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ロッテ先生(後)

 暗い、暗い、瘴気の底。


 空気が粘液のようにまとわりついて、呼吸をすることすら難しい。


 ロッテは、自分がなにをしているのか分からなかった。


 たくさんの悲鳴が聞こえる。混乱が見える。苦痛と憤怒が渦巻いている。


 そんな戦場の真ん中で、ロッテは混濁した意識に溺れていた。


 自分を闇から切り離し、闇だけに行動を決めさせるのは、本当に楽だ。


 そこに葛藤はなく、愛情もない。自らの行動を悔いることも、なくしたモノの大きさに悲しむこともない。


 あるのはただ、絶望の眠り。


 恐ろしい闇に呑まれながら、ロッテは。


 巨大な光が――太陽よりも華々しく輝く十歳の少女が、自分の方へ突撃してくるのを見た。




「せんせえーーーーーーっ! しっかりしてくださああああいっ!」


 村を睥睨する繭の真下で、フェリスは声を限りに叫んだ。


 繭の中からはなんの返事もない。


「せんせえ! 起きてください! 戻ってきてくださいっ! ロッテ先生!!」


 膨大な瘴気と人形たちがフェリスに襲いかかってくるが、フェリスは無傷。ひたすらロッテ先生に呼びかける。


 けれど、ロッテ先生が現れる気配はない。


 仕方なく、フェリスは自ら繭に向かって行った。蜘蛛の巣のように張り伸ばされた白い糸を、よじよじと登っていく。


「あっ、あっ、危ないですわ、フェリス! 落ちちゃいますわ!」


 遠くから見守るジャネットは気が気ではない。もしフェリスが転落死なんてことになったら、ジャネットも漏れなく自決を選ぶだろう。


 とはいえ、フェリスは意外と着実に繭へと接近していった。何度もぽろりと落ちそうになりつつも、必死に糸にしがみつき、ようやく繭の正面に到達する。


「先生……入ってますか……? 入りますね……?」


 なんて話しかけると、フェリスは躊躇なく繭の中に飛び込んだ。


「フェリスーーーーーー!?」


 ジャネットの悲鳴が響き渡った。アリシアも顔面蒼白だ。


 フェリスはずぶずぶと繭に呑み込まれていく。外から見たときには白かったはずの繭の内部は、自分の手足さえ見えないくらいに真っ暗だった。


 それでもフェリスには、なんとなくロッテ先生の居場所が分かった。なぜか知らないけど、命の脈動のような、愛しい輝きのようなものを感じるのだ。


 少しずつ弱まりつつあるその輝きに向かって、フェリスは進む。


 まとわりついてくる闇が足を引っ張り、体を押し潰そうとするけれど、フェリスは負けない。小さな手足を全力で動かし、必死に抵抗する。


 やがて、ぼんやりとロッテ先生の姿が見えてきた。


 闇の深奥で、漆黒の鎖にがんじがらめに縛られて、目を閉じている。その体に力はなく、可愛らしい顔に生気はない。


「せんせえ! 大丈夫ですか!?」


 フェリスはロッテ先生に飛びついた。


「フェリス……ちゃん……?」


 ロッテ先生が弱々しく、ほんの少しだけまぶたを開く。


「はい! フェリスです!」


「知らない子、だね……」


「ええ!? 今、名前を呼ばれたんですけど! フェリスですけど!」


「そう、だっけ……」


「そうですよーっ!」


 どうやら、既に記憶も曖昧になっているらしい。一刻も早く助けなければならないと、フェリスは焦る。


「先生を迎えに来たんです! 一緒に帰りましょう!」


「私は……いいよ……。どうせ帰っても、なんの役にも立たないし……」


 ロッテ先生は死人のような声でつぶやく。


「なんでですか! 先生はわたしたちの先生じゃないですか!」


「私、本当は教師なんてやりたくなかったもの……。ブリンダ先生について軍部に行きたかったのに……ブリンダ先生が『ロッテちゃんにはもっと向いていることがある』って言うから……仕方なく教師になっただけだもの」


