勇者と聖女
「そう思うと、結構楽しかったな……」
俺は魔界の空を見上げ、人間界での出来事を振り返った。
ここは魔の領域、空中に漂う濃い魔力が空を赤黒く染める。
見慣れた景色が旅の終わりを告げていた。
そうか、ここまでやってきたんだな……
数百年と住んでいた故郷も、人間の俺にとっては”最果て”となる。
魔界に入るのは容易だ。
別に結界を張っている訳ではないし、なんなら正確な境があるという訳でもない。
ただ、徐々に暗くなる空と空中を漂う濃密な魔力が、ここを魔界と感じさせる。
人間にとっては不快感を感じるほどの魔力密度だ。
俺の魂は喜び、肉体は軋む。
魔族と人間、ふたつの感情が俺の中で渦巻いていた。
「落ち着いていますね」
野営をしている森の中、聖女クレリクスが俺に話しかける。
地元に帰った安心感が表情にも出ていたのだろうか。
「そう? これくらい普通よ」
俺にとっての普通は本来こっちだ。
焚火に薪をくべる。
今は野宿中。森の中で夜が明けるのを待っていた。
外で過ごすのには慣れたものだが、魔王城が恋しい。
「いつ魔族が襲ってくるのか分からないというのに、さすがです」
「クレリクスはどうなの? ここは聖の属性が強いあなたにとって辛いのではないかしら? 少し休んでも良いのよ」
できればあまり近づかないでほしい。溢れ出ている聖のオーラで俺が不安になってしまう。
美味しい地元の空気を吸わせてくれ。
「いえ、私は大丈夫です。お気になさらず」
そう言って俺の横に座る。近い、何で?
腕と腕が触れ合いそうな距離で、しばらくの間沈黙が続いた。
クレリクスは業務的な会話しかしてこなかったはずだ。
教会の手の者ということもあり、いくら彼女のことを知っているとはいえ、俺は警戒していた。
何もできずに固まっていると、クレリクスが俺の肩に頭を乗せて語りだす。
「正直に言いますと不安です。生まれつき聖属性が強かった私は、人生のほとんどを教会の内部で過ごしていました」
彼女が自分のことを話すのは初めてだ。
「それでも、勇者様の近くにいると心が和らぐのです。とても温かい……」
いつもはクールな顔のクレリクスが、目を蕩けさせている。
いや、あなたが寄りかかっているのは魔の象徴なんです。いわば不安の種そのものなんです。
俺はこの場を逃れようと必死に思考を巡らせた。
腰に携えた聖剣が少し震えた気がした。絶対笑っているな、あの女神。
ユウェネスは警戒中で離れたところにいるし、プエッラは……
「あひゃひゃ、魔界の魔力ウマー」
ダメだ、完全にキマッている。
道端に生えていた草や実で作った即席ポーションを飲んで、一人ゲラゲラと笑っていた。近寄らないでおこう。
「く、クレリクスは、あの、赤竜の後、大丈夫だったの?」
俺は意を決して話題を振った。
彼女とは幼少期に会っている。
聞けずにいたそれからのこと。丁度いい機会だ、今聞いてしまおう。
「クレリん、そう呼んでください」
「でもクレリク……」
「ク、レ、リ、ん!」
「は、はい……」
あまりの迫力に俺は負けてしまった。
無表情で顔を近づけるのはやめてくれ……心臓に悪い……
「クレリん……ふたりの時だけよ、この呼び方は」
「ありがとうございます」
そしてまたしばらくの沈黙が流れた。
「ってその話じゃないわ。あの後どうだったの? モレーノさんは元気?」
俺は話を元に戻した。
「師匠は元気です。元気がすぎる程です。私はとても良くしていただきました。今では完璧に力を制御できています」
うまくやったようだな。流石は先生の弟子だ。
暴走が起きたとしても、次俺が止められるという確証はない。
推測でしかないが、相当な鍛錬を積んだはずだ。
「そっか……ふたりとも元気だったんだ……連絡取れなくてごめんなさいね」
「問題ありません。私は聞いていましたので」
誰に? 先生に、か……
あの人の手回しには素直に感謝しかない。
「勇者様、ちょっといいですか?」
「なに? あと勇者様というのはやめて。仲間に気遣いは不要よ」
「ではフォスたん、ちょっといいですか?」
それは三つぐらい段階を飛んでないか?
