第十五話:銀衝剣リースグラート⑦
不幸中の幸いか、ワレリーが宿泊していたのは更に下の階だったらしく、死体の中にワレリーやレフの姿はなかった。
ユリの案内でワレリーの下に急ぐ。
襲撃は余りにも静かだった。俺の耳でも――気がつかないくらいに。
だからワレリー達が異常に気づいているかどうかは分からないが、そもそも襲撃を受けて死んでいる可能性だってあるが、まずは状況を把握せねばならない。
気分は最低だった。精神的なものか頭ががんがんと痛み、心臓が早鐘のようになっている。息は荒く、鼻の奥には生臭い血の臭いが残っている。
手足は動く。肉体的な疲労は皆無に等しいが、前を歩くユリの顔は真っ青で、身体は今にも倒れそうなくらいに細かにふるえている。
俺の目からは、その表情に嘘は見えなかった。
「勇者様……大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ。大丈夫だ」
心配そうなレビエリの声。もしかしたら俺も酷い表情をしているのかもしれない。
大丈夫だ。少なくとも、俺はまだ生きているし、レビエリ達もまだ生きている。全身に感じる寒気が恐怖によるものなのかあるいは怒りによるものなのか、自身にもわからない。
最悪の事態を思い浮かべないように聴覚に神経を集中させながら階段を駆け下りる。
長く続く廊下。ユリに付いていってそちらに歩みを進めようとしたその瞬間、息が止まった。
「何だ――これは」
「ッ!?」
聴覚を刺激する奇妙な音。俺が殺戮に気づく契機となった風を切る音がより鮮明に聞こえる。
俺の視界に入ってきたのは糸だった。空中を揺蕩う黒の糸。漆黒の――糸のように見える『何か』が、宙を張り、風もないのに波打っている。
廊下の一角には、頭のない死体があった。絨毯を浸す赤黒い血液。側にはボールのように転がった生首の後頭部が見える。
廊下に生きている者の姿は見えない。糸の先を視線で追う。
糸は細く開かれた窓から入ってきていた。その尖端は廊下の奥にどこまでも伸び確認できなかった。
「勇者様!」
ユリが叫ぶ。とっさに黒帝剣を振りかぶる。
刹那の瞬間、細かに震えていた糸がぴたりと止まった。
ぴんと張られた糸。それ目掛けて思い切り剣を振り下ろす。
手は緊張で震えていたが、既に何千回と繰り返した動作だ。鎧だろうが剣だろうが両断できる斬撃。
人を越えた膂力で振り下ろされたその刃が糸を両断すべくそれに触れたその瞬間――糸が撓んだ。
まるで衝撃を受け流すかのように床近くまで撓むと、そのまま反射するように跳ね上がる。
「伏せろッ!」
叫ぶとほぼ同時に糸の尖端が姿を見せた。廊下の奥に方に伸びていたその尖端がまるで矢のような勢いでこちらに向かってくる。
ユリがとっさに伏せ、レビエリがフレデーラに無理やり床に引き倒される。
突き進んで来る糸。その尖端は点だ。今まで見たこともないものだが、その威力がどれほどのものなのか、身に受ける勇気はない。
速度は相当なものだったが、強化された動体視力はそれを完璧にとらえていた。
出来る。俺なら出来るはずだ。
強く踏み出し、その点に合わせるような形で黒帝剣を突き出した。
重量のある剣。分厚い刃の尖端と糸が正面から衝突する。その見た目からは信じられない驚く程の衝撃が刃に伝わるが黒帝剣はぶれない。
金属同士のぶつかり合う甲高い音。糸の尖端が弾かれ、しかし再び襲い掛かってきた。
縦横無尽にうねるそれを半身で回避し、振り下ろされる糸に刃をぶつける。剣を伝って手に伝わってくるのは反発だ。
――斬れてない。
いや、斬れてないのではない。正確には、力が伝わり切っていないのだ。重い剣ならば刃を両断出来ただろうが、糸は軽い。
そして、どうやって動かしているのかわからない。
糸が肉厚の刃に蛇のように絡みついてくる。
息を呑み、刃を引いてそれを力づくで外す。見た目はただの糸なのにそこから感じられる力は驚くほど強い。
大地に根付いた木を引き抜いているかのような感触。
だが、俺の力の方が――まだ強い。
城での訓練。相手は剣だった。ドラゴンを相手にしたこともあるし、狼や熊のような魔獣と戦ったこともある。
だがこれは……違う。
リーチが広すぎる。剣は言うまでもなく、ドラゴンのブレスにだって、狼や熊だって予備動作があった。しかしこの糸には予備動作が何もない。どこから来るのかもわからない。
魔法か!? これは……魔法なのか?
息を止め、こちらを狙ってくる糸を剣で阻む。剣に絡みつかれても取れるが首に絡まれたら――
側に転がっている首のなくなった死体を思い出したが、頭の中から追い払う。敗北のことを考えてはいけない。
鞭のように降り掛かってくる糸に何とか剣を当てる。
俺だって魔法くらい見たことはある。ユリが使ったところも見たし、レベル上げ名目で森に籠もっていた際に魔物が俺に向かって放ってきた事もある。
だがこれは――術者が見えない。狙いは正確だ。正確に俺に首を、剣を狙ってくる。どこかで見ているはずだ。
……いや、本当に見ているのか? この世界で様々なものを見てきた。見上げるような巨大な竜。牛頭の魔神に、炎の魔法。そして――聖剣。目視していなければ操れないなど、誰が決めた?
