第十四話:気静剣レビエリ⑪
この世界は俺の事を舐めている。
その事を俺は、改めて心の底から実感していた。
「魔物!? あれが、魔物!? 馬鹿じゃねーのあの兵士……!」
魔物? いや、確かに魔物だろう。
だが、日本人じゃなくても、この世界の住人じゃなくても、多くの人はあの魔物をきっと、こう呼ぶ。
「……ドラ……ゴン!?」
そう。竜。ドラゴン。
空想生物最強の代名詞。どんな子供でも、どんな一般人でも名前くらいは聞いたことがあるであろうその脅威が今、西門を蹂躙していた。
体長はアイアン・ゴーレムよりもでかく、その咆哮はミノタウロスよりも強靭で、その威圧は俺達が如何に脆弱な生き物だか、魂の底から知らしめる。
漆黒の鱗を持つ竜が、そこにはいた。周囲には多種多様の今まで森で出会った魔物たちが徒党を組んで立ち並んでいたが、そんなのは問題にならないくらいに大物の存在感が強い。
どこから出てきたんだ……こいつ。ここ数週間で森の中は探索し尽くしたはずだ。そうでなくても、土の神性を持つレビエリは森の中の魔物の場所を正確に感知する事ができていた。その目を掻い潜る事は不可能だ。
まだ真正面から向かい合ってすらいないのに感じられる痺れるような恐怖。
そうだ、恐怖だ。森の魔物を虐殺している間には全く感じなかった恐怖が、脳の神経をかき回している。
フレデールの双眸も驚愕に染まっていた。
「馬鹿な……
ささくれだった心中、レアリティの判定を行う。
レアリティ:SSS
間違いなく今まで出会った最もレアな
おいおい、いくらなんでもミノタウロスの後にドラゴンはないだろ……順番考えろよ。
とっさに出たそんなつっこみも恐怖を和らげる一助にもならない。
外壁は頑丈だ。結界が張ってあるとも聞いている。
だが、それでもあの竜を相手に防ぎきれるのか?
見上げる程高き城壁を超えそうな程に巨大な竜。明らかに別格な存在を相手に、久しぶりに手が指が震える。
西門の外は既に死屍累々だった。
門の外で刃を交える蒼の甲冑の騎士達。その熟練度は高く、王国最強と呼び名の高い精鋭たちだという話を聞いているがそれでも、森の魔物は倒せても、あの竜を相手にすると豆粒のようなものだ。
そもそもの魔物の数が多すぎる。
血の、肉の、骨の匂い。剣戟の音、絶叫。その全ての現実感が竜一匹に飲まれてまるで夢幻のように遠い。
竜が動く。まるで砦が動いたかのような錯覚。
横薙ぎに迫った黒の壁に、森の魔物ごと騎士団が天高く跳ね上げられた。
まだ門の中から覗いていたからわかる。俯瞰できていたから分かる。
それは壁ではない。尾だ。あまりにも巨大過ぎて壁にしか見えなかっただけで。恐らく、騎士達には自分が何にやられたのかすらわからなかっただろう。
余りにも――『規模』が大きすぎる。
あの巨体と比べたら俺の持っているリースグラート何て、爪楊枝みたいなものだ。
ミノタウロスの時にも感じられた剣の頼りなさが、数十倍もの規模で感じられる。
なんという大きさ。要塞――いや、あれはもはや災害だ。勇者だとか、夢だとか関係なく、ちっぽけな人間には――逃げることしか……出来ない。
「ちょっと! 正気に戻りなさい!」
肩を揺さぶられ、自身の意識が飛んでいた事に気づく。
フレデーラも常軌ならぬ様子だ。
何たる失態。何たる惰弱。俺はただ惚けるためだけにここまでストーリーを進めてきたわけではない。
だが、それこそ勝てるビジョンが――浮かばない。
頭部は遥か上空、大きく飛び上がってもそこまでは届かないだろう。
俺が受け取った屋敷ほどもある怪物にどうやって立ち向かえというのか!?