「ふたりの時だけね……その呼び方は……」
「もちろんです」
「で、なにか用があるのでしょ? お姉さんに言ってみなさい」
人の悩みは聞いてしまう。つい堂々ともしてしまう。
前世で”現役魔王のお悩み相談室”を開いた時には、誰もやってこなかったが……
「その、ですね……」
「恥ずかしがらなくていいのよ?」
珍しくクレリクスが言い淀んでいた。
大丈夫だ。人に言いづらい悩みなど、皆が持っている。
ここは気持ちを打ち明けるには良い場所だ。
近くにいるのは仲間たちだけ。プエッラは酔っているし、ユウェネスは見張りをしている。
人っ子ひとりいない魔界は、即席の相談室にはもってこいだった。
「お願いを……聞いていただいてもいいですか?」
「どんなことでも、任せて!」
クレリクスの不安そうな表情に、俺は胸を叩き向き直る。
過去の懺悔か? 未来のの進路か? それとも……れ、恋愛、か……
俺の鼓動は高鳴る。
さて、なにがくる。
「分かりました……」
クレリクスが息を吸い込んだ。
なぜか姿勢を正しくし、足をくずさないでいる。
「ギューッとさせてください!」
クレリクスが土下座した。
「え、え、え? その、どういう意味?」
俺は困惑する。訳が分からない。
「抱きしめてもいいですか? お願いします。もう我慢できないのです……」
こわいこわいこわい。
クレリクスの身が震えていた。
俺は自分自身の体を両腕で抱きしめる。そのまま身を引いてしまった。
「だ、だめですよね……そうですよね……」
俺の姿を見て、クレリクスが目に見て分かるほど落ち込んだ。
肩をがっくりと落とし、目が虚ろになっている。
「ふふ……わたしなんて、どうせ駒ですよ。あーはい、そうですよー、私は……」
「許可する!」
俺は反射で言ってしまった。
クレリクスのオーラが魔に染まり始めていたのだ。
この娘は危険だ。悪い方向にも成長してしまっている。
聖と魔は紙一重だったのか……
「今なんておっしゃいましたか……」
「だから、抱きしめていいよって言っているの」
俺は自分を抱いていた両腕を広げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
繰り返し感謝の言葉を出すクレリクスは、涙を流していた。
「ドーンときなさい! お姉さんに甘えたいのでしょ?」
兄弟姉妹、そして両親もいないのだから仕方ない。
俺の愛でよければ、存分に味わうがよい。
「あるじさまー!」
謎の単語ともに、俺の頭が柔らかい双丘に埋まった。
「い、いきが……」
顔全体を包み込んでしまったそれらは、俺を圧迫する。
「ああ、良い匂い……我慢の分だけ感じる……」
「だからいきが……」
俺の声はもごもごとした音に変換されてしまう。
この状況は、冷静に考えれば当然、この身長差だ。
俺は昔のクレリクスのまま対応してしまった。あの頃は俺がお姉さんだったのだ。
「ずっと想っておりました。大丈夫です。主様の敵は私の敵、これが終わったら教会を消し去ります……」
「ふぁからいき……」
クレリクスが俺の頭を撫でている感覚だけ分かる。
なにかを言っているようだが、塞がれた耳が通す音はごくわずかだ。
「ああ、尊い……愛おしい……持って帰りたい……」
「ふぁふけて……」
痛い苦しい助けて……
俺の背中に回された腕は、身動き一つを許さない。
俺にとっては尖った魂と、柔らかい肉体、相反する二つの責め苦を受け続けることになる。
結局のところ俺は、次の見張り交代まで”魔王である俺”を消すことによって、耐え抜くしかなかったのだった。