弾いた糸が壁を削る。白い壁に鋭い線が奔る。背筋に怖気が奔った。
幸いなのは黒帝剣の刃を切り裂けるほどの力はないだろうという事。
糸は窓から入ってきている。辿れば術者がいるのか? 先を辿れば敵が見つかるのか?
必死に頭を回転させながら猛攻を凌ぐ。
「勇者――様」
伏せたユリが震える声をあげる。
状況はジリ貧だ。俺だけならば逃げられる。糸の速度は矢のように速いが、恐らく俺が全力で走れば逃げ切れるだろう。
だがダメだ。ここには四人いる。レビエリ、フレデーラ、リースグラートにユリ。一人ならばともかく四人も抱えては走れない。いくら力が強くても、俺の腕は二本しかないのだ。
撤退は諦める。考えるだけ無駄だ、どうせ俺には助ける者を選べない。神経を攻撃を受けることに集中させる。
魔法は魔力と呼ばれる力を使うと聞いた。この糸が魔法の産物ならば、耐えしのげば魔力が消耗するはずだ。
糸は限度がないくらいに長いが、所詮一本しかない。少なくとも目の前には一本しか見えない。集中して対応すれば耐えるのは難しくないはずだ。
「お前ら! 後ろに下がれ!」
フレデーラが険しい表情で後ろに下がった。混乱の表情のレビエリと呆然としているリースグラートを引っ張って後退する。
息を整え、必死に自分に言い聞かせる。難しくないはずだ。
糸の動きは確かに読みづらいが、速度も力も俺が上。予備動作を見てからでも十分その動きに対応出来る。
注意しなくてはならないのは、レビエリ達の存在だけだ。今のところ糸が俺以外を狙う気配はないが、俺から後ろに通してはいけない。
頭の中で理屈を並べ、少しでも冷静さを取り戻すべく試みる。
右、左上、下、順番に刃を合わせ弾き返す。突きを剣の腹で受ける。
何度、何十度刃をあわせたか、ふと後ろから鋭い声がした。
「勇者様、いきますッ!」
ユリの声。背中に熱を感じ、ステップを踏んで横にずれる。それと同時に、ユリが高らかに叫んだ。
「
呪文と同時に、すぐ隣を膨大な熱が横を通り過ぎた。
視界が紅蓮に染まる。射出された無数の霧状の炎が廊下の空間を隈なく焼き尽くす。
ユリがぺたんと廊下に座り込んだまま、ぜえぜえと荒い呼吸をする。その顔色は死相が見える程真っ白だった。
先程彼女は杖を持っていないと言った。詳しくは知らないが、恐らく相当な無理をしたのだろう。
目の前に広がる魔法の威力は旅の途中で見た狼を焼き尽くした炎の矢の比ではない。
「い、今の――隙に――」
「ッ……まだだッ!」
視界は炎で染まっている。どれほど視力が良くても、糸など見えない。
だが、音はした。金属の溶けるような音に交じる、不吉な音。糸がこちらに向かってくる音。
数歩後ろに下がる。それとほぼ同時に、炎の霧の中から糸が飛び出てきた。
正確に言えばそれはもう糸ではない。液体だ。黒色の液体。だが、その動きは糸の時と何ら変わらない。
「えッ!?」
ユリが息を呑む。その糸の姿に、俺の脳裏に『スライム』と言う言葉が過ぎる。
剣をとっさに構えた。
液体化した糸が天井近くに上がり、急降下してくる。液体になっても何らその動きに減衰は見られない。
剣をそれに向けて振り下ろしたその瞬間に、糸が軌道を変えた。
俺の剣を避けるように大きく曲がる。俺の横を通り過ぎる。
自分の心臓がどくんと強く鼓動するのを感じる。先にいるのは――ユリだ。
首だけで振り向く。不思議と引き伸ばされた時間。
信じられないものでも見るかのような目。その茶色の瞳が降り掛かってくる奇怪な糸を見つめているのが見える。
とっさに剣を捨てた。そのまま全力で後ろに下がる。緩やかに流れる時間の中、俺だけがいつも通りに動けた。射出された糸を追い越し、地面に伏せるユリを背中で押し倒し、その前に出る。
液体は一瞬ピクリと止まったが、すぐに真上から俺の頭蓋目掛けて降り掛かってきた。
§ § §
正直に言って、俺に自己犠牲の精神はない。
自分から善行と呼べるものを行った事もなければ弱者をかばった事もない。俺の優先順位は自分が第一であり、それを恥じた事だってなかった。
だからきっと、俺がこの世界に来て自分の身で他人を庇う事が出来たのはこの世界が――夢であるからなのだろう。
§ § §
視界が暗転した。何も見えない。
頭に熱を感じた。痛みはない。熱だけだ。
聴覚を揺さぶる悲鳴、嗚咽。鼻に感じる血の臭い。背中に感じる柔らかな温度。
床についた手が冷たい何かに触れる。
俺はそれに触れた刹那の瞬間、すべきことを理解した。
触れた何かから力が流れ込んでくる。一度感じた事がある力だった。自分の存在が矮小に思えるくらいに膨大で純粋なエネルギー。
視界が光に包まれる。そこで俺は初めて目を閉じている事に気づいた。
目を開く。見覚えのある廊下。頭に感じた熱はいつしか冷たさに変わっていた。目の前に垂れている液状の糸。無機質その感触から、何故か動揺が伝わってくる。
わからない。状況がわからない。俺にわかるのは一つだけだ。
いつの間にか握られていた手。その中にある硬い感触。それは剣である。竜の首すら容易く切り裂く『聖なる剣』。
短い呼吸に裂帛の気合を込め、俺は座り込んだその体勢からその糸目掛けてリースグラートを振り上げた。