将来を誓い合っていた姫と騎士が婚約解消する話
美しい庭、薔薇の生垣の下に子供が二人。
「私があなたの騎士になります」
跪いて手を取ると、少年は花のような笑みを浮かべた。
「はい。よろしくお願いします。私の騎士様」
繋いだ手に力が籠る。笑顔で頷く少年に、私も笑みを返す。
◇
そんな夢を見た。夢といっても、それは実際にあった話、過去の記憶だ。
だからこそ、目を覚ました私は大きなため息をついた。
体を起こすと、本棚の中にある騎士とお姫様の絵本の背表紙が視界に入り、余計にため息が込み上げた。
未練がましく持ってくるのではなかった。
子供の頃に大好きだった絵本。
あの子が来るとよく一緒に読んでいた。だからこそ絵本のワンシーンの再現に胸が高鳴ったのだ。
しかし、それも今は昔のこと。
私には婚約者がいる。
高位貴族の長男で容姿端麗、品行方正、文武両道、ノブレス・オブリージュを信条とする貴族の中の貴族の男。
そんな男の唯一の弱みが私だ。
何の後ろ盾にもならない辺境貴族の娘。
男三人が続いた後の娘なので、家の中ではとても可愛がられたが、冷静な目で見れば全てにおいて平凡。容姿もパッとしないし勉強が得意というわけでもない。筆頭すべきことがないのが特徴。
ただただうちの両親と向こうの両親が仲が良く、幼少期に出会って、子供の気安さで婚約した女。
全てを持っている彼のような男には全くもって相応しくない。
彼を私に縛りつけてはいけない。過去の約束など忘れて、分をわきまえなくては。
玉の輿なんて御伽話のだけの話だ。
◇◇◇
「……婚約を解消してください」
「嫌です」
決死のお願いが一刀両断された。愕然として見上げると、彼は眉を下げる。
「……理由をお聞かせ頂けますか?」
「あなたに私は相応しくありません」
「そんなことありません」
「あります!」
「……誰かに何か言われました?」
彼がじっと私を見つめる。
「いいえ。私が考えたことです」
深呼吸をして私も彼を見つめ返す。
しばしの睨み合いの末に彼がため息をついた。私の手を取り、両手で握る。
「……私は、貴方しかいないと思っています」
「そんなことはありません。家の格だって釣り合っていません」
「家の格の話をすれば、今うちと釣り合うような家の方は概ね婚約者がいらっしゃいますね」
「う。……い、居ないわけではないじゃないですか」
「そうですね。どこかにはいらっしゃるかもしれませんね」
笑顔で流される。
確かに高位貴族で独身の方は居ないわけではないが、今すぐ名前が浮かぶような人には、婚約者のいないそれなりの理由やら悪評があると言外に言われている。そして大体年齢が離れている。
年齢で言えば、私は彼の一つ下だから丁度いい。
家の話はダメだ。次に行こう。
「容姿もこんなんですし」
「素敵じゃないですか」
心底不思議そうな顔で言われた。
彼は自分があまりにも美しすぎるせいで美醜の感覚がおかしくなっているのかもしれない。
「私にとっては素敵です。それではダメですか?」
追撃が来て思わず顔を背ける。負けてはいけない、ここで流されたら婚約続行になってしまう。
「の、能力が足りません」
「そんなことありません。先だっての試験だって上位三十名に入っていたではないですか」
「あなたは学年主席だったじゃないですか」
「だからこそ、あなたがどれほど努力したのかは分かるつもりですよ」
優しい微笑み。
今回の試験は本当に頑張ったから、そう言われるとうっかり泣きそうになる。手の甲を優しく撫でられると縋りたくなる。
でも、違う。この人誑しに丸め込まれてはいけない。この男は貴族の中の貴族。当然、腹芸だってお手のものだ。
「でも……!」
「……約束、したじゃないですか」
息を吸って反論しようとしたら、しゅんとした顔がこちらに向けられる。
