閑話 夢に近く、涙に願うは
――
剣林弾雨が野火の如く広がり、枷の外れた欲望が地を
己の民が、己の足が踏み締めた大地が荒らされていくその様を。
――嗚呼、嗚呼。何故、こんな事を。
彼女の役目は、今に非ず。
那由多の果て、末世を壊し来世と繋げる事こそが彼女の役目なれば。
今世は未だ、彼女に眠り続ける事しか赦していないのだ。
だからこそ、
「――泣かないで」
思わず、そう口にする。――そうするしか出来なかった。
泣き腫らす少女を前にして、彼女の信徒でもない自身が無為な慰めを連ねる傲慢さを押さえつけて。
……だが、他に何を言葉にすれば良いと云うのか。
ただ
血色の通った小麦色の肌が、
見たところ年齢14辺りであろうその身体を包むのは、錦で織られた茜染の
細く
「泣かないで。……貴女が泣けば、私も悲しいから」
もう一度だけ、そう口にする。
これは、
そう確信しても尚、彼女は口にせざるを得なかった。
――と、
少女の肩が、僅かに震える事を忘れた。
――やがて、
しゃらり。揺れる
『……誰?』
薄膜を隔てたかのような焦点の合わない
聞こえぬはずの
「私は」
『私の眷属じゃない。私の民じゃない。私の地に立っていない。
――嗚呼、
哀切に満ちた呟きが、少女の口から零れる。
遠くの地で呼びかけるその声に、応える事のできない己が身を嘆くだけ。
僅かに得られた繋がりも、少女の動揺に儚く千切れた。
『どうして、私の棘がそんな所に在るの? そこに打ち立てたのは一つだけ。それも、既に引き抜かれて隠されてしまったはずなのに。
……嗚呼、
――良いわ、どうでも。私の眷属は、神域から
独白が絶望の下に吐き出され、少女は再び膝に顔を埋めようとする。
その直前。少しだけ生まれた興味が、少女の口から零れて散った。
『ねぇ。私を憐れんでくれるなら、せめて教えて、
――貴女の名前は?』
幽玄の狭間。遠く彼方からの問い掛けに、届かぬまでも応じようと咲は口を開いた。
「私は……」
橙色にぼやけた朝焼けが
「――あ」
ばさり。紙の落ちる軽い音が響くが、幸いにして同室の少女を起こさなかったようだ。
起き抜けの思考でそれだけを安堵して、咲は音をたてないように床に足を下ろした。
ぎしり。古びた木床が微かに軋みを残す中、白襦袢を解いて練武の服に袖を通す。
人が動く気配に目が覚めたのか、咲の後背で布団がもぞりと動いた。
「……何。咲、もう起きたの?」
「ごめんなさい、起こしちゃった」
いいけど。咲の謝罪に
視線の先では、薙刀袋を手にした咲が戸口に向かっているところであった
「朝練? 衛士の研修も終わったのに、物好きね」
「うん。
守備隊は男場だから肩身は少し狭いけれど、練武の勘が鈍るよりはマシじゃない」
「……どうせ、卒業して家庭に入れば、刃を振るう機会なんてそうそう残らないよ。
八家のお嬢さまだって、その辺りは変わらないと思うのだけれど」
呆れた口調の
本来は、武家華族であっても女性の本分は家内にあり。が、
女性が学ぶ武芸は嗜み程度が多く、『氏子籤祇』で衛士の位を頂いていても士族としての働きを求められる機会など無いも同然なのが普通だ。
武家華族の多い
――だが、
「何時、想定していない騒動が起こるかも判らないよ。
――そろそろ央都にも一報が入ると思うけど、
「嘘」
咲の言葉に、
吐いて得をする嘘でも無いとは判るが、それでも信じがたい
守備隊の本部もあり、
「百鬼夜行には少し規模が小さかったみたいだけれど、強大な化生が暴れ回ったって。
「そう、叔父さまが。
……なら、一安心よね」
初恋の男性が引き合いに出されたからか、
「
