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押し寄せる

「わー! 冷たくて気持ちいいですっ!」


 波打ち際に走り込んだフェリスは、素足を包む海水の感触に歓声を上げた。


 お風呂とも水たまりとも違う、ひんやりしているのに冷たすぎることはない、爽やかな感覚。

 半ば砂に潜り込んだ足は、きらめく水面の向こうで不思議なカーブを描いている。


 ずっとこのまま棒立ちしているだけでもフェリスは充分に幸せだったが、それではいけないということは分かっていた。

 せっかく初めて海に連れて来てもらったのだから、めいっぱい海を堪能しないともったいないし、申し訳ないのだ。


 フェリスは砂浜や浅瀬を眺め回し、首を傾げた。


「あの……海の中に寝転がって進んでいる人たちは、なにをしてるんですか?」


「海の中に寝転がる……なんのことですの?」


 ジャネットも首を傾げた。


 フェリスの視線は、クロールで泳いでいる女性に注がれている。


 アリシアは唇に指を添えて思案した。


「そっか……泳いでる人を見たのも初めてなのよね」


「あれ、『およいでる』って言うんですかっ!? すごくカッコイイですっ! なんだか海を飛んでるみたいですっ! わたしもやってみます!」


「ちょっと、フェリス!? 泳ぎの概念さえ知らなかったのに、そんな急に!」


 ジャネットは慌てて止めようとするが、間に合わない。


「わー!」


 フェリスはためらいもなく海にダイブした。

 水泳のことなどまったく知りもしないから、基本的に下を向いて泳ぐものだということも知らず、横向きで海面に『寝転がる』。


 結果として、溺れるわけで。


 浅瀬だったということと、アリシアが即座に引っ張り上げたということが幸いし、大事には至らなかったが、フェリスは激しく咳き込む。


「けほっ、けほっ! ううううっ、しょっぱいです! 海って水だと思ってたのに、違いました! これ、コンソメスープです! 海はコンソメスープです!」


「コンソメスープではないと思うけれど……大丈夫?」


 アリシアは気遣わしげにフェリスの背中をさすった。


「大丈夫ですっ! びっくりしましたけど!」


 意外と元気いっぱいなフェリスである。

 鼻や目はだいぶ痛いが、このくらいのアクシデントでへこたれてはいられない。なにせ、今日は海。ずっと楽しみで楽しみで、夢の中で何度も予行演習した待望の海なのだから。


 ジャネットが緊張した声で切り出す。


「あ、あの、フェリス? よろしければ、わたくしが泳ぎ方を教えてあげてもいいですけれど……べ、別に、嫌ならいいんですけど!」


「本当ですか!? お願いしますっ、ジャネット先生!」


「せ、先生? わたくしが、先生……?」


「はい! なんでも言う通りにしますから、いっぱい教えてください、ジャネット先生っ!」


 フェリスは真っ平らな胸の前で両手を握り締め、無邪気な笑顔でジャネットを見上げた。

 白い肌にきらきらと輝く水滴、濡れた髪、女の子らしい水着に包まれた控えめな体は、まさに海の天使そのもので。


「わたくし……将来の夢を変更しますわ……将来は教師になりますわ……」


「急にどうしたの!?」


 呆けたように呟くジャネットに、アリシアが心配した。


 ジャネットは武者震いする。ここまでフェリスに無条件で頼られた以上、恥ずかしいところは見せられない。しっかりとフェリスに水泳を教え込み、少なくとも世界を取れるぐらいの名選手に鍛え上げなければ、ラインツリッヒ一族の名が泣くというものだ。


「じゃあ、行きますわよ、フェリス! まずはわたくしの手を握るのですわ!」


「はいっ!」


 ジャネットの差し出した両手を、フェリスが握った。


(フェ、フェリスの小っちゃな手が! 赤ちゃんみたいに小っちゃな手が! 私の手を! 握り締めていますわ!!!!)


