う。


 こんなに二枚目で不良なのに、こんな地味で平凡な弟を無下にしたことなんかないもんな。

 いつもいつも構いまくって、俺が恥ずかしくて反抗するとそれさえも嬉しそうに兄は笑う。

 そんな兄だからこそ、俺もこんな風に甘えられるんだと思うけど。

 何とか兄の腕から抜け出すと、目の前に広がるのは海だった。

 春先の、しかも早朝の海には人っ子一人なくて、ただ静かに波の音だけが聞こえる。

 規則正しいそのリズムと、朝焼けに染まった空と、キラキラ輝く海を目の前にして、俺は何だか肩から力が抜けてしまった。


「……お前さ、馬鹿なんだからあんま考えんな」

「馬鹿じゃなくて普通だ」


 この広い海を見て、兄の暴挙の理由がわかった気がした。

 いつも俺を気にかけてくれる兄は、今回もまた俺の異変に気付いてくれたんだろう。

 別にそれは悩みとかじゃないんだけど、それでも兄の気遣いは純粋に嬉しかった。

 砂浜へ下りる階段に腰掛けて膝を抱えると、兄が水筒を持って隣に腰を下ろす。

 冷たい海風に剥き出しの爪先を縮込ませていたら、兄が湯気を立てているカップを寄越してきた。

 その香りは正しく…


「何でおしるこ?」


 しかもご丁寧に白玉団子まで入っているそれは、明らかに兄のお手製だとわかる。


「裕也好きだろ、おしるこ」


 朝早くからバイクで海に来るくらいだから、きっと兄はベタなことが好きなんだ。

 なのにこういうところはズレてるんだよね。

 俺も友達にズレてるって言われるけど、それは絶対にこの兄のせいだと思う。


「ライダースーツに青髪の不良が、朝の海で弟とおしるこを啜る……って、物凄くシュールだと思うんだけど」

「いいじゃん。寒い中で食うから美味いんだろ?」


 嗚呼、やっぱりズレてる。

 指摘することを諦めてカップに口を付ければ、ふんわりと甘く温かな味に自然と頬が綻んでいく。

 兄はちょっと変わった人だけど、でも確かに寒い中で食べるおしるこは凄く美味しい。


「俺はさ、農業大好きだから家を継ぐのもノープロなわけよ。爺さんも婆さんも、親父もお袋も、俺がしっかり面倒見てやる」


 いきなりのことで何が言いたいのかわからなくてチラリと横を見ると、そこには真っ直ぐに海を見詰める兄の横顔があった。


「だからお前は、何物にも縛られずに自由に羽ばたきゃいいんじゃねぇの?」

「……兄、ちゃん…?」

「裕也はさ、最近遠くを見てるよな。ここじゃないどっかを恋しがるような目でさ。お前を誰より理解してるお兄様が言うんだ、間違いねぇよ」


 そう言ってゆっくりと視線を向けてきた兄の顔は、今まで見たことがないくらい柔らかな笑みを浮かべていて。


「俺達家族はいつだって裕也の味方だ。だから、無理に忘れることなんかない。お前の行きたいところへ、逢いたい人のところへ行ってこい。そんで、帰りたくなったらいつでも帰って来い」


 俺の頬を涙が伝った。

 俺は無意識のうちに忘れなければならないのかと思っていたのかもしれない。

 普通はひとつしかない自分の世界。

 それを俺は何の悪戯かふたつ持ってしまった。

 だから無理矢理、今の状況に折り合いを付けるために記憶を封印したんだろう。

 だけどそれは、とても悲しいことだった。

 忘れたくないという潜在意識と、明らかに覚えている身体が俺の記憶を揺り動かす。

 兄の言葉で吹っ切れたこともあり、今や俺の記憶の鍵はゆるゆる状態だ。

 少しでも小突けば、きっと怒涛のように記憶が溢れてくるに違いない。

 一度は忘れようとした記憶。

 それを再び手にするのは苦しみや痛みを伴うかもしれない。

 だけど。

 それでも、俺は知りたい。

 忘れたくないと訴える心を、俺は大切にしたい。

 どうして泣いているのかもわからない俺を、兄は黙って抱き締めてくれた。

 海風から守るように。

 痛みから守るように。

 俺は兄の腕の中でそっと目を閉じ、額をその胸に押し当てた。


「………ハ、……」


 励ますように背中に回った兄の腕に力が込められる。

 深い霧の中にいるみたいだった。

 大切な家族や、村や、友達や、学校。

 確かにそれは俺の現実だったけど、いつも常に違和感があった。

 慣れた振りをしていたけど、それはただ目を背けていただけ。

 本当はすぐ傍にあった。

 傍らで俺に語りかけていたんだ。

 兄がいてくれるから、もう立ち止まらない。




 森のざわめき。

 笑い声。

 柔らかな毛並み。

 パンの香り。

 しなやかな身体。

 薪を割る音。

 優しい眼差し。

 川のせせらぎ。

 実り豊かな畑。

 頭を撫でる手。




 俺はあの日、虎と出会ったんだ。


 ―――嗚呼、

 思い出した。


「ハ、ギル……さん、ナトリ、さん…コセン、ラゼアさん、ニザンさん、クルルさんっ、セオトさん人蛇さんっ爺様っ婆様…! みんな…ッ、ひぅ、う――…っ!」


 口から零れ落ちる名前と共に、滂沱の涙が頬を伝う。

 何故忘れることができたんだろう。

 何故忘れてしまえると思っていたんだろう。

 こんなに優しくて暖かな記憶、忘れたくても忘れられるはずないじゃないか。

 取り戻したのはどれも愛しいものばかり。

 とても大切で、恋しいものばかり。


「………自分がどうしたいのか、気付いたか?」


 兄の声に自然と頷いていた。

 自分をここに縛り付けるために、俺は心を雁字搦めにした。

 だけど、1番大切なことを忘れていた。

 自分がどうしたいのか。

 どうありたいのか。


「俺…、祖父ちゃんも祖母ちゃんも、父さんも母さんも兄ちゃんも、みんな大好き…っ…。だけど…それと同じ、くらい…大切な人達が、できた……どっちも大切で、俺…どうしたらいいか…ッ」

「裕也は馬鹿なんだから、あんまし考え込むんじゃねぇよ」

「だっ、て…! 向こうに行ったら、もう…帰って来れないかも、しれな…っ」


 一度行って、戻って来られただけでも奇跡なんだ。

 また向こうに行って、次も戻れるなんて保証は何処にもない。


「グチャグチャ言ってんじゃねぇよ。大体さ、次男は家を出るって決まってんの。それに、何処に行ったって何したって、お前が俺の大事な弟には変わんねぇんだよ。だから安心して行ってこい」

「兄ちゃん…っ」


 いつもはきつい印象を与える兄の眦がふにゃりと下がる。

 きっと兄も、俺との別れを惜しんでくれているんだ。

 それでも強く背中を押してくれる。

 兄ちゃん…俺、兄ちゃんの弟で本当に良かった。


「兄ちゃん…っ、あの、さ…背中押してくれて、アリガト。でも、怒らないで聞いてほしいんだけど、俺……どうやって向こうに行ったら良いのか、わかんないんだ…」

「……………………………は?」


 記憶が戻ったのはいいけど、最大にして難解な問題が立ちはだかった。




 記憶は戻った。

 人虎族の村で数ヶ月過ごしたというのに、この世界に戻ってみたらほんの瞬きほどの時間しか経過してなかった。

 だからってあれが夢だとは思わない。

 戻るって決めたからには、何が何でもあの世界に行ってやる!