その背に生えた黒翼が大きく羽ばたく。太陽を覆い隠すほどの巨大な翼。
それだけで体感感覚がぐちゃぐちゃになる程の衝撃が全身を襲った。
とっさに地面を強く踏みしめる。それだけでは足りないと理解し、城壁を思い切り掴む。
指が壁を構成する金属を砕く感覚。右手で壁を掴み、左手でレビエリの手を掴む。
「ぐっ……」
三半規管がかき回される。前後左右上下全てが全てわからない。
それでも手は離さない。引きちぎれそうな程の激痛が腕を襲う。それでも手は離さない。離してしまったら、一度この場から離脱してしまったら、二度と戻ってこれないような気がする。
衝撃は僅か十数秒。だが、それが何分にも何時間にも感じられた。
衝撃が消え、地べたに這いつくばる。崩された感覚を、意識を立て直す。
まっさら。戦場はまっさらになっていた。僅か一度の羽ばたきで、あれほどいた騎士団も、魔物も、誰一人そこには残っていない。死屍累々に転がった死体さえも。
竜が吠える、とっさに耳を抑える。
音で身体が揺れる。崩れる。門の中から聞こえる悲鳴に怒号。
視界が暗くなりそうな強烈な目眩の中、あの化け物を打ち崩す手段を考えていた。
それは、今日までの二十日間、数多の魔物を殺戮する上で生み出された反射行動だ。
必死に回転させる頭。
あの竜の弱点は何だ? 頭部? 心臓? 首?
本来の生物にならばあるべき弱点。それがまるで――見えない。
届かない。大きいというのはそこまで有利な条件なのか!?
剣を見る。魔法剣リースグラート。
今日まで俺はこの極めて高い切れ味の剣で全ての魔物をぶった切ってきた。
だが、この剣は――あの鱗を裂けるのか!?
あの巨体を、要塞のような巨体を、生物としての常識を覆す巨体を、今まで通り分断できるのか!?
今初めて俺は、自分が戦闘向けのスキルを得られなかったことを後悔していた。もう一つのスキルオーブを使わなかったことを後悔していた。
最上級の戦闘スキルとやらあればもしかしたら――一矢報いる事ができたかもしれないのに。
握っていたレビエリの手を離す。自分自身の手を見下ろす。その手は目の前の脅威に対して余りにもちっぽけだ。
俺は……どうしたら――
……いや、ダメだ。どうしたらじゃない。それを決めるのは俺だ。この俺だ。この勇者、神谷定輝だ。
この世界は俺の夢幻。ならば、俺の意志で打開せずに何の意志でこの状況が打開できようか。
俺が助けずとも、身を低くして見事に風を回避してみせたフレデーラに問いかける。
「……フレデーラ、おまえなら、おまえを顕現化すればあの竜を倒せるのか?」
「……奴は上位竜種――炎に高い耐性があるわ。私を百パーセント操る事ができたらもしかしたら勝てるかもしれないけど――」
フレデーラのいつも勝ち気な瞳が揺れている。それだけで分かった。
例えフレデーラを顕現化した所で俺では――奴に勝てない。
ならば、他の聖剣を連れてくるか?
漆黒明竜のランクを超えるLランクのレアリティを持つ聖剣ならばもしかしたら勝てるのではないか?
