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閑話 夢に近く、涙に願うは

 ――虚空(そら)に広がる無限遠の深奥に在って、その少女はただ泣いて見つめる事しか赦されなかった。


 剣林弾雨が野火の如く広がり、枷の外れた欲望が地を(ケガ)す。

 己の民が、己の足が踏み締めた大地が荒らされていくその様を。


 ――嗚呼、嗚呼。何故、こんな事を。


 彼女の役目は、今に非ず。

 那由多の果て、末世を壊し来世と繋げる事こそが彼女の役目なれば。


 今世は未だ、彼女に眠り続ける事しか赦していないのだ。


 だからこそ、彼女(・・)の夢の中で、ただ嘆くだけであった。


「――泣かないで」


 思わず、そう口にする。――そうするしか出来なかった。

 泣き腫らす少女を前にして、彼女の信徒でもない自身が無為な慰めを連ねる傲慢さを押さえつけて。


 ……だが、他に何を言葉にすれば良いと云うのか。


 ただ只管(ひたすら)に少女を慰め、自身の精霊が(すみれ)色の炎を散らす。

 虚空(そら)に散った火の粉が少女の周りだけを照らし出し、その肢体を露わにした。


 血色の通った小麦色の肌が、虚空(そら)の只中に浮かび上がる。

 見たところ年齢14辺りであろうその身体を包むのは、錦で織られた茜染の服布(サリ)と、両の手足に嵌められた鉄製の鈴輪(グングル)