 と勢い込んだのはいいものの、あのまま潮風に吹かれるのは流石にマズイと兄と一緒に近場のファミレスに避難していた。

 田舎のファミレス、しかも早朝ってことで客が少ないからジャージでもそんなに目立たない。

 パジャマ同然のジャージを着ている俺よりも、ライダースーツに真っ青な髪のヤンキーの方が余っ程目立っている。

 そんなヤンキー丸出しの兄は早朝だというのにテーブルに乗り切れないほどの料理を注文して、届く端から欠食児のようにガツガツと貪っていたりする。

 全く、この人の食欲たるや人虎さん達も真っ青だな。


「兄ちゃん、俺はお金持ってないから」

「わーってるよ」


 ピザを一切れクルクルと巻いて一口で食べる兄に呆れながらも、俺は懸命にあの夜のことを思い出そう頭を捻っていた。


「だからさぁ、何かあるはずだろうが。バスの中から向こうに行った時と、向こうからこっちに戻ってきた時に共通する何かがよ」


 兄が言うには、何かが起こる時には必ずきっかけがあるそうだ。

 それは確かにそうだろうけど、いくら考えても良く覚えていないから思い出そうにも思い出せない。

 ドリンクバーのココアを飲みながら、とりあえずあの宴の晩に絞って思い出してみようと思考を巡らせてみる。


 あの日の宴は凄かった。

 明け方まで四種族入り乱れての大騒ぎで、お祭りが嫌いじゃない俺としては楽しかった。

 でもポツリポツリと脱落者が出てきて、最終的にはみんな眠ってしまったのを見届けてから俺は台所に向かったんだ。

 人数が増えたし明日…正確に言えば今日なんだけど、とにかくみんなの分のパン種が足りないから仕込んでおこう思った。

 だけどそこで、ふと思い出したんだ。

 毎日毎日様子を見て手を加えていたお酒がそろそろ頃合いのはずだって。

 特別に作ってもらった台所と繋がっている小屋に入って、並べられていた瓶の蓋を開け中身を覗き込んで…

 そして、そして……


「匂いを嗅いで舐めたんだ」

「随分とまぁ濃い性癖だな、お前」


 すっかり料理を食べ終わって今度は巨大なパフェと格闘している兄の軽口に、げんなりと顔が歪んでいくのは仕方がない。

 海では男前なことを言っていたのに、この人は一度緊張の糸が切れると再びシリアスモードに戻るのは難しいらしい。

 俺はまたドリンクバーでココアを注ぎ足すと、まだ温かな椅子に再度腰を降ろして一息ついた。


「………裕也、何そのスルースキル」

「そういえば思い出したんだ。こっちに戻る前はお酒の味見をして、向こうに行く時には試食で貰ったウイスキーボンボンをバスの中で食べてたって」

「え、またスルー?」


 もしかしたらただの偶然かも知れない。

 だけど偶然ではないのかも知れない。

 それも全てはお酒を飲んで見ればわかることだ。

 そしてもしお酒を飲むことでふたつの世界を行き来できるのだとしたら、またこっちに戻れる可能性もあるだろう。


「その顔は、方法が見付かったって感じだな?」

「うん、多分」

「なら、旅仕度しなきゃな。お兄様が卒業祝いとして買ってやるよ、今から」

「それじゃお言葉に甘えて、ホームセンターに連れてってよ。あのメチャクチャおっきいトコ」


 みんなどうしてるかな。

 食事はコセン達台所番の人虎さんがいれば大丈夫だ。

 村だってハギルさんとナトリさん、今はラゼアさんとニザンさんもいるんだから間違いなく平和だろう。

 だけど、きっと心配してくれてる。

 会ったら先ずは、謝らないといけないな。

 それからラゼアさんに思う存分抱き着かせてもらおう!




 ***




 side:ラゼア



 ざけんじゃねぇよ。

 何であのチビスケがいねぇんだ!

