勇者と魔王
ある晴れた日の昼間。
俺は教会の広場で木陰に座り、黄昏ている。
あれからずっと同じ日々の繰り返しだった。幼年期の記憶は殆どない。
俺は優等生を演じ続けた。魔王である俺にとってあの程度の鍛錬は苦でもなかった。
……嘘だ。
毎日先生から教わる初歩的な講義を調整しながら聞く。いろんな意味で魔法の暴発を防ぎ、無知を演じる。
そして何より、宿敵であるエクテに対して精一杯の笑顔を見せる。
正直言うと魔王時代より疲れた。
問題の妹は5歳になった今でも俺の近くにいる。いや、俺が頼んで一緒に生活できるようにしている。
勇者では無いエクテがここにいる必要は無い。
赤ん坊を教会で預かることはあるらしいが、この年齢では孤児院にでも入れられるのが普通だ。
聖職者共は俺たちの両親について教えるそぶりすら見せなかったが、俺は前世で勇者については細かい所まで調べていた。
父親も母親も普通の人間だ。両親は俺たちが生まれる前に、魔物との戦闘に巻き込まれて亡くなっている。戦闘後に母親の胎内から奇跡的に助け出されたのが、エクテという訳だ。
しかし情報では、助けることが出来たのは一人だけだったはずだ。
この体は俺の魂が乗り移ったことで生き延びることができた、というわけだろう。
未完成の魔法だった。魂を送る先の時間基準として、自分を倒した者の情報を使ったことが原因か……
「この体、使わせてもらうぜ」
器として選ばれたエクテの姉に対する感謝なのか、思わず声が出てしまう。
年齢を重ねるとともに頭もはっきりとしていく。
それと同時に、人間としての情が出てきたのかもしれない。
「お姉さまは、たまに変なことを言います」
俺の膝の上に頭を乗せて昼寝をしていたエクテが目を開く。
「何を言っているの? 私はいつも普通よ」
「その言葉がもう普通じゃないですよー」
エクテは頬を膨らませて不満を表しているが、表情は不思議と楽しそうだ。
とても俺を倒した勇者とは思えない。
教会の良いように育てられた結果があれだったのか……
俺は優しくエクテの頭を撫でる。
すると妹は体を起こし、俺の手を取って真剣な眼差しを向けてきた。
「お姉さま。私にも出来ることがあったら何でも言ってください。お姉さまばかり……」
「良いのよ、エクテ」
本当に何もしなくていい。頼むから”人間”のままでいてくれ。
エクテには普通の生活をさせている。寝食は共にしているが、最近は近所の学校に行って他の子どもとも遊んでいるらしい。
無理言って姉妹で生活させてもらっていることに、妹を思う姉だと周りは感心するが、俺の目的は妹を見張ることだ。
常に思っていると言えばそうなのだが……
俺はエクテの力が知られることが無いように、数々の手回しをした。
教会内の魔法耐性が低い者から徐々に認識の方向性を操り、妹は普通の子供だと思い込ませた。
それでも、成長と共に秘められた潜在能力が明るみになっていく。
だからこのように、時間があるときは常に傍にいる。
あなたは何もしなくていい、あなたが普通に生活することが私の幸せだから、と語りかけている。
それは”私(俺)のため”に普通で居なければならない、という暗示をかけるためだ。
妹にも精神魔法が効いていたら、ここまで面倒では無かった。
流石に本物は違うか……
「あなたは普通に生きて」
いや、本当に、頼むから。
特定の魔法を完全に無効化する。修行も何もしていない妹が、ふとした拍子に見せる最強の片鱗が俺の額に一粒の汗を浮かばせた。
「私もお姉さまを助けるために強くなるの! 魔王だって私が……」
「それはダメ!」
「え……」
「あ、いや~、そんな危ないことを可愛い妹にさせられないよ~」
何とか誤魔化そうと、あたふたとしてしまう。心なしか言葉使いまでちぐはぐになってしまった。
エクテは俺に隠れて強くなろうとしてないか?
俺の中に残っている勇者への恐怖が沸々と湧いてくる。
こうなれば最終手段、泣き落としだ。
「エクテ、あなたになにかあったら、私は……」
芝居がかった仕草で、大粒の涙を流しながら妹を抱きしめる。
ちょっとやりすぎたかもしれない。
恐る恐るエクテの反応を待つ。
「大丈夫。お姉さまには心配を絶対にかけないから」
「じゃあ、私の言うことを聞いてくれるわよね?」
「うん!」
言質取ったからな!
力強い言葉で宣言し俺を抱きしめるエクテに、また口角が上がってしまう。
いかんいかん、俺の悪い癖だ。
俺がどす黒い魔の心を覗かせているとは露知らず、ちょうど雲の隙間から差した陽光が姉妹を白く照らし出す。
その神秘的な風景は、さぞ絵になっただろう。
「お姉さまには絶対心配かけないよ」
小声でエクテが何かを言った。
分かってくれたなら良いのだ、分かってくれたなら。
*
「お姉さまは何であんなことを言うんだろう?」
姉が午後の鍛錬に戻り、一人になったエクテは空を見て呟く。
「お姉さまのためなら何でもするのに……」
エクテは手のひらに光の玉を浮かばせる。
魔法なんて学ばなくても感覚で分かる。姉も同じはずなのに、何で修行をしているのだろうか?
「やっぱり教会が悪いんだ」
光の玉を建物に向ける。
「これはダメ。お姉さまの努力が無駄になってしまう」
ため息をつき、何事もなかったかのように手を叩いた。
誰もいない教会の広場で、エクテはぐるぐると歩き回る。
まるでいつもの姉みたいだ。
くすっと笑みがこぼれる。
エクテには賢い姉の考えていることが分からない。
それでもただ一つ確かなのは、本当の優しさは妹にだけ向けられていること。
そんな姉に心配はかけられない。これからも”普通”を頑張ろう。
花壇に咲く一輪の花を手に取り、姉への思いをはせる。
お姉さまは言っていた。『あなたは何もしなくていい』と。
お姉さまは言っていた。『私が全てを背負うのだから』と。
お姉さまは言っていた。『私にとってあなたが全てだから』と。
私のために”勇者”になってくれるお姉さま。
私のために”魔王”に立ち向かってくれるお姉さま。
お姉さま好き好き好き……大好き。
「あれ? おかしいな?」
握っていた花が、いつの間にか漆黒に染まっている。
これでは姉にあげられない。
お姉さまに似合うのは純白なのだから──