止まらぬ獣
【ネルダリア諜報特務部隊 スフィール方面部長カフェル】
「マズイなアレは」
ここはネルダリア領主、オーズド・ガル・ネルダリアの執務室。そこでカフェルはオーズドと二人、膝を突き合せ、話をしていた。
「無理もありません、故郷を追われ、頼りにしていた護衛まで無残な姿に」
「お前が私に手紙を書いたのもあの位の歳だったか、思う所が有るか?」
「多少は、ですが彼女の心労は私の比では無いでしょう」
話しているのはカフェルがやっとの思いで救い出した一人の少女の事、遠い大森林の奥、魔法を使う異種族の姫。
だが途轍もない魔法を使い、お伽噺の中では悪魔の様に語られるその実力。何度も帝国の侵攻を防いだと言うだけで、この王国に匹敵する力が有る事は疑いようが無い。
それが敗れた。そうで無くてもここの所、新技術と新しい価値観で帝国の発展は目覚ましい。
今まで小競り合いは数知れず、それでも何百年もギリギリの所で保たれていた薄氷の二国間のバランスが一気に崩れようとしている。
その時、鍵を握るのは
「そうだ、私が話し掛けても上の空、感情を無くし人形の様、あの様子……心がスッカリ摩耗してしまっている。人間、心だけは一切の取り換えが利かん。なんとか感情を取り戻し、勇ましく帝国と戦うと語って貰わねば、あんな様子の少女に戦争は出来んよ」
「そもそも……戦争をさせるのが無理な話では? まだ精々が十二、三でしょう」
「解らんぞ、
「まさか」
カフェルは笑うが、脳裏に
本当に護衛と同じぐらいの歳頃、三十前後と言う事もあり得るのか?
そんな思いをカフェルは振り払う。
あり得ない。彼女が酒場で話した内容からも、歳は十二。そんな嘘を敢えてつく意味もない。
「どちらにせよ、放心したあの様子、ショックを受けたのは解るが同情だけでは国は動かん」
「あの様子を見て、守ってあげたいと我が王国の民も、
「思うだろうな、だが守りたいのはあの少女だけだ。その為に一致団結して戦争をしようとは思わんよ」
「やはりなりますか? 戦争に」
「なるな、守るだけのつもりじゃ相手にもならんよ」
カフェルはギリッと歯を噛み締める。
ユマ姫の語る所、彼女は両親も兄も、最愛の妹も殺され。人間に助けを求め人里に向かうも魔獣に襲われ。
逃げ延びた先、頼りにしていた人間の護衛、それすらも無残に殺された。
カフェルは唯一自分を助けてくれたオーズドが、もしあっけなく誰かに殺されたらと思うと、その悲しみの程も解る気がした。
しかし、そのオーズドと運命の歯車は、少女を更なる死が舞う戦場へと引き摺り出そうとしている、それが悔しくてたまらなかった。
「ではどうします? 彼女が正気になるまで待ちますか?」
「あの様子では碌に喋れんだろう、いっそ手足を切り落とし、帝国にやられましたと
ここに来てカフェルはため息を漏らす、自らの上司は偶に露悪的な事を言うが、実行出来た試しが無いのだ。
「出来もしない事を言わないで下さい、誰が幼気な少女の手足を切り落とすのです? 私ですか?」
「出来ないと決めつけて貰っちゃ困るな、こう見えて少女に恩を着せ、隣の領主の伽の相手をさせる程度には悪人のつもりだが?」
「はぁ……」
そうやっていちいち気にして愚図る所が子供っぽいのだ、だがそれもカフェルは嫌いでは無かった。
オーズドはそれこそ悪戯っ子の様に笑い、問いかける。
「恐らく彼女は大切な物をすべて失った、生きる事も死ぬ事も最早どうでも良くなってしまっている、それをもう一度正気にするにはどうしたらいいと思う?」
「それは……解りません、私はすんでの所で何も失わずに済んだので」
あなたのお陰です、と言う思いを込めてカフェルはオーズドを見つめるが、当のオーズドはニヤリと笑う。
「どうかな? 十三の時、君が送って来た手紙にはそれこそ騙されている両親の為と書いて有ったが?」
「それは……ただ結婚相手が嫌なわがまま娘だと思われたくないからです」
「だが、あながち嘘でも無いはずだ。しかし愛していたハズの両親の話など、君から聞いた事も無い」
確かに、とカフェルは思う。あんなに慕っていた両親の事が今では無知で愚かに思え、恥ずかしくてオーズドに両親の話をするのは憚られた。
口に出せば恐らく悪口になってしまう、だけど両親の悪口をオーズドに話す事にも抵抗を覚え、聞かれても言葉を濁す事が殆どだった。
「人の興味は移り変わる、現に君の興味は私からあの少女に移りつつ有る、違うかね?」
違わない。カフェルはユマ姫を戦争に引き摺り出そうとするオーズドに不快感を持った。それはオーズドに心酔している自分にはあり得ないはずの事だった。
「ユマ姫に必要なのは、大切にしたいと思う人間だ。それに君がなりなさい」
「私が……なれるでしょうか?」
「なるんだ、それがきっとこの国と、世界の在り方を守る鍵となる」
カフェルはそう語るオーズドの、上品に整えられた口髭を引っ張ってやりたい衝動に駆られた。
オーズドは自分のツボを心得ている。ただ少女の友達になる事を壮大な任務の様に言う辺り、敵わないなと思わされた。