 村中捜しても、森ん中捜しても、何処を捜しても一向に見当たらねぇ。

 俺の鼻をもってしても台所以降の足跡は辿れねぇし、嗅覚が優れているセオトでも人蛇でもそれは同じようだった。

 ナトリの奴は元にいた世界に戻ってしまったんじゃないかとか言ってたが、俺達に黙ってユウヤがんなことする訳がない。

 もし万が一戻ったのだとしても、それは不可抗力だったに違いない。

 端から見れば俺は落ち着いているように見えるんだろうが、内心は焦っているどころの騒ぎじゃねぇ。

 居場所さえわかれば今すぐにでも飛んで行きたいくらいだ。

 だが、それが異世界ともなると俺にはどうしようもない。

 周りにどれだけ頼られようが、強かろうが、俺はただの人虎でしかねぇ。

 人虎族だという誇りはあるが、今ほど自分の無力さを痛感したことはない。


「………お手上げっつうことかよ…ッ」


 食堂の床に思い切り尻尾を叩き付けてみても、苛立ちは一向に晴れることはない。

 それは周りの人虎達も同じようで、それぞれが落ち着きなく尻尾を揺らしている。

 付き合いが浅いはずの人狼族でさえ、そわそわと欝陶しいほどに動き回っていた。

 それもそうだ。

 ユウヤがいなくなってもう1週間も経っていというのに、手掛かりひとつ見付けることができずにいるんだから。


「えーっと、何か言い出しにくいんだけどいいかな?」


 重苦しい雰囲気の中、何を思ったのか至極軽い調子で人蛇が手を挙げた。

 その瞬間に周りから半ば八つ当たりのような睨みの視線が奴に集中する。

 そりゃそうだ。

 ここのところコイツに構っていられなくて放っておいたが、何やら最近森から色々な物を収拾しているらしい。

 総出で必死にユウヤを捜し回っている最中にだ。

 そりゃ睨みたくもなるってもんだろ。


「何だ、人蛇」


 ハギルは睨むことなく人蛇に向き直る。

 年若いとはいえさすが族長なだけあって、感情に任せて当たったりはしないか。


「人蛇じゃなくてエイシだってば。ってそんなことより、僕から提案があるんだよね」


 これだけの頭数に睨まれているにも関わらず、人蛇族のエイシはその飄々とした態度を変えることはない。

 ある意味大物だな。


「このまま手を拱くのは得策ではありませんね」

「それなら人蛇の提案とやらを聞いてみるのもいいじゃろうて」

「下らねぇこと吐かしたら、噛み殺すぞ」


 俺が脅しのために牙を剥いても、首を竦めるだけで怯えた様子も見せねぇ。

 本当に何を考えているんだ、コイツは。


「僕はこう見えても一族の中で最も優秀なんだよね。呪術に関しては右に出る者はいないと思うよ?」

「呪術?」


 コセンが小さく首を傾げる気持ちはわかる。

 この世で呪術なんか使える奴は数えるほどしかいない上に、その誰もが枯れかけの老人と相場が決まっている。

 こんな若い人蛇が呪術師だとは夢にも思わねぇだろう。


「あは、驚いた? 君達がユウヤ君を捜している間に呪術に必要な物も集め終わったし、彼を呼び戻すことはできないけど本当に異世界に行ったかどうかくらいはわかるよ」


 やってみる? と軽い調子で言う人蛇にイラッとするが、ユウヤの所在を確かめたい俺達は一も二もなくその提案に乗った。

 はっきり言ってそれ意外手立てがなかったんだ。


「そうくると思ってもう儀式の用意はできてるんだ。みんな僕に感謝してよね?」


 自分がやったことは綺麗に棚に上げて目を細めて楽しそうに笑う人蛇に、殺意を抱いたのはきっと俺だけじゃないはずだ。




 ***




 side:エイシ




 この世界が嫌いだった。

 元は一人の渡り人から生まれたというのに、人よりも獣の本能に忠実な獣人達は勝手に『種族』という線を引く。

 自分達の周りに必死になって線を引いて、狭い囲いの世界を命をかけて守ろうとする。

 なんて愚かで矮小で哀れな生き物なんだろう。

 僕が住むこの森の中で、最も疎ましいのが人虎族と人狼族だった。

 獣人の中でも特に大きな群れで生活し、社会的秩序を持つ種族。

 にも関わらず、他種族の介入を良しとしない頑ななまでの姿勢に好い加減イライラしてくるってもんだ。

 互いに手を取り生きていけるだけの知性と理性があるのに、彼らはそれを邪魔する獣の本能に抗おうともしない。


 だから懲らしめてやろうと思ったのに。

 存外、彼らは中々に面白いヤツらだった訳で。

 特に人虎族ときたら、立派に獣の本能に抗っていたんだからビックリだよ。

 愛を知らない人虎族が、たった一人の渡り人を愛しているんだから。

 ユウヤは凄いよ。

 僕が…いや、この世界の誰がどう足掻いても出来ないことを、彼はたった一人でやってのけてしまった。

 しかも、恐らく無意識で。

 本当に彼は興味深いよね。


 だから、さ。

 こんなところで帰られちゃ、僕としては困るんだ。

 やっと人虎族と人狼族とが『ユウヤ』というたったひとつの鎹によって結び付こうとしているのに。

 それにね、僕も気になるんだよ。

 君という存在が。

 呪術師としての興味じゃなくて、もっと純粋な…産まれたての子供が初めて見る物に手を伸ばす時のような、そんな衝動。

 流石に僕だっていい年なんだから、世界の全てを知っているだなんて自惚れはないよ。

 だけど、ユウヤは何もかもが不思議過ぎて。

 もっと、もっともっと知りたくなる。

 人虎族に与えた感情を、僕にも教えてよ。

 人蛇族である冷たい僕の心を、君という存在で温めて。

 だから、ねぇ。

 帰っておいで。




 村の外れにある元人虎族長・ラゼアの家では、今モクモクと煙が焚かれている。

 もちろん焚いているのは僕なんだけど、この部屋を満たす煙のニオイが僕の中のもうひとつの目を開かせるんだ。

 ただ結構強いニオイだから、獣人の中でも嗅覚がずば抜けて鋭い人狼族は逃げてしまった。


「………酷い匂いだ」

「流石のラゼアも、中には入れないようですね」


 僕の向かいに座っているハギルとナトリは、鼻と口に布を当てて顔を歪めている。

 尻尾の毛が逆立つほど嫌なら出ていけばいいのに、余っ程ユウヤのことが気になるんだろうね。

 デカイ図体して可愛いじゃないか。


「目にまで滲みてきたな」

「これは数日鼻が利かないと思っていた方がいいでしょうね」

「はーい、それじゃ始めるよ。集中するから君達は黙っててね?」


 辛そうな人虎達に釘を刺すと、返事も聞かずに僕は瞑想を始めた。

 目は完全には閉じず半眼にして、煙のニオイに身を任せる。

 そうすると僕は、世界の全てを見通せる。

 例えそれがこの世界じゃなくても、彼の気配と匂いを覚えている今なら追うことが出来るはず。

 嗚呼、もし出来なかったら僕は人虎達に食い殺されちゃうかもね。

 それは嫌だから、手加減無しに全力で精神を集中する。

 真っ暗だ。

 はじめは真っ暗な世界が広がっていて、不意に針の穴ほどの光りが見えた。

 その光りは瞬く間に大きくなり、そして―――爆発した。


「ああ゛ァああア゛ァアッッ!!」

「人蛇!?」

「一体何がっ!」


 急に目を抑えて悲鳴を上げた僕に、2匹とも物凄く驚いたみたいだ。

 目が痛い。

 最早首から上全部が痛いんだけど、これだけは言っておかなくちゃ。


「…くっ、う…ッ…僕の、呪術…無駄、だった、みたい…っ」




 ***




 人生、何事も上手くいくと思っていた訳じゃない。

 お酒を飲んでトリップするだなんて、それだけでも奇跡だったんだ。

 だから、都合よく人虎さん達の村に降り立つだなんてはじめから思っていなかった。

 だけどまぁ、はじめの時みたいに針葉樹の森の中にでも降り立つのだろうとは思ってた。


 今目の前…いや、360度に広がっているのは無数の木ではなく、サバンナかと思うほど既視感のある草原だった。

 遠くの方に見えるのはトムソンガゼルの群れかな。

 トムソンガゼルは一見シカのように見えるけど、実はウシ科の動物らしい。

 なんて現実逃避をしてしまいそうなくらい、俺はテンパっていたりします。

 甘かった、本当に。

 森のもの字もないこの広い草原に、森の王者である人虎族がいるはずもない。

 不幸中の幸いと言えば、しばらくは水と食料の心配をしなくてもいいということくらいだ。

 森の中で何日も野宿することを覚悟していたから、いろんな缶詰と水は持ってきている。

 巨大なスーツケースとリュックサック姿の俺はこの草原においてメチャクチャ浮いてるけど、しっかりと準備していて本当に良かった。

 良かった、けど…とにかく今は日陰に入りたい。

 確かまだ春になったばかりだったのに、降り注ぐ太陽の光は容赦なく肌を焼いていく。

 日本とは違ってカラリとした暑さだったから不快指数は低いけど、このままじゃ熱中症確実だ。

 森を歩くことを前提としていたから、不覚にも帽子を持ってくるのを忘れてしまった。


 暑い。

 やっと見付けた木の陰に入っても、やっぱり暑いものは暑い。

 スーツケースの中にペットボトルに入った水があるんだけど、ここで何日過ごすのかわからないから無暗に飲むことはできない。

 あぁ、でも流石にマズイかもしれない…

 頭がボーッとしてきた。

 木に背中を預けて地面に座り込んだまま、立ち上がる気力も失ってしまった。

 それどころか、水を飲みたくてもスーツケースを開けるのが精一杯で、ペットボトルのキャップすら開けられなくなっているみたいだ。

 水を飲まないと、命が危ない。

 わかっているのに何度やっても開けることができない。

 余力のあるうちにキャップを開けて、一口でも水を飲んでいればこんなことにはならなかったのに…

 慎重で気長な性格が災いしてしまった。

 そのうち地面に置いたペットボトルを支えている手にも力が入らなくなってくる。

 キャップってこんなに固かったっけ?

 どうして俺は水筒に水を入れて来なかったんだ。

 後悔してももう遅い。

 視界が霞む。

 立ってもいないのに立ち眩みすらしはじめた。

 水。

 水。


「……みず…」

「水? アンタ水が欲しいのか?」

「メイル、もしかしたらこれが水なんじゃなくって?」

「まぁ! まるで水が浮かび上がっているようですわ!」

「本当だ! ガラスよりも透明で…柔らかいぞ!」

「メイルばかりズルいですわ!」

「わたくしにも触らせて下さい!」


 重たくなっていく瞼を懸命に押し上げて何とか見ることができたのは、3つ並んだ同じ顔だった。

 さっきまでは気配すらなかったのに…

 もしかしたら獣化して気配を消していたのかもしれない。

 ペットボトルに夢中になっているらしい女の子たちの頭には、茶色の丸い耳が付いていたから多分そうだ。

 どうやら俺は無事に獣人さん達の世界にはやって来れたようだ。

 ただ、俺の人生もここまでかも知れないけど。

 もう目すら開けてられないから。


「………ッ、ず…」

「きゃっ、メイル大変ですわ!」

「もし、もし!」

「アタシのせいじゃないだろ! クソッ、メイヤ、メイト、とにかくコイツを村に運ぶぞ!」


 やっとのことで記憶を取り戻して、準備万端でこの世界にやって来たというのに、初日からこの様だなんて幸先が悪すぎる。

 せめて人虎さんにお別れをしたかったな…




 結論から言えば、俺は死ななかったみたいだ。

 草原の真ん中で情けなくも意識を失ってしまってから恐らくかなりの時間が経った後、俺は見覚えのない部屋で目を覚ました。

 人虎族の家とは違って木と煉瓦で作ったような部屋は、俺が今占拠してしまっている寝台以外の家具はない。

 布団も麻を編んだような薄っぺらなものだけどここの環境に適ってるし、なんと窓には濁ってはいるもののガラスが嵌め込まれていた。

 この部屋を見ただけでも、人虎族よりも発達した技術を持っていることがわかる。

 一体どんな獣人さんが住んでいるんだろう?

 きっと気絶する前にいた3人の女の子たちが俺を連れてきてくれたんだと思う。

 茶色で丸っこい耳に身長も高かった気がする。

 ここは草原だし、もしかしたらここは…


「まぁ! 起きてらっしゃいますわよ、メイト!」

「本当ですわ、メイヤ!」

「丸2日も目をお覚ましにならなかったから、わたくしもうダメかと思いましたのよ?」

「わたくしだってそうですわ。メイルったら混乱したからってこんな子供を泉に放り込むんですもの! 熱中症以前に溺れ死んでしまうかと思いましたわ」


 木で出来たドアが開いたかと思えば、多分あの時にいた女の子たちのうちの2人が怒涛の勢いで話しはじめた。

 その内容は俺に関することなのに、何故か俺そっち退けで会話が進んでいく。

 ふんわりとした茶色の髪は2人共ボブに切り揃えてあって、キャッキャと楽しそうに話す姿はまるで女子高生のようだ。

 ただ、その服装だけは何というか…目のやり場に困ってしまう。

 植物の繊維を編んだような布以外はまるっきりパレオ付きのビキニみたいな服で…

 恋人いない歴=年齢の俺には、はっきり言って刺激が強い。

 彼女たちが話す丸2日眠っていたことや泉に投げ込まれたことはもちろん、ここが何処かとか彼女たちの種族が何なのかとか、人虎さん達が住んでいる森はここから近いのかとかいろいろ聞きたいのは山々なんだけど、絶え間ない会話と露出の多い服が俺の思考回路を止めてしまう。

 顔が熱い。

 というか、あまりにいきなりのことだったから体を起こすタイミングすら失ってしまって、未だにべッドで横たわったままなんだけど…


「あら、やっぱりこの子の瞳は黒ですわ!」

「黒髪に黒い瞳とは珍しいですわよね。耳の形も見たことがないですし…」

「尻尾だってありませんでしたものね。もしかしたらこの子、セスカと同じなのかもしれませんわ」

「まぁ! 少し普通とは違うからと言って、あんなところに子供を1匹で置き去りにするなんて酷過ぎますわ!」

「黒ちゃん! 貴方とっても苦労したんですのね!」

「食事もろくに摂ってないのでしょう? こんなに細い体、見たこともありませんわ!」

「肌も真っ白で…一体どんな生活を送ったらこんな風になるんですの!?」

「安心なさってくださいね、黒ちゃん! 今日からここが貴方のお家ですわ!」

「わたくし達、村の雌全員が今日から貴方の母ですわ!」


 なんていい人…いい獣人さんなんだ。

 見も知らない、見た目も変わっている俺なんかを助けてくれた上に家族にまでしてくれようとするなんて。

 ……まぁ、物凄くいろいろと勘違いしてしまってるみたいだけど。

 これは目のやり場が困るとか、恥ずかしいとか言ってられない。

 こんなに優しい彼女たちにまずはお礼だけでもしないと!

