「最低限の夫婦としての義理は果たす。だが、それ以上は私に期待するな」結婚から一週間経過するごとにおめでとうパーティを開いてくる男
「……あの、これは一体、何でしょうか」
目の前の光景を見て、おずおずとレイラは問い掛けた。
ついさっき、と彼女はここまでの自分の行動を思い出している。執事に「旦那様から『これから時間はあるか』と」と訊ねられた。レイラは時計と、それから目の前の仕事の量とを見比べて、ペンを置いた。執事のにっこり笑う顔に連れられるがまま、今や自宅となった侯爵邸の食堂へと向かった。
扉を開けた。
そうしたら、まるでパーティ会場だった。
机の上には、これでもかというくらいのご馳走が並んでいる。その横にあるワインも、これでも侯爵夫人になった身だから、見ただけでわかる。相当の高級品だ。
それに、食堂もいつもの様子とは違っている。調度品は輝かんばかりに磨かれて、普段はしないような飾りつけだってされている。新品の蝋燭がゆらゆらと揺らめく有様なんてもう、外の星灯りよりもずっと優雅に見えるくらいだ。
椅子が引かれる。
さあ、とその椅子を引いた人は、余裕たっぷりの動作でレイラをその席へと促す。
だから、彼女は訊いた。
一体何なんでしょうか。
「何って」
問われた人は、何でもない様子でこう答える。
「結婚から一週間記念のパーティだが」
◇ ◇ ◇
「最低限の夫婦としての義理は果たす。だが、それ以上は私に期待するな」
結婚式の当日に告げられたその言葉に、レイラは一種の納得を覚えていた。
ああ、そうなるだろうな、と。
対面に向かい合っていたのは、これから自分が結婚する相手――ヴァイゼル・オードランドだ。
社交界でも随一と称される冷たい美貌の持ち主は、凛と背筋を伸ばして、レイラの隣に立っていた。
目の前には、式場へと続く扉がある。
後はただ、呼び込まれるのを待つだけ。扉の向こうから喧騒も聞こえてきて、けれど不思議なくらいにはっきりと、その言葉はレイラの耳に響いた。
言われるまでもないことだ、と思った。
レイラは伯爵家の娘だ。それも、この王国の内政に関わる一族である。一方でヴァイゼルは王国内に大領地を持つ侯爵家の当主。二人の婚姻は国内の政治的なバランスを保つためのものであり、決して、巷の恋物語に描かれるようなロマンティックなものではない。
わかっているから、否やはない。
「はい。弁えております」
平然として、レイラは答えた。
ヴァイゼルの肩が少し揺れる。彼がふとこちらを向いたように思えて、レイラもまた、顔を傾けようとする。
それよりも早く扉が開く。
だから二人は、もうそれ以上はお互いに取り合うことをしない。
表情を作る。
超然とした、いかにも貴族らしい華やかさで、式場に歩み入る。
まさかこのときは、たった一週間後に『結婚記念パーティ』が行われるだなんて、レイラは夢にも思っていなかったのだ。
◇ ◇ ◇
「……ねえ、クロックジャック」
「はい。書類に不備がございましたか?」
「そうではないのだけど」
結婚から一週間後の、さらにその翌日。
レイラは気もそぞろで、侯爵夫人としての自らの仕事に向き合っていた。
割り当てられた執務室は広く、日当たりも良い。
春先になればそれはもう格別のもので、今日もまた、日の匂いも満ちて、ぽかぽかとした暖かい陽気に包まれていた。
ペン先が踊るのは、侯爵家の運営に関する書類の一つだ。
領地の運営については、当主のヴァイゼルが主に行うものである。が、レイラもまた侯爵夫人として、いくつかの事務を所管していた。たとえば、