 ジャネットの意識はフェリスの手の平の感触で満たされてしまう。

 そのまま二人で世界の果てまで逃避行したくなってしまうレベルの多幸感だが、しかし、与えられた責務を放棄するわけにはいかない。

 ジャネットは心を鬼にして、なるべくフェリスの手の平のことを考えないように頑張る。


「こ、この状態で、海にうつ伏せになりなさい。わたくしが手を握っていますから、溺れる心配は要りませんわ。大切なのは、水を信じて体を委ねること。最初は怖いでしょうけれど、水にはちゃんと浮くための力がありますから……」


「はいっ!」


 フェリスは尻込みもせず海面にうつ伏せになった。変な力が入っていないから、体はちゃんと水に浮く。


「すごいですー! ふわふわですー! お空に浮かんでるみたいですー! これ気持ちいいですー!」


 初めての経験に感動するフェリス。


「怖くありませんの!? さっき溺れたばっかりですのに……」


「大丈夫です! ジャネットさんが手を握っていてくれれば、なにも怖くありませんから! わたし、ジャネットさんを信じてますから!」


「うっ……!」


 あまりに眩しいフェリスの目の輝き、その純真な姿に、ジャネットは立ちくらみを起こしてしまった。

 いっそフェリスを静かな場所へさらっていって膝枕などをしてあげたいレベルだが、そうもいかない。まだそれはダメだ。今はダメだ。


「そ、それじゃあ……、次はバタ足をしてみましょうか」


「バタ足……?」


 フェリスは目をしぱしぱと瞬いた。


 ジャネットはうなずく。


「ええ。そうやって水に浮いたまま、両脚を交互にバタバタさせるんですのよ。勢いがついて、前に進めますから」


「こ、こうでしょうか……?」


 フェリスは小さな足をバタバタと動かした。

 水しぶきが盛大に跳ね上げられ、海面が泡立つ。

 ジャネットはフェリスの手を引っ張りながら後退していく。


「わーい! やりました! わたし、泳げるようになりました! 泳げてますーっ!」


 バタ足くらいで大喜びしている(しかも進んでいるのは主にジャネットが引っ張っているから)フェリスに、ジャネットは胸がきゅううううんと締めつけられるのを感じる。凄まじい破壊力の攻撃の数々に、ジャネットの精神力はもうゼロである。


「ふふん、まだまだ! 次は手を動かす練習ですわ! ちょっとそこに立って、わたくしのお手本を見ていなさい! わたくしが華麗なクロールを見せてさしあげますわーっ!」


 意気揚々と両手を頭上に揃え、水中に飛び込む。


 フェリスにいいところを見せようと夢中になるばかり、ジャネットは忘れていたのだ。


 自分が、カナヅチであるということを。


「ジャネットさん!? ジャネットさああああああああああんっ!?」


 フェリスの悲鳴が響き渡るのを聞きながら、ジャネットは水面の向こうの太陽を綺麗だと感じた。


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「もう……あんな自信満々で溺れに行く人なんて、初めて見たわ」


「うう……言わないでくださいまし……」


 砂浜でアリシアから膝枕をされて呆れられつつ、ジャネットは伸びていた。


 どうして自分がライバルに膝枕などをされなければならないのか分からないが、むしろフェリスに膝枕をしてあげたくて仕方ないのだが、アリシアには自ら引き上げてもらったり介抱してもらったりしたばかりだから、あまり強くモノを言えない。


 それに、これは悔しいからあまり認めたくないことなのだけれど、アリシアの膝に頭を載せているのは、別に嫌ではなかった。


「昔のあなたならあんなバカなことはしなかったのに、よっぽどフェリスのことが好きなのね」


「当たり前ですわ! ぜっっっっんりょくで大好きですわ!! 文句がありまして!?」


「文句なんてないわ。私だって、フェリスのことが大好きだもの」


 微笑むアリシア。


 まるで共犯者のようなその笑顔を見ていると、ジャネットは胸の中がこそばゆい感じがしてしまい、急いで視線をそらした。


 波打ち際では、フェリスが大はしゃぎで水を蹴立てて駆け回り、スピードを出しすぎて転んだり、すぐに立ち上がってまた走り出したり、軽く飛び込んでバタ足をしたりしている。