 俺は何はともあれ命の恩人を目の前に横たわったままでは失礼だと、ベッドに手を付いて怠い身体を何とか起こした。


「あの、俺を助けて下さったのは貴女方なんですよね? 本当にありがとうございまし…」

「「可憐ですわ―――っ!!!!」」

「へぁっ!?」


 頭を下げるよりも早く室内に木霊した黄色い声に、ついウルトラマンみたいな声が出てしまった。


「なんて可愛らしい声!」

「礼儀正しくて瞳なんかうるうるで…」

「「自慢の息子ですわ!!」」


 素っ頓狂な声を出してしまったことにより赤くなってしまった顔が、更に真っ赤になったと思う。

 俺の顔に、柔らかい感触が…

 何故か感極まったらしい2人は、あろうことか俺を抱き締めてぎゅうぎゅうと自分達の胸に俺の顔を押し付けてきたのだ。

 まるで嘘みたいにモテる漫画の主人公にでもなったような展開に声を上げることもできなくなっていると、不意に凄まじい音を立てて木製のドアが吹き飛び煉瓦の壁にぶち当たって砕け散った。


 ドガァンッ!!


 バキバキッ!!


「浮気は許さんぞぉおおおおッッ!!!! この村の雌は全部私のものだぁああああっっ!!!!!!」


 かろうじて視界の隅に砕けたドアの残骸を捉えることができたけど、胸を押し付けられている俺からは当たり前だけど入り口が見えない。

 だけど、鈍い俺にだってわかる。

 見えはしないけど、この声の持ち主が心底怒っていることくらいは。


「まぁ、扉が台無しですわ」

「グオツったら満足に扉を開けることすらできませんの?」


 だけどそんな雰囲気もお構いなしに、彼女達はあからさまな呆れを多分に含んだ言葉を容赦なく投げつけている。


「う…っ、と、扉については悪かったと思うが、私には雌を守る義務が…」

「大体、このような子供に何を言っていますの?」

「お、おいっ、私は当然の権利を…」

「貴方のような下半身にだらしない雄、子供の教育によくありませんわ」

「それは群れの雄としての…」

「黒ちゃんはわたくし達が責任を持って立派な成体に育てますから」

「ちょっ、誰の権限でそいつを群れに加えるなど…」

「グオツは顔をお出しにならないでくださいませ」

「お、お前達……」


 凄い…

 多分だけど、このグオツさんって人はこの村の長なんだと思う。

 そしてきっと彼女達は彼のハーレム…というか、俺の予想が正しければプライドと呼ばれる群れの雌達なんだろう。

 なのに、長に対してこれだけズタボロに言えるなんて…

 まるで女子高の男性教諭への扱いを見ているみたいだ。

 満足に反論さえ許されないグオツさんが段々と可哀想にすら思えてきてしまう。

 女性に囲まれて責め立てられるなんて、同じ男としてその気持ちはわかるつもりだし。


「あ、あの…俺なら大丈夫ですから、そんなに責めたりしないであげてください」

「まぁっ、黒ちゃんはお優しいのですね!」

「グオツにまで気を遣うなんて、出来た息子ですわ!」


 あれ、グオツさんって長だよね?

 あまりの扱いの低さに不安になってきた…


「おい、お前達…もう私は文句など言わないから、とにかく子供を離してやれ。苦しそうじゃないか…」


 最早扉を破壊した時の面影なんてないほど意気消沈してしまっているグオツさんだけど、何だかんだできちんと周りが見えている人なのかもしれない。

 現にギュウギュウと二人の胸に顔を押し付けられている俺は酸欠状態だったし。


「ごめんなさい、黒ちゃん」

「黒ちゃんがあんまり可愛いものですから、つい…」

「いえ、気にしないでください。別に嫌だったとかそういう訳じゃありませんから」


 実際にはかなり困惑したんだけど、こうやって解放してくれたことだし悪意があった訳でもないんだからと彼女達の謝罪に緩く首を振った。


「えっと、グオツさんもありがとうございました。見ず知らずの俺なんかを村に入れてくれて、本当に助かりました」


 助けてくれたのは彼女達なんだけど、人虎さんの村と同じように多分グオツさんの許可なく村に立ち入ることはできないと思うから、この人も俺の命の恩人に違いはない。

 まだ少しふらつくから立ち上がることはできないけど、ベッドに座ったまま感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。


「なっ、何をしている…! 子供とはいえ雄が軽々しく頭など下げるものではない!」

「ふぁっ!」


 突然叱られたかと思えば、顎を掴んで無理矢理顔を上げさせられてしまった。

 そうか、この種族は地球のそれと同じように、雄に生まれたら群れから出て自分の群れを作るのかもしれない。

 だから雄は群れの頂点に君臨するために高い矜持を持っていなくてはならないのかも…

 というか、顔を上げて目の前に飛び込んできたグオツさんの顔を見て確信した。

 小麦色の鬣のような肩ほどまでの髪に埋もれるようにして見えている丸い耳に、不機嫌そうにパタパタと揺れている先っぽがふさふさの特徴的な尻尾。

 これはもう間違えようがない。

 草原で最強の名を欲しいままにしているという、あの人獅子族に俺は助けられたんだ。


 あ…グオツさんの瞳、ハギルさんと同じ綺麗な金色だ…


「………何だ。息子息子というからてっきり雄かと思いきや、何とも愛らしい娘ではないか」


 ………え?

 顎を掴んだまま離してくれないと思っていたら、どうやらグオツさんも俺をまじまじと観察していたらしい。

 もちろん俺は外部の者なんだから少々不躾な視線を向けられたって当然なんだけど、観察した結果が娘って…それはないよね。

 人獅子族なだけあってここの女性はしなやかだけどきちんと筋肉がついていて、少なくとも今この部屋にいる彼女達は俺よりも背が高い。

 草原に住んでいるからかみんな肌の色が健康的な小麦色だし、それに比べたら俺なんて真っ白なもやしっ子なんだろうけど、いくらなんでも女の子と間違えるなんて有り得ないと思う。


「い、いえ…俺は雌じゃなくて…」

「艶やかな黒き髪に黒曜石を嵌め込んだような瞳、滑らかな白き肌に薔薇色の唇…。不思議な形の耳といい、お前はまるで神の愛し子のようではないか。それに何よりこの芳しい香り…私は今までこのような甘美な香りを嗅いだことはない」


 ちょっ、近い近い!

 グオツさんの金色の瞳がゆっくりと眇られたかと思えば、まるで匂いを嗅ぐように顔を近付けてくる。

 てか、香り?


「香りが何ですの?」

「わたくし達には感じられませんわ」

「雌にはわからん香りだからこそ、この者が娘だという証だ。まだほんの子供だというのに、微かだが雄を誘う魅惑的な甘い香りを放っている」


 それって、もしかして…フェロモンとかいうヤツかな?

 どうして雄であるグオツさんにしか匂わないのかはわからないけど、前にテレビで聞いたような気がする。

 人間も他の動物と同じでちゃんとフェロモンが出てるんだけど、嗅覚が退化してしまって感じることができないらしい。


 この世界にはいないはずの人間のフェロモンだから、グオツさんが匂ったことのない香りって言ったのは理解できる。

 ただ、雄にしかわからないってどういうことだろう?

 面と向かって言われなかったけど、もしかしたら人虎さん達も俺の匂いに気付いてたのかな?

 ハギルさんは長だからもちろんだけど、特にラゼアさんなんかは日常的に虎の姿だから嗅覚も鋭敏だっただろうし。

 ニザンさんは女性だからわからないかも知れないけど、かと言ってコセンも食べ物に夢中で気が付かなそうだな。

 ひょっとするとナトリさんは出会った時から匂いを感じていたのかも。

 あぁ、今頃みんなどうしてるかな…

 記憶をなくして、思い出して、やっとのことで獣人の世界に戻って来れたと思ったら人虎族の村から遠く離れた場所だし。

 みんな俺がいなくなって心配してくれてるかな?

 何か、思い出したら寂しくなってきちゃった…


「……これ、娘。泣くのはおやめ。私の雌達もこう言っていることだし、この村はお前を歓迎するよ。さぁ、私にお前の愛らしい笑顔を見せておくれ」


 人虎さん達を思い出してついつい涙が滲んでしまった俺に、それはそれは慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべたグオツさんが更に顔を寄せてくる。


 ザリッ


 唇をザラリとした舌が舐め上げた。

 一瞬何が起こったかわからなくて、ここは普通唇じゃなくて目元の涙を舐めるもんじゃないかとか変な思考に捕らわれてしまいそうになる。

 両サイドに立っている彼女達も驚きを隠せないみたいだし、プチパニックに陥っているのは俺だけじゃないみたいだ。


「なっ、なななっ、何をなさいますの!」

「雄同士っ、しかも子供を相手に口付けだなんて節操がないにも程がありますわ!」

「まぁ、若過ぎるというのは確かにアレだが、この娘は雌だろう?」

「「雄ですわ!!」」




 あれから2時間。

 何やかんやといろいろありました。

 どうにか誤解を解いたり、自己紹介をしたり、また年齢のことで驚かれたり、それはそれはいろいろありました。

 だけど、この光景を見てしまったらどれも些細なことに思えてしまう。

 やっぱり人獅子族の長だったグオツの家…というか、最早公民館状態だけど。

 とにかく広い部屋に村のみんなが集まって一緒に食事をするのが人獅子族の風習みたい、なのですが…


 見渡す限りのライオンの群れ。

 そう、人獅子さん達は基本獣の姿で生活しているらしい。

 だから広間にいるのは雌ライオンが30匹くらいと、グオツさんを含めた雄ライオンが2匹。

 つまり、人の姿をしているのは俺一人ということになる。

 これだけを言えば、肉球パラダイスかはたまた尻尾ユートピアと言っても過言じゃないだろう。


 だけど、だけど!