 細く(しな)やかな脚を両手で抱え込み、膝に顔を埋めて虚空(そら)に浮かぶ少女は嘆いていた。


「泣かないで。……貴女が泣けば、私も悲しいから」


 もう一度だけ、そう口にする。

 これは、ただの(・・・)夢だ。声が届くことは無い。

 そう確信しても尚、彼女は口にせざるを得なかった。


 ――と、

 少女の肩が、僅かに震える事を忘れた。


 (かんばせ)が膝から上がり、慰めの声を掛けた相手を探すように、その視線が虚空(そら)を彷徨う。


 ――やがて、

 しゃらり。揺れる鈴輪(グングル)が涼やかに鳴り、深紅の双眸が此方を見据えた。


『……誰?』


 薄膜を隔てたかのような焦点の合わない誰何(すいか)が、彼方を越えて少女に届く。

 聞こえぬはずの(慰め)、見えぬはずの姿は、その時、確かに彼女たちを結び付けた。


「私は」


『私の眷属じゃない。私の民じゃない。私の地に立っていない。

 ――嗚呼、棘の一欠片(28の1つ)を持っているのね。始まりと終わりを仮初に繋いだから、夢が声を届けてくれたの』


 哀切に満ちた呟きが、少女の口から零れる。

 遠くの地で呼びかけるその声に、応える事のできない己が身を嘆くだけ。


 僅かに得られた繋がりも、少女の動揺に儚く千切れた。


『どうして、私の棘がそんな所に在るの? そこに打ち立てたのは一つだけ。それも、既に引き抜かれて隠されてしまったはずなのに。

 ……嗚呼、彼女(・・)ね。私の領域から盗み出したことは知っていたけれど、そんなところに隠していたの。

 ――良いわ、どうでも。私の眷属は、神域から放逐()われてしまった。私の棘を揮うものは、もう居ないのだから』


 独白が絶望の下に吐き出され、少女は再び膝に顔を埋めようとする。

 その直前。少しだけ生まれた興味が、少女の口から零れて散った。


『ねぇ。私を憐れんでくれるなら、せめて教えて、

 ――貴女の名前は?』


 幽玄の狭間。遠く彼方からの問い掛けに、届かぬまでも応じようと咲は口を開いた。


「私は……」




 橙色にぼやけた朝焼けが窓掛け(カーテン)の隙間から差し込む中、咲は額に落ちた軽い衝撃で目を覚ました。


「――あ」


 寝台(ベッド)の傍らに立て掛けてあったはずの本が、額からずれて床へと落ちる。

 ばさり。紙の落ちる軽い音が響くが、幸いにして同室の少女を起こさなかったようだ。


 起き抜けの思考でそれだけを安堵して、咲は音をたてないように床に足を下ろした。


 ぎしり。古びた木床が微かに軋みを残す中、白襦袢を解いて練武の服に袖を通す。

 人が動く気配に目が覚めたのか、咲の後背で布団がもぞりと動いた。


「……何。咲、もう起きたの?」


「ごめんなさい、起こしちゃった」


 いいけど。咲の謝罪に欠伸(あくび)混じりの応えを返した澄子(きよこ)は、寝惚けた眼差しを咲に向ける。

 視線の先では、薙刀袋を手にした咲が戸口に向かっているところであった


「朝練? 衛士の研修も終わったのに、物好きね」


「うん。嗣穂(つぐほ)さまから、守備隊への出向が許されたのよ。

 守備隊は男場だから肩身は少し狭いけれど、練武の勘が鈍るよりはマシじゃない」


「……どうせ、卒業して家庭に入れば、刃を振るう機会なんてそうそう残らないよ。

 八家のお嬢さまだって、その辺りは変わらないと思うのだけれど」


 呆れた口調の澄子(きよこ)であったが、彼女の意見は当然のものでもあった。


 本来は、武家華族であっても女性の本分は家内にあり。が、高天原(たかまがはら)の常識である。

 女性が学ぶ武芸は嗜み程度が多く、『氏子籤祇』で衛士の位を頂いていても士族としての働きを求められる機会など無いも同然なのが普通だ。


 武家華族の多い天領(てんりょう)学院であっても、女学部にあって練武の課程は設けられていない。

 ――だが、


「何時、想定していない騒動が起こるかも判らないよ。

 ――そろそろ央都にも一報が入ると思うけど、華蓮(かれん)の1区で百鬼夜行が起きたの」


「嘘」


 咲の言葉に、澄子(きよこ)は唖然とした視線を向けた。

 吐いて得をする嘘でも無いとは判るが、それでも信じがたい情報(はなし)だったからだ。


 華蓮(かれん)珠門洲(しゅもんしゅう)の中心であり、1区は更にその心臓。珠門洲(しゅもんしゅう)の神柱が知ろ示す膝元である。

 守備隊の本部もあり、華蓮(かれん)で最も護りに堅い区画である筈だった。


「百鬼夜行には少し規模が小さかったみたいだけれど、強大な化生が暴れ回ったって。

 阿僧祇(あそうぎ)の叔父さまが、偶然、本部に居て被害を抑えられたらしいけど」


「そう、叔父さまが。

 ……なら、一安心よね」


 初恋の男性が引き合いに出されたからか、澄子(きよこ)は目に見えて安堵を浮かべた。

 珠門洲(しゅもんしゅう)で有数の実力を誇る阿僧祇(あそうぎ)厳次(げんじ)は、華族平民を問わず寄せられる信頼も、当然のこと相応に大きい。


華蓮(かれん)の騒動では、被害は主に華族の中から出たんだって。