 やがて、フェリスが頬を上気させ、興奮した様子でジャネットたちのところへと駆け寄ってきた。


「あのあのっ、今そこで小っちゃな子が面白そうな遊びをしてたのでっ、なにをしてるのかなって思って見てたら、遊び方を教えてくれたんですけど! 三人でやりませんか!?」


「なんの遊びかしら?」


「砂遊びとかゆうらしいです! 砂でお城を造ったり、塔を造ったりするんです! 材料はいくらでもありますし、いくらでもやり直せてすごいんです! わたしっ、みんなが住めるぐらいのおうちを建てたいですっ!」


「分かりましたわ! わたくしが建ててさしあげますわ!」


 拳を握り締め、情熱を燃やすジャネット。


「それはさすがに無理じゃないかしら……」


 現実主義者のアリシアは難色を示しつつも、フェリスやジャネットの後から波打ち際へと向かう。


 三人は地面から砂をせっせと掘り集め、近くの海水を使って固め、建物の土台を造っていく。


 フェリスはまるで犬が穴を掘るときのような勢いで、しゅばばばばばっと土を掘りまくる。


「フェリス……すごいスピードね。どこかの地下空洞にでも繋がってしまいそうだわ」


「えへへー、ずっと魔石鉱山で奴隷をやってましたから! 穴を掘ることだけは大得意ですっ!」


「さすがですわ! フェリスは穴掘りのプロフェッショナルですわ!」


 照れ笑いするフェリスをジャネットは抱き締めたくて仕方なくなってしまう。砂遊びすら初体験のフェリスに、必ずや砂の城をプレゼントしなければならないと心に決める。


 どんどん作業を進める三人のところへ、小さな女の子が走り寄ってきた。


「あー、さっきのおねえちゃん! 落とし穴作ってるのー?」


 フェリスは砂浜の穴に上半身を突っ込むようにして掘り進めながら答える。


「落とし穴ではないですよー! 大っきなおうちを作るんですー! 完成したら中でみんなでごはん食べるんですー!」


「へー、すごーい! うちもがんばるー!」


 小さな女の子は近くから両親を引っ張ってきて、家族で砂遊びを始めた。


「うちねー、あのおねえちゃんたちと同じくらい大っきい塔つくりたーい!」「あらあら、それは大変ねえ」「ふふ、任せておけ……私はこれでも建築技師だ!!」「パパかっこいー!」「ふふふ……!」


 父親が妙な張り切りを見せ、立派な尖塔を建造していく。


 その二チームの勢いに惹かれたのか、あちらこちらから海水浴客が集まり始め、砂と取っ組み合いを開始する。


「なんだなんだ、ここが砂遊びの特設会場かい!?」「あれ……そんなイベントあったっけ?」「まあいいや、乗っかろう!」「このビッグウェイブに乗らなきゃ海の男じゃないぜ!」「ふぉっふぉっふぉっ、九十歳にもなって砂遊びをするとは思わなんだ……昔取った杵柄、ちょいと見せてやろうじゃないかい!」


 あっという間に、周辺は砂遊びをする海水浴客たちでいっぱいになってしまった。


 ジャネットがたじろぐ。


「な、なんなんですの、この流れは……わたくしたちのプロジェクトに張り合うつもりですの!? だったら負けるわけにはいきませんわ!」


「そんなムキにならなくてもいいと思うわ!」


「みなさーん、砂はどんどん掘りますから、自由に使ってくださいねー!」


 フェリスは顔中を砂まみれにして地面の穴から身を起こした。


 ワイワイと賑やかな人々の中にいると、そしてそんな大勢で砂遊びをしていると、テンションが上がってしまう。

 一人で坑道を掘っていた魔石鉱山時代とは大違いで、とにかく楽しい。あの頃は自分の労働がつらいものだなんて思わなかったけれど、今は当時の何百倍もフェリスは浮き浮きした気分だった。