――それも、守備隊に所属している現役の衛士が、抵抗もできず化生に殺されたとか聞いている」
「それって、つまり……」
咲が言外に語る意味を悟り、
守備隊は対
その象徴とも云うべき衛士が被害を出したという事は、相応に衛士の戦闘技能が落ちている事実を意味していた。
「女性は家内に在るべしの風潮は知っているけれど、衛士である以上、有事に戦えませんでしたは通用しないわ。
「……判ったわ」
央都への百鬼夜行は
しかし何時、有事が起きるとも知れないのが、現状でもあった。
咲の警告に、
一応の同意を得られたことに安堵して、咲は寮に在る自室を後にした。
♢
三々五々、朝の練武に向かう男子学生の流れとは逆の方向に、咲は足を急がせる。
練武の服を着た咲の姿が珍しいのか、擦れ違う人の視線も
動き始めた
早朝にも関わらず、道場の中は活気に満ちていた。
木刀の切っ先が拍子を合わせて振り下ろされ、都度に磨かれた樫材の床板が一斉に軋み上げる。
年若い練兵たちが練武に立つ多くを占めているようだが、少し外れた一画で晶と厳次が肩を並べている光景が窺えた。
体格の違う二人が、
一見すれば鏡合わせの様に同じ行動と見えるが、
「腰が引けているぞ! 攻め足を崩すな」
「はいっ!!」
振り下ろすたびに怒号が飛び、晶も自覚はあるのか、反駁もないままに
「――遅くなりました、叔父さま」
「一足先に汗を流させて貰っています。
――やはり、お嬢の寮からは、ちっとばかり遠いでしょう。
その提案に、咲は苦笑だけを返して言葉にすることは無かった。
衛士の位を戴いていても、基本的に女性の技量が護身術の域を超えることは無い。
その為か、学院の練武館は男子だけで占められている事実が、咲にとって問題であった。
学院の練武館に足を運べば、男勝りと好奇の視線で見られることは確実である。
守備隊の道場でも男女比の現実は変わらないが、晶や
守備隊で晶たちと共に刃を振るう事には、咲にとっても当然の結論であった。
壁に掛けられた薙刀の木刀を手にする。
掌を通じて鈍く精霊力を通した感触から、それが丁種の精霊器である事は理解できた。
二度、三度。切っ先が大きく円を描き、その足で晶と肩を並べる。
夏の間はずっと付き合った位置だ。
特に何かを指摘されるのでもなく、無言の内に鍛錬は再開された。
暫くして、早秋の肌寒さが練武に籠る熱気を誤魔化せなくなった頃、
「――よぉ~し、そろそろ良いだろう。
久々に試合をして、朝の練武を上がりとするか」
「「はいっ」」
玉と浮き上がる汗が滴となって頬を伝う中、咲と晶は互いに向き合い木刀を構える。
――やがて、振り下ろされる
火行の精霊力は、存在そのものが淨滅を意味している。
故に
自身に渦巻く精霊力を統御して、取り零さないようにその全てを精霊器に籠める。
精霊力に絶対の親和性を持つ晶と対峙して、咲が自覚せざるを得なかった事実がある。
――晶の宿す
その不条理を越えて晶を打ち負かすためには、何よりも手数を減らす必要があった。
外功に属する
その一点にこそ勝利を賭けて、咲は晶の右手を狙った。
狙いが露見していたのか、晶は右半身を退いて木刀の峰で薙刀を受ける。
薙刀が受け止めた木刀の根元から切っ先へとなぞり落ち、
響き渡る轟音に驚いたのか、道場内で木刀を振るっていた練兵たちが思わず手を止めて視線を向ける。
だが、視線に意識を向ける余裕の無い晶は、衝撃を受けきり攻め足のまま咲へと一歩。
残炎の軌跡を足元に刻み、咲の懐へと肉薄した。
小さく、だが鋭く。咲の肩口を狙って、斬撃が叩き落される。
――咲の得物が木刀ならば、回避の術も無かっただろう。
