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第六話:気静剣レビエリ④

 この街……何番目の街だよ!


 背丈程もある草むらで、俺はじっと息を殺していた。傍らにはパーカーのフードを被り、露出部を極端に減らす格好をした気静剣レビエリが怯えた表情で俺の背中に張り付いている。


 場所は王都の西門から出たすぐ先に広がる鬱蒼とした森の入り口だ。特に理由もなくなんとはなしに搔き入った草むらの中で、俺は脅威と遭遇していた。


 地面が揺れる。ずしん、ずしんという腹の底から響くような重低音。

 これが足音などとは誰が考えるだろうか。俺は、昔映画館でみた恐竜映画の事を思い出していた。


 何だあの動物は!? 初めて見るぞ!?


「ミノ……タウロス……です」


 レビエリが相変わらず聞き取れないような小さな声で囁く。

 ミノタウロス。余り本など読まないが俺だって知っている。有名な怪物(モンスター)だ。

 牛頭人身の化け物。いや、俺の知識にあるからこの夢に出てきたんだろうが……


 由来は……確かギリシャ神話の一つであるミノス王の迷宮(ラビリンス)を徘徊する怪物。

 ギリシャ神話あんのかよこの世界! そんなつっこみも今となっては虚しさしか生まない。それどころではない。


 草の隙間からちらっと見たその身の丈は俺の優に倍はある。無造作に巨大な戦斧を持つその腕は筋肉の塊で、おまけに何故か騎士が着ていたような鎧を全身に身に付けていた。

 そのお陰でガシャガシャ音がして遭遇する前に気づくことができたんだが、どう考えても門番さんよりも強そうである。


 まだ数メートル先にいるにもかかわらず嗅覚を擽る鼻が曲がりそうになるほどの獣臭は、夢の中で在るにも関わらず鮮烈なリアリティを感じさせた。

 いつの間にか緊張で口の中がからからだ。負けることなどありえないとわかっているにもかかわらず本能がその脅威を仕切りに俺に伝えている。

 唇を舐める。息を潜める。


「勇者……様……行っちゃいますよ?」


「ま、まぁ、最初からボス級と戦うのもRPG的に、さ……ほら、少しずつレベルアップしていかないと……」


 言葉が言い訳じみたものになってしまうのを止められない。

 だって、俺は今まで――喧嘩すらした事がないんだ。それをあんな怪物にいきなり立ち向かえと言われても困る。


 すると、レビエリは信じられない事を口にした。


「あれは……一番弱い魔物です……」


「……はっ?」


 あれが?

 あの完全武装した筋肉の塊が、一番弱い?


 そんなバカな……


 俺の視線の先では、何が気に食わなかったのか、ミノタウロスが戦斧を木に叩きつけていた。

 木がそれだけで弾け飛ぶ。


 もう一度言う、『弾け飛ぶ』


 爆発にも似た轟音。

 衝撃に草木が強く揺れる。弾け飛んだ木は他の木を巻き込んでぶち折り、それでも止まらない。斧を一振りしただけで幾本もの木が倒れ、ミノタウロスが咆哮した。


 ビリビリと、悲鳴のように森がざわめく。余りの音に耳の奥がきーんと痛む。

 下を見る。気づけば腕が小刻みに震えていた。


 思考するまでもない。これは――恐怖だ。


 くそったれが。あれが雑魚だというのならば……どうりで初期装備が充実していたわけだよ!!


「……怖い……ですか?」


「……チッ。怖くねーよ」


 嘘だ。ただの強がりだ。歯は今もがたがたと震えている。だが、そう思わなければ、口に出さなければ――やってられない。

 現実感ではまず味わえない死の恐怖。例え死んだ所で現実の死が訪れるわけがないと分かっていても、身体の震えを止められない。


 これは――悪夢だ。


 下唇を噛む。痛みで恐怖が和らぐ。震える手を抑え、静かに剣を抜いた。

 煌めく白銀の光。明らかに金属の反射とは異なる光沢を持つワンハンドソード。それは確かに現実では見られない輝きだったが、あの巨体を前に、あの頑強な鎧を前に、役に立つとは思えない。


 なんで魔物が金属鎧着てんだよ。誰があんなもの与えたんだよ!