レアリティが破壊力に直結しているとは思えない。思えないが、それでも目があるのならばそこに縋りつかねばならない。
それがきっと、勇者としての俺の役割だ。
諦める訳にはいかない。
やっと、今日やっと、待ちに待ったレビエリとの
竜の前足が城壁の上にかかる。
城壁の護り手がいるのだろう。雨霰と降り注ぐ矢。それらは一本も竜の鱗を貫くことができない。いや、あの大きさの竜では矢の一本や二本刺さった所で痛みの一つも感じないだろう。
必死の攻撃を物ともせず、城壁がみしりと轟音をたてて揺らめいた。
ぱらぱらと天井から落ちてくる欠片を、俺は呆然と見ていた。城壁が崩れる。そうなれば、森の魔物が流れこんでくるだろう。
どれだけの被害が出るだろうか。いや、そんなことになれば――王都は滅ぶ。
来てからたったの三週間だ。俺の関わった人数なんてたかが知れているが、それでも何千何万の人が死傷するだろう。
殺るしかない。例え勝ち目がなくたって、立ち向かうしかない。
狙うならば――眼か。リースグラートが俺の意志に呼応するように鳴動する。
剣を強く握る。眼球はさすがに鱗で覆われていまい。
全魂をこれからの数分で燃やす。大魔王討伐なんてどうでもいい。あの竜を倒すことだけを考えろ。
それ以外の思考は――不要だ。
意識を集約し、一歩前に踏みだそうとした俺の手をレビエリが掴んだ。
「……勇者……様……」
「レビ……」
レビエリの表情はもう気弱な少女のものではなかった。
口調は、手は震えているがその意志だけは曇りない。
「……わ、私も一緒に……戦い、ます……勇者様、死んじゃい、ます……」
その心遣いは嬉しい。今は猫の手も借りたい。聖剣など使わずとも魔王を倒せると豪語した過去の自分のなんと愚かであることか。
勝てるならばなんだって使う。
だが、レビエリは――
「……だが、レビは防御用の聖剣だと――」
「だ、だから……こう、するんですッ!!」
「え!?」
レビエリが驚くほどの力で、俺の握っていたリースグラートをもぎ取った。
そのまま剣を地面に叩きつける。
え? 何やってんの?
絶体絶命の状況でこの暴挙。止めようにも、レビエリの表情は真剣だ。
そのままレビエリは足でその剣身を踏みにじった。
底冷えするような声、今まで俺が見たことのなかった感情――暴力的なまでに冷たい眼でそれを見下ろす。俺の感覚が正しければ、それは『殺意』だった。
「さ、解いたよ? リース、ちゃん? 起きて、リースちゃん? 起きないと――」
続きを言わずに、レビエリが冷たく微笑む。
その瞬間、俺は嫌な奇跡を眼にした。
剣が銀白色に強く発光する。まるで世界が塗り変わるような光に思わず戦場で在る事を忘れる。
光が消えたその時、そこには剣の姿はなかった。
そこにいたのは……
「ううう……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください」
「ちょ……」
うずくまってガタガタ震えているショートカットの少女だった。
立ち上がればレビエリよりも高いであろう長身を出来る限り小さく縮め、自らの肩をかき抱いている。眼を見張るような綺麗な銀髪の隙間から恐怖に見開かれた眼が見える。
俺はその瞬間、何もかもを忘れてドン引きした。
ドン引きだった。
竜とかもうどうでもいいわ、これ。世界もどうでもいいわ。
死の恐怖以上の恐怖を俺はその時初めて知ったのだ。
ってか、本当に剣が人になるのね。
レビエリがちょっと困ったようにそれを見下ろし、俺の方に紹介してくれる。
「これが……『金』の属性を司る、聖剣の一振り。より好みしすぎて担い手が集まらず、自我が消えてしまった、銀衝剣のリースグラートちゃん、です……」
その説明だけ聞くと超ダメな子に聞こえるんだが……
そのまま腰を下ろし、リースグラートの肩――自ら掻き抱いている肩の手の上に手を重ねる。
リースグラートがびくりと大きく震えた。
「さ、リースちゃん……私の勇者様に、ご挨拶、して、ください?」
「は、はいいいいぃ! り、リースグラートですっ! せ、聖剣とかッ! やってますッ!」
知っとるがな。
だが、とてもじゃないがその様子につっこみを入れる勇気はなかった。
レビエリが首根っこを掴んで無理やり立たせ、その顔を下から覗き込むのも止められなかった。それ、恐喝でもしてるように見えるんだけど。
「さ、リースちゃん? リースちゃんの力が――銀衝剣が必要です。『
そして気のせいでもなんでもなかった。恐喝だ。
フレデーラが目元を抑えて見て見ぬふりをしている。俺の視線に気づくと、口元だけで言った。
か、れ、つ、な、の
こんなの、苛烈とかそういうレベルじゃねーよ。馬鹿か。
「ぼぼ、ぼくの、け、顕現化の、条件は――」
「条件? へぇ。自我が消えていたリースちゃんを救ってくれた勇者様への顕現化に条件つけるん、ですね。へぇ……」
「!? い、いや、でも、それとこれとは別……」
「リースちゃんの条件って何でしたっけ? 顔がいい事でしたっけ? なら、大丈夫、ですね。だって私の勇者様……こんなに格好いい……です」
レビエリが頬を染めて俺の方をちらちら見上げてくる。顎を掴んでリースグラートにも見せつけている。
うあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
やめてくれええええええええええええええええええええええええええええええ!!
