初夜のベッドに花を撒く係VS式当日に花嫁を攫いに来た魔族

作者: 棚本いこま


 本日は結婚式である。

 それもこの国の王子とその婚約者の御結婚なのだから、その盛大さは言うまでもない。


 かくして王城に勤めるメイドの一人である私に、重要な任務が課せられた。

 それすなわち、初夜のベッドに花を撒く係である。


 初夜のベッドに花を撒く係とはなんぞやと訊かれても初夜のベッドに花を撒く係ですとしか答えられないのだけれど、ともかく新婚夫婦のためのベッドに花弁をいい感じに配置してロマンチックな雰囲気を演出しておくのが私の役目だ。雰囲気は大事である。


 というわけで、階下の広間では晩餐会中のこの時間、主役不在のひっそりとした寝室で私は一人、真っ赤な薔薇を目一杯に詰めた籠を抱えて立っている。


 ちなみに日中は日中でありとあらゆる雑用に駆り出されていた。何せ国を挙げての結婚式だから、人手はいくらあっても足りない。しかも王族の結婚式だから、とにかく朝から今に至るまで儀式と挨拶と儀式と会食と儀式と挨拶と儀式がてんこ盛りだ。王室の決まりというやつらしいが、一日に予定を詰め込み過ぎである。日にち分けろと言いたい。


 そんな詰め詰めスケジュールなものだから、王族として宮廷行事に慣れている王子はともかく、世慣れない様子の花嫁は昼の時点ですでに疲れ果てた様子だった。

 特に、目の前にご馳走があっても思うままに食べられないことが心身に堪えたらしく、豪華なドレスで立ちながら切なげな瞳で「生ハムメロン……」と呟く姿なんて涙を誘ったものである。


 そんな感じで晴れの舞台でありながら元気のない花嫁を「元気を出してください。明日の朝食は三段パンケーキです」と柔らかな微笑みで励ます王子は、永久凍土の化身みたいな普段の様子とは別人のようだった。心から幸せそうな眼差しで彼女を見つめる姿は疲労とは無縁そうで、もはや新婦がいれば水も酸素もなくても生きていけそうな具合だった。


 だから王子の方は大丈夫だろうけれど、詰め詰めスケジュールで心身ともに疲れ果てた状態で初夜を迎える花嫁が心配だった。ゆえに寝室を彩る私の役割は重要である。疲労困憊の花嫁には、せめて美しく飾られたベッドを見て、華やかな気持ちになって欲しい。


 このリシェルが住み込みメイドの職責にかけて、結婚式の疲れが吹き飛ぶような素敵なベッドに仕上げて見せよう。


「ものすごくロマンチックな雰囲気を演出してやりますとも……!」


 籠に詰まった薔薇の花弁を掬い、気合を入れてベッドの上に撒き始める。これが案外難しい。適当に撒くと偏るし、整然と並べると趣がない。

 お洒落とはたとえ頑張りまくっていても頑張りまくっていない感じを装う「抜け感」「こなれ具合」「大人の余裕」が大事なのだとメイド仲間が言っていた。目指すはそれである。無造作な感じを醸しつつ自然が作りだした妙味と言った按配を目指して計算し尽くされた美を演出せねばなるまい。


 試行錯誤の末、いい感じに花を撒けた。かなり時間がかかったが納得のいく仕上がりになって達成感が深い。白いシーツに映える真っ赤な花弁。部屋に漂う甘い香り。うん。完璧だ。