 ――それも、守備隊に所属している現役の衛士が、抵抗もできず化生に殺されたとか聞いている」


「それって、つまり……」


 咲が言外に語る意味を悟り、澄子(きよこ)の表情も曇った。


 守備隊は対(ケガ)レに()ける最前線の組織だ。……それは、対(ケガ)レの戦闘経験を最も積んでいるはずである。

 その象徴とも云うべき衛士が被害を出したという事は、相応に衛士の戦闘技能が落ちている事実を意味していた。


「女性は家内に在るべしの風潮は知っているけれど、衛士である以上、有事に戦えませんでしたは通用しないわ。

 澄子(きよこ)も、精霊技(せいれいぎ)の練習をしておいた方が良いよ」


「……判ったわ」


 央都への百鬼夜行は珠門洲(しゅもんしゅう)からの警告が寄せられただけで、未だ確信も得られていない状況である。

 しかし何時、有事が起きるとも知れないのが、現状でもあった。


 咲の警告に、澄子(きよこ)も肯いを返す。

 一応の同意を得られたことに安堵して、咲は寮に在る自室を後にした。


 ♢


 三々五々、朝の練武に向かう男子学生の流れとは逆の方向に、咲は足を急がせる。

 練武の服を着た咲の姿が珍しいのか、擦れ違う人の視線も仔馬結び(ポニーテール)に揺れる彼女の後ろ髪を無意識のままに追う。


 動き始めた路面電車(トラム)の脇を過ぎ、天領(てんりょう)学院のほど近くにある守備隊の道場へと咲は向かった。




 早朝にも関わらず、道場の中は活気に満ちていた。

 木刀の切っ先が拍子を合わせて振り下ろされ、都度に磨かれた樫材の床板が一斉に軋み上げる。


 年若い練兵たちが練武に立つ多くを占めているようだが、少し外れた一画で晶と厳次が肩を並べている光景が窺えた。


 体格の違う二人が、呼吸(いき)を合わせて木刀を振る。

 一見すれば鏡合わせの様に同じ行動と見えるが、厳次(げんじ)には不満なものが残るらしい。


「腰が引けているぞ! 攻め足を崩すな」


「はいっ!!」


 振り下ろすたびに怒号が飛び、晶も自覚はあるのか、反駁もないままに厳次(げんじ)の素振りに喰らいつく。


「――遅くなりました、叔父さま」


「一足先に汗を流させて貰っています。

 ――やはり、お嬢の寮からは、ちっとばかり遠いでしょう。守備隊(こっち)の道場じゃなく、学院の練武館を借りた方が良くありませんかい?」


 その提案に、咲は苦笑だけを返して言葉にすることは無かった。

 厳次(げんじ)の勧めは、咲も一考に含めた事がある。


 衛士の位を戴いていても、基本的に女性の技量が護身術の域を超えることは無い。

 その為か、学院の練武館は男子だけで占められている事実が、咲にとって問題であった。


 学院の練武館に足を運べば、男勝りと好奇の視線で見られることは確実である。

 守備隊の道場でも男女比の現実は変わらないが、晶や厳次(げんじ)がいるのであるならば気の安んじられる所もあるだろう。


 守備隊で晶たちと共に刃を振るう事には、咲にとっても当然の結論であった。


 壁に掛けられた薙刀の木刀を手にする。

 掌を通じて鈍く精霊力を通した感触から、それが丁種の精霊器である事は理解できた。


 二度、三度。切っ先が大きく円を描き、その足で晶と肩を並べる。

 夏の間はずっと付き合った位置だ。


 特に何かを指摘されるのでもなく、無言の内に鍛錬は再開された。




 暫くして、早秋の肌寒さが練武に籠る熱気を誤魔化せなくなった頃、厳次(げんじ)は手を叩いて晶たちの素振りを止めた。


「――よぉ~し、そろそろ良いだろう。

 久々に試合をして、朝の練武を上がりとするか」


「「はいっ」」


 玉と浮き上がる汗が滴となって頬を伝う中、咲と晶は互いに向き合い木刀を構える。

 ――やがて、振り下ろされる厳次(げんじ)の号声と共に、咲と晶は同時に間合いを詰めた。


 火行の精霊力は、存在そのものが淨滅を意味している。

 故に奇鳳院流(くほういんりゅう)の術理は、攻め続ける事にこそ重点が置かれていた。


 自身に渦巻く精霊力を統御して、取り零さないようにその全てを精霊器に籠める。

 八相の構え(木の構え)から弧を描いて、咲は晶の上腕を狙った。


 精霊力に絶対の親和性を持つ晶と対峙して、咲が自覚せざるを得なかった事実がある。


 仮令(たとえ)、晶の技量が下であったとしても、その気になった晶に勝利する事は不可能であると。

 ――晶の宿す朱華(はねず)の加護は、晶に神気が満たされている限り消えることは無い。


 その不条理を越えて晶を打ち負かすためには、何よりも手数を減らす必要があった。

 外功に属する精霊技(せいれいぎ)を行使するために必要な精霊器。それを落すことができれば、咲の勝利に僅かな可能性が生まれるはずだ。


 その一点にこそ勝利を賭けて、咲は晶の右手を狙った。


 狙いが露見していたのか、晶は右半身を退いて木刀の峰で薙刀を受ける。

 薙刀が受け止めた木刀の根元から切っ先へとなぞり落ち、精霊技(せいれいぎ)にならないまでも無視のできない衝撃が晶を呑み込んだ。