 あの鎧がなければ――もしかしたら傷の一つくらいつけられたかもしれないのに。


「今のこの周辺では……最弱、です……その、あの……魔法とか、使わないので」


「……」


 なるほど。

 魔法……魔法、か。


 つまり、奴が弱い理由はあの斧による攻撃のみで魔法を使わないから、なのだろう。

 それはつまり、このあたりには他の魔法を使う魔物が生息しておりそして――こちらも魔法を使えなければ戦えないという事を示している。


 詰んでる。難易度の設定がおかしい。


 心臓の音が痛い程に鳴り響いている。

 一歩。足を一歩出すだけなのに、怖い。

 魔法を覚えてから挑戦すべきではないのか? 訓練してから挑戦すべきではないのか? いや、訓練した程度であの化け物に勝利できるのか?


 様々な考えが脳裏をよぎる。例えマシンガンを持っていても俺はあの化け物と――戦いたくない。


 震えを止めきれない俺の前でレビエリが立ち上がった。

 今にも泣きそうな表情。双眸の端からしずくが零れ落ちる。それは余りにも美しすぎて、俺は数秒後にそれが涙である事に気付いた。

 パーカーのフードを脱ぐ。薄紅色の髪飾りで止められた草色のしっぽが無造作に垂れる。


 その拳は強く握られている。力の入れ過ぎで白んでいる指。

 何故、そんなにも力を入れているのか。


「わ、私が……囮、やります……」


「は? いや……」


 信じられない事を言い出す聖剣の少女。

 大の男である俺が恐怖を抱く対象に対して、気弱と表される少女ははっきりと自身の意志を示した。


 あれは……絶対に敗北するタイプの戦闘だ。


 必要な要素が揃っていない。俺が魔法とやらを覚えるかあるいは、魔法使いの仲間をつれてくるまで相手をしてはいけない存在だ。

 恐らく王様に頼めば魔法使いの仲間くらい融通してくれるだろう。多少失望されるかもしれないが、命には変えられない。


 それは俺の命にもだが、当然――この少女の命にも、変えられないものだ。

 例え人じゃなくたって見た目はただの女の子。俺にはこの怪物を倒す事が彼女を犠牲にしてまで成し遂げるべき事だとは思えない。


 何より、レビエリが囮になって一瞬怪物の隙を作った所で――正直、俺にはこいつを倒すビジョンが浮かばない。


「ちょ……待っ――」


 ふらふらと草むらから出て行くレビエリを、俺は止められなかった。

 俺よりも遥かに背の低い、そしてだぼだぼのパーカーの上からでもはっきり分かる華奢な身体が、静かに草むらから出て行く。

 響き渡る足音の下、体重が軽いせいか、あるいはその内気な性格ゆえか、音は僅かも聞こえない。ミノタウロスは後ろを向いている。


 もしかしたら気づかないのではないか。


 そんな希望は、数秒で消え去った。


 音が止まる。怪物が立ち止まったのだ。後ろ姿だけ見ると全身鎧の騎士にも見える姿。ただし、その上半身に乗っている頭が牛頭でなければ、の話。そこにある威圧感は尋常なものではない。臨場感は今までの明晰夢を遥かに超えている。


 脚を覆う甲冑がこすれる音がはっきりと耳に残る。

 美女と野獣。その対比はまるで神話の一場面のように美しく、そして悍ましい。


 ぞくりとした冷たい何かが背筋を突き抜ける。先ほどまでの震えが止まり、冷や汗が出てくる。

 目に入ったそれを、俺は無意識に拭った。今にも心臓が止まりそうだ。身体が――寒い。


 金属が悲鳴を上げる不協和音。錆色の大斧が地面を穿つ振動が地面を伝って俺に異常なリアリティを伝えてくる。

 そして、牛頭人身の化け物が――レビエリの方を向いた。


 再び咆哮。身体が、魂がすくみ上がる。原初の恐怖。反射的に剣の柄を握る。


 その瞬間、ミノタウロスが大地を蹴った。

 爆音。全身に鎧を纏い、何百キロあるのか予想すら付かない大斧を持ってさえその速度は迅雷の如く、踏み込みで大地が裂ける。その迫力は最新のCGを使った映画の恐竜をも遥かに超える。


