女王
「ん……ここは……?」
ジャネットは痛む頭に顔をしかめながら、目を開けた。
脚も痛い。折れているのか、筋を痛めたのか、立ち上がることさえ難しい。
どうやら、自分は廃城のようなところで、床に転がされているらしい。周囲には他にもたくさんの若者がおり、床にうずくまっている。
それら全員を取り囲むようにして、金属製の高い柵が張り巡らされていた。物理的な柵だけではなく、強固な魔法結界も張られているように見える。
「くかかかか、ようこそ、飼育小屋へ。お目覚めの気分はいかがかね?」
柵の外に立っている者が笑う。
ぼろぼろのフードで顔を覆い、長いローブを着ていて、性別も定かではない。
けれど、手に持っている杖は、かなり上位の魔術師でないと操れない強力な代物だ。
「あなたが、連続誘拐事件の犯人ですの!? こんなことをして、タダじゃ済みませんわよ! すぐに捜索隊がやって来て、あなたを捕まえますわ! 行き先は断頭台一択ですわ!」
「くかか、そうかいそうかい。早く来てほしいもんだねぇ」
フードの魔術師は焦りもしない。
(なんなんですの、この余裕は……)
ジャネットは嫌な予感がして、廃城に視線を巡らせた。
(……! これは……!)
じっくり目を凝らすと、見えてくる。分かりづらいよう隠されてはいるが、床や壁や天井のあちこちに描かれた、禍々しい魔法陣が。
あれはトラップ用の魔法陣だ。闇魔術、毒魔術、吸魔術など、たちの悪いものばかり揃っている。
きっと、捜索隊が飛び込んできたら即座にトラップの犠牲になり、殺されるか、捕らえられてしまうのだろう。
「な、なにが目的ですの!? わたくしたちをこんなところに閉じ込めて、なにをするつもりですの!?」
「ゲートを開くための素材を集めている……と言ったら分かるかな?」
「ゲート……?」
「分からないだろうなぁ! 分からないだろうから言ってあげたんだけどねぇ! ま、疑問を抱えたまま冥土に降るといいさ。お前らの命も、そろそろ回収し時だからねぇ!」
魔術師はケタケタと下品な笑い声を響かせる。柵の中にいる若者たちが、怯えたように身を縮める。
「さて……まずはお前。イキが良さそうだし、魔力もたっぷり持っているみたいだから、死んでもらおうか?」
「ひっ……」
魔術師から杖を向けられ、ジャネットは悲鳴を漏らした。そんな自分が情けない。情けないけれど、手が震えるのが止まらない。拳を固めても抑えられない。
魔術師の杖の先に魔法陣が展開され、闇色の瘴気が広がった。闇は蛇の形になり、ジャネットに襲いかかってこようとする。
(いや……! まだ、死にたくないっ……!)
ジャネットが目をつぶった、そのときだった。
「そ、そんなことはさせませんっ!」
聞き慣れた、可愛らしい、でも勇ましい声が廃城に響き渡ったのは。
「…………?」
ジャネットは恐る恐る目を開く。
廃城の入り口のすぐ外に、小さな少女が立っていた。
はあはあと息を荒げ、ちんまりとゲンコツを固めて。
あまりにも弱々しい姿だが、その瞳は魔術師を敢然と見据えている。
「フェ、フェリス……?」
ジャネットは間の抜けた声を出してしまった。
彼女が来るなんて、予想外すぎたのだ。なぜ。どうして。どういう理由があって、フェリスが自分を……? 理解できない。分からない。
魔術師が嗤った。
「おんやおや、こいつぁ可愛いお客サンだ。お友達を助けに来たのかナァ? 相手をしてあげるから、みんなを殺されたくなけりゃ、こっちにおいでぇ」
「の、望むところですっ!」
「だめっ、フェリス! 来ちゃだめえっ!」
ジャネットの叫びも虚しく。
フェリスはためらいもせず、トラップだらけの廃城へと飛び込んできた。
にたりと笑う魔術師。
四方八方のトラップ型魔法陣が紅蓮に明滅し、闇色の瘴気が滝となってフェリスに叩きつける。
瘴気が触れた床が溶け、蒸発し、堪えがたいまでの臭気が満ちる。
「そんな……フェリス……」
ジャネットは全身の力が抜けていくのを感じた。
ちゃんと立っていられない。頭が真っ白になって、目がかすむ。
そしてようやく、ジャネットは自分がいかにフェリスに愛着を持っていたのかを自覚した。
ほとんどまともに話すことさえできなかったけれど、フェリスが編入してきてからというもの、ジャネットの頭はフェリスでいっぱいだったのだ。