 夕飯が生のままそのままのガゼルって!!

 ここが室内なのを除けば、アニマルチャンネルとかでよく見るサバンナに於ける弱肉強食の光景なんですけど!!

 詳しい描写とかはあえて省くけど、モザイク必須の食事風景は俺の食欲を著しく減退させていく。

 わかってる。

 多分だけど草原は獲物が豊富なんだ。

 だからわざわざ人の姿になって畑を耕したりしなくても、ここの気候に適した獣の姿の方がいろいろと都合がいいんだろう。

 人虎族は人数が多くて一定の食料が必要になるから、みんな人の姿でいることが多いけど、本当なら人獅子族やラゼアさんみたいに獣の姿でいる方が自然なのかもしれない。

 俺は俺なりに獣人さん達のことを理解したいと思ってる。


 ……けど、

 流石にこればかりは無理だ。

 ただでさえ殺菌除菌滅菌大好き潔癖先進国・日本で育ってきたから、情けないけど少しのことでお腹を壊してしまう自信がある。

 火を通さないお肉なんて、1発KO間違いなしだ。

 内臓なんて以ての外。


「どうしたのだ、ユウヤ。早くお前も獣化して食事をしないか。たくさん食べて体力をつけないと、ここでは生きていけんぞ?」


 金色がかった美麗なライオンことグオツさんが、隣に座ったまま動こうともしない俺を気遣って顔を覗き込んでくる。

 本当に人獅子さん達は心優しくて大らかでとってもいい人達だ。

 口元は真っ赤に染まってるけど。


「正直に言うと、俺は生のお肉を食べられない体質なんです」


 ここで人間だと打ち明けて騒ぎになったら困るとなまじ嘘でもない言葉で取り繕えば、金色の円らな瞳が真ん丸く見開かれた。


「生肉を食せないとは何と不憫な…! しかしこの辺りには果実もなければ魚もいない。いくら何でも草食動物ではないのだから草は食べないだろう?」

「えっと…それならお肉を焼いてもいいですか? 囲炉裏を貸していただければ自分で調理しますから」


 人獅子族も人虎族と同じ獣人だから、きっと台所というものは存在しないだろう。

 だからこの世界に初めて来た時と同じように、囲炉裏を借りて簡単な料理を作ろうと思ったんだ。

 欲を言えば塩コショウがあるとなお嬉しいんだけど。


「すまないな、ユウヤ。この村には囲炉裏がない。それ以前に灯りとしてしか火を使わないのだ。肉を焼くという斬新な食し方も見てみたかったのだが…」


 ………え?

 そんな馬鹿な…

 もしかして人獅子さん達はお肉さえも焼いたことがないって言うのか?

 これは人虎さん達の比じゃない。

 囲炉裏がないのならお鍋も、下手したら塩すらないのかも知れない。

 建築技術はこんなに高くてあれだけ透明度の高いガラスが作れるのに、どうしてお肉を焼こうっていう発想にならないのか。


 そうだ、ガラスだ!

 ガラスは高温の窯で溶かして作るんだったよね?

 それならオーブンの要領で調理ができるかも。


「あの、グオツさん。窓に嵌まってるガラスは何処で作ってるんですか?」

「硝子? …さぁ? 私はよく知らないんだよ。人鷲族から買ってるだけだから」

「え…それじゃあ、窯は…」

「カマ?」


 駄目だ!

 よくよく考えたらおかしいよね。

 一生のほとんどをライオンとして生きるのに、手先が器用だなんて普通に考えたらあり得ない。

 人獅子さん達のことは言葉が話せるライオンさんっていう認識に改めた方がいいのかも。

 ……それってちょっと可愛い。

 いや、今は喋るライオンにときめいている場合じゃない。

 この場所で唯一俺が生き残るためには、肉を焼くしか道はない。

 こうなったら焚き火をして、本格的なアウトドア料理を披露するしかないだろう。

 満点の星空の下、肉を炙って食べるなんて考えによってはとても贅沢なことだし。

 しかも、優しい人獅子さんは大事な食料を当たり前のように分け与えてくれる。


「グオツさん、何から何まで本当にありがとうございます。今日のところは外で焚き火をしますね。それで、もし良ければなんですけど…明日は俺に料理を振る舞わせてくれませんか?」


 俺にできることと言えば料理しかない。

 人虎族の村とは違って調理器具ひとつないところからのスタートだけど、俺には元の世界から持ってきた大量の秘密兵器があるから大丈夫な筈だ。

 いや、これで大丈夫じゃなかったらもう俺には恩返しする手立てが残されていない。


「料理?」


 考え込んでいた俺を余所にすっかり食べ終わったのか、器に入っている水を美味しそうに飲んでいたグオツさんが、スフィンクスを彷彿とさせる伏せの体勢で俺を見上げてくる。

 うぅっ、そんな可愛い顔して首を傾けないで…!

 女の子大好きのイケメンさんだってわかってるのに、ライオンの姿をとってるだけでこんなにも愛くるしいなんて反則だ!

 明るい色の鬣は動く度にふわふわ揺れるし、器が倒れないように支えている手はおっきくて平べったくて裏には巨大な肉球が…っ

 もちろん猫科最大の種族である虎よりも小さいけど、それでも俺と比べれば断然大きいのに円らな瞳をパチパチと瞬かせている姿はまさに天使だ。

 大きな鼻も逞しい身体も揺れる尻尾も何もかもが心を掴んで離さない。

 真面目に話をしたいのに、込み上げてくる撫で回したい衝動を堪えるのに精一杯で手が勝手にわきわきと開閉を繰り返す。


「…えっと…料理っていうのは、食べ物を加工してより美味しくすること…かな?」


 流石に初対面で抱き付くのは常識的に考えてNGだろうから必死で我慢してるんだけど、そのせいでちょっと話し方が辿々しくなってしまってるのは仕方がないと諦めよう。


「成る程、ユウヤの種族は美食なのだな。本来ならば気にするなと言うところだが、『料理』とやらを私も味わってみたい。頼んでも良いか?」

「はいっ、俺頑張ります!」


 快諾してくれたことが嬉しくて、ついつい拳を握り締めて満面の笑みを浮かべてしまった。

 グオツさん、なんていい人なんだろう。


「なんと愛らしい笑顔…これで雄など到底考えられん。あぁ…それにしても、獣化すると余計に良い香りがする…」


 水を飲んでたから少し湿ってる鼻先をグイグイと俺の胸に押し当てて、スンスン鼻を鳴らしながら匂いを嗅いでくるグオツさん。

 もし人の姿でされたのならただの変態だけど、まるでライオンがなついて甘えているみたいな状況は俺の理性を磨り減らすのには十分で…


「……~~~ッ! 可愛い!!」


 グオツさんのふわふわな頭に腕を回して抱き締めてしまった俺を、誰が責められるというのだろう。

 ふわふわの頭に顔を埋めれば、鼻孔を擽る太陽と干し草の匂い。

 視界の端でピコピコと動く丸い耳も今の俺には苦しいくらい可愛く映り、戸惑っているのか尻尾が床を打ち据える音が大きくなるにつれて抱き締めている腕から震えが伝わってくる。

 あぁ、ついにやってしまった。

 いくら人当たりのいい人でも、人獅子族の長としてこんな無礼を許すわけにはいかないだろう。

 グオツさんを軽んじるってことは、人獅子族を軽んじるってことだから。

 だけど、こんなに愛らしいライオンを前にして触らないでいられる人間なんていないと思う。

 一生のうちでもそうは経験できないであろう虎とライオンと狼をモフモフできたんだから、我が生涯に一片の悔いもない。

 反省はしてるけど、後悔なんかするはずないよね。

 まぁ、ちょっと犯罪者の常套句みたいになっちゃったけど、とにかく俺はグオツさんに叱られお咎めを受けても構わない。

 それだけの価値が、このふさふさの鬣にはある!