晶の刻む軌跡に合わせるようにして、薙刀の石突が跳ね上がる。
石突が木刀を強引に巻き取り、晶の上体が開くのを赦した。
穂先と石突を使うことで間断ない攻撃を維持する、それが薙刀の利点である。
木刀である晶には、及ぶ事のできない攻撃速度。
完全に死に体となった晶の脇腹に、薙刀の穂先が横薙ぎに襲う。
しかし、何度も手を合わせた間柄。この展開までは、晶も想定をしていた。
強引に木刀の柄で穂先を合わせて、薙刀を受け流す。
――そして、更に一歩。
「あ」
呆気に取られたかのような、咲の吐息。
交差する刹那。晶は左からねじ込むように、平薙ぎを放った。
「あの、申し訳ございません。……お嬢さま」
「え、何が?」
試合も終わり、仕事の残る
借りていた薙刀を壁へと戻している咲の背中に、遠慮がちな晶の声が掛かった。
「試合の一撃です。結構、手応えがあったので」
「うん。
……一瞬、
脇腹を抉られたのだ、肺腑に衝撃が上がるのは止められるものでも無い。
差し出された木綿の手拭いで汗を拭き、精霊力を活性させて響く鈍痛を和らげる。
「大丈夫ですか?」
「気にすることは無いわ。試合で負けるのなんて当たり前だし、私だって随分と撃ったし?
――ほら。晶くんだって、痣が青くなっているじゃない」
調子の変わらない咲の応えにも、晶の表情は納得のいかないままであった。
試合とは云え、男性が女性を打ちのめしたのだ。その事実に思うところがあったのだろう。
だが、そんな晶を敢えて無視して、咲は晶の左腕を強引に掴む。
露わになった二の腕に、青く痣が浮いて見えた。
「……血が出てる」
「これくらいは平気です」
微かに裂傷から血が滲んでいる。小さく膨れる深紅の珠に眉根を寄せて、咲は強引に備えてあった包帯を手に取った。
布で傷口を拭いて、丁寧に包帯を巻いていく。
「駄目よ。破傷風になったらどうするの?
――それに……」
咲は晶に身を寄せて、耳元に囁きかけた。
「晶くん、神気はどれだけ残っているの?」
咲の気掛かりに、晶は表情を引き締めた。
今の晶には、満たされているだけの神気しか赦されていない。
「……神気の残量なんて気にしたことはありませんが、体感で分かるほどに目減りした感触はありません」
「念押しするけど、行使していいのは精霊力までよ。
後、必要じゃない
「はい」
精霊を宿している咲たちなら経時に依る回復を待てばいいが、加護の主体となる
何しろ晶が願えば、無制限に威力を引き摺り出せるのだ。
その対価が精霊力の
――現状で晶が直面している課題は、何よりも加護の遠いこの地で如何に自身を抑えるかであった。
良し。綺麗に巻き終わった包帯を満足そうに見遣り、咲は晶と距離を取る。
治療のためとはいえ近すぎた距離に気付いて、互いに自然と照れ隠しの笑顔を浮かべた。
気付けば朝錬も終わったのか、周囲に立つ練兵たちの姿も急ぎ足に散り始めている。
「私たちも、学院に戻ろうか。授業の開始に遅れちゃう。
――晶くんは、学院の授業に慣れた?」
「はい。進度は兎も角、内容は
事も無げに応える晶を、肩を並べて歩き出した咲は羨ましそうに見つめた。
目立たないだけで、晶は文武の総てでその才覚を発芽させていた。
剣術もそうだが、歴史や数学、立法に到るまで幅広く隙は無い。
精霊たちに願う侭に隠形を続けていたため注目を浴びはしなかったが、この短い学院生活で晶の存在は潜めるままに台頭を始めていた。
――この日、晶は咲から初めて一本をもぎ取った。
100話達成いたしました。
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