「向いてますよー、ぜったい!」


「ううん、違うよ。教師の仕事だって、他の人たちの方が上手にこなせてる……私じゃ、フェリスちゃんを導くことなんてできない……」


「そんなことないです! 先生は、わたしをいっぱい、いっぱい助けてくれました! 先生は最高の先生です!」


「ち、違う……」


「違わないです! 他の先生のことはよく分かりませんけど、ロッテ先生はわたしの大切な人です! 学校に来てくれなきゃイヤです! わたし、ふ、ふとうこうになっちゃいます!」


 学校をさぼるなんて不真面目なことは怖くてしょうがないフェリスだが、勇気を出して言い放つ。


「フェリス、ちゃん……」


 ロッテ先生の表情に、少しだけ光が戻った。


「それだけじゃないです! ロッテ先生が来てくれなきゃ、わ、わたし、不良になっちゃいます! 一週間に一度くらい宿題忘れちゃいます!」


「それは不良って言わないよ……。もう、フェリスちゃんてば……」


「言わないですか……うう……」


 他に不良らしいことを思いつかないフェリスである。


「私……本当にダメな先生だね……。フェリスちゃんにここまで心配されちゃうなんて……ごめんね、フェリスちゃん……」


「……先生! 別に悪くないですから、帰りましょう!」


「うん、分かっ……」


 ロッテ先生が言いかけたときだった。


「それは許さぬ」


 ぞっとするような、冷え切った声が響き渡る。


 周囲から闇が触手のように伸び、ロッテ先生の体を覆っていく。その脚が引きずられ、闇の中へと沈み込んでいく。


「先生! せんせええええっ!」


 フェリスは無我夢中でロッテ先生の体にしがみついた。


 しかし、闇の触手はフェリスの腕力よりも明らかに力が強く、ロッテ先生を貪欲に呑み込んでいく。


「ふぐぐぐぐぐぐ……………………!!」


 フェリスは自らも闇に呑まれそうになっていた。アリシアやジャネットが近くにいたら手伝ってくれるだろうけれど、今は誰もここにはいない。一人でなんとかしなければならないのだ。