もっときちんとおしゃべりをして、笑い合って、頭を撫でたり抱き締めたりしたいと願っていたのだ。
だけど、その願いはもう叶わない。一度失ったチャンスは、命は、二度と戻ってこない。
ジャネットは床に手を突いて、身を震わせた。
魔術師はジャネットを嘲笑うかのようにさえずる。
「さぁて、どんなグチャグチャの死体ができあがったかねぇ! くかかか、楽しみだなァ!」
闇色の瘴気の雲が晴れ、そこにあったのは……。
死体、などではなかった。
フェリスが、生きたままのフェリスが、傷一つ負うことなく立っていたのだ。
「え、えっと……なにが起きたんですか……? よく分からないんですけど……」
なんて、間の抜けた感想まで漏らしている。
あれだけの恐ろしい攻撃を受けたのに、無傷。
攻撃を受けたことすら、気付いていない。
ジャネットは開いた口が塞がらなかった。
それは魔術師も同じようで、しかし、フェリスがこっちに向かってくるのを見て、慌てて杖を構える。
「えいやああああああああああああ!」
フェリスは一人でときの声を上げながら、たたたーっと突進してきた。
なんのためのかけ声かは不明。
体育の授業でかけっこをしているかのような、ほのぼのとした姿。
けれど、そこがさらにフェリスの異様さを際立たせていて、ジャネットまでごくりと唾を呑んでしまう。
魔術師が早口で言霊を唱える。
「咆哮する業火よ、地獄の灼熱よ、かの者の体を焼き尽くし、滅ぼし絶やせ……ゲヘナバースト!!」
杖から巨大な紅蓮が噴き出し、燃え盛る大岩となってフェリスに降り注いだ。
轟々とたぎる炎、白熱して痙攣する空気。
やはり、この魔術師はただ者ではない。単騎で都市を壊滅させることすらたやすいという、災害級の魔術師である。
だが、そのような炎の中にあって、フェリスは。
熱に悲鳴をあげることもなく、表情も変えず、業火の中を駆け抜けてきた。
魔術師は焦る。次々と言霊を唱え、数多の魔術をぶっ放す。
雹の嵐、毒の豪雨、怨霊の襲撃。
あらゆる魔術になんの影響も与えられることなく、フェリスはひたすら魔術師に向かって走ってくる。
凄まじい魔術の数々に、もはや廃城の方が砕け、揺れ動き、今にも崩壊しそうになっているというのに、フェリスは火傷すらしていない。
「お、おまえはなんなんだ! おまえはなんなんだあああああっ!?」
震え上がって叫ぶ魔術師。
口から泡を吹き散らし、膝はみっともなくガタガタ痙攣している。
そんな魔術師に対して、フェリスが手の平を構え、言った。
ジャネットが聞いたこともない、不可解な言霊……いや、単なる命令を。
「『魔素さん! あの悪い人を、吹き飛ばしちゃってくださああいっ!』」
空中に光り輝く巨大な腕が現れ、山のような拳を魔術師に叩きつけた。
歯が砕けて飛び散り、魔術師の体が宙を舞った。
ベキバキボキッと骨が砕ける音を響かせ、絶叫を鳴り渡らせながら、魔術師が吹き飛ぶ。
廃城の壁をぶち破り、遙か彼方へと飛び去っていく。
フェリスは走る勢いを弱めることなく、そのまま柵のところまでやってくるや、魔法結界にゲンコツを繰り出した。
少女の軽い一撃で魔法結界が砕け散る。
「『魔素さん! 柵を壊して!』」
フェリスが命じると、手の平から闇色の大鎌が伸び、高速回転しながら金属の柵を切り裂いた。
囚われの若者たちは、歓声を上げて廃城から逃げ出していく。
既に天井からは瓦礫が降り注いでおり、城全体が崩れ落ちるのは時間の問題だった。
「さあっ! ジャネットさんも行きましょう!」
「え、ええ!」
フェリスに促され、ジャネットは立ち上がろうとする。が、すぐに脚に鋭い痛みを覚えてうずくまった。
「どうしたんですか!?」
「だ、だめ……脚が動かない……さらわれたとき、怪我しちゃったみたい……」
見下ろせば、脚は腫れ上がり、タイツは鮮血で染まっている。
「わたしに掴まってください!」
フェリスはジャネットに肩を貸して、懸命に引きずっていこうとする。しかし、その非力な身体ではジャネットの重みを支えるだけでも難しい。
「ひゃああっ!?」
すぐ近くに大きな瓦礫が墜落してきて、フェリスが悲鳴を上げた。
あんなものをまともに喰らったら、フェリスの体などひとたまりもない。このままではフェリスまで死んでしまう。