 これなら花嫁も喜ぶだろうと腕を組んで一人頷いていたら、ベッドに配置した花弁が数枚、ふわりと動いた。微かに感じる夜風。


 振り向くと、窓が開いていた。換気の後にきちんと締めたはずなのに、風で開いてしまったのだろうか。でも、それにしては音がしなかったような。

 まあ原因はともかく、空気を読まない夜風に私の最高傑作が散らされては大変だ。


 窓を締め直そうと、手を伸ばしかけて。


「動くな」


 と、真横から首を掴まれた。


 腕を中途半端に伸ばした微妙な体勢で固まる私に、相手は「大声を出すな。騒がなければ手荒なことはしない。分かったら返事をしろ」と言った。


「わ、わか、分かりました」


 二十年の人生で初めて訪れた生命の危機に震えながら小声で了承を返すと、相手は「ゆっくりとこちらを向け」と命じ、案外あっさりと手を離した。


 強盗だろうかと怯えつつ、怖々と相手の方を向き、息を呑んだ。


 夜空に浮かぶ月のような金色の瞳に、夜空そのもののような黒い髪をした、私と同じか少し年上くらいの青年。珍しい色の瞳と髪だが、それだけなら普通の人間の範疇である。


 問題は、頭に生えた二本の角と、身の丈ほどある蝙蝠みたいな翼である。あと尻尾。


「ま、魔族の方ですか」


「見ての通り」


 青年は楽しそうな笑みを浮かべ、いかにも悪魔感のある先が三角形をした細長い尻尾を揺らめかせながら肯定した。そのゆらゆらしている感じが猫を思わせてちょっと可愛い、じゃなかった、現実逃避をしている場合ではない。


「……えーと、魔族の方が、王城の寝室に、何用でございましょうか……?」


 お城のトイレを借りに来たのでしたら部屋を出て突き当りを右に……と続けた私に、魔族の青年は「お前に用がある、花嫁」と言った。


「はあ、私に。……ん、花嫁?」


 自分の顔を指して訊き返すと、青年は頷いた。

 そして、それは素敵なドヤ顔で、こう続けた。


「お前を攫いに来た。王子ではなく俺と結婚しろ、花嫁」


「いや私はメイドです」


 ドヤ顔なところ申し訳ないのだけれど秒で訂正したら、青年は「え?」とキョトンとした顔で首を傾げた。


「お前、花嫁じゃないのか? 王子と結婚するという本日の主役ではないのか?」


「違います。ただのメイドです。主役どころか脇役の中でもさらに脇の隅の端の方です」


「ここが新婚夫婦の寝室だと部下に聞いたんだが……」


「新婚夫婦の寝室を整備中のただのメイドです」


「なるほど」


 青年は納得してくれた。が、私の方は納得していないことがある。


「……あの、なぜ顔も知らない花嫁を攫いに来たんですか?」


 メイドと姫を間違えるくらいだ、長年恋い慕っていたということでもないのだろう。なぜ討伐される危険を冒してまで王子の花嫁を狙いに来たのか気になって訊ねたら、青年は「よくぞ訊いてくれた」とばかりに、得意げに笑った。


「俺はわけあって数日以内に結婚しなければならない。でも同じ魔族だとちょっと面倒事が多いから、人間と結婚しようと思った。ゆえに、婚活として結婚式当日の花嫁を攫いに来たんだ」


「いやなぜ婚活の初手が略奪愛なんですか。なぜわざわざ他人の花嫁を攫うんですか」


「それはもちろん、俺に惚れさせようと思って」


 ん?


「だって俺の都合で結婚してもらうのに、好きでもない奴と結婚するとなったら相手が可哀想だろう? 幸せな結婚生活のためにも、俺の花嫁にはぜひ俺に惚れて欲しい」


 ん?


「……あのー、攫う行為と惚れさせることに、一体何の関係が……?」


 話が見えてこなくて混乱していると、魔族の青年は神妙な表情になって、懐からすっと一冊の本を取り出した。

 タイトル、『悪役令嬢は運命の騎士と駆け落ちをする』。たぶんハッピーエンドである。


「魔族と人間は感性が違うと聞く。だから人間を妻にするにあたって、人間たちの間で流行っている本を参考に勉強したんだ。この小説の花嫁は結婚式の最中、式場に乱入してきた男の方の手を取っていた。つまり、人間は結婚式に乱入して花嫁を攫う男に惚れるということだろう?」


「結論」


 人間の勉強に恋愛小説を使わないでいただきたい。そして乱入するシーンを間違っている。結婚式当日は当日だけれどもう晩餐の段階である。


「だから俺の花嫁にする人間を俺に惚れさせるために他人の花嫁を攫いに来たわけだが」


「いや色々間違っているのですが攫うなら攫うでせめて昼間の教会に現れてくださいよ」


「言いたいことは分かる。俺だって本当は小説の通りに『その結婚ちょっと待った!』って教会の扉を蹴破りたかったんだ。でも寝坊したんだから仕方ないだろ。まあ夜なら寝室にいるはずだと思って、ぎりぎり間に合うだろうと駆けつけたんだ」