「あ、いいえ。書類にも不備がありました。昨日のパーティに関する出費の報告が抜けていますね」
こういう風に、邸宅の台所を管理する業務であるとか。
しかし、執事はそれを不備とは認めなかった。
「そちらはヴァイゼル様のお財布からの出費となっております」
「……それは、侯爵家とは分離した、個人的な資産からの支出だということ?」
「ええ。もちろんわたくしとしては、レイラ様がヴァイゼル様の個人資産の変動状況まで把握されたいということでしたら、お止めする理由はありませんが」
今から書斎にご案内いたしましょうか、と執事は言った。
そこまで知りたいなら本人に訊ねてくれということだろう。まっとうな要求ではある、とレイラは思った。勝手に主の懐事情を共有するのは、執事の職務権限を超えている。本当に知りたいのであれば、自らヴァイゼルに訊ねるのが妥当な事務処理の手順だ。
本当に知りたいのだろうか。
頭の中で、レイラは状況を整理する。
これから自分は、大過なければこの侯爵家で一生暮らしていくことになるだろう。波風は立てたくない。結婚したばかりで夫の個人資産の状況を把握しようとするのも、確かに実務上は合理性のある行動ではあるが、印象としてはどうか。
思考をまとめて、
「いいえ。管轄外の出費であるということが確認できれば、それで結構です」
「さようでございますか」
「ええ。それから、今回の婚姻に伴って使用人の増員があったようだけれど、こちらについて何点か――」
深く追及するほどのことでもないだろうと、そう思った。
今この時期に、目くじらを立てるほどのものではない。優先して自分が向き合うべき仕事は、他にいくつもある。
まだ来たばかりで勝手に慣れない侯爵家の事務に没頭しながら、レイラは頭の中で、「だって」と一つの理由を付ける。
だって。
結婚記念のパーティなんて、そんなに何度もするものでもないのだし。
◇ ◇ ◇
「……何ですか、これは」
「見ての通り、結婚二週間記念のパーティだ」
と、
「……これは?」
「当然、結婚三週間記念のパーティだ」
思って、
「……四週間記念?」
「ああ。そのとおりだ」
いたのに。
◇ ◇ ◇
「申し訳ありません。今日は何ですか? 四週間記念はつい先日に行ったかと思いますが」
「一ヶ月記念だが」
四週間と一ヶ月の記念日を別でカウントし、それぞれ祝ってくる人間がこの世にはいる。
自分の夫だった。
もう五回目ともなると、レイラも慣れたものだった。この記念パーティは何から何までヴァイゼルが準備を整えている。引かれた椅子に素直に座ればいいし、運ばれてきた料理を順に摂ればいい。されるがままだ。
しかし『五回目』という数字には、かなり新鮮な居心地の悪さを感じる。
多すぎる。
「それで、どうだ。最近、この家での生活は」
「……ええ。相変わらず、ようやく暮らしに慣れてきたところで」
これだけの数のパーティが開かれている理由が、よくわからない。
別に、ヴァイゼル侯爵は派手好きな性格というわけではないはずだ。むしろ彼が当主になってからの財政周りの好調ぶりから普段の生活を見てみれば、比較的質素な男とすら言える。パーティを開くことそれ自体が目的とは思えない。
かといって、たとえば彼がこうしてパーティを開くことに――つまりは、自分で言うのも気恥ずかしいものがあるけれど――自分とこうして楽しくお話をすることに味を占めているのかといえば、
「そうか。何か困ったことがあれば、どんな些細なことでも言うといい」
「はい。その際はぜひ」
「ああ」
「…………」
「…………」
後はただ、カトラリーの音が響くばかり。
