小さな騎士
遙か高みから見下ろす黒雨の魔女を、フェリスはおっかなびっくり見上げる。
「し、死ぬ覚悟なんてできてませんけど……死にたくないですけど……」
せっかく友達がたくさんできて、お姫様とも仲良くなって、楽しい日々が続いているのだ。こんなところで終わりを迎えたくなんてない。だからといって、ロゼッタだけを置き去りにすることもできない。
「わ、わたくしが死なせませんわ! いざとなったらわたくしがフェリスの盾になりますわー!」
ジャネットが震えながらフェリスの前に仁王立ちになる。
黒雨の魔女は鼻を鳴らした。
「ふん……生意気な童どもが。どこにわらわの宝を隠したのか知らぬが、すぐに吐かせてやるわ……その脳を小さな頭から引きずり出してなあ!」
魔女の全身から、暗黒の濃霧が噴き出した。瘴気は無数の触手と化し、フェリスとジャネットに向かって突き進む。それぞれの触手の周囲に魔法陣が展開され、魔法陣から業火が現れて襲いかかってくる。
家々が燃え上がるほどの熱波に悲鳴を上げるジャネット。
「ええええええいっ!」
フェリスは小さな手の平を突き出し、それだけで業火をせき止める。まるで巨大な防護壁に行く手を阻まれたかのような炎の濁流が、散り散りになって路面に突き刺さる。
石の溶ける臭いが鼻をつき、フェリスとジャネットの目にしみる。
「もう悪いことは……させないんですからあっ!!!!」
フェリスは叫びつつ両手を掲げると、早口で複合魔術の言霊を唱える。
巨大な魔法陣が空を満たし、凄まじい量の鎖が生成された。網膜が焦げるほどの光輝を放つ黄金の鎖が、風を鳴らして黒雨の魔女に叩きつける。
「ぐうううっ!」
黒雨の魔女は空から叩き落とされ、民家の屋根に墜落した。大穴を穿って家に雪崩れ込み、すぐさま浮き上がってフェリスに攻撃を仕掛けてこようとする。
だが、黄金の鎖がそれをさせない。黒雨の魔女の体に次々と突き刺さり、食い込んで、がんじがらめに縛りつけていく。
黒雨の魔女は瘴気を操って鎖を切り裂こうとするが、できない。何物の干渉も受けつけない鎖が、華奢な魔女の体躯をぎしぎしと圧搾していく。
「こ、これほどまでとはのう……ただの器と思って甘く見ておったが、『あのお方』の力は伊達ではないか……」
魔女の青白い肌から、赤い鮮血が滲む。苦痛に顔を歪めながらも、唇をつり上げる。
「それで、どうする? わらわを殺すか? このまま握り潰してしまうか? そなたなら、それぐらいわけもないことよのう?」
「フェリス……?」
ジャネットは恐る恐るフェリスを見やった。放っておけば鎖で魔女は死ぬ。仕方のないことなのかもしれないが、しかし、やはり人の姿をした存在を小さなフェリスに殺めさせてしまうのは、友達として許してはいけないことのように思われた。
「つ、潰したりはしないです! お願いですから、二度とひどいことしないって約束してください! そうしたら、すぐに離しますから!」
「くくっ……くくくくくっ……」
魔女は肩を震わせて笑った。
「ど、どうして笑うんですか」
「甘いのは……わらわだけではないのう。そなたも充分に甘い……そう、かつてのわらわのように……。たとえ『あのお方』の力を持っていても、情けがもたらすのは永久の後悔だけじゃ!」
黒雨の魔女の体が、どろどろと溶けた。
グロテスクな光景に、フェリスとジャネットは縮み上がる。
フェリスの制御が弱まり、黄金の鎖が緩んだ。その隙をついて、黒雨の魔女が鎖のあいだから抜け出す。自らの体を暗黒の流動体に変えながら、大嵐に乗せるようにして飛び去っていく。
「…………に、逃げて、しまいましたわ」
「ご、ごめんなさぁい……」
呆然として立ち尽くす、ジャネットとフェリス。
黒雨の魔女が消えると同時に周囲の闇も晴れ、王都に光が戻ってくる。
辺りを蠢いていた異形の影たちも消滅する。
鳥の声が聞こえ始め、鮮やかな陽光が街路を照らす。
「フェリス!」
「怪我はありませんか!?」
屋内に隠れていたアリシアとロゼッタ姫が、息急ききってフェリスに駆け寄ってきた。
「は、はい、怪我はないですけど……黒雨の魔女さんを逃がしちゃって……わたし、ダメダメです……」
「駄目などではありません! あなたは途方もない魔導師です……あの黒雨の魔女を追い払ってしまうなんて!」
しょげるフェリスに、ロゼッタ姫が力強く首を振る。
「もう、戻ってきませんわよね?」
「多分……一時撤退しただけじゃないかしら。でも、とりあえず姫殿下と王都が救われたのは確かね」
「ありがとうございます、フェリス。あなたには勲章を授けないといけませんね」
「そ、そんなっ、勲章とか要らないですようっ! わたし、なにか欲しくてやったわけじゃないですし、なんとかなったのは偶然ですしっ、クンショウとか一人じゃ食べられないかもですしっ!」
「フェリス、勲章は食べ物じゃないのよ?」
「ふえっ? じゃ、じゃあっ、飲み物ですか!?」
「飲み物でもないわね……」
アリシアは微笑む。
そして、表情を引き締めてロゼッタ姫の方に向き直るや。
「……姫殿下。今日のこと……フェリスに助けられたことは、他の方たちには秘密にしてもらえないでしょうか」
アリシアの真剣な口調に、ロゼッタ姫はその意志を即座に察した。幼い頃から帝王学を叩き込まれ、多くの大人たちを観察してきた身……彼らの前ではなるべく無邪気な姫を装っているが、秘められた洞察力にはアリシアに近いものがある。
「分かりました。今回の手柄は、すべて魔導師団長のグスタフのものと発表しましょう。よろしいですね、フェリス、ジャネット?」
「はいっ!」
「も、もちろん、お父様は喜ぶと思いますけれど……でも……」
口ごもるジャネット。
ロゼッタ姫はため息を吐いた。
「わたくしも、フェリスを戦争の道具にはしたくありません。ですが、わたくしが正直に報告すれば、フェリスは否が応でも権力の泥沼に引きずり込まれてしまうでしょう。ジャネットは、それでよいのですか?」
「い、いえ! 嫌に決まっていますわ!」
「では、そういうことで。それと……」
ロゼッタ姫は、魔導具の入った荷袋をフェリスに差し出した。
「この魔導具、フェリスが預かっておいてください」
「ふえええええ!? わたしがですか!?」
「今回のことで、我が国の誰が守るよりフェリスが持っていた方が安全だと分かりました。お願い……できますね」
「は、はい……」
王族たっての頼みとあれば、断ることはできない。なんのかんのいっても、フェリスはまだ王族に無礼を働いて処刑されるのが怖かった。おずおずと荷袋を受け取り、抱き締める。
「ありがとう。これからもわたくしと、わたくしの国を守ってくださいね……小さな騎士さん」
ロゼッタ姫はフェリスの間近に身を乗り出すと、そのほっぺたにそっとキスをした。
「……ふえ?」
きょとんとするフェリス。
「姫様ああああああああっっ!?」
ジャネットの悲壮な叫びが、明るい王都に響き渡った。