第十話:銀衝剣リースグラート②
ゴブリン程度ならば轢き殺せる屈強な脚を六本も持つスレイプニルにとって、数人載せた馬車を引いて緩やかな勾配を駆け上がる事など容易いのだろう。
なだらかな山道を、馬車が走る。幅の広い道で、その前後左右を護衛するように第五騎士団の面々が乗った騎馬がついていた。
さすがに平地に比べて振動は大きいが、外を覗くと左右に広がる山肌に立ち並んだ樹木は穏やかな光景で美しい。時たま獣の匂いが風に乗って届くが、山間部の魔物は草原の魔物よりも警戒心が強いのか襲ってくる事はない。
ワレリーはその疑問に、豊かな自然の中にはいくらでも食べ物がありますから、と笑って答えた。
枝か石でも踏んだのか、馬車が大きくがたんと振動する。
俺が退屈そうに見えたのか、ここ数日同じ馬車に乗っていた魔導師が話しかけてきた。
女の魔道士である。騎士は男が多いが、魔導師は女が多いようだ。
ワレリーとは異なり、俺に対する魔導師の表情にはまだ畏れに似た色が見えたが、それでも必死になんとかコミュニケーションを交わそうとしているのが伝わってくる。
俺よりも幾つか年上だろうか。純白の髪をしたその魔導師は自らユリ・ウィズムと名乗った。
どうやら、ワレリー団長はこの馬車に戦力を集中させたらしく、ユリは今随行している魔導師の中では一番の腕前を誇っているらしかった。
声色こそまだ固いものの、会話を交わしてみた感じではそれほど難しい人間でもないようだった。
ユリが今回の目的地について説明してくれる。
「ガーデングルは森の中にある都です。エルフ族が主となり作られた世界に幾つも存在しない珍しい都であり、魔導の発達した魔法都市でもあります。王国とは長年に渡り友好を交わしていて――」
ユリの説明に時おり頷きながら話を聞く。
エルフ。余りそういうのに詳しくない俺でも聞いたことのある単語だ。魔法が得意な森の民のイメージ。
どうやら高位の魔術師の殆どはエルフの血を引く者らしく、魔法の技術に於いて人の国はエルフの二歩も三歩も遅れているらしい。
ガリオン王国はガーデングルと友好を交わしており、見込みのある者を魔術師として育成するためその都市に留学させる事もあるそうで、ユリも留学経験があるとの事。
昔を思い出しているのか、ユリの口調はまるで懐かしむかのようなものだった。
隣のレビエリは面白くなさそうな表情をしているが特に何も言わずに聞いている。
「我が国からは森林地帯では手に入りにくい魔石の類を輸出し、ガーデングルからは主にその高い魔導技術により生み出された魔導具の類を輸入しております。全体の兵力こそそれほど多くないものの、かの国の防御魔法には強力な魔法を操る魔王軍も手が出せない程です」
「特に強力なのは結界魔法でしょうな。かの国の結界魔法はあらゆる攻撃を跳ね返し、あらゆる幻影偽装の類を破ります。エルフは余り争いを好き好まない性質があり、その魔導技術の殆ども防御に偏ったものです。昨今は攻撃魔法の研究も進んでいるようですが……」
ワレリーが補足する。
そこで、ようやく思い出した。
ガーデングル。どこかで聞いた名前だと思ったら、大臣が出していた名前である。確か彼は黒竜を倒した後の謁見でこう言っていたのだ。
『いやはや……空に広がるあの光を見た瞬間には『ガーデングルの悪夢』の再来かと』
レビエリの方を見る。レビエリは俺の視線に一瞬肩を震わせ、すぐにまるで何かを誤魔化すようににっこりと笑った。
……まぁいいか。何をしでかしたのか知らないが、彼女を連れて行く事は王も大臣も知っている。問題があれば言っているだろう。
しかし、エルフの都……ねぇ。
「ただ歩くだけでも王都とは趣の違った自然の都です。勇者殿……もし時間があるのであれば私が案内しますが如何でしょうか?」
ユリがやや恐縮したように窺ってくる。
時間……あるのか?