少なくも、味を占められるほどに会話が弾んでいるとは言い難い。
別に、嫌な相手だというわけではないのだ。
それほど互いの相性が良いとも思わないが、悪いというわけでもないだろう。少なくともこうして侯爵邸に住まうようになってから、レイラは特段のトラブルに見舞われたことがない。それぞれがそれぞれの仕事を着実にこなし、不測の事態さえなければこの生活が向こう何十年と続くはずだと、ぼんやりながらそう感じている。
「あの、」
「何だ?」
だからこそ、不可解な部分を早めに解明することにも意義はあるだろう。
意を決して、レイラは訊ねてみることにした。
「ヴァイゼル様は、なぜこういったパーティを開かれるのですか」
「……? 夫婦とは、こういうものではないのか」
すると、ヴァイゼルは何食わぬ顔をして、そんなことを言う。
違うのでは、とレイラはすかさず返そうとした。
その言葉が、喉の少し奥で止まる。
「そう、なんでしょうか」
よく考えると、と彼女は思ったのだ。
「一週間刻みで、というのはあまり聞かないように思います。……私も、一般的な夫婦生活に詳しいわけではありませんが」
人の家庭がどう運営されているかなんて、知る機会はめったにない。
自分が育った環境も、あまり一般的だったとは言えない。
だというなら、どうして自信満々に「それは普通ではありません」と言えるだろう。
「ふむ」
ヴァイゼルは、指摘に気を悪くした風でもなく、食事の手を止めた。
顎に手を当てる。こちらの額のあたりを見つめながら、考え込むようにして、
「そういうものか。わかった。私の方でも、もう少し『一般的な夫婦生活』とやらを調べてみるとしよう」
ごく冷静な口調で言って、頷いた。
おかげでレイラは来週、結婚五週間記念パーティに招かれることはなくなる。
代わりに二日後、『初対面から二年が経ちました』記念パーティに呼ばれた。
◇ ◇ ◇
「……何なの、これは」
「おおっと。失礼しました、急いでお片付けいたしますね」
結局、昨日は何も言えなかった。
『初対面から二年が経ちました』パーティの翌日、そういう思いを抱えてレイラは起床した。
すでにベッドにヴァイゼルの姿はなかった。なくてよかった、と少しだけ思う。いたところで、また「何をどこまで訊いたらいいものか」と内心で悶々とする時間が増えただけだろう。彼が忙しくしていることは少し気がかりだけれど、その気がかりは自分の仕事をきっちりとこなすことで解消すればいい。
そう思って、着替えを終えてから執務室に向かう。
仕事の途中で、ふと自分の知識の中に曖昧な部分を見つけ、それを確かめるためにと邸宅内の図書室へと足を運んだ。
そうしたら、机の上に溢れんばかりに本が積まれていた。
そのタイトルの例を挙げると、こう。
『冷血公爵は私だけを愛している』
『二人の呪いが解けてから ―乙女は王子の夢を見る After Episode―』
『紅茶に砂糖はいっぱいに。~孤独な王と鈍感令嬢の四十日~』
「何なの……」
愕然として、もう一度呟いてしまう。
執事はするりとレイラの後ろから抜け出ると、てきぱきとそれらの本を重ねていった。
「今、この国で流行している恋愛小説ですね」
その傍ら、レイラの質問にも律儀に答えてくれる。
けれどもちろん、本当に訊きたいのはその本が何であるかということではない。
「ここの図書室には、そういうものも置いてあるの?」
「そうですね。社交の場で使うこともありますから。多少は小説を置いておりますよ。こんなことは私が申し上げることでもありませんが、当然レイラ様も図書室はご自由にお使いいただけますので、いつでもお手に取ってご覧ください」
