思いがけぬ迎え
霧深い森の中、白と黒だけの世界、動いているのはヨタヨタと歩く男の影のみ。
「はぁ、みーんな死んじまった」
不格好に歩くのは、マルムークにベアードと呼ばれていた男。元より無い左手と健在である右手で大切に抱きしめるのは一匹の犬。
片手を失い特務部隊を引退後、与えられた任務は軍用犬の育成だった。思いの外、性に合った犬の世話、今回連れて来たのはその中でも選りすぐりの三匹だった。
手塩に掛けて育てた三匹の軍用犬、しかし生き残ったのはこの一匹のみ、その一匹も蹴とばされ内臓に深刻なダメージを負っている。
「我慢してくれ、 ワシも同じだて」
ベアードは痛みに鳴く犬をそっと撫でる。犬だけじゃなく彼も重症だった、原因は共にタナカと呼ばれる男に蹴られた事。恐らく肋骨は何本か折れている。
「おっそろしい男だったぁ、絶対に殺ったと思っただども」
乱戦の最中、気配を隠し、ひたすらチャンスを窺った。軽装に見えても服の下に鉄板などを仕込む輩は多い。引退し年老いた彼の膂力では貫く事は敵わない。
だから訪れた絶好の好機、狙ったのは脇の下。ここに鉄板なぞ仕込んでしまえば、動きは大きく阻害される。実際ベアードの手にはハッキリと肉を突き刺した感触があった。
が、その感触は魔獣の肉の様に固かった。
結局突き刺さったのは目論見の半分ほど。それでも肺に届く大怪我だろうに、タナカは素早く反撃してきた。
「ぐぅ……」
いまだ痛みは収まらない、折れた骨が内臓を圧迫している。突かれた直後、万全とは程遠い姿勢からだと言うのに、恐ろしい威力の蹴りだった。
しかし驚くのはその後、大怪我を負ったにもかかわらず、極限の死闘を演じて見せた。
取っ組み合うブッガーとタナカ、二人の戦いは魔獣同士の争いの様で、彼にはとても同じ人間の仕業とは思えなかった。
あの戦いに介入しようとしたマルムークに、ベアードはすっかり感服する程だった。
……背後から、味方ごと敵を貫くと言う手段は、褒められた物では無いだろうが。
しかし、更に驚く事に、胸を貫通する程の怪我を受け、その後も二人は戦い続けた。急所は外れていた様だが、呼吸もままならぬ怪我の筈。
「バケモンだな、アレは」
最後にはバケモノ同士、もつれ合う様に崖下へと落ちて行った。残されたのは静寂と、共に怪我を負った一匹の軍用犬と、一人の男だけ。
生き残ったベアードにしたって、もう一刻も早くこんな場所から脱出したい。したいが、元々は義手の一つも作るため、小遣い稼ぎのつもりで参加したのだ。
しかし、作戦は失敗、大失敗だ。百人からの部隊で、娘っ子一人捕まえられず、部隊は全滅。逃げ延びた者も居るだろうが、所詮寄せ集めの連中、戻って来るとも思えない。
目当ての特別報奨金どころか、怪我の治療費だって出るかどうかが怪しい所。ベアードはただのブリーダーとして参加した以上、責任を問われる事は無いだろうが、大事に育てた軍用犬を失った上で、その価値まで疑われるのは耐えられないと感じていた。
「だが、まだチャンスは有る」
ユマ姫と言われた少女、それを発見し連れ帰る。
タナカと言う男、背嚢の一つも持っていなかった。ここまで手ぶらで来た筈も無い。どこかに、そうユマ姫と一緒に置いてきたに違いないのだ。
ベリス草の臭いや、幾つかの小細工に誤魔化されたが。ゆっくり探せば例え土の中に埋められようとも、見つけられぬ愛犬ではない。
「くぅーん」
「よしよし、こっちか?」
辿り着いたのは古めかしい大木、その根元だ。
「ここか?」
愛犬に導かれるまま、
ベアードは傷付いた愛犬を足元に降ろすと、洞を塞ぐ小枝をゆっくりと取り除く。
――居た!