「~~~ッ、ユ、ユウ、ヤ……もう、私は我慢、できない…っ!」


 俺の腕の中で唸るように呟くグオツさんに覚悟を決めゆっくりと腕を解いていくが、待ってましたと言わんばかりに飛び掛かってきたグオツさんの両手が肩を押し、圧倒的な力とウエイトの差でもってしていとも簡単に俺は床に押し倒されていた。

 マウントポジションというこの体勢から察するに、グオツさんは獲物の喉笛を食い千切るように俺にも牙を突き立てるのだろうか。

 中々に血生臭いお咎めだけど、きっとここまでしなきゃならない程のことを俺はしてしまったんだ。

 それにしても、こんな状況で不謹慎だけど俺を見下ろしてくるグオツさんの姿がカッコ良過ぎる。

 人間の姿の時とは比べ物にならない貫禄は、まさに百獣の王といった佇まいだ。

 グオツさんの口がゆっくりと開かれる。

 ぞろりと生え揃った歯はいかにも切れ味が良さそうだけど、俺はそれよりも気になることがあった。


「あの、グオツさん…」

「お黙りよ。私を煽ったユウヤが悪いのだ」

「…いや、そうじゃな…」

「なんと白い肌だっ」

「グオツさん…!」

「触れたら弾けてしまいそうなほど柔らかい…」

「危なっ!」


 バキィイイッッ!!!!


「ぐっうぅっ!!」


 吹っ飛んだ。

 あの大きなライオンがワイヤーアクションみたいに、それはもう美しく吹き飛んでしまった。

 そしてグオツさんの代わりに俺を見下ろしている人の姿の男性、彼こそが足一本であの巨体を壁まで吹き飛ばした張本人である。

 何を隠そう、さっきからグオツさん越しに俺からは彼が見えていて、慌てることもなくゆったりと足を振り上げて蹴りの構えをとっていたのに気付いていたんだ。

 だから止めたのに…


「………長が、すまない」


 不意打ちの攻撃に受け身も碌にとれておらず痛みに呻いているグオツさんを全く気にかけることなく、薄灰色の瞳と髪を有している彼が軽く頭を下げてくる。

 凄い。

 雌だけじゃなくて、この群れでのグオツさんの扱いは全体的に酷いんだな。

 ハギルさんやセオトさんは一族の中でも別格扱いなのに、人獅子族は違うのかな?

 何はともあれ、俺は慌てて起き上がると謝罪の意味も含めて正座になった。


「えっと、謝るのは俺の方です。いきなり抱き締めるなんて、グオツさんじゃなくたって怒るのは当然です」


 俺が絶世の美女だったら話は別だっただろうけど、男に、しかもこんな平凡に抱き付かれたんじゃ誰だって気持ち悪いに決まってる。

 特にグオツさんは長としての立場とは別に、女好きっていう性質も相俟って余計に腹が立っていてもおかしくない。


「軽率な行動でした。すみません…」


 謝罪の意味を含めて頭を下げると、途端に周囲から重々しい溜め息が聞こえた。


「「「「「鈍いにも程がある…」」」」」


 顔を下げていた俺からは、ばつが悪そうなグオツさんの顔も、微かに見開かれた灰色の彼の瞳も、可笑しげに笑いを押し殺している女性陣も見えていなかった。




 ***




 何処までも広がる草原。

 太陽の光が燦々と降り注ぐ、日本なんかよりもカラカラに乾いた大地。

 ここに来た時にも思ったけど、やっぱりこれはどう見てもサバンナだ。

 そして振り返ればそこには白い結晶が層になった、神秘的な丘がある。

 これこそ俺が求めていたものに違いない。

 念のために白い結晶を爪で引っ掻き舐めてみる。


「うん、ちゃんと塩辛い。セスカさん、これが俺の言っていた岩塩ですよ」


 こんな草原の真ん中でほぼ絶望的だったけど、塩を見付けることができたのは運が良かった。

 地殻変動か何かで陸上に海水が取り残されてできるらしい岩塩の存在は、今後の生活を大いに左右するものだったから本当に安心した。


「こんなに不味いものを使うのか? その『料理』というものは」

「確かに塩は辛くて最低の調味料とも言われてますけど、加減さえ間違わなければ最高の調味料にもなるんです」

「『調味料』?」

「えーっと、味付けをするもののことです」


 セスカさんは頻りに丸い耳をピコピコと動かして、怪訝そうに岩塩を眺めている。

 他の人獅子さん達とは違って、このセスカさんは食事の時くらいしか獣化しないという珍しい人獅子族らしい。

 詳しいことはわからないけど、ひょっとしたらセスカさんの珍しい毛色によるものかもしれない。

 昨晩初めて会った時にも思ったけど、まるで灰を被ったような薄い灰色の髪の毛は他のどの人獅子さん達にも見られない色だった。

 健康的に日焼けした肌とは対照的なそれは、俺から見れば凄く綺麗だけど本人としたらコンプレックスなのかも…

 だから鬣は雄の命だろうに、俺と同じくらいの長さで髪を切ってしまっているんじゃないかな。


「とにかく、これがあれば料理の味付けはもちろん、お肉の保存にも役立ちますよ」


 人の姿で行動することの多いセスカさんにとっても、塩分はきっと重要なものになるはずだ。


「なら、これを削り取ればいいんだな?」

「はい、お願いします」


 そう、今日セスカさんについて来て貰ったのは道案内のためだけじゃない。

 岩塩はその名の通りメチャクチャ硬い。

 もちろん俺だって男なんだから削り取れないことはないんだけど、この慣れない炎天下の中で長時間作業すればまた倒れてしまうのは目に見えている。

 だからと言って人獅子族の女性達は日中はみんなで狩りに出掛けるし、族長であるグオツさんは縄張りの見回りに行かなければならない。

 そこでぼくのお供にと選ばれたのがセスカさんだったというわけだ。

 セスカさんはグオツさんの双子の弟で、人獅子族長以外では唯一の大人の雄なんだそうだ。

 ここが人獅子族の村が大きくならない要因なんだと思うけど、人獅子族の雄は大人になると村を出て自分の村を作らなくちゃいけないらしい。

 村を出た雄は大体が兄弟で助け合って生活していくみたいで、グオツさんやセスカさんの村は別段珍しい構成じゃないそうだ。


「ユウヤ、下がっていろ」


 無表情で愛想がないセスカさんだけど、何かと俺を気遣ってくれる。

 今も懐から出した鉤爪のような形のナイフを取り出すと、砕いた岩塩にぶつからないようにと俺を下がらせるつもりみたいだ。

 ここで変に男気を見せるのも反って大人気ないと思い、言われた通りに5歩分くらい下がる。

 それを確認したセスカさんがゆっくりとナイフを横向きに構え、そのまま躊躇なく岩塩に突き刺した。

 ……有り得ないよ。

 岩みたいに硬い岩塩に、いくら先が尖っているからってナイフの根本まで刺すなんて人間業じゃない。

 それからもセスカさんは何度か岩塩にナイフを突き立てて、何と四角くくり貫いてしまった。

 削り取るって言ってなかったっけ?




 ***




 side:ハギル




「…くっ、う…ッ…僕の、呪術…無駄、だった、みたい…っ」


 ユウヤを捜すために行われた呪術で、人蛇のエイシはこう言い残すと糸が切れたように倒れ意識を失ってしまった。

 何が無駄だったのかすら聞くことができないまま、また今日も日が沈む。

 エイシが昏々と眠り続けて今日で3日目。

 ユウヤが帰ってこないということは、やはり手遅れだったのだろうか。

 俺達人虎族どころか空を駆ける人鷲族でさえ手の届かない、遠く、遥か遠くにあるユウヤの故郷。

 本人の意思とは無関係にこの世界に送られてきた渡り人の子供は、命を奪うと仄めかした俺達にも屈託なく接してくれた。

 小さく、弱き者なのは一目瞭然なのに、誰も成し得ることのできなかったことを次から次へとやってしまう。

 その功績が大き過ぎて、いや…あまりにも無垢な笑顔を向けるから俺達は忘れていた。

 ユウヤはまだ子供だ。

 ナトリと同じ年齢とはいえ、恐らく人間の成長は遅いのだろう。


『好きなものに囲まれて、俺は今とても充実してます。前よりももっと、幸せです』

『こうして、俺を気遣ってくれる優しい人虎さんもいますからね』


 初めて温泉に行った日、この世界で俺達と生きる覚悟を決めたようだったが、それでも故郷は恋しいに違いない。

 あのラゼアでさえ、自分から群れを離れたにも関わらずまた村へと舞い戻ったんだ。

 ユウヤにも家族がいるはずだ。

 親兄弟の結び付きが弱い人虎族とは違い、きっとユウヤの家族は愛情に溢れているのだろう。

 だからこそ、ユウヤはあんなにも真っ直ぐなんだ。

 共に過ごして掛け替えのない存在になり、そして居なくなった今は求めて止まない存在にまでなっている。

 人虎族も人狼族もユウヤを捜し出そうと躍起になっているが、もし元の家に帰っているのだとしたらそれは喜ぶべきことなんじゃないか?

