新たな戦い
ここから、2巻部分が始まります。
クレーターが肉眼で見える程の巨大な月が、緩やかな丘の上にいる氷室彼方の姿を照らした。
黒い髪に黒い瞳、唇は薄く整っていて、青紫色の上着と灰色のズボンを着ている。両腕には力を強化するネーデの腕輪をはめていて、半透明な刃の中に数千個の歯車が動く『機械仕掛けの短剣』を手にしていた。
彼方は隣にしゃがんでいる獣人のミケに視線を向ける。ミケは十二歳の獣人で頭に猫の耳が生えている。
「彼方っ、ミケたちはここにいていいのかにゃ?」
ミケが百メートル程離れた場所にある農場を指差す。
「農場の牛さんを狙うゴブリンを退治するお仕事にゃ。ここだと遠すぎるにゃあ」
「大丈夫だよ。今回の依頼は、他の冒険者たちもいっぱい参加してるから」
「でも、ゴブリンを倒さないとお金がもらえないにゃ。それで報酬が計算されるのにゃ。一匹倒すと銀貨五枚にゃ。十匹倒すと…………リル金貨四枚にゃ」
「リル金貨五枚だね」
彼方はミケの計算ミスを訂正する。
その時、農場から男の怒声とゴブリンの叫び声が聞こえてきた。家畜を襲いにきたゴブリンたちの待ち伏せに成功したのだろう。
「にゃっ! 始まったにゃ」
農場に向かおうとしたミケのしっぽを彼方が掴む。
「ふにゃあああ。な、何するにゃあ」
「僕たちは、行かなくていいから」
「ここで、えっちなことするのかにゃ?」
「しないよ」
彼方はミケに突っ込みを入れつつ、意識を集中させる。
彼方の周囲に三百枚のカードが現れた。その中から、一枚のカードを選択する。
◇◇◇
【アイテムカード:ピコっとハンマー】
【レア度:★★★★★★★(7) 装備した者の防御力を大きく上げる特殊武器。具現化時間:1日。再使用時間:3日】
◇◇◇
具現化されたハンマーは柄の部分が赤とピンク色の縞模様で、頭部が鮮やかな黄色だった。見た目は子供のオモチャのように見える。
そのハンマーを彼方はミケに渡す。
「これを使って」
「強い武器なのかにゃ?」
「いや。ただ、ダメージを受けにくくなると思う。どの程度かはわからないけど」
「ゴブリンを倒さなくていいのかにゃ?」
「それより、自分が生き残ることが最優先だよ。それにミケが時間を稼いでくれれば、僕がゴブリンを倒しやすくなるから」
「わかったにゃ。死んだら、ポク芋のバターサラダも食べられなくなるしにゃ」
真剣な表情でミケがうなずいた。
その時、二匹のゴブリンが彼方たちの前に現れた。ゴブリンの肩と太股には矢が突き刺さっている。
「やっぱり、こっちに逃げてきたか」
彼方は機械仕掛けの短剣を構えた。
――この丘を越えると、ガリアの森に逃げ込めるからな。不利だと思ったら、こっちに来ると思ってたよ。
「ギャ…………ギュアアア!」
目を血走らせて、ゴブリンが彼方に襲い掛かる。低い姿勢から曲刀で彼方の足を狙った。
――このゴブリンは、なかなか頭がいいな。僕のほうが強いと判断して、逃走するための戦い方をしようとしてる。だけど…………。
彼方は狙われた左足を軽く引いた。曲刀の攻撃が空を切る。その動きに合わせて、一気に前に出て、ゴブリンのノドを機械仕掛けの短剣で正確に切り裂いた。
「ガアッ…………ゴブッ…………」
ゴブリンは血を噴き出しながら、野草の上に倒れ込む。
――この世界に転移してから、もう十日以上経ってるし、戦い方にも慣れてきた。機械仕掛けの短剣の効果で、スピードと防御力も上がっている。ゴブリン一匹なら、負けることはありえない。
視線を動かすと、ミケがゴブリンと戦っていた。ミケは猫のように手を地面につけ、ゴブリンの攻撃を低い姿勢で避ける。そして、一瞬の隙をついて、ピコっとハンマーでゴブリンの頭部を叩いた。
ピコンと音がして、ゴブリンの動きが一瞬止まる。
彼方はゴブリンに駆け寄り、機械仕掛けの短剣で左胸を突いた。
ゴブリンは大きく口を開けたまま、仰向けに倒れる。
「ミケ、ばっちりだよ」
彼方は笑顔でミケの頭を撫でた。
「うむにゃ。ミケは逃げ回るのは得意なのにゃ。手も使えば、すごく速く走れるにゃ」
「うん。でも、油断は禁物だからね。ミケは僕が召喚するクリーチャーと違って、一度きりの命なんだから」
――ミケは、なかなか素早いからな。ピコっとハンマーの効果で守備力も上がってるはずだし、このぐらいの依頼なら安心か。
彼方は周囲の状況を確認する。
――こっちに逃げてきたのは二匹だけか。他の冒険者が頑張ってるみたいだな。報酬は少なくなるけど、被害が出ないほうがいいか。
突然、農場の牛小屋から火の手があがった。ゴブリンが火をつけたようだ。牛たちの鳴き声が彼方のいる丘の上まで届く。
「まずいにゃ! 牛さんが食べられないステーキになってしまうにゃ」
「…………いや。大丈夫みたいだ」
牛小屋の上空から大量の水が降り、火が一瞬で消える。
――冒険者の中に魔道師の女の人がいたからな。水属性の呪文を使ったんだろう。
「西だ! 西のほうに逃げたぞ!」
野太い冒険者の声が聞こえる。
「追えっ! 一匹も逃がすなよ!」
彼方の視界に、西へ逃げていく数匹のゴブリンの姿が見えた。ゴブリンたちは鳴き声をあげながら、草原の中を走り抜けていく。
「…………陽動か」
「陽動って、何にゃ?」
ミケが彼方に質問する。
「本来の目的を隠すために、他に注意をそらす行動かな。多分、こっちに…………」
彼方の前に、一回り大きなゴブリンが姿を現した。肌は薄い緑色で動物の骨と色のついた石で作った首飾りをしている。肩幅は異常に広く、その手には巨大な斧が握られていた。
――こいつがリーダーみたいだな。
「グウウウウッ!」
ゴブリンは黄色い目で彼方を睨みつける。
殺意を感じる視線に、彼方は動揺することなく、唇を動かす。
「悪いけど、ここは通さないよ。君は依頼主の家畜と従業員を殺したゴブリンの群れのリーダーだ。責任は取ってもらわないと」
「グゥ…………ググッ…………」
ゴブリンは彼方とその隣にいたミケを交互に見て、黄ばんだ歯をガチガチと鳴らす。
「ミケ…………下がってていいよ。このゴブリンは僕が倒すから」
彼方は機械仕掛けの短剣を構えて、ゴブリンに歩み寄った。