「……あっ」
掠れた弱々しい声、青白い顔で震える少女の顔は、絶望に染まっていた。
それにしても美しい少女だった。ベアードにとって孫と変わらぬ歳のだと言うのに、年甲斐もなく見とれる程。洞に住む精霊の様に見えたのだ。
人間離れしたピンク色に輝く髪、左右で異なる色彩の瞳、この世の者とは思えぬ美しさ。
神聖不可侵な超常の生物にも思えるが、コレを確保しなくては明日を生きることも難しい。
「よーし、怖かったね。おじちゃんに任せておきなさい、安全な所に連れて行ってあげるから」
「あ……ああ、いえ、私は動きません、待ち人がいるのです」
少女は顔を背け、固い声を絞り出す。そこに有るのは護衛の帰りを信じる強い意思。しかしその思いは叶わないのだとベアードは知っている。
「それは……タナカと言う男かね?」
ビクンと少女の肩が跳ね、泣きそうな顔でベアードを振り返る。
ベアードは少女の縋るような視線を受け止めると、その望みを断ち切る様に目を閉じてゆっくりと首を振った。
ヒッ! と少女は息を吸う、悲痛なその音が耳に痛い。
「悪い様にはしねぇ、一緒に来てくれ。最期にタナカに頼まれただよ」
嘘だ、しかしベアードも怪我をして、少女を背負って歩く程の力は無く、精々が肩を貸すぐらい。
だが少女も深い矢傷を負っているはず、歩かせるのは危険かも知れない。
しかし帰らぬ人を森の中待ち続け、矢傷が癒える筈も無い。だったら無理にでも連れ出した方が良い、少女が死んだとしたら……その時は遺品の一つも持って帰れば良い。
その方が手ぶらで帰るよりは、よっぽど評価も上がるだろうと考えていた。
「いいえ、それには及びません。私はここで彼を待ちます」
「だども、死んじまった。ここで無駄死にするのはあの兄さんの遺志に反するでよ」
ギリッ――と、歯を食いしばる音が漏れる。
現実を認められないのだろう、儚げな容姿も相まって、見ている事が辛い程に痛ましい。
「ほらっ、頼むから一緒に来てくんろ」
ベアードはゆっくりと右手を差し出す、無害を主張するように、手の無い左腕を振ってもみた。……その時だ。
――キャンキャン。
突然の犬の鳴き声、何事かと振り向くも、あっと言う間にベアードは取り押さえられた。
「ご心配なく。彼女は我々が全霊を注いで保護します」
「ぐっ! 何者だ!」
腕を取り、手慣れた様子で圧し掛かるのは軍服を纏った女性、それも美しい。煌めく銀髪に整った目鼻、そして肉感的なプロポーションは、白く煙った霧の中でも輝く様な美しさ。
「ッ! あなたは! シノニム!」
少女が叫ぶ、ベアードには知らぬ顔でも少女にはそうでは無いらしい。
「グプロス卿の片腕の貴女がここに居る、やはりグプロス卿は帝国と繋がっていたのですね!」
少女がまくし立てる。スフィールの領主グプロスが、帝国に先んじてユマ姫を狙っているとは聞いていた。それがこのタイミングで現れるとは、ベアードにとって最悪の事態。
居ると知っていればとっとと逃げ出していたし、正体なんて知らせずに解放してくれるならば、全てを忘れて消えたと言うのに。
――ああ畜生ッ! このガキ解っててベラベラと喋りやがった!
歯噛みするベアードを
「彼を、逃がさないでね」
「ハッ!」
ベアードの背中から柔らかな女性の感触が失われ、代わりに骨張った男に取り押さえられる。せめて美人に殺されるなら、と望んでいたベアードは密かにため息を漏らす。
しかしそんなベアードを他所に、思わぬ方向に会話は進んで行く。
「いいえ、私はシノニムではありません」
「何を? 言っているのです?」
呆然と少女が答える、ベアードにしてみれば何も聞かせずに解放して欲しいのだが、その願いは叶いそうに無かった。
銀髪の女性は、怯えるユマ姫の前で優雅に一礼し、思いもしない言葉を紡ぐ。
「私の本当の名前はカフェル。スフィールの隣、ネルダリア領を治めるオーズド様の使いとして、ユマ姫様をお迎えに上がりました」
事態は想像だにしない方向に進んでいた。