「何一つ間に合ってませんよ。全てがもう遅いですよ。そもそも『結婚式当日に乱入して攫えば惚れる』という図式が間違っています」


「そうなのか?」


「そうです。せっかくの結婚式をぶち壊して花嫁を攫ったところで普通に嫌われますよ。一般女性代表として進言します」


「そうだったのか……」


 青年は儚げな微笑を浮かべると、恋愛小説を懐に仕舞い直した。


「ふっ、俺もまだまだ勉強不足だったということか」


 勉強不足というか教材の選択の時点で間違っている気がしてならないのだけれどそこを指摘できる雰囲気ではなかったので触れずにおいた。


「ちなみに、なぜ見るからにメイドの私を花嫁と間違ったんですか?」


「王子の方が初夜に妻をメイド服で待機させる趣味なのかなって」


「とんだ風評被害」


「メイドの服を着た花嫁ではなくメイドの服を着たメイドだったか。花嫁だと早とちりしてすまなかったな」


「いえ、そこはもうお構いなく……」


 強盗かと思ってビビったらまさかの魔族でさらに驚いたのだけれど(王都の魔族除け結界はどうしたのか)、なんだか突っ込みどころ満載の言動に段々と恐怖心が落ち着いてきた。何より、彼からは一切の敵意を感じないのだ。


 だから、本来ならば「魔族」という存在は遭遇すれば逃げるべきとされる相手なのだけれど、もともと魔族に対する嫌悪感は持っていないことも相まって、逃げようという気持ちは全く働かなかった。


「しかし人間の生態は思ったよりも複雑なんだな。結婚式当日に花嫁を攫って惚れてもらうという周到な計画が崩れてしまった」


「周到な割に寝坊したんですね」


「はっ。舐めてもらっては困る。もちろん第二案も用意してきた」


 そう言って彼が不敵な笑みで懐から取り出したのは、これも恋愛小説だった。

 タイトル、『伯爵様との仮初の結婚から始まる本物の溺愛生活』。きっとハッピーエンドである。


「人間の世界では偽装結婚が喜ばれるらしいということも学習済みだ」


「偏った知識が留まるところを知らない」


 頼むから恋愛小説のみで人間の生態を学ばないでいただきたい。


「じゃ、花嫁に偽装結婚を持ちかけてくるから居場所を教えてくれ」


「ちょちょちょちょっと待ってください」


 すたすたと普通に寝室を出ていこうとする魔族の青年を慌てて引き留めた。魔族が侵入したと分かったら大騒動になる。せっかくのお祝いムードが台無しだし、この魔族の青年もタダでは済まないだろう。彼は教材を間違ってしまっただけで(読解力にも問題はあるけれど)悪気は無いのだから、問答無用で殺されてしまっては可哀想である。


「なぜ止める」


「いやあの花嫁の誘拐を思い留まってくれたのはありがたいのですが、花嫁に偽装結婚を持ちかけるのもやめてくれませんかね?」


 寝室から出さないように両手を広げて通せんぼをすると、魔族の青年はあっさりと立ち止まってくれ、「お前の懸念は分かっている」と、私を宥めるように言った。


「また嫌われると言いたいんだろ? 甘いな。よく聞けよ、第二案のいいところは『最初は愛がなかったけれど徐々に芽生えていく』ところだ。好感度皆無のところから最終的に溺愛生活に持ち込むから安心しろ」


「いや違います。そこじゃないです。好感度云々の前に、そもそも偽装結婚は未婚女性に持ちかけるものです」


「そうなのか?」


「そうです。その本ちょっと貸してください」


 魔族の青年の手から小説を奪い取り、パラパラとページをめくって「ほら偽装結婚を持ちかけられた主人公は未婚の令嬢でしょう。間違っても新妻ではありません」と見せつける。魔族の青年は「確かに」と素直に頷いた。


「第一案が頓挫したのに思考を切り替えられず、無意識に『花嫁を狙う』という前提を第二案にまで持ち越してしまったということか……。確かに冷静に考えれば、偽装結婚で二重結婚で誘拐前提の略奪愛、なんて要素が多過ぎて追いつけない」


「ご理解いただけて何よりです」


 危ない所だった。今日から王子との結婚生活が始まる花嫁に偽装結婚を持ちかけられずに済んだようだ。


 安堵していたら、魔族の青年がとても気さくな感じで、私の肩にポンと手を置いた。


「つまりお前は相手が他人の花嫁だから駄目だと言いたいんだよな?」


「そうです」


「ならお前と偽装結婚をすれば問題ないわけだな?」


 ん?