 手が、脚が動かない。俺はその瞬間、これが『殺気』と呼ばれるものである事を本能で理解した。


 獅子は兎を狩るときも全力を尽くす。


 ミノタウロスに比べ、レビエリの身体は小動物のようなものだ。その対比は実体以上の差異を感じさせる。

 斧が大きく旋回する。下から上に振り上げ。レビエリの慎重の半分程もある巨大な刃が翻る。


 思わず立ち上がる。だが、その殺意に濡れたミノタウロスの眼球は目の前の少女を見据えたまま、俺には――注意を引くことさえ出来ない。


 レビエリが地面を蹴る。その脚の長さはミノタウロスの半分しかない。僅か半歩だけずれたその少女の肢体を戦斧が通り過ぎた。


「ッ!?」


 強い風が吹き荒れる。数メートル離れた場所に立つ俺の身体が圧されたと錯覚するほどの風。それは、ミノタウロスの攻撃により発生したただの余波。

 レビエリの身体はまるで唯の木の葉のように吹き飛ばされ、背後の木に激突した。

 森全体が揺らぐような衝撃。激突した樹木が音をたてて崩れ落ちる。


 ミノタウロスの眼光がはっきりと、ただ棒立ちになっていた俺を射抜いた。血のように赤く染まった瞳。


「レビ……エリ!? だ、大丈夫か!?」


 反応一つなく横たわる少女。

 慌てて駆け寄ろうとするが、次の瞬間、ミノタウロスはその甲冑に包まれた脚を大きく振り上げる。


 そして――ただ真下に撃ち下ろした。


 地面が裂け、大地がはっきりと揺れる。舞い上がった土埃が空気中を汚す。巻き上がったそれに、思わず目を閉じ、明けた時には周囲は既に土埃煙に包まれていた。


 見えない……!


 数メートル先にいたはずのミノタウロスの姿が見えない。ただの砂埃だ。風が巻き上げたそれと変わらない。

 だが、奴はどこだ。ぞっとしない何かが背筋を駆け巡る。奴は確実に――意図してこれを起こしたのだ!


 獣の肉体に高度な知性。魔物が魔物と呼ばれる所以の片鱗。だが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。


「レビエリ!? レビエリ! 返事をしろ!」


 必至に記憶を探る。

 大丈夫、斧は直撃していない。直撃していないはずだ。

 その証拠に彼女には勿論周辺にも血の一滴も流れていない。流れていなかった。だからまだ大丈夫なはずだ。

 いや、大丈夫なのか? 血液が出ていなかったから大丈夫? 大木が根本から折れる程の衝撃を受けて大丈夫?


 人間だったら――無傷なわけがない。だが、彼女は人間じゃない。人間じゃないのだ。だから、大丈夫なはずなのだ。


 崩れかけそうになる身体。折れそうになる精神を叱咤し、剣を握る。


 自身に言い聞かせる。

 大丈夫。これは夢だ。夢なのだ。ただの俺の夢。だからレビエリが死ぬわけがないし、俺が怪物に負けるわけがない。

 ろくに動いてもいないのに息が切れそうだ。頭が痛い。ずきずきとした鮮烈な痛み。視野の狭窄、強い目眩に目の前が暗くなる。


 背筋が凍るような感覚はまだ抜けていない。ミノタウロスはまだ近くにいる。何故かはっきりと把握できた。

 いや、逃げるわけがない。俺が、こちらが、圧倒的に不利な状況。奴は獣だ。人を食らう獣。そうでなければあのような忌まわしい眼を、今まで見た全ての悪意を凌駕する悍ましい眼を、今まで想像もした事がなかった眼をしているわけがない。


 咆哮。威嚇するような、空気の振動の奥底で、俺は確かにその一声を聞き分けた。


「勇者……様……」


 極度の緊張。死地にいるせいか、感覚が研ぎ澄まされている。僅かな空気の音に掻き消えそうになる小さな声の出処を、俺は明確にとらえた。


 脚が勝手に動く。大地を蹴る。

 一メートル先すら定かではない濃い土埃。晴れるのにはきっとしばらくの時を必要とする。だが、そんなものを待つ時間はない。

 如何に視界が悪かろうが、距離は変わらない。僅か十数歩、声のした方向に駆ける。

 薄くなる土埃の中、聳えるような巨躯を見た。


 錆びた傷だらけの甲冑。

 ミノタウロスの身の丈程もある長柄の戦斧。その前に横たわる黒い影。


 くそったれが。この化け物め。


 この剣で貫けるか? あの金属の甲冑を切り裂けるか?