 そのときである。


 ずうううんと腹の底に響くような音と共に、地面が不気味な揺れを起こしたのは。


 直後、沖合の火山の噴火口から、一際激しい煙が噴き出した。


 真っ赤な岩が大空を舞い、海に、砂浜に降り注ぐ。


 噴火口から大量の溶岩が溢れ出し、海を濁しながら砂浜へと凄まじい速度で押し寄せてくる。


 悲鳴を上げて逃げ惑う人々。


 転ぶ子供、踏みつぶされまいと子供を拾い上げる親、とっさに立ち上がれずに焦る老人。


 一瞬にして、楽園は地獄に姿を変える。


 まだ海中にはたくさんの人間が残っており、避難できていない。誰もが必死で逃げようとしているが、溶岩はすぐそこまで迫っている。


「あ……あ……」


「フェリス!?」「早く逃げますわよ!?」


 呆然と立ち尽くすフェリスに、アリシアとジャネットが手を差し出した。


 だが、フェリスは二人の手を取らない。


 フェリスはなぜか、直感で理解していた。


 逃げても、助からないということに。


 あの、絶望と死の臭いを漂わせた火山が、すべてを呑み干さんとしていることに。


 大勢の海水浴客も、子供たちも、老人たちも、そしてフェリスの大事な大事な少女たちも。


 幸せな時間は握り潰され、消え去る。希望は絶望へと変貌する。


「そんなの……イヤですっ!!」


 フェリスは両手を頭上に掲げた。


 すぐ隣に燃える岩が墜落し、ジャネットが悲鳴を上げた。


 熱波が三人の肌を焼き、硫黄臭が鼻をつく。


 炎の雨が、なだれる溶岩の波が、砂浜へと襲いかかってくる。


「魔素さんっ、あの火山を止めてくださあああああああい!!」


 フェリスが叫ぶや。


 世界が、息を止めた。


 モノクロに固められた世界で、フェリスを中心にして轟々と魔力が渦巻き、巨大なうねりを造り上げていく。


 人々は逃げ惑いながら凝固し、動いているのは三人の少女のみ。


 荒れ狂う魔力の渦が、三人の髪を激しくはためかせ、その体を大地からもぎ取らんとする。


 壮絶な閃光と共に、魔力の竜巻が放たれ、世界に時間が戻った。


 迫り来る溶岩に魔力の渦が襲いかかり、押し返す。


 まるで波が返すように溶岩が沖へと戻っていき、噴火口に逆流させられる。


 火山の周囲に何重もの魔法陣が展開し、白光で山を染める。


 魔法陣と魔力の渦が消え去ったときには……火山は色を変え、漆黒の物言わぬ塊と化してしまっていた。


「あ、あれ……噴火、終わったのか……?」「おかしいな……近くに溶岩が降ってきてたのに……」「なにが起きたの……?」


 戸惑いのざわめきが、砂浜に広がっていく。


 誰も、フェリスが火山を鎮めたということに気付きもしていない。


「なんとか……なりました……」


 フェリスは全身から力が失せるのを感じ、ふらついて倒れそうになった。


「大丈夫!?」


 アリシアが即座にフェリスの体を抱き止める。


「はい……わたしは……。アリシアさんとジャネットさんは、怪我はありませんか……?」


「わたくしたちは平気ですわ! また……またフェリスに助けられちゃいましたわね……ありがとう……」


 ジャネットはフェリスをぎゅーっと抱き締めた。

 こんな小さな体で強大な魔術を行使して消耗してしまったフェリスのことが、愛しくてしょうがなかった。


「良かったです……」


 フェリスは安心したように微笑む。


「ちょっと部屋に行って休んだ方がいいですわね。あまり無理をすると、フェリスの体が心配ですわ」


「ええ、そうね。まだお昼だけど、別荘に行きましょう」


 それにしても、とアリシアは気遣わしげに付け加える。


「火山はこの辺りの地脈の魔力を使って封印されていたはずなのに、どうして急に暴れ始めたのかしら……?」

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