 本当にユウヤを想うのなら、家族の元に帰ったのだと…


 そこまで考えて、俺は筆を置いた。

 大切な執務中だが、どうしても意識が逸れてしまう。

 村中が浮き足立っている今だからこそ、長である俺がしっかりしていなければならない。

 そんなことは百も承知だ。

 だが、この内側から突き動かすような焦燥混じりの強い衝動は、常に気を張っていても完全に押さえ込むことは難しい。

 ちっぽけな人間一人いないだけで、こうも揺らぐほど俺は弱くなってしまったのだろうか。

 いや、もう認めてしまおう。

 俺はユウヤを元の世界に帰したくない。

 成体であることも、族長であることも、人虎であることもかなぐり捨て、建前や矜持を取り払ったただのオスとして俺は切実に願っている。

 望んでいる。

 例えそれがユウヤを苦しめることになっても、傍にいてほしいと。


「全く、愚かな考えだ」


 目頭を指で摘まむようにして押さえ、鈍い頭痛をやり過ごす。


「そんなことないさ。自分の幸せを望むのは、愚かなことなんかじゃないよ」


 不意に聞こえた声に目だけで入り口を見ると、分厚い布団を肩から掛け包まっている異様な風体をしていながらも全く気配を感じさせない人蛇が立っていた。

 底知れない漆黒の瞳が、俺を真っ直ぐに見ている。


「……エイシ、体調はいいのか?」

「バッチリだよ」

「その割りには随分と重ね着しているようだが」

「蛇は寒さに弱いんだよね。倒れたのだって、冬眠から目覚めて体力が完全に戻っていなかったから…ってまぁ、言い訳にしかならないか」


 そうだった。

 人蛇族は冬になると極端に衰弱し、深い眠りに就かないと生命の危機に瀕する不自由な種族だった。

 なるほど、だから春である今目を覚まし、労せず狩りを達成できるよう俺達を罠に嵌めて牧場を狙ったのか。


「だったら、後で卵を飲むといい」


 以前なら偶然にしか見付けることができなかった卵は、今はユウヤが作った牧場のお陰で毎日入手できるようになった。

 ユウヤの話によると牛乳や卵は栄養価が高いらしいし、何より人蛇族の1番の好物だ。

 案の定、凪いだ夜の湖のような黒い瞳をキラキラと輝かせてエイシが身を乗り出してきた。


「卵!? 凄いっ、牧場には卵を産む鳥もいるのか!? 楽園じゃないか、この村は」


 現金な奴だとは思うが、自分の村を褒められるのは悪い気はしない。

 しかもそれがユウヤの功績ともなれば、喜びは一入だ。


「後でいくらでも英気を養ってくれていいから、今はとにかくユウヤのことを教えてくれ。一体何が見えたんだ?」


 やはり俺達の手になど届くことのない遠くへ行ってしまったのだろうか。

 布団に包まったままの奇妙な格好で、エイシは苦虫を噛み潰したような顔になっている。

 言いづらそうなその様子に、嫌な予感しかしない。


「エイシ」

「………わかったよ。僕だってそれを言うためにわざわざ来たんだから」


 だったら早く言え、と急かしてしまいたくなる気持ちを押さえ、俺は改めてエイシへと向き直りその言葉を待った。

 最悪の事態を想定していれば、衝撃の事実を打ち明けられても備えることができる。

 できるが、そんなこと考えたくもない。

 エイシが言い淀む僅かな間でさえ、普段の自分では有り得ないほど焦れてしまう。

 成体の獣人にとって焦りは禁物だ。

 狩りの最中に焦っていては、必ず失敗するからだ。

 心の平静を保つことは、成体になるより以前から訓練し習得しているはずだった。

 族長であれば尚更だ。

 そんな俺に激しい焦りを感じさせるほど、ユウヤという存在は大きなものなのだろう。


「僕が見た時は、確かにこの世界とは別の場所にユウヤはいた。だけどすぐ、強烈な力と共にこの世界に押し入ってきたんだ。だから目が潰れるほど痛かった訳なんだけど…」

「―――ッ! ユウヤはこちらにいるのか!?」

「まぁ、いることはいるよ」


 予想通りユウヤは自分の世界に戻っていた。

 しかしそれでも、こちらの…俺達の世界を選んでくれたというユウヤの気持ちが堪らなく嬉しい。

 ひょっとしたら最初の時のように、不可抗力で世界を渡ってしまったのかも知れない。

 それでも心優しいユウヤのことだ、俺達に黙ったままでの別れを甘受するとは思えない。

 ともあれ、ユウヤに会える。

 焦れた分、思わぬ吉報に柄にもなく俺は喜色満面になってしまったが、エイシの表情は一向に晴れない。


「ただひとつ、問題があるんだよ」

「問題、だと?」

「あぁ、これが結構な問題なんだ」


 飄々としているエイシが渋い顔をするくらいの問題なんて聞きたくもないが、ユウヤに会うためならどんな労力も惜しむつもりはない。


「勿体振らずにさっさと言え」

「はいはい、実はユウヤが降り立った場所が問題なんだよ。選りに選って草原のど真ん中に降り立つなんて…」

「草原…っ」


 草原は今、乾季の真っ直中だ。

 獣人の子供よりもなお脆弱な身体のユウヤにとって、過酷な環境だと言えるだろう。

 今すぐにでも迎えに行きたいが、この森から草原まで不眠不休で駆けたとしても10日はかかってしまう。

 乾季の草原で、ユウヤが10日も生き延びられるとはとても思えない。

 何より草原には奴等がいる。


「参ったよね。草原は人獅子族の縄張りだ。人獅子族と言えば人鷲族以外とは一切馴れ合わない閉鎖的な種族な上、一生の殆どを獣の姿で過ごす野生的で粗暴な性質だって噂だ。そんな人獅子族に見付かりでもしたら、ユウヤなんて頭からバリバリ食べられてしまうかもね」




 ***




 side:エイシ




『参ったよね。草原は人獅子族の縄張りだ。人獅子族と言えば人鷲族以外とは一切馴れ合わない閉鎖的な種族な上、一生の殆どを獣の姿で過ごす野生的で粗暴な性質だって噂だ。そんな人獅子族に見付かりでもしたら、ユウヤなんて頭からバリバリ食べられてしまうかもね』