こちらです、と執事が小説の棚へと案内してくれる。
実際、それなりのものが揃っていた。古典小説から、先月の結婚式の際に話題に上がったような最新のものまで。
しかし、どう見ても――
「……今あなたが戻している書籍は、蔵書から浮いていると思うのだけど」
「最近ご購入されたものですからね」
それは理由になっているのか。
しかし、それ以上執事は特に語るつもりはないらしかった。ということは、とレイラはすぐに考えを巡らせる。執事が答えられない、何か特殊な事情がある。恐らくはヴァイゼルに関係するもの。棚に戻されないまま図書室の机に放置されていたのは、おそらくその読み手が何度も取り出したり戻したりの手間をかけることを惜しんだから。
図書室のこの場所で黙々とこれらの小説に向かうヴァイゼルの背中が、瞼の裏に思い浮かぶ。
レイラは訊ねた。
「その小説は、私が読んでも構わないの?」
執事は振り返ると、にっこり笑ってこう答えた。
「もちろんです」
◇ ◇ ◇
険悪だったとは言わないが、愛に満ち溢れた家庭だったとも言えない。
レイラが育った伯爵家は、貴族の家としてまとまりながら、しかしある意味では他人の集まりのようでもあった。
レイラの両親は、彼女が幼い頃に離縁した。
母には信仰心があり、一方で父は特に重責を担う役職に就き、家庭を顧みることがなかった。単純に言ってしまえば、それがレイラの母を離縁と聖職者への道に導いたのだろうが、長じてからはレイラにももう少し複雑な事情が見えてくる。自分が生まれたがために、父と母の間に結ばれた政略的結婚契約の多くの目的が達成されたことであるとか、あるいは『二回目』の政略結婚がもたらすメリットのことだとか。
父との再婚によって出会った義母と義妹とは、大した思い出を持たない。
義母は、レイラと無理に家族になろうとしたわけではなかった。母というよりも、家庭教師の方が印象としては近い。心優しく聡明で、多くのことを教えてくれたが、どこか人との距離を遠くに置くきらいがあって、おそらくそうした部分を父は好んだ。相変わらず、滅多に家には戻らなかったからだ。
義妹とは、むしろごく普通の姉妹関係にあったのではないかと思う。初めの頃こそよく連れ立って歩きはしたけれど、母方の家が違えば、付き合う相手も違う。自然と距離は空いてゆき、残ったのは多少の気安さだけだ。
レイラにとっては、これが『普通』の家庭だった。
だから結婚記念のパーティをどのくらいの頻度でするのが『普通』なのかなんて、全くわからない。自信を持って「これはおかしい」だなんて言えることは、ほとんどない。
けれど、ベッドの上で夜更け。
図書室から借りてきた恋愛小説を月明りに翳して、レイラは一人、呟かずにはいられなかった。
「これを参考にするのは、絶対に違う……!」
◇ ◇ ◇
ふう、と廊下で息を吐きながら、レイラは顔をぱたぱたと手で煽いで歩く。
ヴァイゼルの執務室に向かっていた。
鏡を見て何度も確かめたけれど、顔がまだ赤くなっていないかがいまだに不安だった。とんでもないものが巷では流行っているものだ。友人たちもこういうものを読みはしないから、本当に全く知らなかった。――いや、本当は読んでいるのに、「どうせレイラはこういうのは好まないだろうから」と気を遣って話題に出さずにいてくれたのか?
だとするなら、良い友人を持った。
いくら話題にするためとはいえ――あんな、あんな見ているだけで恥ずかしくなるような本なんて!