「どうしたら……どうしたら!?」


 フェリスは焦った。


 打開策を求めて視線をさまよわせていると……ふと、ロッテ先生の後頭部に尻尾のようなものが揺れているのを見つけた。


 クマのヌイグルミや樽をカースドアイテムにしていたときに見かけたのと同じ、真っ黒な尻尾。


「これですーっ!!!!」


 フェリスは全力で尻尾を引っ張る。


 すぽーんっと抜ける尻尾。


 闇の触手が霧散し、周囲から闇が波のように退いていく。


 ロッテ先生の体がフェリスに激突し、フェリスは悲鳴を上げて尻餅をつく。


「なぜだ……なぜ、わらわの闇に対抗できるのだ……」


 信じられないといった様子の声が、すぐそばから聞こえた。


 フェリスは辺りを見回すが、誰の姿もない。


 しかし、その気配は厳然として存在している。


「誰!? 誰ですか!? もしかして、この前の魔女さんですか!?」


「いかにも。そなたは……何者じゃ?」


「わたしはフェリスです! 魔法学校の生徒です!」


「いいや、そのようなわけがあるまい……。そなたの魔力にはうっすらと覚えがある……もっと強大な……そう、まるであの……」


 姿なき声が息を呑んだ。


「もしや、そなた……。その体は、ただの器か……!!!!」


「え……?」


「なるほどのう……。面白い……ああ、面白い……。まさか、あのお方がこのような形になっているとはな……これは好機じゃ……」


「な、なんの話ですか……?」


 フェリスにはさっぱり意味が分からない。


「ふふふ……また改めて会おうではないか、『フェリス』……。あはは……あははははははははは!!!!」


 高らかな笑い声と共に、黒雨の魔女の気配は掻き消えた。


 途端、周囲の闇も溶け去り、フェリスはロッテ先生と二人で空中に放り出された。


「ふゃああああああああああっ!?」


 幼い悲鳴。


 繭や糸も消え去った村で、フェリスたちは民家の屋根に墜落する。ころころと屋根を転がり、地面へと落ちていく。


「危ないですわーーーーーーーーーーっ!」


 こちらに突進してきていたジャネットが、フェリスをキャッチしようとして下敷きになった。


 だが、お陰で衝撃が吸収され、フェリスとロッテ先生は無事に着地する。


「ふぎゃ!?」


 ジャネットのうめき。


「ご、ごめんなさいっ、ジャネットさんっ!」


「い、いえ……フェリスが無事なら、構わないのですわ……」


 背中にフェリスの小さなお尻の重み(といっても恐ろしく軽い)を感じながらも、ジャネットは至福だった。


「やるじゃない、ジャネット! 見直したわ!」


 アリシアが駆け寄ってくる。


「これがラインツリッヒ家の実力ですわ!」


「家は関係ないと思うけど……。フェリスもロッテ先生も平気?」


「わ、わたしは大丈夫ですけど……ロッテ先生が……」


 フェリスはロッテ先生の体を起こしつつ、ジャネットの上から起き上がった。だがフェリスだけでは支えるのが難しいので、アリシアも手を貸す。


 ロッテ先生はぐったりと目を閉じたまま、ほとんど動こうとしない。


 アリシアはロッテ先生の唇に頬を近づけた。


「息は……してるみたいね。早く呪術医さんに診せないと」


「ですわね。きっと部隊にも衛生兵がいるはずですわ!」


 三人は協力して、ロッテ先生を村の外へと連れて行く。


 すると、魔術師団の他の兵士たちより先にミランダ隊長が走ってきた。


「ロッテ先輩はこちらで引き取ります! お二人はフェリスを連れて、ここから今すぐ離脱してください!」


「どうしてですの?」


「フェリスの力を大勢が目撃してしまいました! なんとか誤魔化すつもりですが、本人がいたらごまかすのが難しくなります! ですから!」


「なるほどね……理解したわ」


「よ、よく分かんないですけど、邪魔なら出ていきますね」


 フェリスは悲しそうに言った。


「邪魔なんかじゃありません! フェリスのお陰でロッテ先輩が……いえ、村の人たちも、部隊の仲間たちも救われたんですから! お礼はまた改めて……ここはひとまず逃げてください!」


 ミランダ隊長はロッテ先生の体を支えながら告げた。


 フェリス、アリシア、ジャネットの三人は急いで村から脱出する。


 馬車を待たせている場所へと向かいながら、難しい顔で話をする。


「ロッテ先生は……どうしてあんなふうになっちゃったのかしら……」


「た、多分、黒雨の魔女さんがやったんだと思います。繭の中で会いましたし……」


「また黒雨の魔女ですの!? 危険人物を捕まえもせずに、魔術師団はなにをしているんでしょう……!」


 憤慨するジャネット。


 フェリスはぎゅっとげんこつを握り締めた。


「わ、わたし、このままじゃダメだと思うんです」


「どういう意味かしら?」


「黒雨の魔女さんです。放っておいちゃダメです! なんとか、なんとかしないと……! また、誰か知ってる人が狙われたら……アリシアさんとかジャネットさんまで狙われたら……わたし、どうしたらいいか……」


 ぷるぷると、恐怖に震える。


「フェリス……そこまでわたくしのことを……」


 ジャネットは頬を染める。


「フェリスは……どうしたいの?」


 アリシアが静かに尋ねた。


「わたし……黒雨の魔女さんを捕まえたいです! 悪いことしちゃメッて、言いたいです! みんなを……守りたいです!」


 フェリスは言い放った。

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