 否。不可能だ。例えレアリティが高くとも、例え甲冑が錆びていようとも、あの巨躯に比べればこの刃のどれだけ頼りない事か。


 戦斧が無慈悲に振り上げられ、そして振り下ろされる。その瞬間、俺は全ての攻撃行動と思考を捨て去り、その下をくぐり抜けた。


 火事場の馬鹿力か。

 背中を切り裂く寸での所を刃が通り抜ける。熱を持った風が背中を焼く。だが、あるべき痛みは感じない。


 レビエリの身体を救い上げるように抱きとめる。倉庫で持ち上げたあの大剣と比べ、聖剣たる少女はあまりにも軽い。木の葉のようなそれを片手で抱き上げ、そのまま地面を蹴った。


 跳ね上がった礫が身体を打ち付ける。全身に響くような衝撃。痛みもない鈍い衝撃だけが全身をしとどに打ちつける。

 息が切れる。息が止まる。心臓が限界近く鼓動する。


 生きてる。だが、生きている。だが、それでも――生きてる。


 三度、咆哮が聴覚を貫く。だが、今まで程の衝撃は感じない。

 大地を蹴る。草の感覚。頬を押す風の感覚。視覚が、聴覚が、触覚が、嗅覚が、味覚までも加速する。


 獣臭。

 避けただけ。避けただけだ。脅威は未だ健在。俺はただの一筋の傷もこいつに与えていない。


 埃が晴れる。殺意に反射し地面を蹴り、身体を無理やり反転させる。

 血に染まったかのような紅蓮の咥内。そこに生えそろった象牙色の鋭い牙。僅か一歩で地を穿ち、僅か一振りで風を起こす膂力。

 眼前に迫る怪物の姿は遠目で見ていたそれと比較にならない程の威圧。


 化け物が目の前、ほんの一メートルの間近に居た。


 だが、彼女は、レビエリは、この化け物の前に自らその身を晒したのだ。

 それも、この出会ってまだ一週間しか経っていない、名ばかりの勇者である俺のために。


「くっ……!」


 その腕に握られた巨大な柄。戦斧ではなく、甲冑に覆われた丸太のような脚が放たれた。

 蹴り。右下から迫るそれを腕を固めてガードする。軋む骨、肉。伝播する脳を揺らす衝撃。麻痺したのか、やはり痛みはない。それだけが救いだ。


 咳き込む。

 生きてる! まだ生きてる!


 地面に投げ出される。抱えたレビエリを庇う。

 全身が跳ねる。息ができない。霞む視界。だが、それでも聴覚が伝えてくる地鳴り。怪物の足音。


 剣が視界に入り、俺はその時、右手が未だ剣を握っている事に初めて気付いた。まるで奇跡のように。


 手足を無理やり動かし、レビエリを地面に横たえる。起き上がり、地面に低く身を構える。


 レアリティの基準は不明、その意味も性能も、殆ど理解できていない。

 だが、それでも――Aランクの剣。それだけが希望だ。


 考える時間はない。反射的に左手で砂をつかむ。

 どうやらとどめは自慢の獲物で刺すつもりらしい。

 見上げる。振り上げられた太陽すら分断しそうな巨大な斧。


 躱せるか? いや、躱すのだ。

 背後に横たわる少女を想う。それだけで力が湧いてくる気がした。


 夢だなんて関係ない。俺の脳内は今、呆れる程に生存するための最適解を探し続けていた。


 斧が頂点に達する直前、全身を撥条にして身体を上空に跳ね上げる。

 左手に握った砂を撃ち放つ。この程度、目潰しにもならないだろう。だが、やらないよりはやるほうが遥かにマシ。


 振り下ろされた斧。膂力の違い。右手の剣を振り上げる。

 剣なんて扱ったこともない。技能も理論もないただの振り上げが、凶悪なまでの鈍色の鉄塊――無骨に沿った三日月形の刃を迎え撃った。





 そしてそのままあっさりとそれを切り裂いた。


「……え?」


 斧の刃、上半分が吹き飛び、地面に落下し、鈍い音を鳴らす。

 余りに予想外の結果に、意識に空白が出来る。

 ミノタウロスが咆哮する。身が縮こまる程に恐ろしかったその咆哮すら、今の俺の意識には入ってこない。


 半分になった斧が大きく旋回し、斜め上から薙ぎ降ろされる。袈裟懸けとも呼べる一撃。


 しまった。何故俺は戦場で一瞬でも硬直してしまったのだ。


 剣は間に合わない。例え刃が半分になったとしても、その刃は容易く肉を切り裂きすりつぶす暴力を秘めている。

 反射的に後じさりつつ、それでもかわしきれず、俺は思わず左手で振り上げた。


 来るべき衝撃に目を瞑り身を縮める。

 だが、いつまでたっても衝撃が襲ってくる気配がない。そっと眼を開ける。そこには信じられない光景があった。


「……は?」


「ぐぎぎ……」


 左手があっさりと刃を受け止めていた。いや、掴んでいた。握りあげられた鉄塊がひび割れ、みしみしと嫌な音を立てる。

 ぎりぎりと引き絞られる筋力とその咥内から漏れる獣の吐息はミノタウロスが全力で力を入れている事を示していた。

 その膂力に、足の下の地面が砕ける。


 だが、それでも俺の身体には何のダメージもない。


「ちょ……え? あれ?」


 冷静になる。あれほど地面を転がったにも関わらず、身体にダメージはない。

 左手に力を入れる。あっさりと斧の刃は砕け散った。ちょ……どんだけ脆いんだよ。


 え? あれ?