 響き渡る轟音に驚いたのか、道場内で木刀を振るっていた練兵たちが思わず手を止めて視線を向ける。


 だが、視線に意識を向ける余裕の無い晶は、衝撃を受けきり攻め足のまま咲へと一歩。

 残炎の軌跡を足元に刻み、咲の懐へと肉薄した。


 小さく、だが鋭く。咲の肩口を狙って、斬撃が叩き落される。

 ――咲の得物が木刀ならば、回避の術も無かっただろう。


 晶の刻む軌跡に合わせるようにして、薙刀の石突が跳ね上がる。

 石突が木刀を強引に巻き取り、晶の上体が開くのを赦した。


 穂先と石突を使うことで間断ない攻撃を維持する、それが薙刀の利点である。

 木刀である晶には、及ぶ事のできない攻撃速度。


 完全に死に体となった晶の脇腹に、薙刀の穂先が横薙ぎに襲う。


 しかし、何度も手を合わせた間柄。この展開までは、晶も想定をしていた。

 強引に木刀の柄で穂先を合わせて、薙刀を受け流す。

 ――そして、更に一歩。


「あ」


 呆気に取られたかのような、咲の吐息。

 交差する刹那。晶は左からねじ込むように、平薙ぎを放った。




「あの、申し訳ございません。……お嬢さま」


「え、何が?」


 試合も終わり、仕事の残る厳次(げんじ)が先に退いた後。

 借りていた薙刀を壁へと戻している咲の背中に、遠慮がちな晶の声が掛かった。


「試合の一撃です。結構、手応えがあったので」


「うん。真面(まとも)に入ったよ。

 ……一瞬、呼吸(いき)も止まったし」


 脇腹を抉られたのだ、肺腑に衝撃が上がるのは止められるものでも無い。

 差し出された木綿の手拭いで汗を拭き、精霊力を活性させて響く鈍痛を和らげる。


「大丈夫ですか?」


「気にすることは無いわ。試合で負けるのなんて当たり前だし、私だって随分と撃ったし?

 ――ほら。晶くんだって、痣が青くなっているじゃない」


 調子の変わらない咲の応えにも、晶の表情は納得のいかないままであった。

 試合とは云え、男性が女性を打ちのめしたのだ。その事実に思うところがあったのだろう。


 だが、そんな晶を敢えて無視して、咲は晶の左腕を強引に掴む。

 露わになった二の腕に、青く痣が浮いて見えた。


「……血が出てる」


「これくらいは平気です」


 微かに裂傷から血が滲んでいる。小さく膨れる深紅の珠に眉根を寄せて、咲は強引に備えてあった包帯を手に取った。

 布で傷口を拭いて、丁寧に包帯を巻いていく。


「駄目よ。破傷風になったらどうするの?

 ――それに……」

 咲は晶に身を寄せて、耳元に囁きかけた。

「晶くん、神気はどれだけ残っているの?」


 咲の気掛かりに、晶は表情を引き締めた。


 今の晶には、満たされているだけの神気しか赦されていない。

 珠門洲(しゅもんしゅう)に立っていない現在、朱華(はねず)の加護も神気が尽きるまでしか維持できないのだ。


「……神気の残量なんて気にしたことはありませんが、体感で分かるほどに目減りした感触はありません」


「念押しするけど、行使していいのは精霊力までよ。

 後、必要じゃない精霊技(せいれいぎ)の行使も控えて」


「はい」


 精霊技(せいれいぎ)は威力と行使速度に優れているが、反面、陰陽術よりも精霊力を蕩尽(とうじん)するという問題も有していた。


 精霊を宿している咲たちなら経時に依る回復を待てばいいが、加護の主体となる朱華(はねず)から離れている晶にはそれが叶わないのが問題である。


 何しろ晶が願えば、無制限に威力を引き摺り出せるのだ。

 その対価が精霊力の蕩尽(とうじん)であったとしても、その制御権は晶の側にしかない。


 ――現状で晶が直面している課題は、何よりも加護の遠いこの地で如何に自身を抑えるかであった。


 良し。綺麗に巻き終わった包帯を満足そうに見遣り、咲は晶と距離を取る。

 治療のためとはいえ近すぎた距離に気付いて、互いに自然と照れ隠しの笑顔を浮かべた。


 気付けば朝錬も終わったのか、周囲に立つ練兵たちの姿も急ぎ足に散り始めている。


「私たちも、学院に戻ろうか。授業の開始に遅れちゃう。

 ――晶くんは、学院の授業に慣れた?」


「はい。進度は兎も角、内容は尋常中学校(じんちゅう)と変わりませんので助かりました」


 事も無げに応える晶を、肩を並べて歩き出した咲は羨ましそうに見つめた。


 目立たないだけで、晶は文武の総てでその才覚を発芽させていた。

 剣術もそうだが、歴史や数学、立法に到るまで幅広く隙は無い。


 神無(かんな)御坐(みくら)の別なく、それは晶自身の才と努力の結果である。

 精霊たちに願う侭に隠形を続けていたため注目を浴びはしなかったが、この短い学院生活で晶の存在は潜めるままに台頭を始めていた。


 (こがらし)に色付きを見せた銀杏の葉が揺れる。そんな朝の一幕。


 ――この日、晶は咲から初めて一本をもぎ取った。

100話達成いたしました。

応援して頂いた皆様に感謝を申し上げます。


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