「というわけで俺と偽装結婚をしよう」


 ん?


「わ、私?」


 魔族の青年の偽装求婚対象が花嫁から私になってしまった。いや、花嫁を攫うのも偽装結婚を持ちかけるのもやめてくれと言ったのは私だけども。


「い、いやー……私にはちょっと……」


「人間は結婚すると指輪を付けると聞く。指輪のないお前は未婚なんだろ?」


「そうですけど……いやー、でも……」


「少しの間、俺の妻の振りをするだけの簡単なお仕事だ。もちろん衣食住は保証する。食事は日に三回、加えておやつ、湯浴みは毎日、十分な睡眠と適度な運動が叶う生活を約束してやる。もちろん労働の類はしなくていい。部屋でごろごろしていてくれ。望む限りの娯楽も提供する」


「ぐっ」


 ものすごく快適そうな偽装結婚生活を提案されて、俄かに心が揺らいでしまった。そんな私の心の機微を察したのか、魔族の青年はにっこりと目を細めて続ける。


「もちろん給料も出す」


「えっ」


 ごろごろしているだけで給料が出ると言うのか。なんだそれは。天国か。


「金額はこれくらい」


「えっ!?」


 提示された金額に思わず仰け反った。とんでもない額だった。住み込みメイドの月給が、もはや端数である。


「……す、少しの間と言いましたね。き、期間は……?」


「そうだな、魔王を納得させるためだから……うん、一年くらい魔王城に居て欲しいかな?」


「一年だけ!?」


「数日だとさすがに偽装結婚だとばれるが、一年間いちゃいちゃしているところを見せつければ、それで魔王も俺とお前の結婚が偽装とは疑わないだろ。魔王が納得すれば俺としてはそれで目的が果たせる」


 たったの一年間。三食おやつ昼寝付きの生活をして、高額の収入。

 素敵だ。素敵過ぎる。素敵過ぎて怪しくなってきた。

 何か落とし穴があるんじゃないだろうか。


「……あの、一つ目の確認なのですが。魔王城って人間が暮らして大丈夫なんですか?」


 屈強な冒険者しか生存できないような環境だったら一介のメイドには無理なのだけれど。


「人間を妻にするつもりで来たんだ。当然、人間が快適に住めるくらいの住環境は十全に整えてあるさ。人間の脆弱さはよく心得ている。日当たりも風通しもいい部屋を手配した。転んで死なないように厚い絨毯を敷いた。寝返りで誤ってベッドから転落して死なないように広めのベッドも用意してある。ああ、あれくらいだ」


 魔族の青年は私がいい感じに花で彩ったベッドを指した。確かに広い。寝返りで誤ってベッドから転落して死ぬほど脆弱ではないけれど、ともかくそれくらいの繊細さを前提に配慮されているらしいので、ひとまず居住する分には問題ないだろう。


「あと魔王城の最上階にある無料の足湯コーナーも自由に使っていいぞ」


「最上階に足湯コーナー」


 それでいいのか魔王城。


「えーと……二つ目の確認なのですが、お給料は魔族の通貨でお支払いです、なんてオチではありませんよね?」


「そこも心配ない。ちゃんと人間の通貨で払う。俺は人間の世界でもそこそこ経済力のある立場だ」


 魔族の青年は「こういう者です」と、美しい所作で私に名刺を差し出した。

 名刺には、王都にいれば誰もが名前を耳にしたことのある大変有力な商会の名前と、その会長である旨が記されていた。


「え、会長?」


 信じられないという思いで名刺と彼を高速で見比べていると、「人間に化けての経済活動は高位魔族なら割とやってるぞ」と、事もなげに告げられる。


「まあ俺は実際の仕事はほぼ部下任せだが。ともかくこれでお前に現金で給料を支払うだけの経済力があることは分かったな?」


「それは、まあ……」


 まじまじと彼を見る。不審者フィルターでそれどころではなかったけれど、落ち着いて観察すれば、彼は非常に端正な顔立ちをしている。騎士団にでも所属していれば確実に非公式ファンクラブができるだろう。そして有力商会の会長という肩書き及び財力。