「解りました、今までで一番難しい任務になりそうですね」
「君なら成し遂げられると信じているよ」
コレだ、この優しい笑顔にやられてきたのだとカフェルは苦笑する。
そして、ため息交じりに少女の涙を思い出す。あの心の傷を自分は癒してあげられるのだろうかと。
しかしそんな思いを踏みつぶす様に、何時も運命は理不尽だった。
「スイマセン! オーズド様はいらっしゃいますか?」
ノックもそこそこに慌てた声が執務室に届く。言うまでも無く礼を欠いた行動だが、切迫した声はそれどころじゃない事態を示していた。
「入れ、どうした?」
「失礼します、 門番が小さな少女が壁を越えるのを見たと」
「悪戯か?」
「いえ、それが……壁を内から外に越えて行ったと、それもただジャンプしただけに見えたと」
「何だと?」
「それで、確認したのですがユマ姫様の姿が有りません、ベッドは既に冷たくなっていました」
「それを早く言え! カフェル! ……もう行ったか」
慌てて飛び出した廊下、オーズドの声は微かにカフェルの耳に届くだけだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カフェルは走った、それも館一の駿馬を使ってだ。
追うべき少女の足取りは不明、しかし何処を目指しているかは解る気がしていた。
あの谷底、いやひょっとしたらスフィールか? 何にせよ、来た道を戻るに違いない、馬車の中ボーッとして碌に景色も見ていなかった様にも見えた。
それでも正確に、来た道を辿って戻る予感がカフェルには有った。
……そして。
「居たっ!」
夜道に輝く魔法の光、そうじゃないかと近づけばやっぱりそうだ。
「ユマ様! 止まって、一人で行っても何にも出来ません!」
ドレス姿で駆ける少女、その速度は馬の速歩に匹敵する。そして魔法の明かり。
魔道具の明かりかと思えば違う、光っているのは少女自身。人間が光るなど聞いた事も無い。
これが名高い
「シノニムですか……」
並走すれば、やっと少女の声が聞けた。
「止まってください、どこへ行こうと言うのです!」
「スフィールです」
「行ってどうするのです! この速度で走っても二日は掛かります!」
「そうですか……ではもっと速度を上げないと」
「なっ!」
言うなり少女は更にその速度を上げる、既にそこらの馬の全力疾走に近い速度だ。カフェルは必死に馬を走らせた。
「無駄です! スフィールではオーズド様の配下とソンテール家以外の四家が協力して動いています、姫様が行かなくてもすぐに全部解決します」
「……そうですか」
「姫様が手を下さなくても、奴らは討たれます。好きにはさせません、安心してください!」
馬上から必死に叫ぶ、しかしその言葉に反応したのは『ユマ姫』では無かった。何処からか聞き慣れない声がする。
「そうかい」
「!? え?」
「でもよ、この手でぶっ殺さないと気が済まねぇんだよ」
「……あなたは、誰です?」
カフェルは自分でも間抜けに思う、喋っているのは確かに目の前の少女。しかし違う、これは『ユマ姫』じゃない。
「あーそうだな、魔法ってのは簡単な物でも、同時に二種類使うってのは出来ねぇらしいんだ」
「…………」
「でな、走りたいし暗いしで、二つ使いたいんだが、考えて見りゃ脳は二つ有る。知ってるか? 右脳と左脳、分かれてるんだぜ」
「何を言っている!?」
「でも魔法は一個しか使えない、不思議だよな? でよ試してみたんだ」
「何を……あなたは誰なんです?」
「誰って、俺もユマ姫だよ。あー分離してるから違うかな? 人格を二つに分けたんだ、そしたら魔法も二つ使えた」
違和感、先程からカフェルが果てしなく感じる其れ、コレだけの速度で走りながら息も切らせずに流ちょうに喋る少女。それだけではない、首から上、まるで切り離されたかの様に不自然にこちらを見ている。
まるで、体と頭で違う生き物がくっついた様な奇妙な感覚。
「なんだ……お前は何なんだ?」
「そうだな……敢えて言うなら、『高橋敬一』だ」
「え? タカハ、え?」
「もう良いだろ? 俺は殺したいんだ」
「無理! 無駄ですッ! たった一人で何をすると言うのです! 死にに行く様な物です!」
「だよな、でもよ、俺が殺したいのは『俺も』なんだよ」
「え?」
「じゃあな」
少女は、いや少女の形をした何かは、それから何かを呟くと。更にその速度を上げる。
最早、オーズド自慢の駿馬でも追いつけない、何よりどんな馬でもこんな全力疾走、続けられる筈が無い。
「何が……起こっているの?」
カフェルには理解出来ないが、それでも良くない事が起こっている事だけが解ってしまった。
オーズドは言っていた、人間は心だけは取り換えが利かないと。
確かにその筈だ、だけどもしも無理矢理にそれを行ってしまったとしたら? 今あの少女に入った心は何なのか?
解き放たれてはいけない歪んだ狂獣が、夜明けの街道を駆け抜ける姿。それを呆然と見送る事しか出来なかったのだ。