不躾なのは承知でユリをじろじろと見る。もしかしたら、任務の一つとして言付かっているのかもしれない。
そうでなくとも、せっかくそう言ってくれてるのに断るのも失礼な話だ。
「時間があったら是非。俺は魔導の事は全然知らないが――」
「は、はい。おまかせ下さい。ガーデングルは私にとって庭みたいなものです」
多少緊張の混じった笑顔でユリが言う。
昨日まではあった距離が少しばかり縮まっている気がする。もしかしたら酒場でのレフやワレリーとのやり取りを見られていたのかもしれない。彼女の存在に気づかなかったが、団員は全員集まっていたんだろうし。
レビエリが俺の袖をちょんちょんと引張り言う。
「勇者様……」
「……どうした?」
「……私はガーデングルでは有名なので、なるべく宿の外には出ないようにしたいと思います」
「……わかった」
泣きそうな表情で言うレビエリ。それに何と答えられようか。
……余りいい感じの有名ではないんだろうなぁ。
「代わりに……ダメダメなリースちゃんとフレちゃんについていってもらうので」
「……レビ先輩、そのダメダメっていうの……いる?」
「わかった」
ダメダメなリースグラートの恨みがましい視線。
レビエリがいないと武器がない。まだ顕現化した事がないフレデーラはともかく、いざという時にリースグラートがいれば安心だ。
黒帝剣背負って街の中練り歩くわけにもいかないだろうし、まぁどちらにせよ使うつもりはあまりないんだがそれでレビエリが安心出来るのであればそれはそれで。
ワレリーが朗らかな笑みを浮かべた。
「ガーデングルは一風変わった都です。武器防具の類も特殊なものが揃っております。そのあたりを確認するのもよろしいかと」
「武具か……」
「特に勇者殿は――軽装過ぎる。鎧の一つでも買っては?」
「……宝物庫に幾つかあって使用許可は貰っているんだが、重さはともかく動きづらいので使うのをやめたんだ」
どのみち当たらなければ意味はないし、大抵の攻撃は受け止められる。盾を持っていないのも同じ理由だ。
今のところ誰かの攻撃が当たったことはない。唯一俺の肌に当たったのはミノタウロスの斧だがあれは結局当たったというよりは受け止めたわけで――。
「かの都には魔法により防御力を向上させた特殊な布製の装備があります。そちらならば邪魔にもならないでしょうし、魔法にも耐性があるかと」
「あー……それはいいかもしれないな」
布ならば今着ているものと変わりないだろう。果たして有効かどうかは知らないが、備えはあった方がいい。
ユリが大きく頷いた所で、突然馬車が急停止した。
スレイプニルの激しい嘶き。まるで世界が崩壊するような激しい地響き。急停止によりこっちに倒れ込んできたレビエリを受け止める。
御者席の方から切羽詰まった声が聞こえる。
「落石ですッ!」
「何だとッ!?」
地鳴りが治まるのを待ってワレリーが飛び出す。俺もそれに続いて馬車の下に降りる。
空気中に飛散していた砂埃が収まる。
外の光景は今まで見たことにないものだった。山肌から崩れ去ったのか、馬車三台分程もあった幅の道が土砂と岩で完全に塞がれている。
「く……分断された……大丈夫かッ!?」
隣を騎馬で走っていた第三騎士団の騎士が土砂の先に叫ぶ。
しばらくして、土砂の向こうから声が返ってきた。馬車に先行する形で護衛してくれていた騎士もどうやら無事らしい。
まんべんなく積み上がった土砂と巨大な岩はとても人の手で取り除けられるような量ではない。スレイプニルの脚力でも飛び越える事は難しいだろう。
だが、会話を交わすワレリーとレフにはそこまで焦った様子はない。
「土砂を取り除くのは魔法を使えばいいとして……タイミングが悪すぎるな……」
「ですね……最近は大雨などの土砂崩れの兆候もなかったはずですが……」
「人為的なものか? だが……この岩の大きさは人の手で転がせるようなものでもない」
なるほど……魔法を使えばどかせるのか。
まぁ、俺がまだ慣れていないだけで道理である。炎の矢とかまるで爆弾みたいなもんだったし。
ワレリーが険しい視線で岩を見る。どこから転がってきたのか、そびえる山肌を見てもその跡はない。
確かに自然に転がってくるにしてはタイミング共に出来すぎているが――
ワレリーに指示を出され、ユリを初めとした魔導師が杖を構え、岩に向けて呪文を唱え始める。
その時、ふと小さな風が吹いた。微かな匂いが鼻孔をくすぐる。それに気づいた瞬間、俺はとっさに叫んでいた。
「敵だっ!」