それが演技だと分かっている。彼は自分の悲しそうな顔に私が弱いことを知っているから、たまにやるのだ。彼は自分の容姿が武器になることをよく知っている。
けれど、その言葉に今日も夢に見たあの日の約束がフラッシュバックして一気に鼓動が高鳴る。そして同時に昂った感情が言葉をこぼす。
反射的に手を振り解いていた。
「……あなたのそばにいると、自分の不甲斐なさが突きつけられて、……苦しい」
言うつもりのなかった、しかし否定しきれない自分の本音。それが漏れた。
薄く開いていた彼の口が引き結ばれる。時が止まったように感じた。
「……そっか」
私が言葉を取り消す前に彼が笑った。
綺麗な笑みだった。これまでの付き合いの中でおよそ私が向けられたことの無い類の感情を隠すための作り笑顔だとすぐに分かった。
「ごめんなさい。気付いてあげられなくて。解消しましょう、婚約」
瞬きを一つして、彼はそう言って笑った。知らない笑顔の知らない男がそこにいた。
私は目的を達成した。そのはずなのに胸にはぽっかりと穴が空いたようだった。
正式な書類は両親に話してから追って送る、必ず説得する、そう言って彼は私を送ってくれた。
ずっと前からの望みが叶ったはずなのに、私は上の空で、馬車の中で彼と何の話をしたのか覚えていなかった。
いや、一つだけ。
「これから何をしたいですか?」
彼のその問いかけに、何の答えも出せなかったことは覚えている。
私から彼を解放するための婚約解消。その筈だったのに、彼は傷ついたように見えた。
私は、何をしたかったのだろう。
絵本を一人で読み返し、開きぐせのついたページの、姫の前で跪く騎士の絵を指でなぞった。
あの日の約束を確かに覚えているのに、笑い合った花園がひどく遠かった。
◇◇◇
それから、学園で彼の隣には知らない女が居つくようになった。どこに行くにもべったりで、以前の彼であれば婚約者がいるので、と断っていただろうけれど、もう彼に婚約者はいないのだ。
学園の彼はいつ見てもあの作り笑顔を浮かべていた。貴族らしい全ての感情を覆い隠すような笑み。
婚約を解消して、私は何をしたかったのだろう。分からない。漫然と日々を過ごしていた。体の中に通っていたはずの軸が消え去ったように感じた。
そんなある日、事件が起きた。彼が誘拐された。
その話を聞いた時に頭の中が真っ赤になった。湧き上がったのは、ただただ怒り。犯人と愚かな己に対する憤怒だった。
彼をようやく見つけ出したのは波止場の倉庫の中。警備隊や騎士団に務める兄のツテを使って方々を探し回ってのことだった。
倉庫の奥で紐で縛り上げられている彼の姿を見て、努めて冷静にしなければと思っていた意識が吹き飛び、激昂する。
「私の姫を返せ!」
その場にいた見張りと思しき男に剣を突きつけ、微かに残っていた理性で捕縛した。
そして半狂乱で彼に飛びつく。
彼は昔からよく狙われる子供だった。
わざわざ彼が辺境の我が家に遊びに来ていたのも、武勇によって叙勲を受けた我が家であれば預けていても安心だという側面もあったのだろう。
当時、その狙われやすい立場もあって女装をして身を隠していた彼に私は一目惚れをした。絵本に出てきたお姫様だと思った。
助け出した彼は私の腕の中で眩しそうにこちらを見上げて、ふわりと笑った。
「……やっぱり。私の騎士はあなたしかいない」
その一言に、涙が堪えきれなかった。
◇◇◇
昔の私は井の中の蛙そのものだった。
男所帯の末娘。可愛がられて甘やかされて、自分が周りから手加減されているのも気付かず、己の実力を過信していた。
この危ういお姫様を守るのは自分だと本気で思っていた。本当は私ごと彼を大人たちが守っているだけだったのに。
兄たちに混ざって剣を振り、馬を駆け、騎士になったつもりでいた。現実は髪を短く切り、日に焼けて、世間の求める淑女らしさとは無縁の女、それ以上のものではなかったのに。