「ヴァイゼル様、いらっしゃいますか?」
まだ耳が熱を持っている気がする。
だから、そうしてノックした先から返答がなかったことに、レイラは少しだけ安堵した。
踵を返す。
執務室にいないなら、今度は書斎だ。
手には夜っぴて読みふけった小説が握られている。すでにレイラの中では段取りはばっちりだ。この本をヴァイゼルの鼻先に突き付ける。それから言う。お言葉ですが、こうしたものは読者の願望を満たすために意図的に誇張された表現が多用されており、現実に適用するのにはいささか問題が――
書斎の扉が開いている。
まさか中で倒れでもしているのかと思って、慌てて踏み入った。
幸いにして、その心配は無用のものに終わった。人が倒れたりはしていない。机の上には読み止しの本が開いたままで置いてあって、少しだけ椅子が引けている。窓が開いてカーテンが揺れているのまで見れば、恐らくは何か、ちょっとした用事で席を外しただけだろう。
そうなると、勝手に入ってしまったのはまずかった。
努めて早足で、レイラは部屋を後にしようとする。
だから、気が付いた。
「これ……」
部屋の入り口の脇に、カレンダーがあった。
特にどうということもないものだ。シンプルな白色に、平日が黒い字で、休日が赤い字で整然と並べられているだけ。紙こそ上質なものが使われているようだが、これと大して見目が変わらないものなど、街のどこに行っても買うことができるだろう。
しかしそれは、全く他のものと異なる一つの特徴を備えてもいる。
いくつもの書き込みがされていた。
少し目線を上げながら、レイラはそれに近付く。目で読み取る。見覚えのある文字で、たとえばこんな言葉が書かれている。
二つ目の婚約指輪を渡してから一年。
初めて二人きりで食事をしてから五百日。
結婚式から六週間。
数え切れないくらいだった。
ほとんど全ての日付が埋まろうかというほどで、何なら、同じ日付に二つ以上の書き込みがされていることもある。その一つ一つを見つめながら、レイラははっきりと、その見覚えのある字が誰のものなのかを確かめる。
ヴァイゼルの、
「何か用か?」
「――っ!」
後ろから、急に声がした。
レイラは飛び上がらんばかりに驚いたけれど、もちろん本当に飛び上がったりはしない。貴族令嬢として磨いてきた気品というものがあるのだ。短く深呼吸をして、平静を取り繕って、それから彼に向き合う。
「ヴァイゼル様。失礼しました、勝手に書斎に立ち入ってしまい」
「気にするな。ここは君の家でもある。鍵がかかっていないなら、私室であっても自由に立ち入ってもらって構わない」
許しの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
撫で下ろすと、その前の質問に答える義務が生まれる。
何か用か。
もちろん用だ。段取りはできている。後はただ、どういうわけか咄嗟に後ろ手に隠してしまった恋愛小説を、目の前の彼の鼻先に突き付けるだけ。
「今夜、」
なのに、
「お時間はありますか?」
そんな風に訊ねてかけてしまったのはきっと、カレンダーに向き合う彼の姿が、その丁寧な字から想像できてしまったからなのだと思う。
◇ ◇ ◇
「まさか君の方からパーティに招待してもらえるとはな」
カレンダーを参考にして、名目は『七度目のデートから一周年記念』。
優雅に肉料理を口に運びながら、ヴァイゼルは言った。
それほどレイラは、パーティの準備が苦手ではない。相手のことを考えて適切に食事や装飾を選ぶのは、一種のパズルに似ていて楽しいとすら思う。だからこの咄嗟に催したパーティも、いつもの屋敷の仕事をこなしてからでも十分に余裕を持って整えることができた。
どちらかと言えば、準備するよりも実際にその場に出席することの方が苦手なのだけど。
どういうわけか、今は不思議と――
「そういえば、君の言う通りだったな」
「何がでしょう」
「記念日を祝うサイクルが細かすぎるということだ。ああいうものは年単位で祝うことが多いらしいな。私も少し調べてみた」
「……恋愛小説で、ですか?」
訊ねると、驚いたようにヴァイゼルはレイラを見た。
「知っていたのか?」