血の臭いを纏った人の臭い。人間は無意識にその感情に応じて異なる臭いを放っている。敵意、緊張、興奮、悲哀、まだ鋭敏になった感覚に慣れていない俺には嗅ぎ分けられないが、それは少なくともいい匂いではなかった。
「上だッ!」
叫ぶと同時に、崖の上から無数の点が迫ってくる。いや、点ではない。
それは無数の矢だった。
ワレリーが、レフが、他の騎士が反射のような速度で剣を抜く。盾を持っていた第二騎士団の騎士が盾を上空に構える。
そして、知覚が加速した。
風景がゆっくりと流れる。ぎざぎざした黒い鏃に、そこから漂ってくる嫌な臭い。矢の本数まで数えられる程に時が引き伸ばされる。
幌は頑丈だと聞いている。外に出ていないレビエリやフレデーラに危険はないだろう。矢は一見、満遍なく降ってきているように見えるが、その対象は俺と、ローブのみを羽織った魔導師集団に集中していた。
俺は詠唱を開始した直後で、隙だらけの魔導師の方に駆ける。ユリと他の魔導師を引き倒すように伏せさせる。数発の矢が俺の背中を打った。
「勇者殿ッ!?」
「ッ――大丈夫だッ! 貫かれていないッ!」
悲鳴と咆哮が湧き上がる。痛みはない。
鏃から漂う鼻がぴりぴりくるような嫌な臭い――恐らく毒でも塗られているのだろう。だが、どのような毒でも傷付けられなければ――無意味。よしんば触れただけで影響を及ぼす毒液だったとしても、今の俺に通じるのかどうかはわからない。
布で出来た外套や服は貫かれたが肌に痛みはない。全てが皮膚に弾かれたのだ。
鎧など装備していなくても今の俺の身体は金属よりも遙かに固くそして柔軟だった。
見極める。感覚が更に加速する。加速した聴覚にレフの怒鳴り声が聞こえた。
「賊だッ!」
ユリを自分の下に庇う。矢を背で受け、他の魔導師に降りかかる矢を腕で弾き飛ばした。
圧縮された時の中、何もかもがスローモーションで動く中、俺だけが何時も通りの速度で動けた。
ここしばらくのたった一人での訓練で俺は自分の身体能力についてある程度の納得を得ていた。
感覚的なものではあるが、これは言うなれば――『出力』の違い。今の俺の身体が出せる力は人の肉体のまま人の限界を超える。
人の身体能力に慣れすぎていたせいで、無意識に制限していたせいで、最近まで出せなかった力である。肉体感覚が変わらなかったせいで気づくのが遅れた力である。
そして、ただの石ころを弾丸のように飛ばす力だ。
降り注ぐ無数の矢を見分け手で弾ける人間が果たして――存在するだろうか。
降り注ぐ無数の矢を腕で振り払い、弾く。獣のように。いくら雨のように降り注ぐ矢でも雨のように長く続くわけではない。
答えは――イエス。まだ俺が人間と呼べるのであれば、イエスだ。
こちらに降り注いできた矢の最後の一本を弾くと同時に立ち上がった。
顔をあげたその時に俺の視界に入ってきたのは、山肌を滑るようにして下ってくる無数の人だ。
日に焼けた肌。屈強な身体。使い込まれた武器。だが、それ以上に彼らの間で共通しているのは臭いだ。
どんな臭いなのか言葉では表現できない。だが、奴らからは――敵の臭いがした。
「来るぞ、迎え撃てッ!」
ワレリーが、叫ぶ。
人を超えた身体能力を持っているわけでもないのに矢の雨を乗り切った騎士たちが剣を構える。
手早く周囲を確認する。数人は矢で倒れているが、鎧と甲のおかげで生き残っている人数の方が多いようだ。
レフの部下は持っていなかったが、ワレリーの率いるメンバーは盾を持っていた。かばったのだろう、あるいは魔導師には身を守る術もあったのか、立っている魔導師の数もまたそれなりに多い。険しい表情で一歩下がり詠唱を開始している。
矢に倒れた者たちの小さな、囁くような苦悶の声が俺の耳には聞こえる。同時にその者たちからは――奇妙な臭いがした。
いや、奇妙な臭いではない。これは……恐らく『死臭』だ。それを内に刻みつける。きっと俺は――この臭いを忘れてはならない。
「ワレリー、どけッ!」
地面を蹴る。剣などいらない。俺の身体は凶器である。矢の通らない肉体なのだ。
俺の声にも体勢を崩さないワレリーの隣を抜ける。俺の眼には曲刀や直刀、斧などを構えた『賊』とやらがはっきりと見えた。
黒く日に焼けた歪んだ笑み。凶悪な笑み。まだその眼は俺の動きを認識出来ていない。そして、最後まで認識出来ないだろう。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
叫ぶ。踏み込む。そして、自分を弾丸と化した。
大きく握った拳を振りかぶり、勢いを乗せ、力を込めて振り下ろす。そして、拳が何かをぶち破る音がした。