月の神サマ
今でも、思い出したかのように夢に見る。
夢の中の俺は決まっていつも、研究に勤しんでいた。何十年と着続けていた白衣が懐かしい。
職員が入れてくれたコーヒーを飲みながら、あれこれと実験を繰り返す日々。とても充実した日々。
あの頃の俺は、この研究がいつの日か人類に貢献するのだと思っていた。きっと、実験の功労者として、自分の名が歴史に名を刻むだろうと。そして、この日常がずっと続くのだとも。
疑いようもなく、信じていた。
思い上がりも、甚だしいところだ。
突然。
鼓膜が破れるくらいの轟音がなる。
大地が揺れ、天が揺れる。平衡感覚もなくなる。あんなに頑丈にできていた研究所は砂城のように崩れ、男女の声が入り混じった悲鳴だけがいつまでも木霊する。
瓦礫に埋まった俺は、完全に身動きが取れない状態だった。僅かにあいた隙間で外の様子を見ようとするが、衝撃でもくもくと上がった白煙が邪魔で、何も見えない。
一体、なにが起きたんだ?
ウィーン ウィーン
奇妙な機械音が姦しく鳴り響く。この状況には不釣り合いな音だ。
…嫌だ。この先はもう、見たくない。やめろ、やめろ!
これから何が起きるか知っているからこそ、今すぐ目を瞑たい。現実から目を背けたかった。
なのに、夢の中の自分はそれを許してくれない。まるで、これが俺の罪なのだとでも言うように。
何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
繰り返し、俺に見せるのだ。
やがて。
周囲の悲鳴が絶叫に変わる。
恐ろしいほど濃厚な血のにおいが、鼻をついた。
はっきりと見えるようになった視界。ただごとではない外の様子に、恐る恐る隙間を除く。
最初は、何が何だか分からなかった。
でも、そのうち嫌でも理解した。ゆっくりと、はっきりと。そこかしこにあるピンク色のものが、何なのか。
まさに地獄絵図だ。
自然と俺は手を合わせた。無神論信者だったはずの俺が、最後に頼ったのが神だとは皮肉なものだ。
キシシシ。キキキ。
“奴ら”が楽しげに笑う。
まるで悪魔だ。人間を甚振る奴らには、愉悦すら感じられる。
…いや。ちがうな。
奴らにとって、人間は人間でない。ただの動物、より正確に言えば被食者に過ぎないのだ。
だからこそ、こんなにも残酷になれる。
夢の中の俺は発狂した。
—— そして、全てが消えた。
「…最高に、夢見の悪い朝だな。」
起きてみたら暖かい家だった、というはずもなく。
何の飾り気もない無機質な壁が出迎えてくれるだけだった。
おはよう、と言う相手すらもういない。それが寂しいことだと気がついたのはずっと前のことだ。
まぁ。
俺は夜の担当なので、「おはよう」というより「こんばんは」と言った方が正しいが。
「吉野。」
「了解。」
唯一いる人間は、穏やかに挨拶を交わすような仲ではない。短いやり取りを経て交代を終えると、彼女はさっさと扉の向こうに消えた。
画面の向こうでは優しい《太陽の神さま》だけれど、現実では真逆だ。
いつだって、その瞳には深い拒絶と絶望が潜んでいる。
彼女にとっては、もはや向こう側の世界こそ全てなのだろう。それこそ、超越的存在として彼らを守護したいと思うほどには。
現実では、彼女とて神とやらに運命を翻弄されるちっぽけな人間に過ぎない。その非情な事実を、ディスプレイの向こう側は忘れさせてくれる。
だから、ある意味。彼女が依存してしまうのは必然だった。
「さて、今日も始めますかね。」
席に座って、ディスプレイをぼんやりと眺める。
1万個ものディスプレイは1つのコンピューターに繋がっており、異常があればそのコンピューターから分かる。そういう“システム”だ。自分が造ったのだから、当然把握している。
20××年。
人類は、突然、落下してきた謎の飛行物体Xから現れた、地球外生命体いわゆる宇宙人により攻撃を受けた。
Xはひとつでなく、アメリカやロシアなどの列強に3、4体ずつ落ち、当然日本も被害を受けた。軍事力や統率力の高い国ほど、優先して攻撃された。議会が支持を出したり、軍隊を派遣する間もなく。
これも、奴らの作戦のうちだったのだろう。
突出したリーダー国がいなくなり、世界は大混乱に陥った。祈り出す者、気がふれる者、自棄になる者、争う意思を持つ者。
人民はバラバラで、もはや団結は不可能に近い。誰もが、人類の滅亡を錯覚しただろう。
…だが、どんな地獄にも希望はある。その昔、仏が垂らしたという蜘蛛の糸のように。細く、とても細く、全員なんてとてもじゃないが救えないような、か細い糸が。
人類がもとの1/3にまで減った頃、国同士でようやく話し合いに決着がついたらしい。そこで出た結論は、糞のようなものだった。
いわく、《火星移住計画》。どうやら、宇宙人たちは地球という惑星そのものが目的らしく、俺たち人間にはあまり関心がないらしい。それを逆手にとって、ならば地球を捨て新しい星に移ろうという計画だった。
俺は思った。
あまりに、無謀すぎると。もし、いくらかの猶予があれば。あるいは、人類の数がここまで減っていなければ、なんとかなったかもしれない。しかし、いまや、もとの1/3だ。