 思い返せば、この青年が「式当日に花嫁を攫う」だの「偽装結婚を持ちかける」だの言っている理由は、「相手に惚れてもらう」ため、ひいては「幸せな結婚生活を送ってもらうため」なのだ。人間なんて弱い生き物、力づくで妻にだってできただろうに。


 容姿端麗でお金持ちで思いやりのある青年。

 これならば、結婚式に乱入して花嫁強奪というアグレッシブな婚活を選ばなくても、普通に街で声を掛ける等の穏当な方法で充分に成功しただろうに……。


「なんだその憐れむような目は」


「いえ別に……。あの、本当に私でいいんですか? あなたなら、たまたま鉢合わせた私で無理に間に合わせなくても、今からでも普通に婚活をすればもっといい相手が見つかるんじゃないかなと……」


 彼にだって好みのタイプくらいあるだろうに、偶然ここにいた私で妥協せずとも……と思って口にしたのだけれど、射るような視線で「は?」と、めちゃくちゃ低い声を返された。


「なぜ他の人間を勧めるようなことを言う。逃げる気か?」


「え、いや、そういうわけでは」


「へえ……。ぜひ他の人間を連れ去れと。そして自分は見逃せと。ふーん……」


「そう言われると途端に私が人でなし」


「俺は数日以内に人間と結婚したい。だから花嫁を攫いに来たのにお前に邪魔をされてしまった。ゆえにお前は責任を持って俺と結婚しなければならない」


「これが噂の三段論法」


 いや全く三段論法ではなかったのだけれど、ともかく華麗に責任を負わされてしまった。


「……まあ、あなたが私でいいのなら、いいですけど……。ごろごろしていたら高額報酬がもらえる仕事なんて最高なので……」


「了承ということでいいか?」


「はい」


 頷くと、途端に魔族の青年は険しい顔から笑顔になって、「それはよかった」と朗らかに言った。よほど今日中に結婚を決めてしまいたかったのだろう。彼の事情は分からないが、魔族の婚活も大変そうである。


「じゃ、お前は今日から俺の妻だ。さっそく契約書にサインを……」


「あ、すみません、ちょっと待ってください。私としては今から転職でもいいんですけれど、さすがに無断で退職すると職場に迷惑がかかるので……うーん、どうしましょう。急な退職は現場の負担が……」


「そのへんは俺の部下にうまく処理させるさ。むしろお前は『魔族に狙われた花嫁を庇って身代わりに攫われたメイド』として、ものすごく感謝されると思う」


 実際にはゆるい勤務内容と手厚い待遇と高額報酬に釣られて転職するのだけれど、客観的に見るとそうなるわけか。


「二階級くらい特進するんじゃないか?」


「扱いが殉職」


「だから安心して寿退職するがいい」


 まあ、この魔族の青年、放っておくと普通に城をうろうろして大騒ぎを起こしそうだしなあ……。

 王族の結婚式当日に魔族の侵入がバレて大騒ぎになる事よりも、メイドが一人突然退職することの方が、迷惑度としては遥かにマシか。うん。


「はい。よろしくお願いいたします」


 お辞儀を返した私に魔族の青年は満足そうに頷き、さっと手の平を差し出した。たちまち何もない所からポンと分厚い紙束が現れた。懐に入れておけば悪漢に刃物で刺されたとしても「こいつが守ってくれたんだぜ……」と言えそうなくらい、ものすごく分厚い紙束である。


「これが契約書だ」


「これが契約書だった」


 もはや鈍器の域である重たい契約書を両手で受け取り、とりあえず一ページ目を頭から読んでみる。


 人間・リシェル・テイル(以下、甲)と、魔族・ベルドラド・アウグスタ(以下、乙)は、婚姻および共同生活における諸条件の取り決めに関する契約書(以下、本契約書)にて……


 駄目だ、長い、冒頭からもう内容が入って来ない。


「これ全部読まなきゃダメですか……? っていうかなんでこんなに分厚いんですか……?」


「魔族の契約書っていうのは強力な縛りだから、微に入り細に穿ち諸条件を記さないといけないんだよ。だいたいはお前の健康な生活のための項目を書いてある。食事は適切な量を与えるだとか、十分な衣服を用意するだとか、枕の中身はソバ殻だとか。だから別に全て読まなくてもいいぞ。表紙のこの部分に丸を付けてくれれば契約は完了するから」