追っていたはずの兄の背中は遠ざかっていく。後から入ってきた者に次々と抜かされていく。私の体はもう大きくならない。彼の前に立ってもその体を庇いきれない。
私は、騎士になれない。
そんな当たり前の現実に気付いて、彼との婚約者という立場がひどく重荷に感じたのだ。
学園に入ってその思いは加速した。
女らしからぬ容姿をした私に人々は陰口を叩いた。聞こうとしなくても耳に入った。都会の人間は陰口の声が大きい。みんな耳が悪いのかもしれない。
しかし、そんな有象無象の陰口などは正直どうでも良くて、私を追い詰めたのは彼自身だった。
彼は完璧だった。あの日、絵本の中で見た王子様のように。
剣技試験学年三十位じゃ、敵の多い彼の騎士になど到底なれない。王子様に相応しい女になんてならない、女のなり損ない。
そんな奴は、私の姫の隣に相応しく無い。そう思った。
だから、離れよう。そう思って話したのに。
「私の騎士はあなたしかいない」
彼のたった一言で私の決意は無に帰した。諦めることが出来なくなった。
◇◇◇
美しい庭園の薔薇の生垣の前で彼が跪く。
手を取り、彼が私を見上げる。
「改めて、私と婚約してください」
かつてと入れ替わった立ち位置。深呼吸をして彼に向く。
「はい。……今度は、逃げませんから」
彼を守る。その方法は一つでは無いのだと今更気付いた。今回の事件に彼に付き纏っていた彼女がいると聞いて、己の愚かさに歯噛みした。
彼の手を両手で包み、そっと立ち上がるように促す。立ち上がった彼の前に跪き、手の甲に口付けを落とす。
「生涯、あなたを守ります」
「……ふふ。もう姫になる気は無いですが、そうですね。これからもよろしくお願いします。私の騎士様」
彼が腕を引き、私を抱きすくめる。すっぽりと収まってしまう体に悔しさが湧く前に、至近距離にある煌めく彼の瞳に射抜かれる。
「誤解の無いように言っておきますが、騎士としても、婚約者としても、私の隣はあなただけだ。もう逃げたいと言っても許しません」
真剣な表情と声音に気押されるように頷く。私が頷くと彼が少し表情を緩める、腕の力が抜ける。
「はい。……あ、そういえば、きちんと言ったことがなかったけど、えっと」
逃げない、逃げない、と私は自分に言い聞かせて彼の顔を見る。
「……好きです。初めて会った時から、ずっと」
騎士になろうなんて言い出したのも、元を正せば、ただの一目惚れだったのだ。
当時の私にとって一番かっこいいものが騎士だったから、それをこの美しい人に捧げたい、そう思った。単純な子供の発想だ。
そう告げた瞬間、彼は目をまんまるに見開いて、みるみるうちに顔を赤く染める。貴族らしさの塊のような彼らしく無い、感情が剥き出しになった表情。
「わ、私だって! ずっと好きだよ!」
子供みたいな顔で言って、それから我に返って表情を戻そうとして、顔を片手で隠して、でもやりきれなくてちょっとにやけて、そんな人間らしい百面相を見て、私は思わず笑ってしまう。
「両思いですね」
「……っ、そうですよ。今気づいたんですか?」
取り繕おうとして失敗した、拗ねた子供のような顔で彼は私の顔を覗き込む。
「ふふ。はい」
「じゃあ、これからはもっと伝えていきますから」
彼が私を抱きしめる。私も彼の背中に手を回す。あぁ、大きい。悔しいな。
彼の肩に頭を預けて、体の力を抜く。
「今度の休みはデートしましょう」
「いいですね。道場に行きたいです」
「あぁ、それもいいですね。私は観劇にも行きたいです」
「行きましょう。後は、あなたが好きだと言っていた焼き菓子のお店にも」
「いいんですか? 嬉しいな」
未来の約束は呆気ないほどに次々に決まっていく。
「ねぇ、これから何をしたいですか?」
彼がいつかと同じ問いかけをする。
答えはすぐに出た。
「あなたと一緒なら、何でも」