そんなの、ジャネットは絶対に嫌だった。なぜかは分からないけど助けに来てくれた、優しくて可愛いフェリスが、自分のせいで傷つくところなんて、見たくない。
ジャネットは震える声で言った。
「も、もう、いいわ……わたくしのことは放っておいて。あなただけでも逃げてくださいまし……」
「だめです! ジャネットさんを連れて帰らないと意味がありません!」
フェリスは頑として言い張り、うんうんうなりながらジャネットを引きずっていこうとする。
「どうしてですの!? わたくしなんて、あなたに助けてもらう資格なんてないのに!」
「資格……?」
「そ、そうですわよ! 最初に会ったときからひどいことばかりして、ひどいことばかり言って、あなたにつらい思いばかりさせたのに! どうして、どうしてここまでしてくれますの!?」
「だって……わたし、ジャネットさんのこと大好きですから!」
フェリスは太陽のような笑顔を広げた。
「好き……? わたくし、を……?」
ジャネットはフェリスの言っていることが分からない。同じ言語を話しているのかと不思議になる。
「はい! ずっと、ジャネットさんとお友達になりたい、仲良くおしゃべりしたい、一緒にお買い物とかしたいって、思ってましたから!」
「フェ、フェリス……」
ジャネットは頬がカーッと熱くなるのを感じた。
嬉しい。とてつもなく嬉しい。こんな状況で、死にそうなのに、胸が別の意味でドキドキして止まらない。
「あ、あの、勝手なことを言ってごめんなさい……。もちろん、ジャネットさんがわたしのこと嫌いだっていうことは、分かってるんですけど……」
フェリスが悲しそうな顔をした。まるで、見捨てられそうな子犬のような、心細い表情。それを見てしまったジャネットは。
「そんなことありませんわ! 大好きですわ!」
「ふえっ……?」
「あ……わわわわわたくしはなにを……」
言ってしまってから、ジャネットは恥ずかしくてたまらなくなった。
物の勢いとはいえ、大胆すぎる。こんな素直な言葉、普段の自分なら決して言えやしない。
フェリスに引かれてしまうかと怖くなるが。
「はぁぁぁぁ……良かったですぅ……」
フェリスは心から安堵したような表情で、ささやいた。
その小さな唇が、火照った頬が、どうしようもなく愛くるしくて。
ジャネットは思わず、心のままを口にしてしまう。
「こ、こうなったら、死ぬわけにはいきませんわ! なにがなんでもここを抜け出して、一緒にお買い物に行かないと!」
「はいっ!」
うなずくフェリスに支えてもらいながら、懸命に力を振り絞って立ち上がる。
「ランチも一緒に食べないと!」
「はいっ!」
激しい脚の痛みに堪えながら、自らの体を引きずる。
「もちろん、お風呂も一緒ですわよ! 素敵な露天風呂を知ってるんですからっ!」
「はいっっ!!」
フェリスと共に楽しむ日々のため、未来のため、ジャネットは死力を尽くして廃城から脱出した。
その背後で、廃城が大音声を上げて崩れ落ちる。
「ふえええええ……怖かったですううう……」
あんなにも活躍していたフェリスが、ぺたんと地面に座り込んだ。
ジャネットは呆れ、痛いのも忘れて笑う。
「もう、なんでですの? あなたは英雄ですのに」
「だってぇ……だってぇ……」
えぐえぐと涙ぐむフェリス。
その姿が破壊的に可愛らしくて、ジャネットはフェリスに飛びついてしまう。
「もうっ! もうもうもうっ! なんて可愛いんですのっ! フェリスは! 可愛い可愛い可愛いっ! すっっっごく可愛いですわああっ!」
「ちょっ、ジャ、ジャネットさんっ!?」
「ほっぺもすべすべで、ミルクみたいな甘い匂いがして……んーっ、すりすり! すりすりすりすりーっ!」
「痛いですっ! あんまり摩擦しすぎると火が出ちゃいますううっ!」
「逃げても無駄ですわっ! もう逃がしませんわーっ!」
せきを切ったように、フェリスに頬ずりをしまくるジャネット。
そこへ、遠くから杖を握ったアリシアが走ってくる。
「フェリス……!? 大丈夫……って、なにがあったの!? そしてジャネットさんはどうしちゃったの!?」
「ア、アリシアさあんっ! 助けてくださああいっ!」
ジャネットの羽交い締め頬ずり地獄に殺されそうになりながら、フェリスは情けない悲鳴を響かせた。