 全て読まなくていいと聞いて一安心し、これまた何もない所から現れた羽根ペンを受け取り、指定の箇所にある「リシェル・テイル」の部分に丸を付けた。


「書きました」


「ん。契約成立だな」


 魔族の青年は上機嫌な様子で契約書を受け取って、ポンとは消さずに大事そうに懐にしまうと(すでに恋愛小説が二冊入っているはずの懐なのだが容量無限なのだろうか)、私の手を取った。


「さっそく今から魔王城に連れて行く。メイドの住み込み部屋にあるお前の私物は後で部下に運ばせるから安心しろ」


「それは、細かなお気遣いありがとうございます。……あっ」


 大事なことを思い出した。声を上げた私に、魔族の青年はキョトンと首を傾げて「どうした?」と訊ねる。


「寝室の整備を終えてからでいいですか? メイドとして最後の業務なので」


 夜風で少し乱れた花弁を整え直したいなと思ってベッドを指したら、魔族の青年は「真面目だなあ」と笑って了承してくれた。


「なんか散らかってるもんな、そのベッド」


 無言で殴り掛かった。


「こ、これは、散らかってるんじゃなくて、散らしているんです……っ。初夜のベッドには花がいるんです……っ!」


「わ、分かった、ごめん、素敵だと思う、よく見たらお洒落、ごめん、渾身の成果だったんだな、ごめんって」


 魔族の青年は怒れる私を慌てて宥め、お詫びに「ちょっとやそっとじゃ花弁が動かない魔法」を仕上げに掛ける約束をしてくれたので溜飲を下げた。


 断じて散らかっているわけではない、ロマンチックに花が撒かれた素敵なベッドを前に、メイドとして最後の仕事をやり遂げた達成感を噛み締める。


「ふう。これで思い残すことはありません」


「それはよかった」


 魔族の青年は開け放たれたままの窓に私を導き、ひょいと抱き上げた。窓から出るらしい。まあ、魔族が普通に王城の正門から帰るわけにもいかないから、こうなるだろう。


 などと考えながら大人しく横抱きにされている私を、彼はまじまじと見下ろす。


「しかしお前は魔族を怖がらないな。普通は怯えるのに」


「あー……それは、幼い頃に魔族の子と遊んだことがありまして」


 十年以上も前の話だが、私は過去にも一度だけ、魔族と接した経験がある。


 森で木の実を集めていたら、ぽつんと一人でギャン泣きしている子を見つけた。心配になって理由を訊ねたら、腕輪が取れないのだと言う。綺麗な腕輪だけれど、これが外せないと家に帰れないと泣き続けるので、私の家に連れていって石鹸水を使って外してあげた。


 腕輪が抜けた途端、その子に角と翼と尻尾が生えたので魔族だったと分かったけれど、怖いと思う前に無邪気な笑顔で「ありがとう!」と抱きつかれて、それですっかり仲良くなった。ベルと名乗った魔族の子と私は手を取り合って喜び、共にチーズケーキを食べ、肩を組んで石鹸水を称える歌を歌い、暗くなる前に別れた。


「もう顔も覚えていないのですが、普通に楽しく遊んだ記憶はあります。なので、今でも魔族を怖いと感じないのだと思います」


「ふーん。そう」


 魔族の青年は素っ気ないけれど穏やかな声で相槌を打つと、窓枠に足を掛けた。


「契約した後に聞くのもあれだが、後悔しないな?」


「はい。だって、たった一年間の偽装結婚で高いお給金を貰える仕事なんて、そうないですからね」


「そうそう。魔王城で一年」


 魔族の青年は腕の中の私を見下ろし、にっこりと笑った。


「――それから俺の領地で九十九年だ」


 ん?


 今なんて言った、という顔で見上げた私に、彼はいかにも気軽な調子で「まあ合わせて百年だな」と続けた。さらりと、とんでもないことを言った。


「ひゃ、百……っ?」


「最低でも百年くらい一緒にいれば、まさか偽装結婚とは疑われまい。完璧な計画だ。うん」


 あの分厚い契約書を精読しなかったのは間違いだったらしい。

 蒼褪める私を横抱きにしたまま、魔族の青年はたんっと軽く窓枠を蹴って外に飛び出た。


「あの、やっぱり、考えなお」


 言いかけた言葉は、力強い翼の羽ばたきにかき消されてしまった。あっという間に夜空高くに舞い上がり、思わず彼の首にしがみついて悲鳴を上げた。


「きゃあああああ! ちょ、まっ、高い高い高い!」


 いや空を飛ぶだろうなとは思っていたけれど、人生初飛行の身でこの急上昇は予想以上の恐怖だった。必死にしがみついて「落ちる! 死ぬ!」と叫ぶ私に、彼は「落ちない落ちない」と呑気な励ましを送る。否、ごうごうという風の音が強くてよく聞こえない。