 ミノタウロスが刃のなくなった斧の柄を投げ捨て、拳を振り下ろした。

 殺意を孕んだ風が髪を散らす。俺はその拳を手の平で受け止めた。自身の手の平よりも二回り程大きい手甲を纏った拳が冗談のように止まる。

 ぎしぎしとミノタウロスの腕が軋む。全身の筋力が唸りを上げ、その頭部から蒸気が上がる。だがそれでも、俺の手には僅かな力も感じられない。


 信じられない。こんなに強そうなのに……こいつまさか、弱い?


「……ちょ……何これ……弱いじゃん」


 斧を切り裂いたのは百歩譲って理解できる。俺の持ってきた剣がそれ程強力だったのだと納得できるからだ。

 だが斧を手で受け止めたりするのは……


 地に伏せていたレビエリがよろよろと起き上がる。

 そして、その曇りのない瞳がミノタウロスと組み合う俺をじっと見上げた。

 土埃で汚れているし、衣装にほつれはあるが、その所作には怪我をした様子などが感じられない。出血などもないようだ。


 レビエリがいつも通り、極小さな声で呟いた。


「い……いいま、した。一番、弱いって……」


「……」


 そ、そりゃ。そりゃ言ったけどさ!

 なにそれ、じゃあ俺、まさか雑魚相手にクライマックスみたいな戦いを繰り広げてたの?

 ちょ……そんなのないだろ……


 今更ながら目の前の魔物にレアリティ判定を使う。

 判定はC。強いのか弱いのか、比較対象を俺は持たない。


「見かけ倒し……?」


「ふおおおおおおおおおおおおお!!」


 ミノタウロスの咆哮。いや、それはもう絶叫に近い。

 その眼には先ほどまでの絶対者としての光はない。いや、そうでなくとも、俺はもう怖くなかっただろう。

 だってこいつ、俺より弱いみたいだし。


 拳を無造作に離す。全力を込めていたであろう怪物の体勢が崩れる。

 見上げるような巨体も、歴戦をくぐり抜けてきたような傷がある鎧も、今となってはただの当てやすい大きな的でしかない。


 剣を強く握る。至近距離から届く獣の慟哭。

 剣から声が聞こえたような気がした。叱咤を受けた気がした。躊躇わず、目の前の怪物を――斬れ、と。


 そして俺は、さっきまでの必死の攻撃とは異なり、明確な自分の意志で剣を振り上げた。


「……」


「ぐぐ……ぎぎ……が……」


 軽い。

 ――軽すぎる。


 まるで豆腐でも切るように股下から頭頂まで、その怪物の肉体は抵抗なく俺の剣を通した。

 俺を見下ろす血の眼が、身も震えるような威圧が、その声が、何かが抜けていってる事を感じさせる。きっとそれを人は、魂と呼ぶのかもしれない。


 手応えのなさに呆然と剣を見る。なんという切れ味の剣だ。これ、まさかこの世界で最強クラスの武器じゃあるまいか。

 だがそれ以上に手の平に残る、『生き物』を殺したという感覚。


 怪物が二つに割れる。その二本の角が生えた頭部から股下まで縦に二分割。

 俺と怪物の身長差では勿論頭まで切り裂く事などできるわけがない。


 だが、先ほどまで絶対的強者に見えた神話の化け物は、ただの一撃で二つに割れ、そして左右に崩れ落ちた。

 呆然としてそれを見る俺をよそに、レビエリがとてとてと数メートル離れる。


「勇者様……危ないです……」


 レビエリの言葉。その意味を俺は一瞬後に知った。

 分断された身体。化け物の血が、まるで時を思い出したかのように高く噴出した。

 凄まじい悪臭。死の匂いと、先ほどまでとは比較にならない強烈な獣臭さ。


 ちょ……


 慌てて数歩下がる。だがもう遅い。

 身体中に降り注いだ、人のそれよりもどす黒い血。


 途方も無い吐き気が胃の奥から湧き上がる。

 あまりの匂いと感触に、俺は必死で近くの木の下に蹲り、嘔吐した。

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