全員が移住するだけの宇宙船をつくるのは、不可能だといえた。
そして、それは正解だった。もとより、各国のお偉方は、全員を救う気などなかったのだから。
この計画の対象となるのは、国家から選ばれた人間…トップ中のトップ。世界的な技術者や研究者、権力者。つまり、エリートのみだ。あとは労働力として、金を山ほどもった民間人が何人か。
ほとんどの人類が、犠牲になることを前提とした計画だった。
当然、見捨てられたと知った人間の、感情の爆発は凄まじい。計画の参加者と、少しでも血が繋がっていたり、親しかったりした者は全員殺された。
そして、自殺者が増えるなか、なんとか設立されたのが、ここ。かつては、【ルナ】と呼ばれた海底都市だ。
いまでは住民は俺と吉野しかいない、廃墟都市だがな。
チカ チカ チカ
ランプが点滅する。俺は、コーヒを啜りながら、ぼんやりとそれを眺めていた。
吉野がもしここにいたら、即座に俺を殴りとばすだろう。
ランプの点滅は、すなわち転生した奴らのSOSのサインなのだから。
のろのろと、トロい手つきで画面を拡大する。
「…なんだ?」
「もう、遅いってー。月の神様ってば、相変わらず怠そうな声なんだから。まったく、ちゃんとしろよなぁ!」
「こ、こら!神さまに失礼だよっ、ユーリ!」
空を仰ぎながら戯ける生意気な青年と、それを嗜める小柄な少女。
いったい、いつからだろう。
「神さま!今日はな、もっと強い剣が欲しいんだ。前にもらったやつは、壊れちまってさ。」
「ユーリっ!そんな態度じゃ駄目だってば!」
「え〜。大丈夫だよ。だって、“神さま”なんだからさ。」
神さま。神さま。
いつからだろう。
そう言いながら、縋ってくる彼らに、吐き気にも似た昏い嫌悪感を抱きだしたのは。
まいにち、まいにち。
俺は、一日の半分を無機質なディスプレイの前で過ごしている。あとの時間は、食料調達や、機械の整備。8時間といわず5時間睡眠さえ、ここ何十年もできていない。
常に動いていないと、それこそ気が狂いそうだった。
否。もう、とっくのとうに狂っている自覚はある。
だって、そうだろう。
ディスプレイの奥で希望に満ちた生活を送る、かつての同胞たちですらも、疎ましく感じてるのだから。
「神さま、洪水で村が大変なの。助けて。」
「神さま、お母さんが危篤なの。助けて。」
「神さま…」
「神さま…」
「神さま…」
「かみさま…」
願えば、いとも簡単に叶う。神と直接対話もできる。
そんな理想郷にいる彼らが、いつの頃からか憎らしく思うようになった。
現実の俺は、痩せこけたおっさんで。あと少しで還暦に突入するくらいの年齢だ。もしかしたら、もう突入してるかもしれない。
時間感覚すらあやふや。明日の自分がどうなるかも分からない。
いつも、独り寝るたびに、明日なんて来なければいいと。このまま死んでしまいたいと。
そんなことを考えるような、人間なのだ。
時折、近くをXが通るときの振動に心底怯えて。
昔の懐かしい記憶にばかり浸かり、絶望的な現実からは逃げて。
そうやって、楽な方にどんどん流れて行く。それこそが、自分なのだ。
それなのに。
自分自身さえ救えないような状況なのに。
なぜ、他人の彼らを救ってやらねばならないのだろう。
魔物はいるが、Xに乗る宇宙人ほどの強敵ではないし。
基本的に、ゲームの世界を踏襲している仮想世界では、レベルアップすれば大抵の敵には対処できる。
性別や、生まれつきの身体的特徴、遺伝子などは関係ない。
要は、本人の努力次第でなんとかなる場合が殆どなのだ。医療だって、無くした腕が生えてくるような上級魔法すらある。
現実の、俺と吉野しか人間はおらず、どうやっても勝てない奴らがうようよと周囲をのさばっているような。
そんな、絶望的状況ではない。
なにより。
彼ら、転生者は絶対に“死なない”。
吉野には言っていないが、そうなるように、俺が設定した。だからこそ、憎らしかった。
今の俺よりもずっと、恵まれた世界で。安寧を約束された楽園で。
俺たちを犠牲にしたことすら忘れて、快活に生きる彼らが。
「…ほんと、なんで俺なのかねぇ。」
できることなら。
俺も、こちら側ではなく、あちら側に行きたかった。
辛い現実全てを忘れ、願えば全て叶ってしまうような、都合のいい“神さま”がいる電子の海に、逃げてしまいたかった。
でも、そんなのは許されない。
俺が犯した罪を、贖うためには。
俺は、逃げてはいけない。
なまじ、人としての最後の道徳心が残っているからこそ。
この宇宙人来襲という、人類史上最大の事件の発端に、関与しているからこそ。
俺は、俺のせいで死んでしまった人類を、幸せに導く義務がある。
それこそが、“神さま”として俺を現世に留めている唯一の理由だった。
「…交代だ。」
「了解。」
今日も、明日も、明後日も。
俺が死ぬまで。そして、吉野が死ぬまで。
彼らは…転生者は、10代20代の若々しい姿のまま。
何も知らぬまま、生きるだろう。
いつか、ディスプレイを操作できる人間が居なくなるその日まで、ずっと。