「……いつか一緒に空飛んでやるって約束した時は喜んでたのに。まあ必死にしがみつかれるのも悪くないからいいけど」


「あの! なんか! 言いましたか!」


「いいや」


 急上昇の強い風圧が、ふっと和らいだ。ぎゅっと瞑っていた目を怖々開けると、遥か下に王城の灯りが見えた。魔族の青年は私を抱えたまま、ゆったりと夜空を進んでいる。安定飛行に入ったらしい。動悸が少しずつ治まってくる。


「高い所は苦手なのか?」


「高い云々の前に飛行が初めてで……って、それどころじゃないです、あの、さっきの話なんですけど。あなた、『少しの間』って言いましたよね? 百年って話、本気ですか?」


「ああ。たった百年の結婚生活だ。気楽に行こうぜ、リシェル」


 魔族の時間感覚では、百年は「たった」の年月らしい。

 けれど私にとっては、彼が生涯の夫になるということが確定である。

 もはやその結婚が偽装かどうかなんて関係ない、だって私が驚異的な長寿を記録しない限り、私は死ぬまで彼の妻役なのだから。


 魔族と人間の感性の違いを考慮していなかったことと、契約書をちゃんと読まなかったことを、つくづく後悔して。


 ふと、違和感を覚えた。


 さきほど「リシェル」と呼ばれた。

 契約書には、私の名前が書いてあった。

 だけど、私はまだ、彼に名乗っていない。


 なぜ、彼は私の名前を知っているのだろうか。


「あの、どうして私の、きゃああああ!」


 訊ねようと思ったら、彼が急降下を始めたのでそれどころではなくなってしまった。しっかりと抱えられているので落とされはしないだろうけど、反射的に全力でしがみつく。


「だっ、大丈夫ですかこれ落ちてませんか落ちてるじゃないですか翼つりました!?」


「落ちてない。降りてるんだよ。ほら、花畑が見えるだろ。摘んで帰るぞ」


「は、花?」


「可愛い妻の趣味に合わせようと思って」


 魔族の青年はふわりと花畑に降り立つと、楽しそうに言った。

 ――どこか見覚えのある、無邪気な笑顔で。


「初夜のベッドには花がいるんだろう?」




初夜のベッドに花を撒く係VS式当日に花嫁を攫いに来た魔族  終


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~登場人物紹介~


 リシェル・テイル

 王城務めのメイド。衣食住の保証、申し分ない給金、たった一年という期限に釣られ、教えもしていない自分のフルネームが記された怪しい契約書をろくに読まずに同意してしまったうっかりさん。百年で日給換算するとそこまで給金がよくないじゃないかと文句を言いかけたお口にチーズケーキ(好物)を詰めこまれて大人しくなった。


 ベルドラド・アウグスタ

 魔王城務めの魔族。無邪気の皮を被った確信犯。かつて自分を助けてくれた人間・リシェルに初恋、十年越しに偽装結婚という名の普通の結婚を果たした。絶対の誓いである魔族の契約書は無理矢理の同意では締結できないため、リシェルが抵抗なく同意するような流れを考えて練られた作戦があれ。食べ物から枕の高さまでリシェルの好みはことごとく調査済みであるため、おもてなしの準備は完璧である。石鹸水を称える歌は今でもフルで歌える。


 王子と婚約者

 今日から新婚さん。ベッドに撒かれた大量の花が手で払おうが風が吹こうが何をしようがビクともしないので大変だったけれど、ご馳走をあまり食べられなくて意気消沈だった花嫁が、あまりにしぶとい花がツボに入ったらしく笑顔を見せてくれたので、王子は花を撒いたメイドに深く感謝したという。


 魔王

 足湯コーナーによくいる。ベルドラドの父。

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 2024/11/22 追記

「初夜のベッドに花を撒く係、魔族の花嫁になる」というタイトルで、本作の連載版を始めました。

メイドさんと魔族の攻防の続きをお楽しみくださいませ!