せ、精神攻撃が……顔がいいとか言われたことねーよ! 視覚にどんな補正かかってんだよ!
リースグラートが一瞬真顔になってるじゃねーか!
「……ぼ、僕の条件、別に顔とかじゃないので……」
しかも顔じゃねーのかよ。俺ダメージ受け損じゃねーか。
「あれ? そうでしたっけ? 何でしたっけ? まぁ、何でも、いいです。リースちゃん、ずっと剣のままで、いたいです、か?」
え、えげつねえ……
交渉を諦めて真正面から脅しはじめてやがる……
意外なことに、多種多様な脅しを受けても、リースグラートはなかなか折れない。
「で、でも……聖剣としての、プライドが……」
すると今度は、方針を転換して泣き落としを始めるレビエリ。
「一回だけ! 今日一回だけでいいので、力を貸してくだ、さい。一回だけ、顕現化したら、後は好きにしていいの、で。……助けてあげました、よね?」
封印してたの君だけどな……
だが、信じられない事にレビエリの説得とも呼べぬ説得に、リースグラートは迷い始めていた。
「た、確かに……でも……一回……一回、かあ……そ、それくらいなら考えても……僕も久しぶりに暴れたいし……」
「あ、ありがとうございます! さすが、リースちゃん。聖剣で一番賢くて可愛くてそして強い、銀衝剣に相応しい、聡明な回答……」
「……え、えへへ……そうかな。じゃ、じゃー少しだけ、頑張っちゃおうかな……」
リースグラート……アホの子だったんだな……可哀想に……
煽てられてデレデレしているリースグラートに、もはや憐憫の情しか浮かばない。
……ってか不安しかないんだが!
凄まじい切れ味を見せていた頃の評価まで今のやりとりで下がりつつあるんだが!
レアリティSSSランクの聖剣、フレデーラが勝てないかもとまで言った相手に、Aランクのリースグラートで大丈夫なのか?
恐る恐るフレデーラの方を見るが、フレデーラは特に心配している様子もなかった。
……どういうことだ?
降り注ぐ殺意と矢。
それに痛痒を感じない巨大な魔獣。
聖剣達。
まさしく、夢幻だ。
だが、色が、匂いが、感覚が――鮮烈なまでのリアリティを伝えている。
レビエリが囁く。
「勇者……様。準備ができまし、た……」
「い、一回だけなので……勘違いしないでよね、勇者様!」
リースグラートが何故か少し照れながら俺に右手を差し伸べる。
……
いいだろう。あれほど散々、共に魔物を殺した剣だ。
例え人になった所でその切れ味は変わるまい。変わらないでほしい。変わらなかったらいいなぁ……
その手をこちらも右手で取る。
方やレビが、似合わないしなを作って俺の左手を両手で取った。
「勇者様……レビを……可愛がってくだ、さい?」
「あ……ああ……」
いや、だって。
そりゃ、ああとしか言えない。
だが、其の返事で十分だったようで、レビエリはとても嬉しそうに華奢な指を俺の手に絡めた。
今にも崩れそうな城壁に背を預け、こちらに視線を投げかけているフレデーラに問いかける。
「フレデーラは?」
「……見てるわよ。聖剣を二本も使って勝てなかったら……承知しないんだから!」
「……ああ、そうだな」
だが俺……今まで二刀流とかやったことがないんだが、大丈夫だろうか?
そんな疑問が頭をよぎりかけたが、すぐに片隅に追いやる。今考えるべきことはそんなことではない。
如何に目の前の竜を倒すか。それだけだ。
竜はこちらを――見てすらいない。舐めきっている。
いや、事実、その反応は正しいのだろう。人が地を歩く蟻に気を使わないように、こいつは俺の事をただの虫以下だと思っている。
ならば、その存在を――俺がこの聖剣で討ち滅ぼそう。
「いくよ……『
リースグラートが宣言する。同時に、光の柱が立ち上った。