「図書室に本があるのを見つけまして、もしかしたらと。……お伺いしてもよろしいですか?」
「構わない」
「なぜ、恋愛小説を参考に夫婦生活をお学びに?」
レイラの頭の中には、当然あの日の言葉があった。
最低限の夫婦としての義理は果たす。だが、それ以上は私に期待するな。……少なくとも、図書室に積み重ねられていた小説群は、そうした『最低限』の参考には適していないように思えるけれど。
「ふむ」
ヴァイゼルが、ワイングラスを持つ。
ゆうらりとその中身が波立てば、彼はぽつりと、思い返すように言った。
「知っての通り、前侯爵――我が父は早逝だった」
「……ええ。馬車の事故でと聞き及んでおります」
「侯爵代理として後を継いだ母も、辣腕と名が通ってこそいるが、仕事一辺倒の人でな。幼い頃はこれほど頼りになる人もいないと思ったものだが、今となっては『折角できた義娘に嫌われたら怖いから』と、ろくにこの邸宅に寄り付きもしなくなった」
えっ、と思わず声が出た。
「そうだったのですか? てっきり私は、静養のために別荘地にいらっしゃるのだと」
「それも間違いではないが、『姑としてボロが出ないようにしたい』というのも同じく本心だろう。私の不器用は母譲りだからな。気持ちはわかる」
ヴァイゼルは、薄く笑った。
「つまりは、単なる見様見真似だ。学ぶ機会がなかったから――というのは、こうして夫婦になった以上、言い訳に過ぎないが。もし君の目から見て、私の夫としての行動に目に余るものがあったなら、指摘してくれ。一生を共にする相手だからな。歩み寄ることのできる限りは、私も歩み寄りたいと考えている」
真っ直ぐに胸に響くような、真摯な声色だった。
はい、とレイラは短く返事をする。ワイングラスを手に取って、少しだけ、考えと思いを整理するための時間を稼ぐ。
結局は、と思った。
似た者同士が慣れないことをしようとして、右往左往していただけなのか、と。
ワインが舌に触れる。果実の香りがぱっと広がって、それと同時に、ふと心が軽くなったような気持ちになる。そうして、彼女は気が付く。
この家に来てから、自分がずっと緊張していたこと。
あるいは、この家に来るずっと前から、と。
「……ヴァイゼル様、もう一つよろしいですか」
加えて、もう一つ気が付いた。
なんだ、とヴァイゼルはやわらかい声で答える。
だからつい、レイラの口も軽くなる。
「ヴァイゼル様は、『最低限の夫婦としての義理』とは何だと思いますか?」
結婚式の前に、彼が告げた言葉。
掘り返せば、ひょっとすると記憶に留めてもいなかったのだろうか。彼は少し目を丸くする。
「それは――」
しかし、迷いなく答えた。
「『互いを安心させる存在であろうと努めること』だろう。
……まさか、これも的外れか?」
面白いことに、少し自信なさげな様子で。
ふ、と思わず笑みが零れた。
ヴァイゼルが片眉を上げる。
「なんだ、君。言いたいことがあるならはっきり言え」
「い、いえ。……ふふっ、いえ。何でもありません」
「……まさかこの程度の酒量で酔ったのか? なら、ついでにこちらも言わせてもらおう。前から思っていたのだが、君はずっと私を敬称付きで呼ぶな。どうしてもそうしたいと言うなら別だが、こちらとしては『様』付けなどいつ外してもらっても構わないぞ」
はい、と大して考えもしないでレイラは頷く。
ここまで来たら、もう一歩踏み込んで確かめておきたいことがあったから。
「ヴァイゼル様」
「……なんだ」
「それ以上を私は、どう期待すればよかったのでしょう」
やっぱりその言葉は、頭の中のすぐに取り出せる位置には記憶していなかったらしい。
ヴァイゼルは怪訝そうに眉を寄せる。その間、レイラの唇は二度ほどワインに触れる。
ああ、と彼は頷いて、
「あれはその前の君の御父上との会話を受けてのことだ。いくらこうして君と婚姻を結んだとはいえ、侯爵家の利害を度外視してまで貴家との過剰な政治的協調を行うことはできないと――いや、待て」
まさか、とようやく思い当たったらしい。
思い当たった頃には、もう的外れになっているというのに。
いや違う、と始まる。まさか、と続いて、違う、と戻る。まずは謝らせてもらう、申し訳ない。そうしたつもりで言ったわけではなかったのだが、いやこんなものは言い訳だな。とにかく、私としては――