 僕の言葉が進めば進むほど、面白いくらいに見る見る顔色を青ざめさせていくハギル。

 この姿を見て、一体誰があの超個人主義の人虎族だと思うだろうか。

 しかもそれらを統べる族長なんだよ、彼は。

 いやぁ、本当にユウヤは凄い。

 獣人の根本でもある本能でさえ容易くねじ曲げちゃうんだから、ユウヤの魅力は半端じゃない。

 この分だったら今頃、あの粗野な人獅子族にだって気に入られているかも。

 そんなことなんか欠片も考えていない目の前の人虎は、落ち着かないのか尻尾を右へ左へパタンパタンと揺らし始めた。


「他種族から平気で獲物を奪い取るような人獅子なら、あの子供同然の人化した者でさえ平気で食らうかも知れない…」


 現実的に想像してしまったのか、青ざめた上に眉間に手を当てて俯いてしまった。

 ブツブツと呟かれる内容に、なくはないと僕でも思う。

 だけど、何でだろう。

 今まで伝え聞いていた人獅子の噂なんかよりも、ユウヤなら大丈夫っていう根拠のない自信が確かにあるんだ。

 漠然としてるけど、何故か揺らがない自信。


「ハギル、そんなに心配なら僕がユウヤを迎えに行こうか?」


 まだゾクゾクと冷える身体を温めるように布団の合わせ目をきっちり詰めながら、僕はもうひとつの目でユウヤを見た時から考えていた提案を口にした。

 人虎族が森から離れるのは、並大抵の覚悟じゃ無理だろう。

 どんなに強くても未知の草原で狩りが出きるとは限らないし、そもそも縄張り意識の強い人虎族が森から離れられるはずもない。

 だったらここは僕が行くしかないよね。


「……お前、そんなに弱ってるのにか?」

「卵食べさせてくれるんでしょ? だったらすぐにでも回復するよ」


 実際に人蛇はあまり食べなくても動ける種族だから、卵さえ食べられれば最悪草原で狩りをしなくても耐えられる。


「…人蛇なんか行かせる訳ねぇだろ。俺が行く」


 気配もなく現れたのはやっぱりというか何というか、白い巨体のラゼアだった。


「別にお前を信用してないとかじゃねぇ。だが、狩りができる奴がいないとユウヤに食わせてやれねぇだろ」


 人虎族には珍しく一日の殆どを獣化しているラゼアは、今日も今日とて白い虎の姿のまま我が物顔で部屋に上がり込んできた。

 族長であるハギルよりも余程尊大な態度の彼は、当たり前のように僕の隣に腰を下ろして青い瞳を向けてくる。

 ラゼアを目の前にすると、人蛇の僕さえも捕食される側なんだって嫌でも痛感させられるから苦手なんだよね。


「そりゃ僕じゃ頼りないかも知れないけど、もしユウヤが他の種族に身を寄せていたとして君は円満に事を済ませる自信があるの?」


 超個人主義な上に群れを離れて生活していたラゼアに、社交性なんてあるはずがない。

 ラゼア自身それを理解してるみたいで、不満そうに尻尾で床を打ち鳴らしている。


「僕だったら口八丁手八丁で相手を丸め込むこともできるよ」

「だが、お前じゃユウヤを食わせられないだろうが」


 口では僕に勝てないと知っているからか、グルルッと唸り始めたラゼアに内心冷や汗が出る。

 だから苦手なんだよ、この単細胞。


「だったら話は早い。ラゼアとエイシでユウヤを迎えに行ってくれないか」

「「……え、コイツと?」」


 満足げに頷くのはやめてくれないかな、ハギル…




 ***




 目の前でジュージューと美味しそうに焼かれているのは、昼間女性陣が狩った野牛だ。

 焚き火を石で囲ってその上に岩盤を乗せた即席の鉄板擬きは、熱くなるまで時間がかかったけど石の効果からか物凄くいい感じに焼けている。

 今作ってるのはステーキだ。

 料理を作ると豪語した割には焼くだけのステーキになってしまったのは心残りだけど、今日中に出来る物といえばこれくらいしか思い付かなかったんだから仕方がない。


 それでも、ここまで漕ぎ着けるのはかなり大変だった。

 そもそも小さなナイフくらいしかない人獅子族の村で、肉を解体するだけでも一苦労なわけで。

 そこは俺が持ってきた包丁が役に立ったんだけど、今度は人獅子さん全員の料理を調理できる鍋がなくて岩を切り出す羽目になってしまった。

 ここで登場したのが、またまたセスカさんだ。

 岩塩を切り出したのと同じようにナイフで岩を砕き始めた時には、超不思議体験経験者である俺でも流石にビックリした。

 後で聞いた話によると、セスカさんの怪力は人熊族を軽く凌駕するほどらしい。

 だからあんな大きな岩盤を背負って運べたんだな。

 人の姿であれだけ凄いなら、獣の姿になったらどれだけ怪力なんだろう…

 いや、それ以前に、薄灰色のライオンなんて…物凄く見たい!

 きっと鬣の色はセスカさんにとってトラウマなんだろうから言えないけど、機会があれば是非とも見てみたいものだ。

 腰布の隙間からチラチラと見える先っぽだけふさふさの尻尾から推察するに、毛並みも申し分ないくらい綺麗なんだと思う。

 今も肉が焼ける匂いに鼻をひくひくさせて隣に立っているセスカさんを横目で見ながら、俺は想像の中だけで灰色の鬣をわふわふしていた。

 俺の頭の中だけでセスカさんが凄いことになっている最中、匂いにつられたのか本物のライオンさん達が家からノッシノッシと出てきた。

 嗚呼、やっぱり可愛い。

 人虎さんとは違うシャープなフォルムも、口の下がミルクを飲んだみたいに白っぽい毛色なのも全部可愛い。

 後から来たグオツさんが人の姿だったのはかなり残念だったけど。


「こらこらお前達。今日はユウヤが『料理』を作ってくれるのだから、人化して来ないか」

「あら、そうでしたわ」

「あんまり良い香りでしたから、つい」


 鈴を転がすようにころころと笑いながら家へと戻っていくライオンの後ろ姿に、どうしても残念な気持ちになってしまう。


「ユウヤ、『料理』とやらはもうじき出来上がりそうか? 雌達の言葉ではないが、どうもこの匂いは腹の虫を暴れさせる」

「長と同意見なのは不本意だが、俺も先程から腹の虫が落ち着かない」

「……セスカ、仮にも兄に対してその物言い…」

「本心だ」

「お前…」

「あっ、あの、もう出来ますから! 後は切り分けて塩を振れば食べられますよ」


 相変わらずグオツさんの扱いが酷いセスカさんだけど、これが2人のコミュニケーションなんだって何となくわかる。

 だからだろうか、兄さんを思い出してしまった。

 もしかしたら、もう会えないかも知れない。

 いくら思い残すことがあるからって、家族よりも人虎さん達を優先してしまった。

 そんな俺の我が儘を、大きな心で許してくれた兄さん。


「やっぱり、兄弟っていいですね」

「ユウヤにも兄弟がいるのかい?」

「はい、優しくて頼りになる兄が」

「それは羨ましい限りだな」

「おい、セスカ。流石にそれは…」


 情けない声を出すグオツさんに、堪らず笑いが吹き出してしまった。


「ふはっ、」

「…くくっ」


 俺につられたのか、無表情だったセスカさんまで笑いだす。


「……セスカが、笑っている」


 驚きに見開かれる金の瞳に、笑い収めたセスカさんが知らん振りで視線を逸らした。

 それが子供みたいで、俺はまた吹き出してしまった。


 双子なのに全く性格が違うグオツさんとセスカさんを微笑ましく見ていると、人化してきた女性たちが続々と家から出てきた。

 その中にはもちろん俺を助けてくれたメイヤさんとメイトさんもいるんだけど、何やらもう1人いるみたいだ。

 嫌がっている誰かを無理矢理引っ張ってるように見える。

 もしかしたらあの人は料理を食べたくないのかも知れない。

 こっちの世界で出会った獣人さん達はみんな好奇心が旺盛で、俺が作ったものを喜んで食べてくれる人ばかりだった。

 だからそこまで気が回らなかった。

 昨日今日知り合った何の種族かもわからないような俺の、しかも見たことのない料理なんて口にしたくない人だっているはずだ。

 特に人獅子さん達はライオンの姿で過ごすことが多いから獣に近いのかも知れない。

 だったら警戒心が強いのも納得だ。

 逆に俺の料理を躊躇いなく食べてくれたハギルさんは、今思えば物凄く胆の座った人だったんだな。


「メイヤさん、メイトさん。そんな、無理矢理なんて可哀想ですよ。食べたくない物は無理に食べる必要なんてないんですから」

「あら、ユウヤったらなんて優しいのでしょう!」

「こぉんな優しい子が頑張って作ってくれた物を食べたくないだなんて、メイルってば薄情者ですわ」


 お揃いのボブを揺らしながら大袈裟に声を上げる2人だけど、掴んでいる後ろの人の腕を離す気配はない。


「ふ、2人とも、俺は嫌がらせしたいんじゃないんです。これはお礼の気持ちなんですから、」

「お礼の気持ちを無下にするなんて、メイルの鬼畜!」

「メイルの分はわたくし達が食べてしまいますわよ!」

「…ッ! たっ、食べないとは言ってないだろ!? そもそもアタシは『料理』が嫌なんじゃなくて顔を合わせづらいから…!!」


 ん?

 顔を合わせづらい?

 両手をそれぞれメイヤさんとメイトさんに掴まれているメイルさんだけど、不意に2人の隙間からその顔が見えた。

 髪を短く切っていてそこから覗くライオン耳が何とも可愛らしい、2人にそっくりな女性。


「……あれ、もしかしてメイヤさんとメイトさんって、双子じゃなくて三つ子?」


 そういえばメイルさんって、何処かで聞いたような気がする。


「んふふっ、正解ですわ」

「メイルはわたくし達の妹で」

「「ユウヤを泉に放り投げた張本人ですわ!」」


 あー…そう言われれば、目が覚めて頭が混乱している時にそんなことを言っていたような…


「~~~~~~ッッ!!!! だから顔出すのは嫌だったんだよ!」


 俺と目が合ったメイルさんは、盛大に顔を歪ませてすぐさま目を逸らしてしまう。

 俺はとりあえず焼けた肉を持参のトングで引っくり返すと、一旦岩盤から離れてメイルさんに歩み寄った。

 何故か身体を強張らせて身構えるメイルさんの手を取り、然り気なく2人に手を離してくれるよう目配せする。

 にこにこと満面の笑みで俺の意を汲んでくれた2人に軽く頭を下げてから、改めてメイルさんの手を握って深く頭を下げた。


「あの時は助けてくれてありがとうございました!」

「えっ、…は? えぇっ!? ア…アタシはアンタを泉に落としたんだぞっ?」

「はい。お陰で体温も下がったし、水を飲んだから脱水も軽減されたんだと思います。何より、見ず知らずの俺のために一生懸命になってくれたことが一番嬉しいんです」


 頭を上げて真っ直ぐ見詰めれば、やっぱり少しだけ俺よりも目線が高い。

 本当に獣人さんは背が高くて耳や尻尾がピコピコしてて、何て可愛い存在なんだろう。

 メイルさんの戸惑う気持ちを表すように揺れる尻尾が、不安げにピクピク動く耳が可愛過ぎて、気を抜いたら抱き締めてしまいそうになる。

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