身を乗り出すようにして、ヴァイゼルがレイラに言い立てる。
レイラはもう一度ワイングラスを手に取る。そうして彼が自分に渡してくれる言葉の一つ一つに、呟くようにして答える。
「そうですか」
こんなに笑ったのは、と記憶を探ってみようとする。
でも、何かと比べるのがもったいなく思えて、すぐにやめてしまった。
◇ ◇ ◇
肝心なことを言い忘れた。
ということに朝、レイラは起きて、机の上に置きっぱなしになっている恋愛小説を見て気が付いた。
記念日を祝いすぎているという話をするのを忘れていた。
こういう……誇張と幻想に満ちた恋愛小説を参考にするのもやめましょうと、相談するのも忘れていた。
起床時刻は意外に早い。まだヴァイゼルも執務に入る前だろう。今の時間なら、食堂か、あるいは時折二人で使う夫婦共用の談話室か。
身支度を整える。
小説を片手に、早足で進む。
食堂にはいなかった。なら談話室と扉を開けると、幸いなことに、机の上に飲み干したばかりのティーカップを見つけた。ついでにその横には、一体いつ購入したというのか、あのとき図書室では見つけられなかった新作らしき恋愛小説が置かれている。
それほど時間を空けずにこの場所に戻ってくるはずだ、と。
思うから、レイラはソファに腰を下ろして、ヴァイゼルを待つことにした。
しかし、ただ待つだけというのも退屈なものだ。普段、昼間はテキパキと仕事をしているからこそ、余計にそう思う。針の音を聞けば時計に目をやり、鳥の声を聞けば窓の外に目をやる。
足音が聞こえた気がすれば、振り返るようにして扉の方に目をやる。
すると、カレンダーが目に入った。
立ち上がる。
前に見たものと似ていた。というより、前に見たものと同じだった。ヴァイゼルの書斎に置かれていたカレンダーが、場所を変えて談話室に置かれている。
もちろん、一夜明けたくらいで様変わりなどしていない。
相変わらずそこにあるのは、シンプルなデザインと、それに見合わない細かく丁寧な書き込みのみ。
けれど、レイラは思った。
そのカレンダーを、ヴァイゼルが自分の書斎からこの場所に移した意味。そうしようと決めて、この場所に立っていたはずの彼の背中を。
「…………」
その上、彼女は気付いてしまう。
手に持っている小説の間に、栞の代わりとしてあるものを差し込んでいたことを。
それは、最近流行している平たいペンだ。小さくて利便性は高いけれど、万年筆と比べれば書き心地はずっと悪い。インクを使う類のものではないから、それで書いた文字は少し擦れば簡単に消えてしまう。
今は、それがちょうどよく感じた。
不思議とカレンダーは、レイラにとって見やすい位置に掛けられている。手を伸ばせば、簡単にそれに書き込むことができる。
昨日の日付の下に。
書き終えれば、少し離れてレイラはそれを見た。
『あなたを好きになった日』
「…………」
いや、と唇を噛んで、レイラは思った。
これはダメだ。
急激に恥ずかしさが身体の奥から湧き上がってきた。顔が熱い。耳まで赤くなっていると思う。手で顔を煽いだって、何の意味もない。昨日の比ではない。
その上、一つだけ筆跡が違うものだから、やたらに目立つ。
こんなのをヴァイゼルに見られたらおしまいだ、と思う。
慌ててレイラは、その書き文字を消すための道具を探し始める。パン……が一番良いとは知っているけれど、厨房に向かうまでの間にヴァイゼルが戻ってきたらどうしよう。布がいいか。しかしオードランド侯爵邸というものは格式に満ち溢れていて、こんなくだらない落書きを消すために使っていいようなものなど、咄嗟には見当たらない。
ああ、とレイラは。
どうしてこんなものを書いてしまったんだろうなんて、わかり切った疑問を心に浮かべる。答えを言葉にするのが惜しくて――もう文字にだってしているのに――往生際悪く、全く別のものに責任転嫁をしてみたりする。
こんなことになるのだから。
甘ったるい恋愛小説なんて、読むんじゃなかった。
レイラがハンカチを持って、カレンダーの文字に手を伸ばすまで、あと五秒。
ヴァイゼルが戻ってきて、彼女が見つめる先の文字に気付くまで、あと四秒。
(了)